保守系オンナの“あイタタタ……”について

 あまりと言えばあまりなフェミニズムの勘違いを鵜呑みにして考えなしにものを言う、脊髄反射系バカ女の跳梁跋扈のおかげで、「フェミファシズム」というもの言いも、最近では少しは世に知られるようになってきました。それはすでに「眼前の歴史」として同時代の事実なのですが、けれども、それがどのようにプロモートされ世間に蔓延していったか、についてはまだ具体的に検証されていません。

 「とにかくそう言っておけばさしさわりがない」――まさにPC(ポリティカル・コレクトネス)としての身振りやもの言いとしての戦後民主主義=「サヨク」「プロ市民」風味、というセットの中の重要な意匠として、すでにこのフェミニズムも組み込まれています。それを操る固有名詞は誰であっても構わない。ある種メディアの意志を体現する人形、レプリカントのようなものなのですが、それは主として団塊の世代震源地として蔓延してきた。ひとことで言って、イデオロギーとしての戦後民主主義の極相が定式化したものであり、特に「オンナ」という要素が介在することによってそれはなお純化され、もはやトンデモ化している部分さえある、と。

 「フェミファシズム」がそのようなものである以上、当然のことながらその対極として、保守系のもの言いや身振りをウリにするレプリカントというのも登場してきます。これもまた、「サヨク」に対する「ウヨ」「コヴァ」のレッテル貼りが空虚で意味のないものなのと同様、思想そのものとして右傾化とはひとまず距離を置いた現象だと見るのが無難でしょう。

 ここでも、「オンナ」という要素がプロモーションにおいて重要になってくる、という点を忘れないでください。「保守」を看板としたオンナたちの露出というのは、なるほどここ十年足らずの情報環境の変貌に対応しておこってきたことで、ぶっちゃけた話、コメンテーター的もの言いを未だに擁するヒール(悪役)がいて初めて成り立つような構造を温存したままの覇権争いの様相さえ呈しています。「広告」という姿なき神、方向性を持たない市場原理の現われは、利益にさえなればいつでも看板を「保守」にかけかえることくらい平然とやらかします。

 たとえば、参議院議員にして今のところ「保守」オンナの急先鋒のひとりと目されている高市早苗は、こんなことを言っています。

「昭和ヒトケタ生まれの両親からは、戦争の恐怖や悲しみ、飢えの苦しみ、十分に学べない悔しさ、戦後の混乱期を生き抜いてきた苦労話を聞かされて育ちました。焦土から立ち上がり歯を食いしばって現在の日本の繁栄を築き上げてくれた先輩世代の汗と涙を無駄 にはしたくありません。もう一度元気な日本を創って、希望と安心に満ちた社会を次の世代に贈りたい! 社会に長く貢献された先輩たちには自らの努力の果実として豊かな老後をうんと楽しんでいただきたい! それが政治家としての私の夢です。一度っきりの人生、その為にすべてを賭ける覚悟でおります。志と勇気と行動をもって・・・。」

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 いやはや、カンドー的ですな(笑)。松下政経塾出身、元はと言えば女性誌まわりでもゴソゴソ仕事していたようなオンナ政治家のもの言いでなければ、あたしだってうっかりグッときちゃうくらいのもんです。若い(ったってもう四十代なんですが)オンナがこんなことを……と、年配の保守人士も「リベラル」系シンパも共にうっかりカンドーしてしまうくらいには、キャラ立ちとしては文句なし、です。もっとも、去年の夏でしたか、靖国神社参拝問題を取り上げた回の「朝生」で、珍しくプッツン切れた田原総一朗に「あんたのような下品な国会議員がいるから」と面罵されて思わずベソをかき、その後始末はバリバリの右翼系人士の出馬を仰いで田原を引っ張り出して手打ちさせたなどは、そういうキャラ立ちもまた旧来の構造の内側で育まれるしかない状況を垣間見せてくれましたが。そう言えばこの御仁、森総理の側近を自認していた時期もありましたが、そのへん今はどうなんでしょ。

 同じく、自民党の「マドンナ」(まだこのもの言い、通用するんでしょうか)として台頭著しい野田聖子などはこんな感じです。

「日本人として生まれ育つことに自然、子供たちが感謝と誇りを感じることのできる国――それが成熟国家にふさわしい姿ではないでしょうか。戦後復興を見事に達成した後、憲法前文に謳う「国際社会における名誉ある地位」を本気で占めたいと願うならば、国家の発展と成長に当然付随する責任感を国民全員で分かちあい、わかりやすい言動をもって国際社会に示していかねばなりません。日本を知らず、日本を愛さず、という民からなる国家を、世界のどこも信用するはずがありません。祖国を思いながら、地球全体に対する意識と貢献をも高めることが相対的に成熟度の高い国々に求められており、それを可能とする人材を育てることを新しい教育基本法の基軸としなければならないはずです。」

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 上智大学国語学比較文化学科卒。うひゃあ、そこらのバイリンねえちゃん、今だとFMであやしげな英語ふりかざすDJや広報誌でインタビュアーやる程度の使いっ走りライターなんぞになってても不思議ないような経歴なんですが、帝国ホテル就職後、岐阜県会議員から衆議院議員へ、というステップアップぶりは、永田町というある種閉じられた異界におけるオンナの立身出世の王道なのかも知れません。メディアまわりと永田町というのは互いにパラレルワールド、もの言いしたがるオンナの世渡りとしては、泳ぐ水こそ違えどその泳ぎっぷりには大差ないもののように見えるのは、あたしだけでしょうか。

 もうひとり、もっとわかりやすいんで小池百合子なんざどうでしょう。カイロ大学卒業という異色の経歴も、アラブ方面で商売していた実家のからみというちょっと別線の「国際派」にして、お約束のニュースキャスター稼業を経て国会議員に。当初は小沢一郎べったりで日本新党の旗揚げ時には電通だか博報堂だかとよしみを通じてメディア戦略担当みたいな立ち回りでジタバタ。その後新進党を経て小沢をポイした後、自由党、保守党と渡り歩き、最近では誰もがそうなるだろうと予測していたような自民党復帰、という噂もちらほらと。いやもう、その時その時の利益に敏感というか、尻尾を振る方向がベタで、あまりにあからさまなんで永田町界隈でもさすがにまわりは鼻白んでいるそうでありますが。

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 「オンナ」という要素が介在した瞬間、その背景に「どうせオトコの引き立てがあるんだろう」という下衆の勘繰りは必然的に発動されます。その是非はともかく、世情とは常にそういうもの。そんな世情とうまくつきあいながらやってゆくのがオンナの世渡りの腕、ってもののはずですが、どうもいまどきの「保守」ブランド系のオンナたち、特にこれら永田町系は、おのれのもの言いや身振りを評価してもらいたがっている方向というのが先にありき、という匂いが強すぎて、メディアまわりにひと山いくらで未だ巣くう「サヨク」系オンナと同じく、存在としてうざいことには変わりがない。

 もうあたしゃ言っちゃいますけど、これってほんとに「学校」の呪いなんだろうなあ、と。ほら、教壇という一点透視の場所にいるセンセからほめてもらいたい、認めてもらいたい、と血道あげてなりふり構わず頑張ってしまう優等生の世渡りぶり。半径数十人程度のコミュニティの内側でどうやって成り上がってゆくか、という時、「オンナ」という要素を介在させる反則技は、別にそこらの職場などでもゴロゴロ転がっている事例でしょう。その意味である程度までは世代的な呪縛というところもあるのかも知れない。だって、同じ「保守」と目されている政治家でも、ご高齢の扇千景などには、いくらほじくり返してみても、こういう臭みは実はあんまり感じられないんですよねえ。宝塚出身で梨園のカミさん、という出自背景によるところも大きいんでしょうけど、でも、高度成長期このかたの「学校」という男女平等、勘違いなフェミニズムも含めた戦後民主主義イデオロギーとして最も純化して唸りをあげて稼働している地点に放り込まれてきた世代のオンナたちの中の、そこそこ優秀で群を抜く何ものかを持ち合わせていた部分が身につけざるを得なかった哀しくも殺伐としたそういう世渡りの手癖を、オンナであることがそれ自体としてある定型、枠組みの中でおさまっていられたそれ以前の世代は回避する余地が十分に保証されていたのではないか、とか思ったりするのでありますよ。

 高市早苗に対して思わず田原が言ってしまった「下品」の一言。あれは、高市が得意気にふりかざしていた靖国護持、「保守」ぶりっこの部分に対してではなく、田原自身ももしかしたら意識していない部分において感じとっていたそういう世渡りの卑しさ、やりきれなさに対して、扇と世代的にほぼ近しい、その意味ではまごうかたないジジイ世代の田原の、思わずほとばしった魂のホンネ、身体ごと受信した根源的違和感の表現だったのかも知れない、と、あたしは思っています。