「マル地」でGⅠを戦えた頃――聞き書き・橋本善吉氏

f:id:king-biscuit:20040527123853j:plain

*1
 思えば、GⅠという響きが特別なものになったのはいつ頃からだったろう。

 グレード制の導入以前、今でいうGⅠにあたる重賞はもちろんあったけれども、だからといって、それらの全部が今みたいに大層なものだったわけでもない。
たとえば、いい例が安田記念。それまでもマイルの重賞としては知られていたけれども、正直、今の感覚で言えばGⅢ程度の軽いもの。同じく、スプリンターズステークスにしても、6ハロンという特殊な距離の重賞というだけのことで、まさかそれが今みたいにGⅠに格付けされることになるとは、その頃ちょっと思ってもみなかった。朝日杯にしてもそうだ。暮れの二歳(当時は三歳)チャンピオン決定戦という意味はあっても、まさかGⅠの大一番になるとは誰が予想していただろう。

 もうさんざん言われつくしていることだけれども、グレード制の導入というのは単なる重賞の格付けのためだけではなく、スピード重視、マイラー重用という、ジャパンカップ導入以降の新しいニッポン競馬の価値観を定着させるために必要な政策だったのだな、と改めて思う。距離別競走体系の導入とグレード制の導入が合わせ技になっていたのは、なるほど、理の当然なのだ。

 もうこんな昔ばなしをするトシになってることにわれながら驚くのだけれども、若い世代の読者には必要かも知れないので勘弁して欲しい。その頃の競馬好きの間では、三歳(当時は四歳)クラシックのシリーズを別とすれば、古馬になってからは何といっても春と秋の天皇賞が頂点で、そこに向かうためのステップレース――目黒記念日経賞京都記念といったレースが誰に教えられるわけでもなく重要なのだ、という世界観がおおむね共有されていた。天皇賞を目標とした中長距離の重賞が番組のメインストリームで、マイルやそれ以下の短距離重賞、あるいは牝馬のレースなどはどこか添え物、わき役といった風情がつきまとっているものだった。それは戦前、競馬の開催が春と秋に限られていた頃からの流れがまだ、番組の上でも、また競馬を楽しむ者たちの側でもどこかで活きていた頃の話だ。

 地方出身のいわゆる「マル地」馬たちにしても、今からすれば考えられないほど、平然と中央に殴り込んできて、そしてまた、今で言うところのGⅠクラスの重賞に参戦して、実際に勝ち負けに参加してきていた。いま、「マル地」と言えば、競馬バブル絶頂期のオグリキャップイナリワンの大活躍を想起する向きが多いのだろうけれども、それよりも前、それこそニッポン競馬が新しい価値観へと向かって大きく舵を切り始めた80年代の始め頃に、もうひとつ早すぎた「マル地」旋風というのがあったことは、案外忘れられているように思う。

 ヒカルデュール、カズシゲ、カツアール、ゴールドスペンサー、ホスピタリティ、ステイード、ミサキネバァー……重賞のたびにそんな「マル地」馬が一頭や二頭まぎれこんでいるのが珍しいことではなくなってきていた。また、彼らはほんとに強かった。地方在籍のまま中央に挑戦することはまだできない頃だったから、どこか中央の厩舎に転厩して中央のノリヤクを乗せて出走してくるわけなのだが、不慣れな芝コースも何のその、いきなりの重賞挑戦でもいい勝負をしていたのだから、今からするとちょっと考えられない。中央競馬のトップクラスの馬たちがあれよあれよという間に世界水準に追いつくようになってゆく、まだそのちょうど始まりの時期だった。

 今で言うGⅠを勝ったマル地馬も当時、続々と出ている。高松宮杯のカズシゲ、宝塚記念カツアール、そして有馬記念のヒカリデュール……いずれも今から見れば「重い」血統の、そしてスピードよりも馬力自慢という印象の強い馬たちだ。そんな馬たちでも、今でいうGⅠで十分に勝負になった、ニッポン競馬がまだそんな競馬だった頃の話、ということになる。

 ヒカルデュールの勝った有馬記念は今でもよく覚えている。 

 重馬場発表ながら実際は不良に近いドロドロの馬場。当時絶好調だったアンバーシャダイを直線、最後方から一気に差し切っての勝利。マル地馬が今で言うGⅠをかっさらった瞬間だった。82年の暮れ、今からもう20年以上も前のことになる。

「あの時、社台の吉田善哉さんたちがみんな、勝った勝った、って言いながら、馬主席から下にどんどんおりてきてたんだ。その横をわしがスーッと通って表彰式に行ってやったんだな。勝ったのはこっちだ、ってのがわかってたから余計に気持ちよかったね」

 目を細めてそう語るのは橋本善吉氏。そう、マルゼンスキーを日本に入れたことで知られる御仁で、今や参議院議員となった橋本聖子さんのお父さんでもある。この時のヒカリデュールは橋本善吉氏の服色での出走。それ以外でも、彼の服色の「マル地」は当時、大暴れしていた。
f:id:king-biscuit:20040527123856j:plain

「あの日は泥んこ馬場だったし、四コーナー回ったところでもまだしんがりの方に控えていたのが直線大外から来て差し切ったんで、ゴール前でも何が来たかわからなかった人が多かったんだな。わしはスタンドでサブちゃん(北島三郎氏)と観ていたんだが、彼が、会長、こりゃ勝ったよ、って言うし、わしもあの脚色見てて間違いない、と思ったもんで自信持って下へおりてったんだ」

 確か、アンバーシャダイの鞍上だった加藤和宏騎手が「何かが外から来たなとは思ったけれど、まさか差されたとは思わなかった」といったコメントを出していたように記憶する。それほど、ヒカリデュールのこの時の追い込みはすさまじいものだった。馬場が悪かったのが幸いしたのも確かだけれども、四コーナーを回る時にまだ馬群の後方を追走していた黒い馬体が、中山の直線、坂を登りきったあたりからまるでゴムまりのようにはじけ飛んでくるさまには度肝を抜かれた。後にジャパンカップで同じように大外から追い込んで二着になったロッキータイガーもそうだったが、当時、少し下が悪くなった馬場で展開がハマった時の「マル地」馬の破壊力には何度も舌を巻いたものだ。


1982 有馬記念 ヒカリデユール

「でも、有馬記念を勝ったと言っても、あの頃の有馬の賞金は確か五千五百万くらいだったんだ。今なら一億もそれ以上もあるからGⅠとったら元は十分とれるだろうけど、当時はそんなもんだ。こないだも中央のGⅢとった馬のパーティーがあったんだが、GⅢひとつ勝ったくらいの馬が何億も稼いでるんだな。だから、当時今くらいの賞金があったらどれだけ儲けてたかと思うよ」

 そう、GⅠにあたる重賞でも賞金の額は今の半分以下。せいぜいGⅡ程度しかなかったのだ、その頃は。

 ヒカリデュールは大井でデビュー。三歳時は東京ダービーを佐々木忠を背にタカフジミノルの四着、その頃菊花賞にあたる位置づけにあった東京王冠賞が鞍上石崎隆之で、同じく後に中央入りしたアズマキングの二着と、いまひとつ勲章に恵まれないまま東海は名古屋に転厩。東海桜花賞などを勝った後に中央入りした馬だった。中央緒戦の朝日チャレンジカップをいきなり勝って、続く秋の天皇賞(もちろんまだ2マイルだった)でもメジロティターンのお約束な爆走の二着に食い込む。この時の三着はやはりマル地で前年、宝塚記念を勝ったカツアールだった。そして、ローテーション的に過酷と思われた第二回のジャパンカップでも、あっぱれ日本馬最先着の五着入着。ほんとに強かったのだ。

 橋本氏の服色のマル地馬では、当時カズシゲも名を知られていた。父ボールドアンドエイブルで母ユアースポート。あれ、じゃあそれって……と思ったそこのあなた。そう、彼は後のダービー馬、あのダイナガリバーの半兄なのだ。ヒカリデュールと同じく名古屋から中央入りして、デュールより先に今のGⅠ高松宮杯や読売マイラーズカップを制していた。さらに言うと、宝塚記念でもハギノカムイオーの二着という星がある。こんなにバリバリ走るマル地を二頭、一度に持っていたのだから、やはりすごい。しかも、ヒカルデュールは年度代表馬にまでなっている。ああ、マル地の年度代表馬! その後、イナリワンオグリキャップも戴冠したけれどもそれ以降は一頭もなし。今や見果てぬ夢、かも知れない。

「あれはね、ヒカリデュールとカズシゲと二頭、まとめて買ったんだ。二頭で、そうだなあ、あの頃で八千万くらいだったかな。持ってたのは名古屋のちょっとわけありの馬主で、一緒に買ってくれないか、と持ちかけられたんだ。八千万というのはその持ちかけられた人の言った値段だから、ほんとのところはもっと高かったのかも知れないが、実際にこっちが払ったのはその値段だってことだな。
 ヒカリデュールは南関東で走ってて、その後名古屋に行ったんだ。春の天皇賞で故障したもんだからうちでタネ馬にしたけれども、成功はしなかったね。カズシゲの方はその後、売ってしまった。でも、その売った分を含めても、結局のところそんなに儲かってはいないよ。預託料や経費その他をさっぴいたら、二頭あわせて手もとに残ったのはおそらく三千万くらいだったんじゃないかな」

 GⅠ制覇したマル地馬二頭を同時期に持っていても、残ったのはそれくらい。今だったらおそらく、額面でもその十倍くらいは稼いだんじゃないだろうか。

 言うまでもなく橋本氏は、マルゼンスキーの馬主として知られている。活馬輸入自由化の象徴として「外車」マルゼンスキーの活躍は、その後種牡馬としての成功と共に、ニッポン競馬史上のひとつ話として語られている。

 だが、マルゼンスキーを買うまで、中央競馬で馬を持ったことはなかった。もともとが牛の売買が商売。地方競馬で馬を持ってはいたけれども、それを本業にしようとは思っていなかったという。だから、マルゼンスキーを買うことになるアメリカ行きも、最初からそれが目的というわけではなかった。そのへんの話も少し聞いてみよう。

「ほんとちょっとしたはずみなんだよ。ちょうどあの時も、牛の買いつけで女房とアメリカに行ってた時に話があったんだ。アメリカには何度も行ってたからね。全部牛の仕事だよ。胆振軽種馬農協の青年部でアメリカに視察に行くことになってたらしいんだが、何人かまとまって旅行会社と契約していたところに欠員が出そうになって、そうすると旅費が高くなる。だったら誰か行くやつがいないか、ってことになったんだな。
 あの頃、パスポートを持っててすぐに外国行けるのはこのへんじゃ橋本ぐらいだろう、ってことで留守宅に電話が入ってた。何のことかわからなかったんで帰国してから連絡したら、とにかくアメリカへ行ってくれ、ってことなんだ。また半月くらい家あけなきゃならんからどうだろうと思って女房に相談したら、行ってもいいわよ、って言うんで、何しに行くのかわからないまま飛行機に乗ったんだ。
 その飛行機の中で本郷のオヤジさん(マルゼンスキーの調教師)に初めて会ったんだ。それまで中央競馬の人とはつながりはなかった。地方じゃ馬を持ってたけど、そんなもの中央とは関係ないし、牛の方で儲かり始めてたからね」

 つきあいで行った先のアメリカのせりで、後のマルゼンスキーになるニジンスキーの子を孕んだ牝馬に出会う。シルだ。

「キーンランドのせりを見ていたらえらくいい牝馬が出てた。いいなあ、これはいい馬だなあ、と思ってたら欲しくなった。通訳にあの馬いくらって言ってる、って尋ねたら、いや、あれは血統がこうこうだから高いです、とか言う。おまえは通訳が仕事だろ、こっちもシロウトじゃないんだから血統は聞いたらどれくらいのものかわかるんだから黙って通訳しろ、と言ってやったんだ。
 いざせりになったらせりかけてくるやつがいたんで、誰だろうと顔を見たら、吉田善哉さんだったよ(笑)。せり場の向こうの方で手をあげてた。もうひとり、あれはフランス人のバイヤーだったかな、こっちは最後までせってきた。三十万ドルってところで手が止まって正直ほっとしたな。善哉さん? 途中で下りてくれたよ。日本に持ってくるのには、三十万ドルの馬代金だけじゃなくて輸送だの何だので結局、当時のレートで一億二千万円くらいかかった。タネ馬だって当時、一億以上で買ってくるのなんてそうなかった時代に繁殖牝馬にそんなカネかけてバカじゃないのか、なんて言われたんだけどな」

 いわゆる持ち込み馬だったマルゼンスキーは、しかし、当時クラシック競走に出られなかった。

「あの頃、マルゼンスキーが出られる重賞で今で言うGⅠなんて、勝った朝日杯以外には宝塚記念有馬記念だけだったんだから。札幌にトウショウボーイが出るから使ってくれ、って言われて使ったら相手は回避したし。その後、有馬記念を出すか出さないかってことになった時に、わしが見るところどうも脚を痛がってるんだな。本郷のオヤジは、そんなことない、社長、全然大丈夫じゃないか、って言うんだが、わしが脚さわろうとすると馬がそっとよける(避ける)んだ。ああ、こいつ嫌がってるな、と思ったから、テキ、有馬は使わんことにしよう、って言ったんだ。厩務員とかは納得いかなかったみたいだが、本郷のテキは、オーナーがそう言うのを無理に使って何かあったところでわしらじゃ責任とれないし、だったら思い切ってやめよう、と言ってくれたんだ。偉かったね、あれは。あのまま現役でいても使えるレースは翌年の宝塚記念まで事実上なかったわけだから、あの判断は間違ってなかったと思ってるよ。」


伝説の名馬マルゼンスキー 圧勝の2レース

 当時あった持ち込み馬はクラシックに出走できないという規則を、橋本氏は裁判にかけても何とかしようと思っていたという。

「弁護士に相談もして、裁判にしたら勝てるという確信もあったんだ。そんな時、中央競馬会の知り合いに呼ばれてこう言われたんだ。おまえ、裁判にしたら勝つかも知れんけど、競馬界にハンデキャッパーというのがいるのを知ってるな。ああ、知ってる。もし勝ったとしてもおまえ、あいつら敵にまわすことになるぞ。そうなったらどういうことになるか考えてみろ、とね。そうか、レースでカンカン背負わされるとか、そういうことになるのか、とこっちは思ったから、それじゃしょうがない、引き下がろう、と。裁判してたら勝つ自信はあったんだがね。でも、その人が、悪いようにはしないから、と言ってくれたことの意味が後になってわかるんだ」

 種牡馬としてのマルゼンスキーは改めてその能力を見せつけることになる。ホリスキーレオダーバン菊花賞スズカコバン宝塚記念サクラチヨノオーでダービーも奪取。立派にGⅠ馬を輩出することになった。

マルゼンスキーが引退してタネ馬になってから、持ち込み馬も父内国産として扱う、ってことになっただろう。84年だったかな。あの時にいろいろ動いてくれた人がどうやらその人だったんだよ。あとになってわかったことなんだが、ああ、そうか、あの時の借りを返してくれたのか、と思ったな。ほんとのところはわからんけど、少なくともわしはそう思ってるよ」

 よく知られているようにマルゼンスキーの生涯成績は8戦8勝の負けなし。つけた着差があわせて61馬身というのも有名だけれども、その後、マル地のヒカリデュールやカズシゲを擁して今でいうGⅠをかっさらった橋本氏の眼から見て、当時のGⅠ相当のレースというのはそんなに敷居の高いものだったのだろうか。

「そんなことはないね」

 即座にそう応えてくれた。

「今みたいに、中央だからってそんなにどうしようもなく強いという感じはなかったよ。うちの馬でも何とかなると思えたし、また実際何とかなったわけだ。そう思えなければ中央で馬を使おうなんて思えなかっただろうしな。マルゼンスキーがあれだけ強いってことを見せてくれて、それでわしに自信をつけさせてくれていたっていうのもあったかも知れんけどね」


伝説の名馬マルゼンスキー 圧勝の2レース

 いま、GⅠの格付けをされている重賞でも、それまでの競馬の価値観の中でそれなりの存在感を持っていたレースと、先に触れたような番組体系の再編成によってつくられた「新しいGⅠ」との間には、すでにある程度の年月が積み重なってきているとは言いながら、やはり微妙な違いが横たわっているように思う。ダートのGⅠフェブラリーステークスが新設された時にもそれは感じたものだが、老舗のGⅠとそうでないものとの間にやはり「重み」の違いがあるように感じるのだ。

 もちろん、2000メートルになった秋の天皇賞が2マイルのままの春のそれと同じGⅠ、というのも釈然としないところもあるし、スプリンターズステークス安田記念がGⅠというのも未だになじめない感じがある。同じように、地方の交流重賞の統一GⅠと中央のGⅠとの間にある超えられない壁のようなものについても、まだまだ考えてみる余地があるように思うのだ。

 一昨年、同じ年に牝馬帝王賞東京大賞典を勝つという偉業をやってのけたファストフレンドが、JRAの年度代表馬はおろか、ダート部門でも牝馬部門でも候補にあげられなかったのは、同じGⅠでも地方で勝ったものには価値を認められない、という現状が反映されていた。三歳クラシックでも菊花賞の位置づけがどんどん後退してゆかざるを得なくなっているし、同じGⅠの称号の中での力関係というか位置づけについても何か別のものさしが必要な時期なのかも知れない、と思ったりもする。

 マル地が平然とGⅠに殴り込んで、そして立派に勝ち負けになっていた時代はもう来ないのかも知れない。けれども、そんな言葉本来の意味でのボーダーレス、いらぬ垣根など基本的にない状況での力勝負がもっと広くできるようにならないことには、GⅠという大きな称号にほんとうの「重み」や、もっと言えば色気のようにものまで身についてくることは難しいのだろうと思う。
*2
f:id:king-biscuit:20040527124152j:plain

*1:洋泉社ムック、例によっての競馬ものの掲載原稿。

*2:逝去された……201021