世に遠い、ひとつの競馬場


アラブ競馬最後の聖地、福山の挑戦



世に遠いひとつの村――これはかつて、柳田国男佐渡島の端っこにある小さな村、北小浦というところを評して言ったもの言いだった。うつろいゆく世の中のあれこれとはひとまずかけ離れた、もうずっと昔からこうであったような、そう思わせてくれるくらいゆったりとした、どこかなつかしくもある時間の流れる、ささやかにシアワセな場所。

そのひそみに、ここはならっておこう。

いま、世に遠いひとつの競馬場――それが、福山競馬場である。



場所は、広島県福山市。県東の端っこに位置するから、広島と言いながら、実質岡山県に近い。馬場は、ダートの右回り。「弁当箱」と評されるきついコーナーの一周千メートル。地方競馬の実施規則ギリギリの小回り馬場だが、瀬戸内海へと注ぐ芦田川のほとり、下流には古くから栄えた港、鞆ノ浦を抱え、また競馬場のすぐうしろには、中世期の市場遺跡として名高い草戸千軒遺跡も発掘されるような歴史的にも厚みのあるロケーションで、しかも新幹線も停まるJR福山駅からまっすぐ南へ大通り一本、というアクセスのよさ。今、現存する地方競馬場の中でも、置かれている環境は正直、かなりいい方に属する。

実は、売り上げも悪くはない。経営不振で地方競馬がバタバタつぶれてゆくこのご時世に、まだ開催日一日平均で一億円以上売る競馬場というのは、むしろ珍しい。まして、首都圏の人口を抱えナイターもやる大井以下の南関東や、早くからJRAと折衝しながら独裁王国をつくってきた岩手といった地方競馬大手の優等生たちとは、経営規模からしてまるで違う市営競馬で、しかも未だに土日の週末開催主体。JRAと競合したら勝ち目がない、というのが常識の昨今の地方競馬で、悪いがこんな呑気な開催日程でまだ何とかやっていられるというのは、ある意味、奇跡に等しい。

なのに、である。この福山競馬、競馬まわりのメディアでも、ファンの間でも、ほとんど話題になることがない。なぜか。未だにアラブ“だけ”で番組を組んで競馬をやっているからだ。

そう、アラブである。サラブレッドじゃない、同じ競走馬でも違う種類、ということに一応なってはいる、あのアラブ、である。

現在、日本でサラブレッドを全く走らせていない競馬場というのは、ばんえい競馬を別にしたら、もはやここ福山競馬場だけ。アラブしかいないから、他の競馬場との交流もまずあり得ない。騎手も、他の地方競馬ならばいまどきのこと、アンカツのように中央移籍を夢見ることもできる。けれども、サラがいないからJRAの認定競走も組めず、だから条件戦の交流競走もなく、ということは、園田の赤木や笠松の柴山がやってのけたような、一次試験からの正面突破しかない。実際、去年のJRAの騎手試験の一次には、他の地方競馬所属の騎手たちに混じって、福山からもひそかに受験していた。だが、その挑戦に隠されていたそんな福山固有の切ない事情も、その意味も、正面から理解しようとしたメディアはなかった。

それほどまでに今、福山は、「世に遠い」忘れられた競馬場になっている。



そんな福山で、サラブレッドが走った。

7月17日、高知競馬に所属するサラブレッドが四頭、その福山に招待されたのだ。名づけて、「高知競馬サラブレッド招待交流」。自他ともに認める“日本一貧乏な競馬場”の高知が、この、世に遠い“日本一地味な競馬場”の福山と、手をつないだ、というわけだ。

聞けば、福山の馬場をサラブレッドが走るのは、初めてでもないらしい。はるか昔、福山にも若干サラが在籍していた時代があったそうなのだが、地元のオールドファンの間でさえも、そんな話はすでに歴史の彼方。今、福山にいるサラブレッドは誘導馬のベルガアーだけ。葦毛の牡馬で血統は不詳。川崎競馬場から譲られたというが、走っていたのか、はたまた競走馬にもなれなかったのか、そのへんも定かではない。そんなわけで、現役競走馬のサラブレッドが福山を走るのは、まあ、有史以来事実上初めて、ということになる。

このアラ/サラ交流のアイデア、しかし、主催者側から出たものでもなかった。この春、現場の厩舎関係者や馬主筋、さらには関係業者などの有志が自発的に提出した「福山競馬経営改善要望書」という書類があった。この中に、すでに行き先のほぼなくなってしまった福山のアラブたちに活躍の場を、という趣旨の一項目があった。ことのはじまりは、それだった。

もはやアラブは、たとえどんなに強くても、もう戦う相手がいない。かつてたくさんあった地区交流、全国規模での重賞もほとんど姿を消した。いい時には数千万もあった賞金も夢と消えた。このまま、世に知られないままお山の大将で終わるよりは、とにかく陽の当たる場所に出してやりたい――そんな関係者の想いが、主催者を動かした。

 まず、一番近い高知に電話をかけてみた。この三月のことだ。高知の管理者は、知る人ぞ知る前田正博氏。あのハルウララブームに乗じて、瀕死の高知に活を入れた名物管理者だ。電話口で、「うちはご存じのような状況なんでカネは一切出せませんが、それでいいなら……」と、例によっての即答。だったら、というので話が転がり始めた。せめて賞金も、恥ずかしゅうないくらい用意せんと。えい、目ぇつぶって百万円出すわ。ノリヤクもわざわざ来てもらう以上なんぼか出さんといけまあ……というわけで、こっちも苦しい中から、遠征手当てをひとり当たり数万円ひねり出した。



迎え撃ったのは、福山のA級アラブのオープン馬、六頭。

まず何より、いまや自他ともに認める現役日本最強アラブのスイグン。父は「アラブのSS」と呼ばれるホーエイヒロボーイ。36戦21勝。デビュー当初はそれほどでもなかったが、一昨年のダービー5着を境に馬が一変、それ以降は24戦して18-4-1-0(失格1)、取りこぼしたのは重馬場だった福山菊花賞と、不良馬場で一着失格食らった園田の楠賞だけ、というすばらしい成績で、特に、同期の好敵手だった快速馬、ユノエージェントが屈腱炎で引退して以降は、文字通りまず無敵。特に長めの距離での、先行から長く使えるまくりの脚の破壊力は格別だ。

 どれくらい強いのか、って? ならば、ハッコーディオスやマッピーウェーブといった園田所属の全国区の強豪で入れ代わり立ち代わり、何度挑戦しても勝てなかった、岩田康誠騎手のコメントをどうぞ。

「あのウマ、沸いとる(フツーじゃない、ヤバい)……芝の長いとこやったら、中央のサラ相手でも十分ケンカになる思うわ」。

そんな発言に尾ヒレがついたところもあったのか、ここも当初は、JRAの小倉日経賞へ参戦か、との噂もあったものの、これは事実無根。逆に言えば、そんな噂が出るくらい、地元ファンの期待は大きいわけで、勇躍、出走へこぎつけた。地元のファンも、なんぼサラブレッドじゃ言うても高知のサラぐらいじゃったらスイグンで負けようなかろう、というのがもっぱらの評判で、主戦の片桐騎手も福山を代表するジョッキーのひとり。断然の一番人気だった。

そしてそのスイグンよりひとつ年上の六歳、ユキノホマレ。ミルジョージのかかったミスタージョージの息子。60戦17勝。平場のA級戦でとりこぼすようなところがあるものの、金沢の交流戦で当時日本一だった名古屋のマリンレオの2着に飛び込むなど、大一番で一発、の勝負強さが持ち味。このところ福山桜花賞タマツバキ記念、と続けてスイグンの2着に食い下がっていて昇り調子。ここでも期待されていた。

四歳勢からはヤスキノショウキにホーエイスナイパー。地元では「砂の貴公子」と呼ばれ女性ファンの追っかけも出現する嬉騎手を擁するヤスキノは去年の暮れ、全日本アラブグランプリで高知の怪物、マルチジャガーの2着、スナイパーも同じく暮れのアラブ王冠でメイユウオライオンの2着の星がある、いずれもホーエイヒロボーイ産駒で重賞の常連。さらに、バリバリのA1では若干足りないものの、スキがあれば突っ込んでくるしぶといレースぶりの七歳馬、ニュータイムも。紅一点、スイグンと同世代の快速牝馬で人気者、ラピッドリーランの名前もあった。

福山のオープン馬たちはこの時期、八月に予定されているファン投票による重賞、福山版宝塚記念とも言うべき金杯をめざすのが本筋のローテーションで、また今年は春先の馬インフルエンザや「不祥事」によるひと開催中止、など、いろいろとイレギュラーなできごとが連発、コンディションを狂わせる馬も少なくなかったのだが、ここはひとまず、ワシュウジョージやハッコ-ディオスといった園田から流れてきたかつての全国区たち以外、福山生え抜きの元気者のアラブはできる限りこのアラ/サラ交流の招待競走に協力、ということになった。



対する、高知からやってきたサラブレッドは、ナイキアフリート、フォーバイフォー、パワフルヒッター、ニシノマキシマム、の四頭。いずれ流れ流れて高知までやってきた、歴戦の仕事師たちだ。

ナイキアフリートは九歳。60戦10勝、うち中央で29戦6勝。中央デビューで、その後大井に転厩、八歳秋まで走ったものの未勝利、そのまま高知へとやってきた。過去二年の獲得賞金で格付けされるから、三年以上勝ち星のなかった彼はB2スタート、さすがに地力が違って三連勝で重賞の珊瑚冠賞まで制し、一躍、ストロングボスイブキライズアップといった高知の看板馬たちと肩を並べる人気者になっていた。

フォーバイフォーは牡六歳。父はトニービン。43戦5勝、うち中央で20戦1勝。中央で五歳春まで走った後、宇都宮へ。水があったのか、ここで成績が安定してB級まで出世したが、宇都宮の廃止と共に高知へ。7戦して1-5-0-1、直前には減量の永森騎手で昇り馬シンボリオレゴンに土をつけ、絶好調で乗り込んできた。 

パワフルヒッターは牡八歳。父はアサティス。92戦3勝、大井でデビュー、今年の一月までB3~C1あたりを地味に走り続けていた。三月に高知に姿を現わし、凡走続きの四戦めの五月、A級選抜戦で突如大変身、八番人気を勝って、なんと三連単321万という高知競馬史上最高配当の片棒を担いでみせていた。

ニシノマキシマムは牡七歳。シアトルダンサーⅡの産駒。30戦4勝、うち中央で18戦3勝。中央で走り続け、五歳の秋に三勝めをあげた後に故障で一年二カ月の長期休養の後、高知に転じてA2から再出発、だが、一勝した他は着外と苦戦していた。

この四頭のうち、三頭を管理していたのが田中譲二調教師、高知では常にリーディング上位を争う調教師のひとりで、脚もとのあぶなっかしい馬を管理させれば屈指の腕ききでもある。

去年、桂浜の休養牧場で、ある馬を見かけた。脚もとがソフトボールくらいに腫れていた。当然、現役だとは思わないから、これ、もとはどこで走ってた馬ですか、と尋ねたら、そこの場長にブチ怒られた。何言いゆうか、現役バリバリやが。はあ? こ、この脚もとで、ですか? そうよ、ついこないだ佐賀に遠征して四着してきたがよ。

それが、田中(譲)厩舎のダスティーだった。水沢デビューの岩手アラブの生き残り。上山の全国区、ホマレスターライツと勝ち負けを演じたこともある。なるほど、佐賀の西日本アラブ大賞典で、かのスイグンの四着。その後、十歳になった彼は、まだA級現役で走っている。脚は、もちろんそのままだ。

「エビは腕やない、(使う側の)根性よ」

師は照れたように笑うけれども、そうカラッと言い放てるだけの緻密な眼と、その眼に見合った丹精と、何より、前向きなあきらめが背後に確かに隠されている。それが、日焼けした顔になんとも言えない、やわらかな凄味を加える。

実際、今回連れてきた三頭の中で、高知の大将格と目されていたナイキアフリートは、脚もとが不安視されていた。当日、装鞍所に入ってきたのを見ても、歩様は正直、あぶない印象だったし、何より、両前脚にびっちり巻き物(バンデージ)が巻かれている。負担をかけないようにするためか、カラダも数字に現われているよりも、ずっとギリギリにまで絞られている感じがする。

「最近ずっとこんなんやからね。競馬はできる思うよ。ただ……」 

師はそう言って、なんでもないようにこう続けた。

「上がり(レース後)になんかあってもしょうないかなあ、というところはあるわね」



レースは1800メートル。向こう正面二コーナー近くからのスタートで、福山の馬場だと一周半以上。予想通り、ラピッドリーランが先手を取った。スイグンは余裕の大名マークの番手どりで、高知のサラ勢では案の定、若いフォーバイフォーが果敢に食いついてゆく。先にゆくスイグンを追いかけて一歩も引かない。二周め三角を過ぎ、四角から直線に入ってもその並びは変わらない。内で粘るラピッドリーランを、まずスイグンが悠々とかわしてゆく、その外にフォーバイフォーがせりかける、中西騎手が全身で追い出す。スイグンは例によって頭を上げ気味にゴールを目指す、鞍上片桐騎手が激しく動く。フォーバイフォーもあきらめない、中西騎手のステッキがしなる。と、その外からさらにもう一頭、黄色い帽子のユキノホマレが岡崎騎手の腕に応えて猛然と追い込んできた。小回りの、アラブ競馬ならではの力強い叩き合い、馬も人もせいいっぱい、力の限りに砂塵を巻き上げながら、ゴールを目指す、ああ、もう他ではあまり見られなくなってしまった、これぞ競馬、というその迫力。

おい、こら、どこのどいつだ、アラブはサラよりスピードがないから迫力あるレースが提供できない、だからファンのニーズに応えられない、廃止は時の流れだ、などとしたり顔でぬかしてやがったド阿呆は。

地方競馬が軒並みアラブからサラに鞍替えし始めていた頃、サラ=アラブよりスピードに勝る馬種、というイメージを裏付けるために、ある競馬場ではハキモノ(蹄鉄)にも差をつけていた、という話がある。ほんとだとしたら、そうまでしないとサラと互角、ないしはそれ以上の勝負をしてしまうようなアラブがゴロゴロしている、ってことじゃないか。

 ゴールはやはりスイグンのもの、だった。懸命に勝負を挑んだフォーバイフォーは、しかしユキノホマレにもハナ差及ばず三着、ニシノマキシマムとパワフルヒッターは、勝負どころでもうついてゆけずに脱落した形で後方入線だった。

戦車のような馬群がひとしきり眼の前を通りすぎたその手前、気がつけば一頭、下馬していた。ナイキアフリートだった。左前の球節が明らかに壊れている。馬はつんのめりながらも、しかし自力でコース外まで歩いてきた。ショックが大きいのだろう、必死にこらえる様子が痛々しい。バンデージを外せばそのまま起き上がれなくなるだろう。馬に寄り添う鷹野騎手と共に、あわただしく係員が馬を介抱する。修羅場をくぐり抜けた者たちの顔で、誰もが入線後の仕事を片づけてゆく。

予後不良、だった。来る時は四頭だった高知のサラブレッドは、帰りには一頭減って、三頭になった。ほらみろ、こんな小回り馬場ではやっぱりサラブレッドはムリだ――そんな声も一部で聞こえてきた。馬鹿言ってんじゃない、おまえら何見てたんだ。あのおっかない脚もと抱えてもなお、ナイキアフリートサラブレッドの意地を見せようとしてくれた、意地でこわれるまで走った、そう考えるのがほんとじゃないか。それが証拠にほれ、いつもとは明らかに違う新顔のお客さんも今日はスタンドにたくさん来ているけれども、みんな、ああ、いい競馬を見せてもらった、って顔をしているじゃないか。売り上げだっていつもより少しましだったみたいだし、何にせよみんなが必死、一生懸命、かつて山口瞳が言ってたように、それこそがこういう小さい競馬の一番の財産、ってことが、まだわかんないのか。



この四月から、福山競馬の賞金は一気に半分になった。削減率50%。いくら不景気な地方競馬とは言え、一度にここまで賞金額を下げた競馬場はこれまで他にはない。

「そりゃあびっくりしたわ、それまで30万はあったんが一度に15万じゃろ、こりゃあ死ね、言うことかい、とアタマにもきたわね」(ある調教師)

しかし、半分に下がってもまだ、サラブレッド主体の他の競馬場よりまし、というから、今の地方競馬の状況はほんとに笑えない。平場の一着賞金が高知で10万、笠松や荒尾、金沢でも15万前後、ホッカイドウが20万で岩手が25万。出走手当てなどを考慮したら、福山にはまだそれでも持ちこたえられるだけの体力が残っていた、とも言える。

「アラブカネ持ち、サラ貧乏」という。アラブ関係者がその日陰者の身から裏返しにプライドを保とうとする時に宿ったもの言いなのだろうが、それくらい、アラブ競馬は潤った。馬主も、厩舎も生産者も。サラよりスピードでは劣るものの、値段が安く、手もかからず、タフで一年中競馬を使えて、しかも走る血統からはクズが出ない。真冬でも真夏でも、月に二回、確実に競馬を使えることが求められる地方競馬の日常にとって、そんなアラブは欠くことのできない競走馬だった。

「ほんになあ、アラブは血統が間違いないからなあ」

古手の厩務員、由緒正しい“稼業持ち”のひとりがしみじみつぶやいた。

「サラブ(註……往々にして彼らはこう言う)じゃとなんぼ母親が走ったゆうても、その子ぉが間違いのう走るゆうことはまずないじゃろ。ひと腹から一頭、どうかしたらそれもあたらん。それに比べりゃアラブは、上が走っとったらその下も、馬さえまともならまずクズは出ん。多少高いな思うても、安心してゼニ出せる、いうところがあったんやわ」

だから、かつて地方競馬で走っている馬の半分はアラブだった。競馬場によっては全部アラブというところも珍しくなかった。

何より、中央競馬にだってアラブは立派に走っていた。いや、走っていた、どころじゃない。本格的な競馬ブームが始まる昭和40年頃までは地方と同じく、在籍馬の半分はアラブだったのだ、あの中央でさえも。重賞だってあった。セイユウ記念、タマツバキ記念、アラブ王冠、読売カップに銀杯……さらに古くは、アラブの障害競走まであったのだ。

けれども、いまからちょうど十年前、1995年にJRAは、アラブの競走番組を全廃した。これ以降、JRAの競馬場でアラブの走る姿を見ることはなくなった。

当時、JRAの番組の中で、アラブはすでに余計ものになっていた。しかし、同じく余計もの扱いされていた障害レースが、当時の渡辺理事長のツルの一声でなぜかテコ入れされ、国際GⅠまでこさえて今でも存続しているのに比べて、アラブの方は一顧だにされずに廃止。「スピード主体の近代競馬にそぐわない」という名目の下、折りから進められていた「国際化」の一環だった。

なぜかこれに、地方競馬の各主催者までもが、右へならえ、をした。翌96年、リーダー格の南関東がアラブ番組の廃止を表明、以後、岩手や上山、果ては「アラブのメッカ」と言われた兵庫(園田&姫路)までもがアラブを廃止。きらびやかなJRAの競馬に目がくらまされ、「サラのスピード競馬は時代の流れ」「ファンのニーズに応えるために」などと、考えなしの身のほど知らずで雪崩を打って、そんなこんなでとうとう、ああ、いまや地方競馬でもアラブは、ほぼ絶滅寸前にまでなってしまった。

現在、アラブを別番組で組んでいる競馬場は、全番組アラブの福山の他は、高知、荒尾に金沢、名古屋だけ。これらの競馬場も、アラブの生産頭数自体が今や数十頭規模まで落ち込んでしまっている現在、新馬が補充される見込みも立たず、今いるアラブが減ってゆきレースが組めなくなれば必然的に番組も消滅さぜるを得ない。それ以外の競馬場に残されている現役のアラブは、不利を覚悟でサラと同じ番組を使うしかないし、古馬にしてもアラブの新規入厩自体をもう禁じている競馬場がほとんど。いよいよもってアラブはもう、その走る場所さえなくなりつつあるのが現状なのだ。

今をときめくサラの名門牧場の多くも、かつてその基礎を作ったのはアラブだった、というところは多い。同時にまた、テンプラやオバケ、と呼ばれた血統のあやしい……いや、もうぶっちゃけて言ってしまえば、サラをアラブと偽って配合したような無茶なアラブも、かつてはいっぱいいた、それも歴史的事実である。今残っているアラの繁殖(牝馬)で能力高いやつはほとんどサラだよ、と言う向きさえある。

そんなものかも知れない、と、あたしも思う。思って、そして敢えて言う。それがどうした、と。

そういう競馬、そういう歴史をわれらニッポン競馬は持っている、そういうことだ。だったらなおのこと、能力が一定の水準に達していたらもうアラでもサラでもいいじゃないか、という考え方だってありじゃないか。まして、ただでさえ競走馬資源の枯渇し始めている現在、これから先、地方の小さな競馬の選択肢のひとつに、そういう何でもありの競走馬資源の活用、というのも考えねばならないはずじゃないか。競走馬として生まれて、走れる限りは走らせてやる、それこそが競馬に携わる者の、うまやもんの正義、じゃないか。

世に遠いひとつの競馬場、“アラブ最後の聖地”福山に残した、高知のサラブレッドの記憶は、小さな競馬の未来にきっとつながっている。あたしゃ、そう信じている。