オグリ、オグリ、オグリ……そんなに激しくもなく、熱っぽくもなく、でも、確かに数千人分、いや、正直言うとそんなもんじゃないな、それは実際の人数ではなく、その場にいる彼ら彼女らがこれまでたっぷりと吸い取ってきたかつて最も熱かった頃のニッポン競馬の記憶がまるごと存分にかけあわされて、結果なんだかいまどきあり得ないようなゆるいなつかしさがいま、そこに、確かに立ち現れていたのだからして。
それぞれがそれぞれの、きっと競馬に一番傾いていた時の記憶を、いまさらおそるおそるなぞるように、オグリ、オグリ……のその声は、ひさかたぶりに埋まった笠松競馬場のこじんまりとした観客席に、どこかたよりなげに、でもかなりいい感じで響いていった。装鞍所から一コーナーの方へとレースとは逆に、スタンドの方へとゆっくり歩くオグリキャップもまた、その響きを楽しんでいたはずだ。
十四年前、一九九一年の冬、同じここ笠松競馬場にオグリキャップはいた。前年暮れ、有馬記念でのあの「奇跡の復活」の後、中央のファンに別れを告げた後、種牡馬になりに北海度へと帰る途中、かつて在籍した笠松に立ち寄っての二度めの引退式。背中に安藤勝巳、今の押しも押されもしないJRAのスタージョッキーではない、当時はまだあの青胴黄山形一文字の勝負服を身にまとった“草”のノリヤク、笠松のアンカツとして、すでにその頃もう彼にとっては遠い存在になってしまったオグリの背中で憮然とした表情だった。当時一万数千人以上、向こう正面の木曽川の土手から四コーナー、名鉄の線路の下のところまでびっしりと立ち見の観客たちがひしめき、笠松の駅から競馬場に至る小道には人の列がひっきりなしに続いていた。手に手にオグリのぬいぐるみ、ただあの葦毛馬の姿を見たいというだけで、ふだん競馬などさして興味もない善男善女が押し寄せたあの日。よく似た光景はその後、高知競馬場のハルウララで再現されたりもしたのだが、それはともかく。
ひさしぶりに見る生身のオグリキャップ、かつての主戦、アンカツの眼にはどう映ったのだろうか。
「なんか、眼つきが違うなあ」
おそらくは高級ブランドもののサングラス、初夏のような暑さの中、それでも律儀に仕立てのよさげなスーツを着込んでアンカツは笠松競馬場の装鞍所で、まるで自分の出た小学校を訪れたような顔と共に、そうつぶやいた。 どうやら以前、北海道に放牧されているところを見に行った、その時に比べて、ということらしい。
「……まだ立派に走れるカラダしとるが。動きがやわいし、たいしたもんよ」
滞在している厩舎は、笠松名物伝統の外厩地域の一角、そこから馬運車で競馬場まで運ばれて、今日は笠松町と岐南町の職員が駆り出されてのにわか警備員、揃いのジャンパー羽織って、ここ装鞍所にまでちらほらやってくる携帯カメラ片手のファンたちを制しながら、自分たちも同じ物見高さでオグリをかわるがわるにのぞきに来る。
「今日使てみたらどうなん? ええ勝負なるんと違うの?」
アンカツが言う。タックルームの前、地元のノリヤクや古手の厩務員たち、いずれかつてのアンカツの仲間たちがかるく笑う。
今日のメインはほかでもない、オグリの名を冠したオグリキャップ記念。これまでは中央交流のダートグレード競走だったのが、今年の新生笠松競馬は経費削減の大方針から、ダートグレードから敢えてはずれて単なる地元のローカル重賞。一着賞金は四千万からほぼ九割減の四百五十万、中央に馬場貸すばかりでどうもならんレースやるくらいなら、という主催者側の苦肉の策だったのだけれども、それでもよくまあレースが残ったものだ。実際、一時はほんとにレースそのものが開催日程から消えていたのだからして。でもやっぱり、笠松からオグリキャップ記念がなくなったらいかんやろ――厩舎側からのそんな声もあって、何とか復活折衝で名前が残せたという顛末。そのおかげで、こうやって当のオグリがまた客寄せに戻ってきてもくれたのだし。
せっかくやからレース、オグリ出してみたらええんや。なんやったらほれ、馬券も売って。ハルウララみたいにお土産がわりに単勝馬券勝ってくれるお客さんはいくらでもおるんやないの? 単勝も千円単位にしたら、かなり売り上げに貢献できるんと違う?
そんなアンカツ発の冗談の前、地方競馬ならではの広めの装鞍所をゆっくりと回るオグリ。
「えらい元気ですよ」――オグリを引く後藤厩務員はワイシャツにネクタイの正装、すでに大汗をかいている。かつて競馬を覚えた笠松の馬場、何よりもまわりに現役の競走馬たちのいる環境に、厩舎ではおとなしかったオグリがかなりいれこんでいた。普段の仕事とは別にオグリのお守りも加わって、気苦労含めて当番の厩舎は大変なのだが、それでも彼らは泣き言を言わない。競馬を続けるためですから――その想いはこの一年でずいぶん浸透している。新たにお目見えした名鉄脇の大きな立て看板も、業者に見積もらせたら何百万も言われたので、教えてもらって見よう見まね、自分たちで足場を組んで手のあいた者が交代で仕上げた。経費は五分の一くらいですんだ由。スタンドのペンキも同じく手分けして塗り直した。レース後の清掃もボランティアで協力している。みんなで競馬をやるんだ、という覚悟。
オグリと同じくらい真っ白になった誘導馬のハクリュウボーイが、脇の馬房で休んでいる。実はこの馬、オグリと同期の桜。ということは同じく齢二十歳になるわけだが、しかしいま、同い年のオグリと比べるとやはり見劣りがする。まあ、ファンはオグリと言って、このハクリュウボーイ出しといてもわからんやろけどな。いや、そうでもないよ、今日も開門前に何百人も並んでたっていうし、オグリがこっち来てからだってオグリのファンだってのがグループで訪ねてきたらしいで。なんでも、毎月北海道にオグリに会いに行ってたってのもいたらしいからバカにでけん。替え馬なんか一発で見抜くんと違うか。うわあ、かなわんなあ、さすがオグリキャップや……
笠松競馬、土俵際で踏ん張る――ここ一年の間に高崎、宇都宮と立て続けに廃止になった地方競馬で、同じく笠松もほぼ廃止だろうと言われていた。事実、年明け一月には状況は絶望的、二月あたまで任期の切れる梶原岐阜県知事の最後の判断ひとつで、おおかたは廃止、ということになっていたのだ。それがギリギリの土壇場で何とか一年という条件つきの存続、言わば執行猶予がついたのは、そこはそれ、現場のうまやもんたちの必死の努力があったのだけれども、とにかくドミノ倒しの続く地方競馬で、このところ唯一と言っていい前向きなニュースではあった。
オグリを笠松に呼ぶことになったのも、ひょんなことからだった。岐阜県に変わって組合を構成していた笠松町と岐南町が町長たち自ら東奔西走、北海道日高にも馬産地としての助力を求めて何度も足を運んでいた、その過程で、新冠にいたオグリを表敬訪問、立ち寄った際、やっぱりすごい馬だなあ、一度笠松に来てくれないかなあ、と、競馬についてはズブのシロウトの町長ふたりが口にしたのがきっかけ。そんなことだったら、と、これまた瀕死の笠松支援に大いに肩入れ、実際に一億円の資金を拠出すると先日も記者会見して脚光を浴びる中村和夫氏などが間に立って小栗孝一氏や佐橋五十男氏など関係者に交渉、この里帰りとなったのだ。
もちろん、一応はまだ現役の種牡馬のこと、しかもこれだけの人気馬だ。何か事故があったら、という懸念は当然で、すでに空き馬房が目立つ厩舎のひとつを突貫工事で改装、馬房みっつをぶち抜いてのオグリ専用馬房をこさえて、警備員が二十四時間体制で見張る周到さ。何もそこまで、と思われるだろうが、なんの、塀を乗り越えてオグリに会いにきかねないファンも一部にいたというから、さすがニッポン競馬最盛期の国民的スターホース。その他、実現までにはいろいろ苦労もあったのだが、それらはまた別の機会にでも。いまはオグリがまた笠松に戻ってきた、それも崖っぷちの笠松を助けるために、というひとつの話が、とにかくこうやって実現したことを喜ぼう。
29日の朝と最終レース終了後、そして翌30日の最終レース後と都合三回、連休中の開催にオグリは顔見せをした。初日はいれこんで棹立ちになるシーンもあったものの、じきに慣れたのか、淡々と馬場を引かれて歩き、直線を二往復ばかりしてファンの声援に応えて見せた。初日の入場人員は八千人以上、売り上げはなんと二億六千万円。「オグリ特需」の見出しが翌日のスポーツ紙に躍ったけれども、さらに特筆すべきはこの四月以来、笠松は赤字をほとんどゼロにしてきていることだ。売り上げ自体はまだ去年より下がってのこの結果だから、改めていままでの主催者は何をやってたんだ、ということになる。
「ああ、競馬やれるってのはほんっとにいいねえ」
この四月、廃止になった高崎から笠松に移籍した森山調教師の心からのひとこと。管理馬タワリングドリームはというと、この日のオグリキャップ記念であわやのクビ差二着。「まわりがバカにしてくれたのかな、ラクに逃がしてくれたからね」とは言うものの、終わってみれば勝ったミツアキサイレンスともども、全国区の交流重賞を使ってきた歴戦の賞金稼ぎ。行き先のなかった自分たちを気持ちよく受け入れてくれた笠松で、オグリの眼の前でオグリの名前のついたレースでこんないい競馬できたのはうれしいね。
ニッポン競馬の最も熱かった季節、競馬がちゃんと競馬だった頃の記憶はまだろくでなしたちの間に共有されていた。里帰りしたオグリキャップは、この競馬に逆風吹きすさぶ時代になお、そのことを教えてくれた。決してひとり笠松の話、ではない。JRAも含めたニッポン競馬の行く末を考えようとする時に、あのオグリ、オグリ……の響きには、きっと勇気づけられるはずだ。