反中韓なココロ――見えない水準の「政治」として

 ああ、世の中ってこういう具合に変わってゆくのかなあ、と思ったりしています。中国や韓国、大手メディアじゃ「お隣さん」的に取り扱われる国々に対する認識や感覚が、ほんとにこちらが思ってる以上に大きく、それも底の方からゆっくりと地滑りを起こし始めている、そのことです。

 ここはひとまず、実際に声に出し、行動に移す人たちのことではない。昔も今もそのような主義主張、いわゆる「政治」に関わるような立場の表明や意見を自ら表沙汰にすることなどないまま、日々の暮らしに埋没しているはずのその他おおぜい、そう、「世間」一般の側の意識として、です。数字や統計でとらえようとする試みでも一定の流れははっきり見え始めていますが、それ以前にまず日々の実感、生活感覚としてそれは肌で感じられるようになっている、そう思います。

 これまでは、たとえそれが無意識裡の、ほんのはずみで口にしたつもりであっても、いわゆる「保守」「憂国」系のものの見方や考え方につながる何ものか、をうかがわせるような気配を察知されたら最後、日々のつきあいから職場の関係、ヘタすりゃ世渡り稼業の先行きまでもが雲行きあやしく、何となくまわりの視線や接し方がぎくしゃくしてゆくようなことは、少し前まで当たり前にありました、このニッポンの世間ってやつでは。それは、たとえば何かの信仰や信心を持っていることがうっかりバレてしまったのにもよく似た、何というか、はっきり明示されない分対処のしようもない、抗弁や弁解、説明などもやったところでおそらく無駄、ということがはっきりわかるようなものでありました。

 いわゆる「左翼」「リベラル」系でも事情は同じで、漠然とした雰囲気程度ならまだしも、はっきりと何かの運動に参加したり明確なことばとしての思想表明を日常するような人に対する世間の対処は、濃淡はあれど基本的に「保守」「憂国」系に対するのと同じでした。そう、「なんかめんどくさい、そういう人」という距離の置き方、留保の作法の発動です。

 「政治」と「宗教」のことはなるべく口にしない方がいい――いつ頃からか、わがニッポンの世間での世渡り上の知恵、処世術の要諦のひとつとしてこのようなことが言われてきています。今もそれは基本的に変わっていないでしょう。自営業なら言わずもがな、会社に属して給料もらうような立場でも、はたまた公務員や政治家ならばなおのこと、いずれ人と人とのつきあいを不必要にぎくしゃくさせないための大事な秘訣として、世に出て働くくらいの人ならばいつしか心得ているもののはずです。

 「政治」とは、良くも悪くも、そのような世間知の水準でわざわざ言葉にして表明されるようなものではありませんでした。本当の意味での政治に見合うような水準は、むしろそのような世間知の中にくるまれて、明示されないところでこそ確実に担保されている、そんなものだったようなのです、わがニッポンの世間においては。保守であれ革新であれ、右翼であれ左翼であれ、ことばにした瞬間から政治の水準に吸い取られざるを得ない、そんな明示的なことばでは本当の「政治」は語られることがない、そんなめんどくさい構造がどうやら日本語環境の世間にはあったらしい。

 けれども、ここにきてはっきり口にし態度に示す、そういう眼に見え誰にもわかる水準での、言わば「しるし」としての政治をめぐる雰囲気自体は変わらずあるにせよ、そこから一歩踏み込んだ明示化されない水準での「政治」という意味では、中韓に対する不信感や嫌悪感といったものはことばや理屈でなく、それ以前の日常感覚としてはっきりと共有されるようになってきています。

 顕教密教、というこれまでも使われてきた比喩で言えば、顕教としての政治、眼に見え耳に聞こえる「しるし」としての思想でなく、わざわざそのような「しるし」にされることはない密教としての「政治」の水準に、これまでは特に何か厄介がふりかからない限りは「お隣さん」としてそれなりに見ないふりをする約束ごとにくるんできた中韓に対する違和感が静かに、しかし明確に根を張りつつあるのがわかる。明示的な「しるし」とは別に、であるがゆえにこれは底堅く、かつ本質的な変化だろうと思います。

 相も変わらず「右傾化」と言いつのり、ことあれかしで常に構えて些細なことでも針小棒大中韓にご注進しては火をつけてまわる、「戦後」の言語空間由来のメディアやインテリ文化人界隈の手癖習い性もまた例によってのことですが、表から見えにくいそんな生活感覚、「しるし」としてはっきり見えない水準での「政治」として、嫌中韓の感覚は単なる気分や気まぐれでなく、ある確信と共にはっきりとした流れになりつつあるようです。

 もう一度。世の中ってのはこういう水準、こんな経緯でうっかり変わってゆくものだったりするようです。