鉄人28号はこわかった

 まず、白状しておきます。鉄人はこわかった。おっかなかった。

 いや、こわい、というのはあまり適当ではない。そうだなあ、よそよそしい存在、ないしは、コドモだったこちらから敢えてココロ開いてつきあおうと思えない、思わせてくれないもの、とでもここは言っておきましょうか。少なくともその頃、まごうかたないガキだったあたしにとっては、たとえつくりごと、おはなしの中の存在とは言え、そういう感情移入の対象ではありませんでした。いま、鉄人28号についてこのあたしに何か語っておくべきものがあるとすれば、何よりまずこの「こわかった」の手ざわりについて、からです。

 いまでも、実家の物置きの奥には、カッパコミックス版「鉄人28号」が眠っています。それは、当時急激に拡大した大衆という市場相手に廉価な「教養」を薄利多売する「カッパブックス」でひと山当てた光文社が、次にマンガに目をつけ、というか、大衆という市場を相手にしていた会社のことの必然として、その頃ブームと言われていたコドモ向けのマンガに向かい、そんな中でまず、ちょうどテレビアニメ化され始めた「鉄腕アトム」をシリーズ化して人気を博し、続けてその頃同じく子供たちに人気のあった「鉄人28号」をラインナップした時のもの、だったはずです。

 B5版、ボール紙様の厚紙の表紙で、それは一応フルカラー。技術的なことはわかりませんが、記憶の銀幕に投影されているイメージからすると、赤や黄色といった配色のその発色が、それまでのマンガ雑誌のものと違う鮮やかさだったのが印象的でした。同様に、テレビ放映のスポンサーだった明治製菓江崎グリコのこれまたきれいな広告が裏に毎号載っていて、そのへんもその他のマンガ雑誌と違うクオリティを感じさせていました。

 ただ、本文の紙自体はザラついたもので、当時出始めていたマンガ週刊誌の本文用紙よりはいくらか厚手でマシなものだったはずですが、それでも、昨今のマンガ雑誌の紙質に比べればかなりお粗末。いま手もとに引っ張りだして眺めてみても、当時まだ「マンガ」は正しくそういう子供のための消費財、使い捨ての商品だった、その名残が感じられなくもない代物です。

 月刊誌、というか、毎月一冊配本、という形だったと記憶します。こちらから書店に買いに行くのでなく、書店から配達してくれるようになっていました。思えば、この雑誌の宅配、という制度も最近、すたれてしまいました。

 どうしてこのシリーズが我が家にくるようになったというと、なぜかうちの親、それも母親が、「鉄腕アトム」ならば子供に読ませていいマンガ、と判断したから、だったようです。

 ちなみに、それ以外のマンガ雑誌は、同居していた祖母の買い物にたまについて出た時に、親に内緒で買ってくれるくらい。小遣いをもらうようになるのはまだ少し後、小学校四年生あたりからだったので、当時幼稚園から小学校にあがるくらいのあたしにとっては、オトナが買ってくれる以外にマンガと接することはまずなかった、ということです。さらにつけ加えれば、テレビアニメの「鉄腕アトム」の方には別に縛りもなく、毎週きちんと親公認で見せてもらえるものでした。母親がカッパコミックス版の「鉄腕アトム」を講読したのも、テレビでなじんでいるものだから、という理由もあったのかも知れません。

 このへん、もうすでに歴史の範疇に入りつつあることでしょうから、この際、前提としてはっきり言っておかねばならないと思うのですが、その頃、マンガは果たして子供に読ませていいものかどうか、そんなことがオトナの世間では結構な大論争になっていたりしました。



 たとえば、「マンガ=お菓子」説、というのがありました。子供が成長するために必要な栄養素というのがあって、それは活字の書物から摂取されるべき知識や情報が中心である。ついでに言えば、それらは「学校」を中心に「正しく」摂取されるべきものであって、それらをひっくるめて「教育」というもの言いで語られるべきものである、と。

 で、そういう「主食」、「正しい」「教育」の脈絡とは別に、「それ以外」もまた存在する。それらの中にマンガもあるわけだけれども、しかし、マンガはあくまでも食事ではない。三度三度きちんと摂取しなければならないものでもないし、なければなくても構わないようなものだから、それは言わばお菓子、である。お菓子ばっかり食べているといびつな成長しかできなくなるのと同じく、マンガばかり読んでいるとココロが「正しく」成長できない。だから、おいしいから、おもしろいから、子供がほしがるからと言って、マンガを与えすぎるのはよくない――とまあ、ざっくり言ってそういう理屈でした。

 これは同じくその頃、問題になっていたテレビと語られ方、扱われ方は基本的に同じです。テレビは一日一時間まで、とか、長い間見すぎるとアタマがバカになる、とか、そういう意見が大まじめに、コドモたちの未来をひとまず真剣に考えるオトナたちの間で交わされていた、そういう時代でした、高度経済成長期のとば口というのは。で、その真剣に考えてもらっていた当のコドモたちであったあたしたちは、そういう空気、そういう雰囲気の中でマンガに、テレビに、何であれそういう「それ以外」にどんどん勝手に接していった、というわけです。そんな「それ以外」は後に「サブカルチュア」などとカタカナ書きで置き換えられるようになり、「学校」の中でさえなしくずしに居場所を主張するようになってゆき、抜き打ちの持ち物検査がマンガが没収されるようなこともなくなっていったのですが、そういう「それ以外」の文化大革命並みの大躍進、版図拡大に成長過程でつきあってゆくめぐりあわせになったあたしたちが、その結果、どれくらいバカになったのかどうか、は、ひとまずともかくとして。

 実際、そのカッパコミックス版「鉄腕アトム」の表紙裏には、毎回「私とアトム」というコーナーがあって、そこには当時のオトナたち、芸能人から評論家、学者など少なくとも「有名人」として認知されていたような人たちが、私もアトムを読んでいます、とカミングアウトする仕掛けになっていた。特に、阿部進(「カバゴン」と呼ばれて当時マスコミの売れっ子だった教育評論家)や波多野勤(「育児」に関していろいろ発言していた教育心理学者)など、そういうマンガやテレビの是非論に積極的に参戦していろいろともの申していた、まあ、公認の「インテリ」「知識人」=「エラいオトナたち」が、アトムを読んでます、と表明することで、親たちを安心させると同時に、あたしたちガキにとってもそれは、ああそうか、オトナたちもアトムを読んでるんだ、だからアトムを読むのにうしろめたい思いをしなくていいんだ、といったお墨付きの効果がありました。

そのせい、というわけでもないのですが、あたし的には「鉄腕アトム」は確かに熱心に読んだ。読んで、感情移入もした。アトムそのものに、ということと共に、まわりのキャラクター、とりわけある種敵役として登場してくるさまざまな存在にも、ほんとにうかつにココロ奪われたりしていました。「天馬族の砦の巻」の半人半馬の宇宙人ヌウ、や、「ロボット爆弾の巻」の巨大な冷蔵庫のような爆弾と一心同体のベム、「ロボイドの巻」のフランス製ロボット刑事シラノに、「ホットドッグ兵団の巻」の元イヌのサイボーグ兵士……などなど、手塚作品のお約束でもあるそれら脇キャラに、コドモながらも魅せられていました。

 それは、思いっきりおおざっぱに言ってしまえば、「内面」がそこにあったから、なのだと今となっては思います。そして、それは何もアトムに限らず、その後、マンガ評論の分野において手塚治虫の作品全般について言われていることなのですが、かつて、明治から大正期にかけての日本のブンガクがうっかりと「内面」を発見してしまったことで、膨大なブンガク青年――ブンガク経由で自分の「内面」に気づいてしまって、それ以外の気づき方になかなか思い至れなくなっていらぬ七転八倒をしてしまうような、今となっては、あイタタタタ、な若い衆、を生み出したのと同じ構造で、手塚マンガ経由で「内面」に気づいてしまったコドモ、を、またとりとめなく生産したということでもあります。そのなれの果てが、他でもないあたしたち、なのですが。



 で、鉄人28号、であります。

 そういう具合に、まず鉄腕アトムを読んで、なじんで、ココロ奪われてもいたあたしにとって、鉄人28号は同じマンガでありながら、どこか違う感覚で読まねばならないものでした。それはもう少しほどいてみれば、アトムのように主人公がはっきりと読み手であるコドモにとって、ココロの焦点を合わせやすいものでなかった、ということが、ひとつあるように思えます。

 鉄人28号の主人公、というのは、タイトル通りならばかのロボットである鉄人そのもの、であるはずです。ですが、普通、読み手である子供にとっては、感情移入するべき対象は言うまでもなくその鉄人の「主人」である金田正太郎、ということになります。作者である横山光輝以下、作品の送り手側もそのようにもくろんで設定していたのでしょうし、それはまた何も鉄人だけでなく、そういう「少年」という主体を設定して子供たちの感情移入を喚起する手口というのは、戦前の少年小説などから引き継がれたものだったりもするわけで、それ自体はどうということはありません。ありませんが、しかし、たとえばかつての明智小五郎と少年探偵団の関係に単純に引き比べてみても、鉄人と正太郎の関係、あるいは正太郎とまわりのオトナたちとの関係というのは、うっかり「内面」に気づいてしまうようなコドモにとっては無邪気に「ぼくら」を仮託できるようなものになっていなかったフシがあります。

 記憶の底をさらにかきまわしてみても、少なくとも自分のまわりのコドモたちで言えば、言わば、アトム派と鉄人派、といった分かれ方をしていたように思います。アトムが切り開いたマンガとアニメのメディアミックスとそれによるコドモのココロの世界への浸透は、当然、その次の鉄人においても相当のものがあった。だからこそ、おまえどっちが好き? といった会話は、当時のコドモであるあたしたちの日常にあたりまえにかわされていました。

 それはさらに敷衍すれば、少し後に現実のものになった、ウルトラマン派とサンダーバード派、といった分派の仕方にも通じる何ものか、をはらんでいたように、あたし自身はずっと感じています。それがあたっているかどうかはわかりません。けれども、コドモ同士の世間づきあいの中で、その派閥の違いというか嗜好の差というのは、当時ははっきり意識できなかったにせよ、何か根本的な性質の違い、言葉本来の意味でのキャラクターの相違を反映していたように思います。

 うまく言えないのですが、いわゆる怪獣もの、ひいてはロボットもの、といったジャンルのマンガやアニメにハマりやすいような資質、というのがあって、それと少しずれたところに、さっきからしつこくこだわっているような「内面」の描写、「心理」の表象に鋭敏に反応してしまう資質、というものも、またあるような気がします。それは互いに排他的なものではないのだけれども、しかし、どちらがより濃厚に、あるいはどちらがより優先的に子供なら子供のココロを制御するようになるのか、という点については、確かに分派してゆくような性質のものかも知れない。

 個人的には、あたしはいわゆるガンダム世代より少し上、ですし、何よりガンダム体験というのが欠落している。宇宙戦艦ヤマト、についても同様ですし、ルパン三世などもそう。その意味では、今のアニメ世代の基本的な原体験というやつが、どうもほとんどないようなのです。同じく、最近リバイバルでブームの「戦隊もの」についても、これまた世代的なものもあってリアルタイムでの体験はない。ですから、最近よくあるテレビのリバイバルもの企画でも、そこに出てくる「なつかしアニメ」だの何だのについて、ああ、そうそう、と自分の体験に照らし合わせてうなずけるものはあまりなかったりする。これはまあ、昭和34年早生まれ=高度経済成長チルドレン第一世代、という、めぐりあわせに規定された部分も大きいのでしょう。


 

 けれども、今のあたしたちくらいから下のオトナたちの間で、ウルトラマンにハマった、という体験の告白は珍しいものでもありません。特に、男の子の場合はある世代以降、ある種のデフォルトになっているところさえある。それはウルトラマンのようなヒーロー自体に感情移入した、ということと同時に、言うまでもなくそれらのアンチとして登場していた怪獣たちに感情移入する、ということも含まれています。それはおそらくそれ以前だったら昆虫採集などに向かうような子供に通じるもの、だったかも知れませんし、なるほどコレクターの意識というのはある部分で、「採集」して「標本」化して管理する欲望と相通じるものがあるようにも思えます。そう言えば、怪獣カードから後のビックリマンシール、今のさまざまなトレーディングカードに至るまで、そういうアイテムにハマった体験、というのも、あたしにはほとんどありません。自分でエアチェックした落語や漫才のテープや、競馬雑誌の類のコレクションというか収拾ならば、かなり熱中したことはありますが。そう言えば、ゲームにしてもいわゆるRPG系のものにはあまり興味を持てなかったりするのも、何かそのへんと関わった理由があるのかも知れません。

 鉄人そのものは言うまでもなく、それを「操縦」する金田正太郎にも、そういう「内面」は、正直、感じられませんでした。それは同じ当時の巨大ロボットキャラを使った作品でも、たとえば手塚流のマグマ大使やビッグXなどとは、かなり違う。むしろ、ジャイアントロボなどに近いように思えます。これがモビルスーツという形式になってくると、確かに「少年」が「操縦」するのは同じでも、それがキャラクターとして一心同体化してくるわけで、このあたりはその、アトム派と鉄人派、の相剋を弁証法的に止揚した(笑)すばらしいアイデア、だったのかも知れません。

 冗談はさておき、そういう「少年」キャラの主人公で、なおかつ「内面」が相対的に希薄な存在というのは、その希薄であるがゆえにこちら側の勝手な思い込みや勘違いも含めた何ものか、を押しつけやすい存在でもあります。いまやかの「ショタコン」の語源にまでなった金田正太郎というあの半ズボンキャラは、その「内面」の希薄さゆえに、ある意味自由自在にこちら側から性格を「操縦」し得るものでもあったようです。そこには、かつて一時期の「アイドル」たちに、ある種の若い衆が熱狂したのとも通底する構造が透けて見えます。「内面」の気配が希薄で無機質であるがゆえに、一方的な関係性の中で過剰に発熱してゆくこちら側の思い込み。何のことはない、これじゃストーカーとも紙一重、です。

 鉄人28号がこわかった、というのは、このように考えてくると、あたしの中ではおそらく、そういう「内面」の希薄さそのものだけでなく、その希薄さに向かって期せずして放散されてしまうような種類のこちら側、というのがこの世の中に確かに存在している。していて、そしてそれはコドモである自分の日常の中で、間違いなく自分とはどこか違う種類のニンゲン、違う手触りの「内面」を持った存在であるということを、うすうす感じ取っていたから、だという風に今はひとまず解釈しています。それはオトナでもあるし、コドモでもある。オトコでもオンナでもある。そういう具体的な差異とはひとまず別に、とにかく異なる存在である、と。

 それを「他者」などと大文字で置き換えることはしません。なぜなら、そういう置き換えがもはや何の役にも立たないばかりか、むしろ逆にその「こわさ」を温存してゆくことにもなることを、悪いことにこのあたしはもう、思い知っています。その程度にはこの世間で経験値をあげてきたのだし、そういう意味でならばなるほど、オトナである、ということなのでしょう。



 最近、改めてアニメ化された「鉄人28号」を見る機会もありました。かつてのあのこわさはもちろんもう感じられなくなっていましたが、それはあたしがそういう具合にオトナになってしまっていたからであって、もしかしたら今のコドモたちの中にも、今の新しい「鉄人28号」を見て、こわさを感じる者がいるのかも知れない。そのへんは、今のコドモたちがオトナになってゆく過程でまた、言葉にしてもらうのを期待するしかないのですが、と同時に、正太郎という存在が今のオトナのあたしから見ると、ほんとにあぶなっかしい、こいつこのまま成長したらどういうアブないやつになるんだろう、と思わざるを得ないような存在になっていることに自分ながら驚き、そしてまたひそかに苦笑もしてしまいました。

 正太郎の思春期や反抗期、というのがどのようにあり得るのか。それは、同じく成長と成熟を否定されたところで成り立っていたあのアトムならば、最後「こわれる」という形で始末がつけられていたものを、生身の生き物としてどうしようもなく変わってゆく自分と共に、引き受けねばならないものになるはずです。



 というわけで、今もなお、「鉄人28号」はあたしの中で、あたしがどのようにオトナになってきてしまったのか、を振り返って考える上で、結構避けて通れない作品、になっていたりするのです。

鉄人28号論

鉄人28号論