「リベラル」考

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 リベラル、というもの言いは、未だによく使われる。

 進歩派とか良識派、というのはさすがにもう古色蒼然、まして自由と民主主義を正面から唱えてみせるには、昨今その対極にあったはずの社会主義共産主義の類があまりにグズグズになり過ぎてしまった。思想や信条の対抗軸がぼやけて見えなくなってしまった現在、党派であれ個人であれ、その拠って立つ立場というやつを説明し、説得してゆこうとする場合のもの言いの不定型さというやつは、戦後六十年あまりの経験の中でも、思えばかなりめんどくさく、また厄介な状況を生み出してきている。

 民主党というのは、これまでの成立の経緯からいっても、菅直人鳩山由紀夫に象徴されるような「リベラル」勢力の結集、というのがもともとの性格づけとしてあった。「五五年体制」下の社会党、そして共産党に肩代わりされていたような「左翼」「リベラル」系の立場の、ポスト「五五年体制」バージョン。党派としての離合集散から紆余曲折や、思想や政策などの微細な相違などの検証とはひとまず別の水準で、政党そのもののキャラとしては、まあ、そういうもの、だったと言っていい。

 これだけならば話は単純だったのだが、九十年代後半から今世紀にかけての政治状況は、ここにさらに旧自民党内の一部や民社党系なども含めた、必ずしも「リベラル」とは言い難い勢力をも民主党にマウンティングさせることになった。当初あった民主党キャラの「リベラル」はそのまま引きずりながら、しかしそれぞれの代議士自身のキャラとしてはその「リベラル」像を揺さぶるような局面が頻発、全体としても、そしてそこに実際に属する者たちのセルフイメージとしても、この民主党=「リベラル」というイメージは、もはや相当にぼやけたものにならざるを得なくなった。

 先の前原代表が渡米時に「中国の軍拡は日本にとって脅威」といった発言をおおっぴらにして、留守を預かっていた民主党のオールドオヤジたちをあわてさせた一幕は、党内のみならず、党外の共産党社民党や、公明党の一部からさえも非難を浴びることになった。党首討論では、敵方のはずの小泉から「もっと頑張って」とエールを送られるまでにもなった。

 それら非難や批判の声の背後にあったのは、あの民主党がどうして、という素朴な当惑だったわけだが、しかし静かに考えてみれば、「五五年体制」が崩壊した後、そういう民主党=リベラル、といった冷戦構造下の枠組みでのジャーゴンもまた無効になっていたのも当たり前なわけで、民主党の内側からこのような発言が出てきたことは確かに異様でも、逆にそれがこれまで表沙汰になってこなかったことの方がより問題だった。構造はすでにあった。ことここに至るまで、それが表面化しなかったことの方こそが問われるべきだったのだ。偽メール騒動で自爆同然の最期を遂げた前原民主党のスカだったけれども、ひとつだけ意義があったとすれば、そういう民主党=リベラル、というイメージは、実はもうとうの昔に空中楼閣と化していることをまざまざと見せつけた、そのことだったのだと思う。

 プロ市民、と呼ばれるようないまどきの市民運動大好き層とも、民主党は親和性が最も高い。NPO、NGOといった組織も同様。だからこそ、先の偽メール騒動でもそれらの今様シンパがこぞって集っていたブログ周辺との連携がもたらされたのだし、有名ブロガー(このもの言い自体、どこか形容矛盾があるように感じるのだが)を集めた懇談会のようなものを開催したり、という迷走にもつながっている。

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 こういうプロ市民の系譜というのは、ごくおおざっぱに言ってベ平連に始まる。

 ベトナムに平和を!市民連合。六十年代半ばから後半にかけて、当時新進気鋭の論客であり評論家だった小田実(当時、「戦後派」の代表格として扱われていた)が、より年上の世代に属する鶴見俊輔など既存の左翼/リベラル系人士との連携によって成立させた組織である。

 それまで政治運動とは、正しく組織のものだった。政治に関わることとは、好むと好まざるとに関わらず既存の政治組織に身を置くことだったし、まただからこそ、選挙や議会、いや、何もそこまでゆかずとも、等身大の民主主義を作動させてゆく仕掛けにコミットすることが可能、という信心も、まだ濃厚に存在し得た。

 

 

 学級会や自治会、討論会といった「民主主義」を理解してゆくための仕掛け――多くは「学校」を介して、それ以外では「職場」を媒介に布置されていったものだが、いずれそのような仕掛けから組織と政治の関係というものと、そこから立ち上がるとされる「民主主義」というやつを、われらニッポン人は学んでいった。

 学校では自治会活動が、職場では労働組合が、それぞれそのような経緯での「民主主義」を広めてゆく場になっていた。話し合いや議論が称揚され、論理による説得交渉が重要だとされた。数は力であり、多数派を形成してゆくためにこそ、それら話し合いや説得は展開された。そのような道具立ての上に語られる「民主主義」は、当然のことながら組織とは切っても切り離せないものとして理解されるようになっていた。

 戦後、共産党があれだけ党勢を拡大することができたのも、思想的なバランスシートから説明するやり方と共に、そのような組織への幻想が政治の局面でずっと右肩上がりに伸長していたから、という部分があるように思う。だが、六十年安保が一気に顕在化させたそのような「党」組織=共産党への不信感は、別の言い方にパラフレーズすれば、政治と組織や「党」の蜜月に対する亀裂が生じ始めたことでもあった。逆から言えば、政治もまた個人に還元されることが可能になり始めていた、ということでもある。組織に属してその論理に従うことで大きな政治的な目標を達成する、という考え方よりも、個人として政治的になることも可能である、だからそのような個人のあり方を抑圧してゆく組織に対してはできる限り抵抗してゆく、という立場が少しずつ、しかし確実にその輪郭を整え始めていた。

 組織と個人、という問いが政治の局面で大きな存在になってゆく。組織はこの場合、「党」と変換されることが多かった。ベ平連の出現とその急速な伸長は、そのように政治もまた個人として表現されるべきである、という考え方が広範に支持されるようになってきたことの反映だった。思想信条としては確かにそれまでの左翼の脈絡の上にあったとしても、そこに同時に表現されていた重要な要素は、「党」や組織に縛られない、という部分、言い換えればまさに「個人」として考え行動する、というところだった。政治のブンガク化、と言ってもいいかも知れない。

 ベ平連には綱領はなく、参加することも抜けることも原則自由、やりたい時にやり、抜けたい時に抜ける、という、思えばほんとに無責任きわまりないものだったが、しかしそのような約束ごとで始めた政治運動が一時代を画するまでになったことの意味というのは、また別の大きさをはらんでいた。敢えて敷衍すれば、それと前後するように盛り上がったいわゆる全共闘運動の気分とも、それは明らかに通底していた。「党」に対抗する「個人」、という原則。そして組織の原理にできる限り縛られないようにしながら運動を展開してゆく、という希望。現われは政治運動だったのだけれども、しかしそれは正しく「個人」の回復運動であり、その限りで「戦後」の極相だった、という呉智英の指摘はなるほど、正しい。

 

 

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 それらが「プロ市民」とはっきり呼ばれるようになったのは、おおむね今世紀に入ってから。「市民」という一人称でそれら政治運動に関わる個人を呼んでいたことに対して、それら政治運動に恒常的に関わるような立場が当たり前になってきた状況を反映させて「プロ市民」と揶揄した、という経緯があった。

 民主党のキャラとしての属性には、この「個人」主義が未だに濃厚に貼りついている。というか、いまある錯綜した民主党のキャラクターをどんどん洗いざらしにしていったとして、本当に最後の最後に残るものは、おそらくその「個人」主義という部分でしかないだろう、という気さえする。組織はいやだ、できるならば関わりたくない、という気分が最後のよりどころになってしまいかねない、しかし公党であり政党である、という大いなる矛盾。問われるべきは、そんな面妖な政党もどきでありながら、しかし選挙というミもフタもない組織戦の現実においてもある程度の結果を出せてしまうようになっている〈いま・ここ〉、かも知れない。

 もちろんそれは、小選挙区+比例併用制、という選挙制度が引き金になっているものだろうが、しかしそれ以上に、われわれニッポン人の政治意識が、地縁や血縁、等身大の利害関係、といった正しく「生活」と表現されてきたような間尺から、良くも悪くもひとつかけ離れたところに結像せざるを得なくなってきている、という側面があるのだと思う。それらをとらえようとした時に「都市浮動票」といったもの言いが出てくるのであり、昨今の政治状況、情報環境においては、ある意味でまさにその部分こそが「民意」の中核部隊、良くも悪くも最も信頼できる「世論」の重心、といったところがあるように思う。