もっと競馬資源の活用を

 競馬場がなくなる、競馬がつぶれる、というのが、果たしてどういう具合に現実になってゆくのか、めぐりあわせでここ十年ばかり、つぶさに見聞してきました。つぶれる競馬場にはまずどういう兆候が現われ、それに対してどのように現場の対応が後手にまわり、初動はもちろんその後のなりゆきも含めて、もうおよそのシミュレーションはできるように思えます。お役所仕事の店じまいの手癖は、見えてしまえばそれくらいわかりやすい。

 なのに、多くの厩舎関係者はなぜか、自分のところだけは大丈夫、という根拠のない自信に未だ満ちています。どこそこの競馬場が危ないらしい、といった話だけはまことしやかに伝わり、なのに、自分の競馬場の手もと足もとの危機については見えていない、見ようともしない。いざ「存廃」が具体化してくれば、今度はどうやってカネをふんだくろうか、自分だけうまい逃げ道はないか、とにかく自分の田に水引くことしか考えない人が結構多い。勝負の世界だからそんなもの、と言えばそれまでですが、主催者側の繰り出す巧妙な手立てに対して、あまりにも現場の側が無知で鈍感なまま、というのは、どこの競馬場でも大なり小なり言えることです。

 これからは県なり主催者なりが強硬手段で「つぶす」のではなく、厩舎から馬も人も少しずついなくなって番組が組めなくなり、競馬が開催できなくなる、そんな「枯れる」形の方がこれからは普通になるだろう――それは以前ここでも予測しておきましたが、もう実際に現実のものになりつつある。馬を仕入れられない、それだけの気力も余裕もなくなったところから、廃業する厩舎が出始めています。

 とにかく、今は馬が足りません。どこの競馬場でも馬房があいています。それは今に始まったことでもないのですが、しかし現在の危機は、そもそもその馬を持とうという馬主からまずいなくなっている、そのことです。地方競馬については言わずもがな、ここまで賞金が下がってしまうとどうやっても元がとれない、のですから、いくら道楽とは言いながら撤退する馬主が多くなる、それは当然ですが、それとはまた別に、馬主に新しい世代が参入してきていないのは、相当に深刻です。

 たとえば、地元企業のオーナー社長、馬が好きで必ず毎年何頭かは地元の競馬場に入れていたような人が、そろそろ引退、息子の代に事業を譲るとなった時に、以前ならば、その二代目もまた社交のひとつとして厩舎とつきあうような人が多かったと思うのですが、今は一代限り、オヤジの代で道楽はもうやめにします、というケースが増えてきてる。それは地方だけでなく、JRAだって同じ構造的な危機のはずです。大手のオーナーブリーダーと、それらとつきあえる資力や人脈のある一部の馬主にだけ華やかな光が当たり、ささやかな道楽として競馬を楽しんできた個人馬主の居場所がなくなりつつある。景気が底を打ったと言われ、多少はまたカネ儲けする人たちが出てきても、そのカネを競馬の方に、馬を持つという方向に考えることをもうしなくなっている。なにせ出資者の出資意欲がなくなってきているのですから、馬券の売り上げの減少と共に、こっちもまた、緊急に考えるべきニッポン競馬の大問題のはずです。

 これは僕の年来の持論ですが、もう調教師が馬を持つことも正式に認めてしまうべきだと思います。公正確保の面から問題が、という理屈は百も承知ですが、ならば海外ではそれが認められている場合が多いこととどう整合性をつけるのか。同じように、厩舎関係者が馬券を買うことすら条件つきで認めた方がいいかも知れない。JRAだと問題が大きいというのなら、地方競馬に限ってそんな緩和策を考えることもあっていいのではないでしょうか。

 競走馬資源の有効活用、という視点からも、もっと包括的な提言が必要です。それは競馬場相互での資源の共有というところから始めて、JRAからの未勝利馬、下級条件馬の健全な流通の促進、というあたりまで視野に入れることが必要でしょう。実際、まだ走れる馬が、なぜか地方に流れないようにさせられている現実もあります。限られた競走馬資源をうまく活用しながら、新しい馬主の発掘と連携させてゆく。クラブ馬主、共有馬主も含めて、競走馬を持つことは実はそんなに難しいことじゃない、ということをもっと広く世間に知らせてゆかなければ、競馬そのものに先はない。そんな身近な競馬のエントリーケースとして地方競馬を位置づけ、JRAを頂点としたニッポン競馬全体のシステムにうまく組み込んでゆく、そのための法体系や制度の変革を行ってゆくだけの見識と度量が、競馬エスタブリッシュメントには今、強く求められています。