ソクーロフ『太陽』の〈リアル〉

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 ロシア、おそるべし、である。〈リアル〉を作り出すそのブンカ的腕力、未だ健在なり、だ。

 社会主義リアリズム、と、かつては言った。今も言うのか? とにかく、社会主義と〈リアル〉とは手に手をとって、映画だの芝居だのブンガクだの、いずれゲージュツの領域に君臨していた。もちろん、わがニッポンの「戦後」ってやつもまた、そういう〈リアル〉にこってりと浸されていた。このへん昨今かなりなかったことにされているけれども、ニッポンの〈いま・ここ〉でブンカやゲージュツを語ろうとするならば、まずそのへんの来歴からきっちり距離感保っておく仕掛けをしつらえておかないと、いまどき何の意味もない。


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 すでに言われていることだが、演じられる天皇、というのは、これまであまり例がない。

 物真似としての「昭和天皇」、キャラとしてのヒロヒト、というのなら、これまでもなくはなかった。もちろん、それはあくまでもおおっぴらにされることのない、隠された内輪のジョークのようなものとしてであって、玉音放送のあの「耐え難きを耐え…」という不明瞭な口吻の物真似にしても、田中角栄ネタばりにありがちなものになってはいる。

 だが、「演技」として天皇、というのはまた別の話。有名なのは「アラカン嵐寛寿郎明治天皇を演じた『明治天皇と日露大戦争』以下のシリーズだけれども、これとて当時、思いっきり物議を醸した一本。なにせこさえたのが大蔵映画で、一説には「サンカ」出身、元は活動弁士でまさに見世物のノリで怪談映画から明治天皇までを撮ってしまった希代の興行師、大蔵貢が好き勝手やらかしたニッポン映画史上でもまれに見る怪作である。そんな外道な例外でさえも、明治天皇まで。実際、「ザ・天皇」である昭和天皇ヒロヒトが一個の人物として演じられる対象として扱われたのは、ほぼ前例がないと言っていいはずだ。

 彼が「人間宣言」をするまでの葛藤、逡巡を描く、というのが今回のモティーフ。その限りでベタベタに西欧的というか、まさに一個のニンゲン、「個人」としての内面に焦点を当てるという、その分、今のニッポンの大方にも受け容れられやすいしつらえになっているのだけれども、しかし、である。やはりゲージュツはこわい。そんなわかりやすい枠組みをうっかりはみ出した部分で、おっかない。

 冷戦崩壊後の、それも監督自身、ペレストロイカ以降やっと陽の目を見たような人らしいのに、そんな環境でこさえた「日本」「日本人」が、こちとらが自前で頑張った映画よりもずっと〈リアル〉に見える、というこのどうしようもなさ。さて、これをどう解釈すればいいのか。

 近年、日本映画でも時代劇が復興とかで、〈いま・ここ〉を生きる日本人俳優が当然演じるのだが、どうにも日本人に見えない。それは戦争映画とてさらに同じで、『男たちの大和』『戦国自衛隊』『ローレライ』……といずれそのへんは悲惨なもの。まあ、高度経済成長このかた、椅子とクルマと洋式トイレの生活になっちまってるんだから当然っちゃ当然なのだが、ここで指摘したいのは、そういう時代の違い、環境の相違からくる俳優の身体の落差といった常にあり得るハードルを、良き作りものとして超えてゆけるだけの〈リアル〉へのスキルや経験の蓄積、何よりそこへと向かう志や器量といったものが、今の日本映画の現場から失われちまってるらしい、そのことだ。で、同じ〈いま・ここ〉を生きる日本人イッセー尾形を使ったこのロシアの映画はというと……う〜む、どうしようもなく日本人、に見えちまうんだよなあ、これが。 

 イッセー尾形は、相当に頑張っている。(ちなみに、桃井かおりの皇后は期待した割には、よくない)似ている似ていない、という観点からつい語られがちになるだろうけれども、しかし、それじゃそこらの物真似と選ぶところはない。お笑い芸としての物真似が、いまやメディアによって増幅され、世間の意識の銀幕に結像している「キャラ」を前提にして、どこまでその「キャラ」をうまく見ている側に立ち上がらせることができるか、というところに一点集中し始めていて、それはかつての形態模写や声帯模写といった、まさに「模写」というもの言いが与えられていたような芸の領域が出現した時にあり得たようなアウラとは、ひとつまた別のステージに移行している。ここで言いたい「似ている」とは、そこから先、まさに〈リアル〉の領域に一歩踏み込んだところでの言挙げだ。

 〈リアル〉とは作りものである。その作りもの、であることに向かうための前提の違い、みたいなものがありありと見えちまう、この『太陽』はつまり、そういうクリティカルなフィルムにも、なっている。そういう〈リアル〉の作法、社会主義リアリズム以来の重厚な蓄積を前提にして「日本人らしさ」を作りものとして現出させた、その果実があって初めて、うっかりと見えてしまったことがあるのだ。


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 ここで演じられるヒロヒトは、ありていに言って「おたく」であり、それまで決して表に出ることのなかった、出してもらえなかった「引きこもり」である――そのことだ。戦局が煮詰まり、御前会議が開かれる昭和二十年八月になってもなお、アメフラシの標本をいじることに最も解放された喜びの表情を見いだすような、そんな「個人」。

 マッカーサーとの会見の場面がやはり秀逸だろう。なんとまあ、とんでもないものがやってきたのだ、という顔をして当惑するマッカーサー。その前で、緊張しつつもひとまず型通りの西欧的ノーブルさをなぞりながら英語で(!)会話をし、でもいったんスイッチが入ってしまえば、相手が聞いてようが聞いていまいが、アメフラシについての自分の「研究」の説明を延々とうれしそうにやり続けるヒロヒト

 ちょうどこの原稿を書いている時、小泉首相が訪米していた。大統領専用機エアフォースワンに同乗させてもらい、行く先はメンフィスのグレースランド、つまりエルヴィス・プレスリー記念館、というワヤをやり、しかもそこで、そこらのありきたりの先進国、G7だかG8だかの一員である国家の元首としてはまずあり得ないようなはしゃぎっぷりを思いっきりやらかして、彼我のメディアを当惑させたあの一連の事態。ブッシュとその家族以下、メディアを介したアメリカの世間ってやつがどのようにあの小泉を見ていたか、についてはその後もなお、いろいろ取りざたされているけれども、少なくともあたしの眼には、あのサングラスをかけ、プレスリーの真似を嬉々としてやってみせる小泉を眺めるブッシュの視線は、このシーンでのマッカーサーのそれと同じものに見えた。

 日本、いや日本人、というのは、実にそういうとんでもないような子供っぽさ、幼さ、成熟とはほど遠いキャラクターというものを抱え込んでいて、それはあちらさんから見れば眼がテンになり、時にドン引きしてしまうしかないようなものではあるのだけれども、しかし、その何も考えてなさ、空虚さ、ケタはずれで天然もののイノセント(としか見えない)、といったようなプレゼンスの気配だけは、とりあえず認めてしまうしかない――おそらくはそんな感じ。

 巷間、マッカーサーが「感銘を受けた」と伝えられている、そしてそれはいわゆる保守陣営での「戦後」皇室礼賛の脈絡でもおおっぴらに使い回されているのだけれども、あの会見時のヒロヒトの「お人柄」というのは、ブッシュがあそこまで異例に肩入れしてしまったわれらが宰相、小泉純一郎のあの天然ぶり、と、きっとどこかで通底している。ハリウッドに限らず、西欧の映画にこれまで描かれてきた日本人を思い浮かべるまでもない。それらステレオタイプなつり目で出っ歯、息のもれる下手な英語の発音、といった一次的な形象の水準を一歩抜きん出て、それこそ咸臨丸で幕末、アメリカに赴いたサムライたちが明らかに異人でありつつ、でも、どこかで敬意を払われた、というエピソードまでも含めて、日本と日本人とは何か、日本における「個人」の「内面」とはどういうものか、という問いを、〈いま・ここ〉から正しく「歴史」の相に解き放つものでもあった。

 コドモの身体、社会的に開かれることのない貧相な肉体に、あちらさんのものさしからすれば一体どのように制御されて「自分」「個人」になっているのか、そのからくりからしてよくわからない自意識が乗っかっていて、立ち居振る舞いとしては決して「オトナ」には見えず、社会的存在としてとらえどころがなく、ましてや性的存在としては野生に近く、でも、だからこそうっかりと過剰、かつ過激に突出してしまうようなキャラを持っていて、何より、そのようなキャラを半ば意図的につくりだし支え合って、彼ら彼女らの共同性の「中心」に保持してゆくような仕掛けを持っている社会、そして(一応は)近代国家。そんな日本、そして日本人の〈リアル〉。

 口もとをピクピクさせるチックから、モゴモゴとした独特の口跡、GIたちに「チャップリンだ!」と口々に言わせた(このエピソードが真実かどうか知らない。だが、エピソードとしてよくできている)身振りなど、それらを今、見ながら「ああ、似ている」と思ってしまう、その前提というのは、戦後になって「人間宣言」した昭和天皇がラジオや新聞報道、ニュース映画や後にはテレビなど、あらゆるメディアの中に映し出され、そのことによって世間の側に「キャラ」が成り立つようになったから、である。

 見れば眼がつぶれる、と言われ、単なる写真に過ぎない複製物に対してさえも「ご真影」としてプロトコルが詳細に定められていた状況から、一転してうっかりと人目にさらされる仕掛けの前に身をさらしてゆくことになった戦後。マッカーサーが「日本人は十二歳」と言ったという、あの有名なエピソードも、この初対面でのヒロヒトの印象が強烈過ぎたからではないのか。彼が、あちらさんのイメージ通りの独裁者で、それこそマッチョ系タフガイのキャラだったりしたら、その後の日本占領はもっと型通りに過酷なものになっていたのではないか。

 かつて、ミシェル・フーコーが「空虚な中心」と評した、しかしその「空虚」というもの言いもまた、もっと微細なニュアンスを含めてていねいに解釈されるべきなのかも知れない。その「日本的空虚」の中心には、実にそういう「おたく」な身体があった。世間からあらかじめ疎外されているがゆえに、「無垢」「無私」イメージの権力性と貼りあわされながら。もちろん、エロスや暴力といったニンゲン存在の下部領域ともこってりとからみあいながら。

 映画の上映時間ってやつもあるので、もううっかりととんでもないことを言っちまうけれども、そんな「おたく」を持ち回ってた国民、とまで言わずとも、かつての国対護持系、本気で天皇陛下万歳やらかしてた右翼な人々の心性ってやつも、それこそ当人たちの意識はともかくまっすぐに下半身=セクシュアリティとからんでいたはずで、何よりそれは同じ幻想のありようを横転させれば、「深窓の麗人」系妄想にも通底してゆくのだし、そういう無垢でイノセントな「天皇」を命がけでお守りする、という約束ごと=イデオロギーの上に「戦前」のある部分は成り立っていたのだし。

 ソクーロフ監督が「恋●」*2という概念を知っていたのかどうか。いや、もっと直裁に「おたく」と、そこから発した〈いま・ここ〉のニッポンのサブカルチュア一般を、どのように見ているのかいないのか。そのあたりのことが今後、もう少しわかってくるようなれば、この〈リアル〉な映画の奥行きもまた、違った相貌を見せてくれることだろう。

 あたし的にはそのへん、ぜひともじかに聞いてみたい気が、猛然としてきたのでありました。
 

*1:本邦上映された『太陽』関連した解説もの系ムックの依頼原稿。いわゆるシネフィル系のガチの場になんでまたこちとらみたいなのを……と当時も思ったけれども、当然、その後は二度とそういう依頼はなかった。

*2:漢字が出ない……「れんけつ」ですね