「団塊の世代」と「全共闘」⑫――生活に浸透してきた「アメリカ」

団塊をめぐる「世界」

――これまでお話をうかがってきて、呉智英さんの「戦後」認識の基調になっているのは、左翼と言い、社会運動と言っても、それはある時期、六○年代前半までの約二十年とその後とでは相当に違っている、ということだと思います。戦前/戦後、というありがちな二分法とは必ずしも当てはまらないでしょうけど、それでも敢えて言えば、戦前が戦後の側に滲み出してくるというか、陰に陽に揺曳していた時期というのが、少なくとも高度経済成長期のとば口くらいまではあった、ということでしょう。で、それは同時に言葉本来の意味での世代の問題にも連なってゆくんだろう、と。


 「団塊の世代」を語る枠組み自体、最も陳腐な世代論に切り縮められていて、だからこそ「団塊論」と「世代論」を分別せよ、というのが呉智英さんの立場なわけですが、同時にあたしなどからすれば、社会に中に必然として埋め込まれている世代の問題というのを、もう一度きちんと〈リアル〉を語る前提にしてゆくためにも、いったんそういう認識が必要なんだと思います。世代論がいけないんじゃなくて、今あるみたいな脈絡でしか語れない世代論がいけないだけなんだ、ってことですが。

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 そこにはまさに、アメリカの問題があるんだ。私も「反米/親米」の問題をずっと考えているけど、日本の場合、ペリー来航以来、その葛藤はずっとある。日本人にとって外国とは、もちろんアジア諸国、ロシア、支那、朝鮮の問題もあるけど、その一方で常に、太平洋を隔てたアメリカの問題というのが大きかった。巨大で、軍事大国であり、しかも経済的にも優位であるというアメリカ、だよね。

 特に、大東亜戦争においてはその存在は一気に具体的になったわけで、とにかく多くの日本人がアメリカによって身内が殺されているんだよ。戦場で、空襲で親兄弟が実際に殺されている。そこにいきなり終戦になって、戦後の解放が米軍によってもたらされる、という決定的に矛盾した現実がやって来た。日本人の標準的な意識として、アメリカに対してアンビバレントな感じを抱くのは当たり前だよ。

 腹減らしていた俺たちに缶詰をくれたのは確かに米軍で、しかし、父親を殺したのも米軍だ、と。今、日本は基地も持っているし、反戦運動の中にもアメリカという対象がある。ということは、実は戦後の「反米」というスローガンは、戦前の「鬼畜米英」ともどこかでつながっているんだと私は思ってるよ、意識の中で。ただ、そのつながりが持続されるのが、だいたい六五年までなんだよ。それから以降になると、戦前の「鬼畜米英」と戦後の反米感情との間がどこか切れてしまう。

 つまり、戦前の「鬼畜米英」の意識がある連中は、戦後の「反米」が、わりと生活レベルでの反米になるんだよ。たとえば、天皇や外交といったレベルの話ではなく、単に、アメリカ人の真似なんかするもんか、という生活態度につながってゆく。

――ああ、わかるなあ。草の根の「反米」って、何も理屈じゃなくて、まずそういうレベルから、ですよね。GIの腕にぶらさがって歩くパンパンに生理的な嫌悪感を抱いたり。今だと帰国子女に対する違和感みたいなところにまだ尾を曳いているかも知れない。そう言えば、「バタ臭い」なんてもの言いも、もう使われなくなりましたよね。

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 バターを「臭い」なんて、もう普通は思わなくなったからね。

 ところが、六五年頃になると、生活スタイルはアメリカの方がいいよ、という考えに変わる。いわゆるポップカルチャーというのもあるよね。直撃を受けた最初の世代は団塊よりももう少し上の世代だろうけど、戦後の、たとえば一九五○年代くらいに米兵が持ってきたアメリカ文化、それこそ向こうのいろんな音楽とか、ジャズも含めたポピュラー音楽、それからやっぱり映画だよね。テレビでも向こうで作られたホームドラマがたくさん入ってきてただろ。ほら、お父さんというのはいつも話がわかって、優しくて、いざというときには家父長的で頼りになる。お父さんの稼ぎでクルマも買えて、家には冷蔵庫もテレビもあって、広い台所でお母さんは自由に料理をしている。家庭の中には話し合いが常にあり、時おりジョークだって飛び交い、いつも笑いが絶えない。子供たちは十六、七歳になると着飾ってダンスに行く。そして、彼女や彼氏を家に連れて帰ってきて、しかもそれを両親に紹介する、というような、およそ当時の日本人にとってはあり得ない世界を、テレビや映画、それからポピュラー音楽などを介して具体的に目の当たりにするわけだよ。これは理屈じゃない、強烈なものだった。

 

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――生活の微細で具体的なところから浸透してくるアメリカ、ですよね。その過程こそが本当につぶさに言葉にしておかなきゃならなかった「戦後」なんだと思います。



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 「洋画」の衝撃、ってのも、思想とかそういう水準ではあまり正面から語られてないみたいですが、相当に大きかった。ちょうどうちの親、昭和ひとケタ世代あたりが、まさにそのアメリカニズム直撃第一世代、だと思いますけど、邦画とは別に敢えて洋画を観に行く、というのが戦後の一時期、インテリではないけれども、少なくともある良識的な市民層のたしなみとして相当広くあったはずですよ。もちろん音楽にしてもそうで、とにかくそれまであった音楽とは違うものは全部「ジャズ」とひとくくりに呼んでたわけですよね、ある時期まで。渡辺プロダクションにしてもジャニーズ事務所にしても、戦後のいわゆる芸能界、すぐ後にテレビを介したメディアと情報環境の一大変革が始まってゆく時に大きく翼を広げてゆく新たな領域は、米軍のキャンプとそのまわりから活力を得ていたわけですし。

 

 そういう戦後に押し寄せたアメリカ式の生活は、とにかく日常から浸透してくるから否定しようがないんだよ。だから、戦後のこの時期の「反米」というのは、あくまで米軍基地への反対とか、ベトナムへの侵攻に対する批判であって、決して生活レベルに根ざしたものではないんだ。だから、戦前の「鬼畜米英」からのつながりがここではっきり切れてしまった。思想と身体の乖離というなら、ここから問わないといけないかも知れないよ。

 一般的に、戦後生まれの場合には「親米」という言葉さえわざわざ持ち出さなくてもいいくらい、当たり前にアメリカ中心の生活に入っているわけだ。その中で理念としての社会主義、つまり平等の実現とか、国際連帯とかが徳目として出てくる。そして一方で、旧左翼の場合には、やはりソ連という価値の中心が厳然としてあったわけだ。当時言われた中ソ論争というものも、基本的にはソ連が中心として存在していたからこそ起こりえた論争なわけで、こういうあたりも今の若い人にとってはピンとこないことだろうとは思うね。


――ああ、なるほど、ソ連、というのが価値の発信源だった、と。それは確かに今の時点からは盲点になってるかも。文化や芸術にしても同じですね。でも思えば、大正期からマルクス主義ってのもモダニズムのバリエーションだったわけですし。そういう意味では、戦後のシベリア抑留の問題なんかは当時、学生層にはどういう風にとらえられていたんですか?

 それが不思議なことに、学生の頃はシベリア抑留についてはほとんど聞いたことがなかったな。それはやっぱり外国で起きたことだからだと思う。日本で抑留が起きていれば別だったろうけど、でも、現実には帰還船で帰国した人がほそぼそと語るだけだったからね。

 ただ、人数で言えば、外務省の持っているデータ、これはもう何度も批判を受けているけど、単純計算で見ても六十万人が抑留されて、うち六万人くらい死んでいる。最近では実は百万人抑留されて三~四十万人死んでいるという説もあるけれど、まあ、いずれにしても膨大な数であることは間違いない。しかし結局、帰国は断片的だったし、彼らの多くが団体をつくって補償交渉をする時、靖国遺族会など保守系の組織とリンクしやすかったという傾向があったから、どうしても「ソ連でこんなひどい目に遭った」という話になる。だから、私たち当時の学生の中ではそのへんの問題はあまりよく見えなかった、ってところはあるね。