「癒し」と「共生」のファシズム

 とある地方紙の記者とメシ食いながら話していたら、こんなことを言うてました。

朝日新聞が偏向しまくっててひどいなんてのはもう当たり前だし、ブロック紙でも北海道新聞や東京、中日なんてのは朝日以上にメチャクチャってのも地元以外にも知られ始めてるけど、一番ひどいのはやっぱり共同通信だよねえ」

 はあ、アカピ以上にアカい、プロ市民系報道機関の総本山みたいな共同通信、とあたしなんぞはもうずいぶん前から言いまくってきてますから別にいまさら、ですが、そうですか、現役の新聞記者の眼から見てても、やっぱり共同通信はひどいですか。

「ひどいよ。っていうか、そのひどい共同が配信する記事をそのまんま載せるそこらの地方紙がもっとひどいんだけどさ。だって、これは数字が出てるんだけど、そういう地方紙の紙面の七割くらいは共同なんかからの配信記事で占められてて、ということは自前で記事書けないってことだろ。それで新聞でござい、って顔してるんだからどうしようもないよな」

 まあ、新聞が一番典型的ですが、テレビその他も含めて、とにかくそういう今のメディアの現場の「サヨ」論調、プロ市民風味の偏向ぶりってのは、何も確固とした思想信条があってのことじゃない、要するに「そういう風に言っておいたら無難」あるいは「そういう風に言うのがあたりまえ」という程度の判断停止、思考硬直状態のまま日々の仕事をダラダラとこなしているだけのこと、それをあたかも悪の総元締め、ホンカツや筑紫哲也をさらに自乗三乗してしんにゅうかけたような「アカ」「サヨ」のラスボスがいるんだ、と思ってしまうこともまた違う意味でのバカ丸出しですがな、ということを、あたしゃことあるごとに言ってきた。ラスボスなんかもういない、いるのはただの学校民主主義の優等生、おのれの給料さえ確保できたらそれ以上はな~んも考えない横着なバカばかり、ということで。

 で、そんなこんなの駄話をする中で、最近の地方紙は記事どころじゃない、社説にあたるようなところまで共同通信が配信してるよね、という話になった。こっちで読んだ社説が、あらフシギ、少し日にちをおいて全く別の地域の新聞にそのまま載ってる、といった事態が、いつの頃からか平然とあたりまえになっちまってる、と。社説くらい自前で書かんかい、というのは当然として、新鮮だったのはあなた、少し前まではそこまでお任せでもなかった、ってことです。

 「十年くらい前までかなあ、当時は共同から配信されるのは記事の素材になる部分、つまりファクトというか事実だけで、それを素材にどう料理して書くか、というのはさすがにその配信先の新聞の自主性に任されてたんだよ。もちろん、素材は同じだからそれをつなぎあわせたところで似たようなものにはなるんだけど、でも、書き方というか力点の置き方みたいなもので違いは出せたし、見出しでもまたいじれたんだよね」

  つまり、半完成品というか料理の食材だけがケータリングされていた、と。ところが、ある時期からそれが全部記事にまでした完成品、完璧にできあがった料理がが配信されるようになったそうであります。

 でも、それって、共同通信なり時事なり通信社の側がそういう具合にしていったというより、顧客の地方紙の側から要請されたんじゃないの?

 「そうだよ」と、彼、あっさり認めちゃった。

  「もういちいち面倒だから食材だけじゃなくて、全部そっちで調理して記事にしたのを持ってきてよ、と言い始めたわけ。つまり、タイヘイのファミリーセットみたいな食材ケータリングから、全部こさえた出前になったんだよね」

  そういうのって、今話題の例の「あるある」捏造の顛末でも同じことで、テレビ局は時間とカネの管理するだけで、実際の番組制作は外に丸投げ、というアレと同じでしょ。そうそう、そゆこと。週刊誌とかも今そうなってるけど、とにかくメディアの現場は自前でもの書いたりつくったり、そういう手間ひまかけることができなくなってちまってるってことなんだよ、と。

 この彼、あたしとはもう長年のつきあいですから、年格好からしても組織の中でももう管理職、だもんで実際の若い部下の書いたもの直接どうこうする立場でもなくなってるんですが、それでも、いまどきの二十代三十代の新聞記者、とりわけオンナの記者の書いてきたものを眼のあたりにして、アタマ抱えることが毎日だとか。

 「だってさ、何かっていうと「癒し」と「共生」、こればっか。オレの眼の前にくるのはもうあらかた版に組まれてからだから中身のいじりようがないんで、見出しで何とかしようとするんだけど、どだいデスクの段階でもう、その記者と同じアタマの中身になっちまってるから歯止めのかけようがないんだわ。で、ヘタに記者当人に意見すると泣き出したりして、逆にこっちが労組経由で事情聴取されたりするんだからたまったもんじゃないっての」

  アタマの中身に学校民主主義のタームしかなくて、そのタームでこさえた枠組みしか現実を見るツールがないんだったら、そりゃあ何見ても「癒し」だの「共生」だのになっちまうわなあ、と、彼の顔を見てしみじみ同情しちまいました。そりゃああたしゃもう立派に蛆虫ですけど、蛆虫の〈リアル〉ってのも世の中間違いなくある、そのことを思い知ってるってことだけは、ひとつの立場にしているつもり。カラダ張ってみないことには見えてこない風景、気づかないままの〈リアル〉っては、こんな世の中でもやっぱり、あるんですよ、ほんと。

●編集後記

 これだけネット含めた情報環境が変わってくると、当たり前ですけど新聞って業界はますます苦しくなってて、近い将来、新聞再編ってのも一気に具体化するだろう、という話も出ました。その際、軸になるのが読売、だとか。その前にまず各紙が夕刊を廃止してゆく段階がくるんじゃないの、だそうです。産経がすでに夕刊廃止してますが、そうか、それに続いて夕刊がなくなる、それが新聞再編の一里塚、ってことですか。メモメモ。

 でも、読売軸に新聞再編なんてことになったら、紙面がますます「癒し」と「共生」ファシズム全盛になっちまうんじゃないですかねえ。たとえば、(もう有名ですが)こんな感じ。

大手小町

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