「ジイさま」のセクシュアリティ

 「産む機械」発言、なんかグダグダに尾を曳いてるようであります。

 あたしも産経新聞にちみっとこの件、書いたんですが、どうやら似たようなこと思ってる御仁は他にもいらっしゃったようで、あの橋下徹弁護士(http://www.hashimoto-toru.com/ ツラが卑しいのもウリですか、そうですか)やらと並べてJ-CASTでも引用されてたり。http://www.j-cast.com/2007/02/05005333.html  そりゃまあ、活字になっちまったもんですから引用は別にいいんですけど、でもなあ、真鍋かおり(あたしゃこいつかな~りキラい http://manabekawori.cocolog-nifty.com/)や大高未貴(よく知らんけど、これ http://www.pet.gr.jp/~miki/intro.html 見ただけで、新手のオヤジ媚び系バカオンナ、そこらの女子アナやそのワナビーとアタマの中身は同じ、ってことだけはよ~くわかる)あたりと同列に並べられるのは、個人的にはなんだかなあ、と(^^;) あ、ちなみにその産経の記事の元原稿はこんなの。お好きな向きは、掲載されたバージョンのこれ http://www.sankei.co.jp/seiji/seikyoku/070204/skk070204001.html と比べて、ふたつめのパラグラフの半ば以降が微妙に手入れられてるあたりをご賞味いただければ、と。

 「女性は「産む機械」」発言で、柳沢厚生大臣が四面楚歌、立ち往生であります。

 

 政治家の発言としてちと不用意だった、それは確かですが、しかし、相も変わらず前後の脈絡すっとばして片言隻句を揚げ足取りして騒ぎ立てるメディアの手癖も恥知らず丸出し。ましてや、その尻馬に乗って女性議員たちが一斉に文句つけるありさまには、いやもう、心底萎えました。なにせあなた、高市早苗から辻本清美まで、ミソもクソも申し合わせたように「許せない」ですと。わが国の女性選良というのは、右も左も未だこの程度、なのでありますか、そうですか。

 

 少し前、少子化対策と称して、政府主導で集団見合いを、と真顔で提言されてた女性大臣もいらっしゃいました。とにかくつがいをこさえりゃ何とかなる、頭数さえ増やしてくれりゃいい、というその発想は、今回の「産む機械」発言と似たようなもの。同様に、ニートや引きこもりを何とか働かせようという画策や、ホワイトカラーに残業させようという例のホワイトカラーなんちゃらも、人ひとりを労働力、生産機械として考える上じゃ同列でしょう。で、政策的な観点というのがそういう間尺になっちまうのもある意味、しょうがないわけで、戦前の「一銭五厘」から高度成長期の「金の卵」まで、もの言いとしては連綿とあります。なのに、他でもない代議士サマがそのへんの事情も抜きにして、大文字の「オンナ」をひとり勝手に背負って立つような居丈高な身ぶりや言動でここぞと騒ぐそのさまが、まず何より疎ましい。

 

 少子化の現在には、オトコの側の深刻な女性不信、「おんなぎらい」が横たわっていることも、さて、まなじり決して正義の味方ぶりっこの女性議員たちは、どれだけ気づいていらっしゃるんでしょうか。

 改めて整理しときますが、この発言が政治家として不用意だった、これはあたしも異論はない。

 なにせ現職の大臣閣僚ですから、たとえ松江あたりのイナカでの小さな講演会(だったそうで。逆に言えばそんなイナカでの発言もほじくりかえしてくるマスコミの手癖もすごいっちゃすごい。一説には、共同通信のオンナ記者らしいですが)での発言でも、メディアは鵜の目鷹の目、しかも例のWEを推進しようとしている勧進元とも目されていて、そこへもってきて少子化対策担当、ターゲットにされてて不思議はない。もうちっと脇をしめてていただきたいなあ、というのはまずその通りであります。

 あと、発言の中身についても、読みようによっちゃ、少子化対策はもうお手上げ、と言ってるに等しいわけで、それもまた、担当大臣としてはいかがなものか、という気はします。たとえイナカの講演会だとしても、です。

 で、こんなの典型的な「オヤジ」発言じゃないのよ、という意見ももちろんある。実際口にするかどうかは別にして、世のオヤジ連のハラの中はおおむねこんなもの。目くじら立ててもしょうがない、というある種のあきらめ、シニシズム風味ですな。これはフェミ系御仁からキンタマ主義常民まで結構幅広く存在する気分。あたし的には、この気分ってやつはとりあえず再前提として間違っちゃいないと思っています。

 あの立花隆でさえも(←ここ重要)、こんなことぬかしてくれてます。まあ、正しいんですが。

http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070131_umukikai/index2.html

 でも、おまえが言うな、ですなあ。

 この問題が本当に深刻なのは、女性票の動向に対してきいてくることより、新規自民党支持層の中核をなしている20代、30代の元無党派層の若者たちに影響するところが大きいと思われることである。

 

 私はここ数年、東大駒場でゼミをやってきた関係上、若い世代のものの考え方をよく知っているつもりだが、我々の世代(中高年齢層)と若い人たちの間のものの考え方でいちばんちがうのは、女性に対するものの見方である。

 

  我々の世代の人間(中高年齢層)は、多かれ少なかれ、女性差別主義者的な部分がある。あらゆる側面での男女無差別論を強くとなえる人は、フェミニスト視して、そちらのほうが特殊の見解の持主だと思ってしまう。

 

  しかし、今の若い世代においては、かつてのフェミニストの見解が、むしろ一般的な標準的な見解である。かつての標準的な見解はいまやアナクロの女性蔑視論者の見解とされてしまうのである。

 

  つまり、柳沢厚労相の見解は、中高年層の男性の見解の本音の部分とそれほどずれていないが、若い層の人々一般(男も女も)の見解からは全くズレているということである。

  

 そういう人間を大臣に任命し、ああいう発言を公然としてもそれを許してしまう安倍首相もまた、いくら事後的に口頭で批判しても、腹の中はアナクロな差別論者に近い人と思われてしまうのである。

 柳沢伯夫、ってのは、昭和十年生まれだそうですから、なんと、当年とって71歳。いくら世界に冠たる高齢化社会でなんとなく長生きしやがるジジババが増えたと言っても、いやもう、とりあえずはジイさまであります。

 このへんは田原総一朗長嶋茂雄(昭和十一年生)、筑紫哲也西尾幹二(昭和十年)あたりと同世代。寺山修司もそうですし、逆に、微妙に上の方はってえと、野坂昭如(昭和五年)、永六輔(昭和八年)、石原慎太郎青島幸男(昭和七年)、大橋巨泉(昭和九年)、あ、ちなみに立花隆はってえと、昭和一五年生まれで67歳。微妙に下っちゃ下、ではありますが、まあ、本質的にそんなに違わない。要はまあ、ぶっちゃけそういう「オヤジ」というより、「ジイさま」たちなのであります。

 そういう「オヤジ」「ジイさま」たちのセクシュアリティ、わかりやすく言えば脳みそと下半身とのつながり具合ってやつが、期せずして表沙汰になっちまった事例、というのは、まあ、原則そういうこったろうと思います。思いますが、ならばそういう「ジイさま」世代のセクシュアリティを、辻本清美(昭和35年生)や福島瑞穂(昭和30年生)、高市早苗昭和36年生)といった、高度経済成長チルドレン第一世代のオンナたちが寄ってたかって叩きまくっている、という構図ってやつは、それはそれでまあ、別の社会/民俗史的な意味があるんでないか、と思っています。

 たとえば、あの「頑張っていただくしかない」というもの言いについても、ほとんどスルーされてますが、あの「頑張る」の中身は、単に子供を産むことを頑張る、ということと同時に、子作りに励んでいただく=つまりどんどんサカっていただく、という意味も同時に含まれているかも知れない。そう、そういう語彙、言葉の背景や文脈も含めて身体化されてきているオトコ=ジイさまがひとり、眼前にいるということについての想像力を、良くも悪くも今のこのニッポンは衰退させてしまっているのではないか、というギモンがあたしにはあります。

 これが同じ屋根の下、いや、同居でなくてもおのれの父親、または義父だったりしたら、彼女たちはどういう対応をしているのか。ここまでむくつけに糾弾に奔走するだろうか。ハラの中は「またバカ言ってるわ」と思いつつ、それなりのとりつくろいでやりすごすのが通例でしょう。けれどもそれがいったん、家の中、社会的文脈に引っ張り出されたとたんに、いまや彼女たちときたら家の中での立ち居振る舞いと全く違う「ワタシ」を全開放、ここまで攻撃的かつ何の斟酌も加えずにその「オヤジ」ぶりをさらしものにする、と。

 立花隆が言う世代差、というのは、オンナだけでなくオトコの側にも共有されているものです。だもんで、当然オトコの側もその「オヤジ」ぶりへの違和感というのはあるわけで、しかしだからと言って、彼女らのように社会的領域の自意識全開で肥大しきれるほどに脳天気でもなくなっている、と。同時に、多くのオンナたちにしても、違和感については共有しながら、でもそこまで社会的なワタシ全開になっちまうってのはまた別のモンダイがあるわよねえ、的なジト眼は浴びせるわけで、かくて「正義」を勝手に背負った辻本や福島以下の今回の柳沢糾弾戦線の気分、ってやつは、あからさまに「浮いて」しまっていた、というわけじゃないかと思います。

 ああいう内面、ああいうセクシュアリティを持ってしまったオヤジというのは、厳然と今のニッポンの〈いま・ここ〉に生きている。でも、そのオヤジも少し前までのようにオヤジそのまま生一本のままでいられるほどシアワセな状況でもなくなっている。柳沢がどんどんやつれてゆき、涙ながらに反省を述べるまでに至ったあの姿というのは、そのニッポンのオヤジぶりの現在ってやつが、それほどまでに何ものかに抑圧を感じざるを得なくなっていることの何よりもわかりやすい絵解きになっていました。このへん、また改めてどこかで論じ直さないといけないモンダイではありますが。

●編集後記

 「言いたかないけど、あれって子供産んでないオンナのヒステリーだよなあ」――ある三十代の編集者がこんなこと言ってました。そうかも知れないけど、でもあたしゃこういう言い方も微妙に違和感あり、です。何より、そう言われたら当の糾弾に奔走する彼女たちは、そりゃもうさらに火に油、糾弾沙汰が加速するばかりでしょうし。

 

 先の産経新聞の原稿のケツの部分、今の少子化の現在の背後に深刻な「おんなぎらい」がある、という一節(これ、あたしとしてはかなり腹くくって挿入した部分だったりするんですが)に対して、それってオーツキがブサイクで非モテデブだからでしょ、っていう理解を自動的に発動してくれる、そういうオートマティックに対する違和感とも、それはおそらく共通しています。もちろん、そう決めつけられたからってあたしゃ別に、ファビョったりはしませんが。ああ、そういう風にしか解釈できない世間ってのもあるんだよなあ、とただしみじみと眺めてしまう、とりあえずはそんなもの、なんでありますが。