〈いま・ここ〉の「むかし」

 先日、ある学生から「センセイのゼミ出るようになってから、歌詞の意味を気にして音楽を聴くようになっちゃいました」、と言われました。一瞬、何を言われているのかわからなかったのですが、理解するとさすがに眼からウロコが数十枚、音を立てて落っこちました。

 昨今その実態がようやく世間の眼にさらされるようになってきた「ゆとり」世代のステレオタイプからは遠い、むしろ少し前までよくいたような地味で真面目な文科系の、ある意味典型。まして人並み以上に音楽好きで、自ら楽器さえいじるくらいの学生だったので、驚きはさらに際立ったような次第。

 今や、日本語の歌詞でさえも意味を解読してゆくような聴き方をせず、音楽の一部として、まるで洋楽の歌詞のように耳の表層を流れてゆくだけ、といった若い衆があたりまえにいるらしい。もっとも、こういう類の「発見」ならばいまどきの大学のこと、日々出くわすわけですが、それにしてもこの一件だけは、そうか、そうなのかあ、としばらくの間、遠い眼をしていろいろ考えてしまうようなものでした。

 そう言えば、映画のビデオやDVDも「字幕」つきに対応できず、いつも「吹き替え」専門、って若い衆ももう珍しくない。何か資料を読ませても、そらで眼は通せても、読みながらメモをとったり付箋をつけたりしながら「読む」、という作法は思慮の外。そのように「文字」を「読む」という営み自体、ますます日常から縁の薄いものになりつつあるらしいこの高度情報化社会の〈いま・ここ〉まっただ中には、「無文字社会」というか、近代以前にまでうっかり連なるような「むかし」もまた、そこここにぽっかり口をあけていたりするもののようです。