阿川佐和子、という謎

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 阿川佐和子が謎である。つくづく謎である。謎であることを敢えてまな板にのせられることすらないほどに、その存在とキャラはいまどきのニッポンメディア界隈の正面切って指摘されない、しかしかなりに大いなる謎、なのである。「育ちの良さ」というのをここまで明確に武器にしていながら、しかもそのことを(とりわけ同性から)糾弾されないで世渡りしてきたオンナというのも、実は相当に珍しいのではないか。

 経歴その他をよくよく見るといわゆる女子アナあがり、それも悪しき戦後民主主義の巣窟TBSであの悪名高い「筑紫哲也NEWS23」のキャスターを、たとえ一時期にせよ勤めていたという、いまどきちょっとやそっとではぬぐい難い過去を背負っているにも関わらず、「TVタックル」でたけしと並んでオヤジ共を仕切る姿には、いまや誰もがそんな忌まわしい背景をまるごとスルー。表立っては口にしないけれども、うっかりしてるとおのれの欲望を棚上げにして「息子のヨメにしたい」などと言い出しかねないオヤジがゴロゴロそこらに転がっていることは確実で、いまや単なる電波芸者、タレントとして飛び跳ねても、キャスターでございとおさまりかえっても、どっちにしてももう行き詰まりでメディア公認の汚れキャラになりつつある元女子アナ系のそれにしては、おそらくいま、最もトクな立ち位置を獲得しているのは間違いない。

 「息子のヨメにしたい」? そんなあなた、正味のハナシがおん年当年とって五十歳。どこから見てもただの中年オバサンに過ぎないのに、「独身」「行かず後家」「見合い三十数回、万年女学生気分の恋愛下手」というベタなキャラを臆面もなく前面に押し出し、いつまでも「ヨメにしたい」幻想の対象であり続けるこの壮大なマジック。たとえ、百戦錬磨の芸能プロダクションが仕掛けたとしても、いまどきのメディア稼業に必ずまつわってくるあらゆる方向からの悪意、ツッコミ、批評、やっかみの類をここまでスルーしてしまえるキャラというのは、そうそう現実にあるものではない。

 そう、阿川佐和子という謎の大方は、いまどきこの高度情報化社会の成熟に必然としてまつわってくるはずの、全方向からの無差別ツッコミ攻撃に対する信じられないほどなスルーの謎、まずはそこに尽きるのだ。

 「才女」と呼ばれる。「美人」と、まあ、言われもする。姿かたちはとりあえず人並み以上。ものも書けば、自分も語る。父は作家で、出た学校は慶応。世間的には間違いなく「お嬢さま」の範疇に入る上玉。テレビ局なんてところに就職したけれども、それはそれ、昔ながらの花嫁修行みたいなものだったとしても、誰も責められるものではない。仕事をちゃんとこなしてゆくことで自立するオンナ、みたいなありがちな気張り方は、今回たまたまこんな機会が与えられたのを幸い、これまで阿川が書いてきたものをできる限り集めて丹念に読み通してみても、改めてびっくりするくらいに薄いのだ。女子アナ、キャスター、司会者、エッセイスト、タレント……そういうマルチなメディア稼業をあっさりこなしてきながら、たとえば林真理子のようなブスで田舎者の粒々辛苦、いまに見ていろあたしだって、的なやりきれないまでのスポ根的泥臭さは欠落している。そういうバネとなるべきマイナス要素が初手からきれいさっぱり、ない。ということは、その結果として向かうべき「立身出世」「成功」「栄達」といったステージもまた阿川には存在しない、ということでもある。世間的には恵まれた環境も、結構なお育ちも全て「そんなもの」。そのことに疑いをもったり自己否定したり、といったベクトルは、阿川の中にはない。だから、そのようなベクトルとの関係で彫琢されてくる「自分」も、当たり前だが、ない。あるのはただ「そんなもの」のフトコロに当たり前に抱かれた自分だけだ。

 「物心ついた頃から私は、綺麗な着物姿の若い女性を見るたびに、すかさず指をさして「お嫁!」と叫ぶので、母はたいそう恥ずかしい思いをしたそうです。ままごと遊びなど嫌いで、ほとんどした覚えがないのに、「お嫁」というものには、妙に心を引かれたのです。いつか自分もあんな綺麗な着物を着て、お嫁さんになりたい。そんな思いが強かったのかもしれません。」
――「阿川佐和子お見合い放浪記

 いやもう、なんというか、もしもあたしがオンナなら、いまどきとてもじゃないがこっぱずかしくて悶絶するようなことを、初手からかまして平然としていられるこの感覚。「育ちの良さ」とはそんなもの、と片づけてしまうにはあまりにもあまりなこのカマシ。目まいがする。

 「そんな「お嫁さん」になるための条件は、私には比較的揃っていると思っていました。」、子どもが大好き、台所仕事も大好き、友だちの母親の受けのいいことにも自信があって、何より自分自身、「皆様がおっしゃってくださるように」(ここ、かなり重要……大月註)きっといい奥さんになる素質があると自負してきた、と胸を張る。「外交官、商社マン、お医者様。どんな職業の妻も、おそらくこなすことができるだろうと信じていたのです。」

 こんなオンナは絶対にブンガクには向かわない。オトコにおぼれてドロドロになるなんてとんでもない。オトコを振り回すことはあっても自分は決して振り回されない。与えられた「そんなもの」の枠の内側でのみ「自分」を考え、言葉にし、整理してゆく。揺らがないと言えばこれほど揺らがない主体もない。のほほんと恋愛を語り、度重なる尋常ならざる見合い体験をふりかえり、自分のことをひとまずすらすらと自己分析して見せて、あたりさわりのない程度にキャラとして整形しながら提示もしてゆく――そんな「知性」(だろう、やっぱし)が徹底的になかったことにしているのが……ああ、もう言っててあたりまえ過ぎてナンなのだが、下半身まわりについて。しちめんどくさいもの言いすれば、性的存在としてのおのれだ。

 何もあからさまに性遍歴を語れ、というのではない。そんなもの、いまどき珍しくもない。そこまで「知性」をテコに自己分析しているのならば、当然何らかの形で織り込まれて昇華されているべきセクシュアリティ、そこが阿川の書きものには、なんともまあ、あきれるほどにない、のだ。避けている、とかそういう次元ではおそらくない。避けているのならば、避けるべき対象を無意識にせよ認識しているわけで、書かれたものにも身振りにも、それはおのずとにじみ出る。たとえば、かつて俗に「ぶりっこ」と呼ばれたようないやらしさを、いまどきの成熟した観客ならば的確に見抜いてしまうはずだ。

 だが、阿川はそんな「ぶりっこ」どころではない。「ぶりっこ」で隠さねばならない領域などもしかしたら始めからプログラムされていない、そんな不気味な感じさえあるのだ。

 オヤジのベタベタの猥談にも、不躾なセクハラ攻撃にも、阿川がありがちにたじろぐようなことはないはずだ。顔を赤らめることすら、もしかしたらしなくていいかも知れない。「そういうもの」として淡々として眺めている――ある種のオスにとってそれは侮辱であり、屈辱と感じられるかも知れないような視線で。「TVタックル」でたけし以下のオヤジ連を仕切る時の阿川のあの表情、あの無機質なとりとめなさを思い起こしてもらえばいい。

 阿川と近年、凸凹コンビのようなくくり方をされている同系キャラの壇ふみに以前、少しだけ恋愛ゴシップが流れたことがあった。一説には結婚寸前まで行ったというその当時の彼氏と破局に至ったその理由というのが、その彼氏が彼女とのセックスについて友人(おそらく男性、つまり同性の)に語っていたのが許せなかったからだ、といった内容だったと記憶する。もとより芸能ゴシップネタのこと、ことの真偽は問題ではない。ここで言いたいのは、壇ふみならばいかにもそういういささか窮屈な理由でオトコを平然と放り出すだろう、と思った、その何とも言えないリアリティの方だ。

 白状すれば、あたしゃかつて壇ふみのファンだった。はい、本当にすみません、十代の高校生、正真正銘のガキの頃ハナシだから勘弁していただきたい。当時のNHKの人気番組「連想ゲーム」で壇ふみが「う〜ん…」と少しだけ眉間にシワ寄せて考え込む、その表情にまさに「萌え〜」だったのだ。当時はもちろんどうしてグッときたのかわからなかったが、いまならわかる。セクシュアリティに無自覚なままの半人前のニンゲンが懸命に何かを考えようとする、その根源的な無理無体が醸し出す青臭くもなまめかしい何ものか、に、同じく半人前のニンゲンでしかなったガキの下半身がうっかりと感応していた、てなもんだ。ああ、ほんとに恥ずかしい。申し訳ない。

 「オヤジ」という輪郭しか持てなかったニッポンのオトコに対応するオンナのありようは、家の中では「良妻」であり「お嬢サマ」、家の外では「娼婦」であり「奔放なフラッパー」だった。こういうセクシュアリティの分裂が旧タイプなニッポンのオトコ=「オヤジ」にまつわる宿命だったとしたら、それに対応するオンナもまた、引き裂かれた下半身を抱え込むしかなかった。

 おのれのセクシュアリティに無自覚なまんま「そんなもの」の内側にきれいにフリーズドライされたオンナ、こそが、「息子のヨメにしたい」幻想の対象たるべき条件だった。キツネ型かタヌキ型か、というオンナを語るかの陳腐な図式に敢えて乗れば、これはまさにタヌキ型。家の中にいて剣呑でない、つまりオトコの側からすれぱ、うっかりと性的であることをわからされてしまうことなど決してないオンナの形象として、このおのれのセクシュアリティに無自覚であること、というのは、ニッポンの「オヤジ」にとっては絶対的な条件だった。

 思えば、阿川も壇も、言うまでもなくかつてブンガクに感応した「オヤジ」――阿川弘之壇一雄の娘、である。ブンガクとして別系統ではないか、というツッコミはこの際却下する。ブンガクもまたそういう「オヤジ」のありようと無関係では存在してこなかった、そんなニッポンのブンガクのまるごとの「歴史」をとらえなおそうとする時に、この暗合はほとんど運命のように思える。

 阿川には、父弘之との間にかわされた『蛙の子は蛙の子』という往復書簡がある。これは今回初めて読んでみて、あたしゃ倒れそうになった。阿川が「父上殿」と微妙な媚び方を示すのに対し、オヤジが娘に応える呼び方が、「佐和子どの」なのである。はっきり欲情してるじゃん、オヤジどの。旧仮名遣いで語りかけようとも、ものわかりのよい父親を演じようとしても、隠されたセクシュアリティの不用意な露出ぶりは隠しようもない。悪いけどエロだよ、これは。そしてそういうエロを前にしても、この永遠の娘、生きながら「お嬢さま」に封じられた阿川佐和子は微動だにしない。それは、どんな父殺しの物語よりも残酷で、荒涼としたものだ。

 阿川佐和子がカラオケで果たしてどんな歌を歌うのか、ものすごく知りたい。中島みゆきなんぞは間違っても選ばないだろう。さらりと石川さゆり、とかそのへんで攻めるか。それともあっぱれ軍歌とか?。う〜ん、それもなんだかなあ。何にせよ、ここまでスルーされ通したおのれの下半身、性的存在としての自分について、カラオケという避け難い生身の場でどういう表出を選んでゆくのか、というあたりで、さて、誰か情報持っている向きはぜひぜひタレコミ希望、である。