さらに「ハケン」について


 先日書いた「ハケン」にまつわって、もう少し。

 今の「ハケン」がかつての口入れ屋に集まる人たちと違うとしたら、働く側が「個人」の「自由」を価値にしていることでしょう。確かにそれは「自由」ではあります。かつての日雇い土工や渡り職人と同じような意味では。でも、本人たちはそうは思っていない。「自由」は大事だけど暮らしの安定も欲しい。だから、そのような「自由」を敢えてわが身に引き受けて生きてゆくことについての「誇り」や「矜持」、「プライド」も見えにくいまま。

 たとえば、かつて長谷川伸が記してみせた渡り職人や渡世人たちといった、「近代」黎明期の「自由」な「個人」の生。もちろんそれは安定や終身雇用とは全く無縁の、いつどこで生まれ死んでゆくかもわからない「名無しさん」の苛酷な人生です。しかしだからこそ、嘘でも「誇り」や「矜持」がないことにはとても支えきれなかった。「自由」な生に同伴するべき「誇り」には、おそらくそんな「自分」を折れぬよう整えておく効用も含まれていました。

 思えば、地縁や血縁によるつながりがどんどんほどかれてゆく中、職場がかろうじて「共同体」であり得た時代が高度経済成長期でした。今やそこからも放り出され始めた「個人」は、当人の意志とは別にむき出しの「自由」にさらされながら生きてゆかざるを得なくなった。かつては世間の一部の、そんな生を敢えて選んでしまうような変人のものだった「自由」が広く遍くうっかりと提供されてしまう現在。その苛酷さに耐えてゆけるだけの何ものか、それは哲学でも信心でも、はたまたごく素朴に身近な人のぬくもりであってもいいのですが、そんなささやかなよすがさえうまく持たされないままの「ハケン」全盛が、われらの現在です。

 だとしたら、そんな風に使い捨てにされるしかない今の「ハケン」の自分に釣り合うできるだけの「自由」を、そのささやかな価値を、嘘でも自分のことばにして武器に変えようとしない限り、手もとには常にありあわせのやせた愚痴や妬みしか残りません。今の「ハケン」に品格なんてものがほんとに宿り得るとしたら、そんな個々の試練の果て、にしかないはずです。