「団塊の世代」と「全共闘」⑥――団塊の小学校時代


団塊が変えた小学校の校舎事情と、通り過ぎた示準化石

 はっきり記憶しているのは、小学校のクラス割りだね。名古屋市立の小学校で、小学校一年のとき五クラスだったんだけど、私の上の学年(昭和二十年生まれ)は三クラスだった。そこでもう二クラス増えているんだよ。私の後から毎年さらに増えていって、六クラス、七クラスになった。さらにこれも、私の世代でないとわからないだろうが、当時は遅番、早番と二部授業をしてたんだよ。

――へえ、それは初めて聞きます。それだけ子供が一気に増えたってことなんでしょうけど。

 まず、校舎が戦災で焼けているだろ。場所がなくて、なおかつ子供がベビーブームで生まれているもんだから、敷地はあっても校舎がない小学校が結構ある。だから二部授業で、特に一年生などは午前中だけの、つまり四時間しかない。今週は一年生が早番、二年生が遅番とか、そういうふうにひとつの教室を交代で使っていたんだよ。当時、学校は土曜日もあったから、今週は土曜日までが早番で、次週が遅番になるとすると、土曜日の午後から翌週の月曜日の午後まで全部休みになる。正確に二十四×二の四十八時間が休みになるわけで、もちろん子供だから、別に遊びに行くなんてことはないけれど、社会人だったら昼で仕事を終えて二泊旅行に行って、月曜日の昼に帰って来られるわけだ。

――今のOLなんかが言う「金晩」みたいですね(笑) 都合二泊三日で自由な時間がとれるという。

 小学校低学年の頃は、それを半年か一年やっていたね。だから、学校以外の自由な時間というのも持つことができた。

 実は、こう見えても私は小学生の頃、絵が得意で、応募すれば知事賞、市長賞くらいは常連で取ってたんだよ。ところがそこに、フランスと日本の混血の天才少年画家○○○がさっそうと現れ、世間を騒がせた。○○○、知ってる?

――いや、知りません。

 知らないか(笑) なにしろ混血だからね。混血っていうと当時はアメリカ兵とのあいの子が普通なんだけど、彼はなんと、生粋のフランス人を父に持つ、というふれこみだったから毛並みのよさでもこれはすごいんだよ。で、一、二年私たちの周囲を騒がせて、いつの間にかいなくなってたんだが、やがて十年ほどして人気バンドとして復活して、女性週刊誌で騒がれた。*1

――なんか、リカちゃんとそのパパ、みたいな設定ですねえ。フランス人と芸術、って取り合わせがまだ何か神々しかった時代なんでしょうけど。

 でも、その彼の絵の実力は、真の才能というよりも、わざわざ太陽を黒く描いていわくあり気に見せる、とか、そういう大人の喜ばせ方、ウケ方を知っていた点にあった、まあ、そういう程度のものだったんだと思うよ。というのは、私もその手を使ってたからわかるんだけどさ。家にある画集なんかを参考にして、それっぽく描くと先生なんかにはほめられたりするし……

――な、なんの話ですか??(苦笑) 田口ランディみたいな盗作まがいの話ですか。

 いや、何が言いたいかというとね、示準化石ってのを知ってるかな? 化石の中でも広い地域に分布して、でも特定の年代にしか存在しない化石のことを言うんだけど。つまり、その化石が出土することでその地層の年代を推定することが出来るという、そういう役割を持つ化石なんだよね。たとえばアンモナイトなんかが典型的な示準化石で、それが出ればその地層は、デヴォン紀から白亜紀にかけてのものということがわかる。

 で、さっきの○○○の話なんだけどね。実はその○○○っていうのは、昭和二十一~二十三年生まれ(団塊世代)という狭い世代の範囲ならばみんなが憶えていて、逆にその外の世代の記憶からはきれいに消えてしまっている、ある意味での示準化石みたいなものだなあ、と。その人が何年生まれか知りたければ、「○○○憶えてる?」と聞けばいいわけで、団塊世代ならば「おーっ、憶えてるぞ」と必ず反応するはずだよ。

●個人的体験から、時代の全体像へと向かう道

 まあ、ある時代を振り返る際、個人的体験を語るのは特殊なことだと思うかも知れないけど、そういう意味では思い出話だって、時代を計測する示準化石、ひとつの指標としてあり得ると思うんだよ。

 たとえば、早稲田の入学試験がそんなに簡単だったというのは、名古屋という地方都市の風土や中高一貫の男子校という特殊な前提がなくても、十五パーセントという今と比べると信じられないほど低い当時の進学率によって、やっぱり見えるものがあるわけでさ。その進学率はやがて三分の一を超え、今や間もなく五十パーセントを超えるまでになってる。今じゃその高校から早稲田に入れない者もいるくらいなんだけど、でも四十年前は、受かったら笑われる、秘密にする時代だったんだからさ。そういう違い、時代の変わり様を知る上で、個人的体験というのは示準化石になり得るんだと思うよ。

――はい。神は細部に宿り給う、じゃないですが、微細な個別具体を緻密に積み重ねてゆくことで普遍へと抜ける、というのは、民俗学的方法論、というか、信心でもあります(笑)


 でも、呉智英さんはそもそも何になろうとして上の学校へ進学したんですか?

 そういう風土の中で学校へ行く目的は、だから個人的には単純に法学部、要するに司法試験が目当てだったね。商売は関係ないんだし、それこそうちはサラリーマンだから跡の継ぎようなんかないもんね。

 でも、そういう具体的な目的とは別に、将来、名古屋という選択肢ではなく、東京なり関西なりの大学に行って、そこで天下国家を、また世界や歴史について語るのだ、といった思いもまた、中学一年くらいですでに頭の中に漠然とあったね。このへん、実利と理想というか、どっちも共に抱え込むようになってた、ってことかなあ。

 大学に入ったのは、昭和四十(一九六五)年。一年先輩は、前半ならば戦争中に生まれたことになるし、さらに二、三年浪人している人とか、中には三浪二留という猛者も結構いたよ。しかもその三浪の理由が、単に入試の点数の問題ではなくて、二部(夜間部)に入るために真面目に三年働いて学費を捻出したのだ、とかさ。また主みたいな先輩がいて、周りのみんなが、「あの某さんは、実は国民学校なんだよ」、「えっー」とか。いやもう、そういうデコボコは普通にあったから、まずそこでちょっとした衝撃を受けるよね。あり得ない、と。

 今、自分の仲間に、同じ空間に、同じ学生としてそういう人がいる、というのがそもそも衝撃なんだけど、その某さんにいろいろ詳しく聞いてみると、一年、二年までは国民学校で、三年から新制の小学校になった、って言うんだよ。まあ、さすがに六年間通して国民学校、って人は私の頃にはもういなかったな。

 ところが「おまえ、そんなの驚くことじゃないぞ」と、別の先輩が言うんだ。親に親戚の家に行け、となぜだか言われて、三つのとき疎開していた記憶がある、と。就学前のことだから学童疎開とはいわないが、それにしても「疎開」はすごいなあ、と思った。また、親を戦争で亡くしている人もいたしね。それくらい、当時はまだ戦争とその影響が年齢差やそれに伴う経験の違いとなって身の回りに転がってたんだよ。

 こうして彼らとの感じ方の微妙な違い、体温の差のようなものがわかってくる。それは基本的には、昭和二十年、つまり終戦体験の問題なんだけど、体験と言っても、一歳の時の体験、という意味ではなく、物心ついた時の雰囲気、空気が前後つながっていてこそ意識されるもの、ってことだよね。私だって、終戦直後の配給とか、わずかに体感しているものはあるよ。でも、それが昭和二十一年の生まれと、何年か先輩で「その頃三つで、空襲の記憶はかすかにあるんだ」という人とでは、やっぱり微妙に違ってくるよね。

――そのへん、親や親戚なんかも含めて、戦争体験をどう身近に感じたか、みたいな話でよく耳にするんですけど、やっぱり本当にはちょっと響いてきにくいところがありますね。実際戦争をどういう位相で体験したのか、によって生身にどういう違いが出てくるのか、理屈じゃなく皮膚感覚で「知る」ことがこちらはできないないわけですから。

 当時四年生の先輩が、昭和十六、七年生まれ。そのちょっと上が安保世代になるわけだ。そうすると、六○年安保のときの闘いと、その後とが違ってくるというのは、その頃からもう何となく感じられてたな。六○年安保の中核というと、これは昭和十三年頃の生まれだ。この年齢が中心で上は昭和十年、下は十五年生まれで、これは六○年の時に二十歳だ。それが、大人になってからの各人に刻印された時代の雰囲気の、私たちの世代と上の世代との違いになってくる。それが六○年代後半から七○年頃の五、六年間の、文化体験の断絶という形で厳然としてあるような気がするんだよね。

――おそらく、日本の歴史上でもかなり異例の濃密な体験が凝縮されていた時期、なんだと思いますね。だから、世代の問題にしても、平穏無事な時期のそれとはまた違う内実をはらんでいたりしたわけで。わずか一、二年の違いが結構決定的な体験の違いや、その後の人生の軌跡にまで影響を及ぼしていたりすることがまま、あったりしたんだと思います、きっと。

 そういう意味じゃ、数年たって自分が大学へ行ったときに、やはり中学のときに見ていた六○年安保の兄貴たちに対する違和感というのは当然あったよ。なんか違うなあ、って。で、こういうのって、今の若い子にしてみれば単なる年寄りの昔話に聞こえるだろうけど、それはちょっと違うんだよ。こういうのは実は重要な話で、たとえばあの頃、私たちの上の世代が「焼夷弾が降ってくる中を親に手を引かれて」とかよく言ってたけど、そんなもの焼夷弾も台風も同じじゃないか、と言ってしまえば、それは明らかに時代の流れの断絶になる。でも、その“違い”こそが普遍性につながる大きな意味を持っていくのだから、そのあたりを無視した世代論、なんてものは実は何も意味がないことになるよね。


――安保世代というと、あたしなんかは身近に見知っている個人を指標にすると、先日亡くなった歴史学者網野善彦さんなんかを思い出すんですよね。少し下が平岡正明さんや朝倉喬司さん、とかで、そこから呉智英さん、といったグラデーションになってる。自分を基準にしてそこから上の世代に対しては、そういうグラデーションというかスペクトルは比較的つくりやすいような気がしますね。逆に下の世代に対しては結構難しかったりする。自分が大学現役入学の早生まれ、ということもあって、大学以降は実年齢よりいくらか上の年齢の世代とシンクロさせられてきたからかも知れませんけど。

 言われてみれば、私の場合はその過程で後輩に対する違和感は、不思議に感じなかったなあ。むしろ、先輩の方にそれを大きく感じてた。

 これは私の専門の漫画の世界などでも顕著で、年代の問題をどこかで誰かが統計的にやるべきだと言っているんだけどさ。私が昭和二十一年生まれで、私の世代を境に漫画に対する意識がまるで違うんだよ。これは非常に不思議なことなんだけど、ほんとに違う。

 私が大学へ入ったとき、ずっと漫画を読み続けて捨てなかった世代というのが、新聞などで騒がれ出してたんだよ。私より低学年の連中になると、みんな漫画について違和感がない。ところが、私より上になるとこれはもう見事に漫画を読まないんだよ。生まれ年でいうとだいたい昭和二十年以前かな。そのへんだと何かの拍子で「おっ、面白そうなのを読んでいるな、この『ツキノシラベ』というのはいいな」とか言うんだけど、だからといって、その後、日常的に漫画を読む習慣には染まらないんだよね。ましてそれをマジメに論じようなんていう人はいやしない。なぜそれが二十年ではなくて二十一年が境目なのか、何かきっと理由があるはずだと思ってるんだけど。

 もちろん、これは私の体験的な話で具体的なデータが十分にあるわけじゃないけど、でも、やっぱりこの生まれ年の昭和二十一年を境に何かはっきり断絶が見られるんだよ。そこらか上の人は漫画を読まない。その一年でこんなに白か黒かの変わり方をするのが不思議でさ。何か他のものの変化ならもっとグラデーションがあるはずなのに、ほんとにガクッと変わる。中には「読んではいるけど、そんなに正面から語るものではないと思っている」と言う人もいるんだけど、でもそういう人の多くも実際に読んでいないと思うね。

――おもしろいですね、それは。一般的に考えれば、漫画を読むリテラシーの問題なんでしょうけど、でも、わずかの生まれ年の違いでそのリテラシーの獲得にそんなに格差があるとは、おそらく何か理由があるんでしょうね。

 あると思う。で、わからないながらに考えてみるとさ、ひとつには『少年サンデー』、『少年マガジン』の創刊があったのかな、と思ってる。両誌とも私が小学校六年の最後の学期に創刊されて世に出たんだよ。昭和三十四年の、日付上は先付けしているから三月末日になっている。実際は二月の半ばくらいに出回ってた。

――へええ、そんなにはっきり覚えているものですか。

 うん、サンデーやマガジンが出た時の衝撃は、はっきり憶えてる。

 名古屋市立の近所の小学校だったけど、図書館にそれまであった雑誌は、『小学三年生』みたいな学校公認のものだけだったんだよ。それは人気があるから、いつも借りられている。私はうちで買ってもらっていたから問題なかったけど、その図書館に二月、突然、『少年サンデー』、『少年マガジン』が入ってきた。漫画雑誌が学校の図書館に入ってきたんだからいま思えばそれは不思議なんだけど、でも、学年誌と同じ出版社が出してるものだから中身が漫画でもオッケーだったんじゃないかな。それが証拠に、それまであった漫画雑誌の『おもしろブック』、『少年』、『少年倶楽部』などは駄目だったし。

――ああ、漫画が「学校」的な空間で公認のものになった瞬間かも知れない。手塚治虫が当時、「子供に読ませていい漫画」として認知されてゆくのと同じですよね。だから同時に「いけない漫画」ってのも生まれたわけですけど。小学館講談社というブランドのご威光はそれくらいすごかった、ってことですかね。

 なんだろうね。さすがに『サンデー』、『マガジン』は最初からものすごい人気で、みんな図書館に並んで借りようとしてた。うちの親もさすがに週刊誌までは買ってくれないから、こっちも学校で読みたいんだけど、図書館ではすでに誰かが借りだしてて読めない状況だったなあ。あとは、床屋とか歯医者とかに行ったときにそういう雑誌を読むのが楽しみとしてあった。その頃、床屋、歯医者は子供向けの雑誌や漫画を置いてあるのは基本で、歯が痛くなると嫌だけど、そういうものが読めるからうれしくなったもんだよ。

*1:この御仁、固有名詞が特定でけんまんま、今に至ってるのだが……もしもご存知の向き、あるいは何か手がかりでもあるようならば、ご一報いただければありがたい。……221012