文科系の終焉について

 学問は、すぐ世の中に役にたつものではないということをよく哲学者は口にするのであるが、しかしながらいくつかの需要が個々にあれば、少なくもいちばん目前のもっとも痛切な要求に答えうることを、まずもって学びとらなければならない。                    

――柳田国男

 いま、われわれはどうやら、文科系の終焉に立ち会っています。

 文科系、という言い方がおおざっぱ過ぎるならば、人文系、と言い換えても構いません。たとえば、大学ならば主に文学部に設置されているような学科の学問。文学、歴史、思想、哲学、心理、芸術……それらをひっくるめて人文系といいならわしてきた習慣に従って、なおその周辺に経済や法律だのといった、戦後このかた特に「社会科学」と称され「自然科学」と対置されてきたような領域までゆるやかに含みながら、少なくとも学校の教科で言えば理科と数学をそれほど重要視しなくていい(と、なぜかされてきた)ような方面の知的営み。人間と社会にまつわる学問、産業社会に直接何か寄与することがあらかじめ期待されていない、その意味では「暇つぶし」の営み……いずれそういう文科系の営みに対して、世間から最終的に不信任が宣告されつつある。他でもないあたし自身、そのような文科系の学問の一端の看板を掲げてものを書き、発言をして世渡りしてきている立場ですが、そのような立場に対する世の中の視線のありようがこれまでにないくらいさめたものになってきている、そのことを最近とみに肌で感じています。

 それは、ここ十年あまりの間、「戦後」の枠組みが崩壊してゆく過程に伴って起こってきた事態ではあります。そのように「戦後」の内側に抱かれていた知の体系も解体されてゆかざるを得なくなった。中でも文科系は、その知的営みとしての足場を決定的に失わざるを得なくなっている。そんなことはない、と真顔で抗弁できる豪傑がいまどきまだいたら、ならば書店で人文書が今、どのような扱いになっているか、大学でいまどきの若い衆が文科系の講義をどのように情けない顔で聞いているか、ひとつ虚心坦懐に見つめていただきたいものです。

 政治的には「戦後」を支えていた「五五年体制」が崩壊したのが九〇年代始め、経済的にも「戦後」を象徴していた高度経済成長のもたらした果実が最終的にあの「バブル」という極相に収斂していろんな意味でひとつの画期を示し、それらは互いに連動しながら徐々に「戦後」の終幕が始まっていました。とは言え、そのような大きな構造の変化が日々の現実、微細な日常の水準にまで波及して、誰の眼にも明らかになるような形で〈いま・ここ〉に本当に起こっていることに思い至れるようになるまでには、やはりタイムラグがあった。「失われた十年」というもの言いもありましたが、それはあたしなどからは、そういう「戦後」の終わりを皆が身の丈で広く静かに思い知ってゆくための十年だった、と見えます。

 情報環境、という補助線を引いてみると、もう少しわかりやすくなるかも知れません。それは、活字を中心にして秩序づけられていた情報環境に亀裂が生じ、それに見合って「現実」もまた変貌してゆく過程でした。たとえば、インターネットの登場はその変貌を規定する大きな、また象徴的な要素でしたし、もちろんそれだけではなく、携帯電話やデジタルカメラなど、さまざまな局面におけるデジタルメディアの普及とそれによる「記録」の意味の変化、情報と社会の関係のうつろい具合から、それらに付随してわれわれ人間にとっての「経験」の位相までもが価値観、世界観ぐるみそれまでと違うものになってゆく過程が、まさに同時代のできごととして進行してゆきました。静かに見まわしてみれば、それら情報環境の変貌に伴って、われわれの共有する「社会」という像そのものが以前とはかなり違うものになっていることに気づきます。当然、「社会」に連動するはずの「歴史」も、また。

 そのような脈絡で見れば、歴史教科書問題に端を発した「歴史認識」「ナショナリズム」をめぐる、国際関係をも巻き込んで未だ続いているてんやわんやも、あるいはまた、それまでの政界の常識からすれば瓢箪から駒のようなものだった小泉内閣の誕生から「構造改革」路線への国民的支持の広がり、そして昨年九月の衆院選へと至る顛末なども、単に政治や時事問題といった表層の水準においてのみ語られるべきものでもなく、ここ十年あまりの間連続してきている「戦後」が終わってゆく過程に必然的に立ち現れたひとつのメルクマール、うつろいゆく構造を要所要所で反映してゆく目安となるべきできごと、なのだと思います。

 そのような流れの中、誰もが素朴に認識を共有できる人間と社会にまつわるさまざまな現象について、専門家のもの言いはそれだけではもう信頼されなくなっています。理科系はいざ知らず、こと文科系においては、群を抜く力を持ったインテリ、突出した知識人、その道の専門家が「社会」の手ざわりを解説してくれる、という図式はもう十分に陳腐化している。ある時期から、テレビのワイドショー系の番組などに専門家の肩書きを持つ者が「コメンテーター」と称して跋扈するようになりましたが、おのが専門外のことまでも含めてよろずコメント屋と化した彼らのもの言いもまた、この文科系の権威失墜に大きく寄与してきています。個人的にはオウム真理教をめぐる一連の事件あたりを境に、彼らに対する世間の側の視線がそれまでと変わってきたように感じているのですが、今となってはそれはもう、メディアの舞台におけるキャラクターとして、お笑い芸人と等価の存在になっています。思えば、芸能プロダクションに所属しマネージメントしてもらってメディアに露出し続ける文化人、知識人という心萎える存在も、大学教授から作家、評論家の類に始まり、いまや弁護士に至るまで、もう珍しいものではなくなりました。

 「役立たず」――昨今、文科系の知性に対して向けられるそのような視線をひとことでくくってみると、ひとまずこんなもの言いになるのでしょう。対象となる領域が社会であれ経済であれ政治であれ、専門家というのはもっともらしい能書きはいくらでも並べてくれるけれども、でも、その能書きによって世の中がすっきりわかったこともないし、自分の身の回りが見とおしよくなったりしたためしもない。何より、そういう能書きの多くは、彼ら専門家が自分のアタマがいいということを証明しようとするためのものにしか聞こえない。このところ、いろいろと世の中が変わってきているのは肌で感じるし、この先どうなってゆくのかよく見えなくなっているのに、そんな身近な問いにうまく答えて納得させてくれるような学問なり専門家というのは、どうも見かけたことがない、だからあんたらもうそんな高みから偉そうにこちらに響いてもこない能書きを垂れ流すのはうっとうしいからやめてくれ――文科系の知性、未だに高みからもの申すモードのままでいる御仁に対して世間の側が昨今抱いているのは、おおよそこういう気分のはずです。


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 とは言え、文科系の学問が「役立たず」というのは、何も今に始まったことでもない。とりわけ人文系にその傾向は顕著でした。少し前まで、文学部を志望するのは女子学生と相場は決まっていましたし、誤解を恐れずに言えばそれは〈おんな・こども〉のための学部だった。事実、経済や法律系の学部だと同じ文科系でも女子学生の比率は極端に少なかったものです。

 改めて言うまでもなく、教育機関における文科系というのは、高度経済成長以降のわがニッポンにおいてはホワイトカラーの生産工場でした。経済学部や法学部を出た男子学生が就職市場でのスタンダードとして扱われていましたし、メーカーであれ金融であれ商社であれ、いわゆる「会社」「企業」に入るための大学という意味においてならば、文科系に進むことは〈その他おおぜい〉にとっては最も門戸の広い、確実な道でした。

 高度経済成長期、「駅弁大学」と当時揶揄されたように、全国各地に大学が増えてゆく中で、大学の意味はすでに大きく変わってゆきました。そう思えば、昨今言われる大学の就職予備校化というのも何も最近始まったことでもなく、大衆社会の進展とそれに見合った高等教育の拡張が行われてゆく過程で必然として宿ったものでした。しょせん大学なんてその程度のもの、いい会社に就職するためにうまく利用すればいいんだから、といった理解は、「豊かさ」のもたらした大衆社会化のまっただ中で、とっくに普遍化していました。その限りで、大学はもうずいぶん前から就職予備校、「会社」に入るための資格授与機関になっていた。

 ただ、忘れてはいけないことは、そのようなミもフタもない現実が進行してゆくと同時に、それを覆うタテマエというか、学問であれ大学であれ一応はそれなりに尊重しておこう、といった約束ごともまた、未だ世間の側にそれなりに維持されてもいた、そのことです。「学問」を語り、「大学」を語る作法としてのそれらタテマエは、あいつらはどんな能書きを言っても現実に影響はないんだから放っておいても構わない、という情けないアドバンテージの存在証明でもあったわけで、特に企業社会の側からの認識などはまさにそういうもの、だったのですが、しかし同時に、その程度に役立たず、何を言おうが何をしようが「まあ、結構なご趣味で」と鼻で笑われるような存在として世間から隔離してもらえていた、それが大方の文科系の知性にとっての幸福でもありました。

 問題は、そんな幸福を当の文科系自身が自覚しない、できないまま、それまでの知識人イメージを自画像として、世間のそんなタテマエに安住したままずっと振る舞い続けていたことです。でも、もはやそういうタテマエ、お目こぼしは許されなくなってきた。それは世間の側に余裕がなくなったからというよりも、むしろ、そんなあんたらが並べる程度の能書きならばこっちだってもうそこそこやってのけられるんだけど、という気分の方が強くなってきているからなのですが、いずれにせよそういう情報環境の変貌によって、「知性」の存在の仕方もまた変わってこざるを得ない。それまではカネとヒマに恵まれたある種恵まれた条件において特権的に宿り得た文科系の知性というやつは、高度経済成長をくぐって以降、いまやこの眼前の高度大衆社会にうっかりと広汎に共有されているらしいことが明らかになってきてしまったわけで、だからこそ、誰もが共に見聞きし、経験できる眼前のできごとに対して、専門家と称する高みからいきなり偉そうにものを言ってのけてこと足れりとすることの無防備さ、バカバカしさに今や大方の人が気づいてしまっています。

 あんたたちの能書きはこんなにも役立たずでこちらの感覚としっくりこないのに、なぜあんたたちは未だそんなに特権的な立場にあぐらをかいたまま偉そうにしていられるのですか?――文科系の知性に対して世間が浴びせる視線には、その認識やもの言いに対する「役立たず」という価値判断と共に、それを支える主体のありよう、自意識の身だしなみの悪さに対する批評もまた、確実に含まれています。


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 とは言うものの、この理科系と文科系、という二分法自体が、そもそも世界標準ではありません。そのことはこれまでも何度となく言われてきています。

 後発近代国家として、先行する「近代」をキャッチアップしてゆくために設定された、効率的に「西欧」を吸収してゆくための大学の枠組みになじむような文科系/理科系、という二分法。それが戦後にも延命し、われわれ日本人の世界観、日本語を母語とする広がりにおいて「現実」を認識しようとする時の枠組みに、大きな影響を与えてきました。そのことにまず素朴に思い至ることは、われわれの社会における知性や知識人のありようについての歴史/来歴を、自ら反省してみることにもつながります。

 いまから十年ほど前、あたし自身、こんなことを言っています。

 「現実と関わりながら働く知識人、実践としての学問をやる学者、といった存在が、マルクス主t義経済学や左翼史観の歴史学が現実に崩壊して以降、実在の雛型としてもイメージとしても想定できなくなってしまっているわけでしょ。ますます実践はないんだ、とにかく世界を視線によって横断し、情報を処理し、しかし自分のそのやせた内面に見合うように奇妙な言葉を紡ぎ出して世渡りする、それでいいんだ、と。学者や知識人の処世というのは、具体的にはそれ以外にほとんど考えられなくなったわけですよ。これは冷戦崩壊のひとつの結果です。(…)わけのわからない宗教であれ何であれ、うっかりか確信犯か知らないけどやたらとヨイショするか、でなければ、広告資本のビッグウェーブに波乗りしてある種の「現実」感覚、「実践」幻想を補填してゆくしかなかった。いずれにしても、その結果責任を問われれば「そんなの知らないよ」と逃げ回るしかないような醜態が、少し前まで「優秀」と言われていたような人たちの間で出てきている。」

呉智英橋爪大三郎、他『オウムと近代国家』(南風社 九六年)

                          所収の発言)

 この時、念頭に置いていたのは、中沢新一浅田彰といったいわゆるポストモダン派「勝ち組」の連中でした。彼ら彼女らがオウム真理教の一連の事件に関して、自分たちの垂れ流していた言説が果たしていた役割についてその後、全く口をぬぐって知らん顔をするのを目の当たりにして、ああ、なんのことない、やっぱりポストモダンってのはつまるところ最も悪い意味での日本浪漫派と同じ、閉じられた狭い言語空間で空中楼閣の美文を弄していたずらに人心を惑わすだけの連中だったんだな、と、改めて確認したものです。以来、その手のポストモダン系言説、実存と言葉とが乖離したもの言いを得意げに振り回す輩に対しては、理屈抜きの嫌悪感と不信感がわきあがります。これは、おそらく今後も変わらないでしょう。

 当時から、何をそんなに力んでいるだ、と揶揄されたりもしました。けれども、民俗学という看板を掲げて世渡りしている以上、そのような知性としての無責任が平然とまかり通るのを座視できない。なぜなら、民俗学という学問はその始まりにおいては、巷間思われているよりもずっと政治的であり、政策的であり、ある種の民衆運動ですらあったことを知っているからです。それは昭和初年の大衆社会の進展の中で必然的に醸成されてきたところがありますし、さらに戦後、高度経済成長のとば口のあたりまでその性格が引きずられてきたところもある。ただ、ほとんどの民俗学者がそのことに自覚のないまま、というのが最大の不幸でした。

 しかし、そんな民俗学の始まりの石をひとつ置いた柳田国男は、同胞が共に賢くなってゆくための学問、言わば「公民教育」のためのある種の運動体として民俗学を構想していました。大学のカリキュラムに入り込むことなどを最初から考えていたわけではない。戦後、大学の中にある程度整った講座を持つようになったのも、柳田自身の最晩年のことでした。実際、民俗学に関連する講座が増え始めたのは六十年代、まさに大学の大衆化が進行していった時期と重なります。どうでもいいような微細な事実から「古き良き日本」にだけのんきに焦点をあわせてだけいたかのように思われている民俗学は、急激に進行し、深まる「近代」と、それに伴う大衆社会化の現実とに身の丈で切り結ぶ足場を築くための膨大に迂遠な公民教育、という志を内包してもいた、その意味で文科系本来の夢を体現させようとした学問でもありました。

「日本の学者の心構えというものが今は少し変ってきて、以前には自分ひとりが自分のためばかりに学問にはげむのではなく、周囲の学ぼうとしてできない境涯の人々のために、代って知っていよう代って考えてやろうというのが、ほとんどいつの時代にも共通した東洋の学者のもっとも特徴のある伝統として、自他ともに認められていた。ところが、知らぬまにそういう自負心と意識は衰え、学者のほうがむしろ地位を守ろう名を挙げようとする、利己的だと思われてもあやしまないほどに変化してしまった。」

 昭和二九年に出た『日本人』という編著の中の一節です。戦後の言語空間で、うわついた左翼的な言説が熱にうかされたように支配的になってゆく状況に対するカウンターとして企画されたフシがありありの一冊なのですが、民俗学はもちろん、柳田国男研究の脈絡でさえも軽視され、黙殺されている忘れられた仕事です。ここで言われているような「文人墨客」的な知識人のありようがまだデフォルトとして存在できた、おそらくは最後の時期だったのかも知れません。

 ゼニカネではない、自分ひとりのためでもない、そういう現世の利害からはひとまず超越したところで、自ら信じる何らかの信条、徳目、倫理に従い行動する、そんな処世。よく言われる「村はずれの狂人」としてのインテリのセルフイメージは、しかしその「狂気」=「規格外」のありよう自体が情報環境の変貌の中、平準化されてゆく社会においては埋もれてゆかざるを得ない以上、ますます成り立たなくなってくる。こいつはヘンなやつだけれどもその知識や知恵は何かの役に立つかも、という留保もされなければ、その突出した個性に対する畏怖さえも薄れてしまった状況では、狂人はただ狂人としてのみ遇され、一方向にスポイルされてゆくばかりです。それは言葉本来の意味での「エリート」カルチュア、「知性」のありようについてのニッポン的脈絡での変遷に他ならないのですが、しかし、そのような自省、自己言及さえも当の「エリート」「知性」の間ではほとんど抜け落ちたまま、結果、いまのこの荒涼たる現在に至っています。

 

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 そのように世間はあたりまえにゼニカネにまみれ、利害で動いていて、その限りで何でもあり――そういう現実との距離感、違和感をテコにこそ、「知性」の輪郭も成り立ってきていました。これまでの大学に典型的なように、そのような「現実」から隔離されたところに仮構された、まさにバーチャルな楽園。それは、旧制一高の寮歌の一節にあった「栄華の巷、低く見て」に象徴されるように、自らをまず超越的な高みに置いて世間をみおろす世界観に規定されていました。そう考えれば、文科系の知性の生態系とは何も昨今の情報環境に限ったことでなく、もともとバーチャルなものなのかも知れません。

 そういう文科系の夢、というのは、けれどもそう簡単にフェードアウトしてしまうものでもないらしい。学問の総本山たる大学という場においてはもう宿りにくくなったとしても、この高度大衆社会状況の中、さまざまに形を変えていびつに拡散、延命している。たとえばそれは、公務員志望の若い衆の間に宿っているように見えますし、あるいはまた、いわゆる団塊の世代に色濃く共有されている価値観にも通じている。

 金銭を得るための仕事、労働はなるべく最低限におさえたまま、余った時間をなるべく好きなことだけして生きてゆけたらいい――その「好きなこと」とは、文学であり芸術であり、音楽であり映画であり、何にせよ社会の生産に直接関わることのない「余暇」の営みなわけで、その意味で遊民の暮らしぶりだったりするものです。そのような高等遊民として、できれば生きてゆきたい、という希いは、言い換えればいつまでも「学生」「書生」のまま、「前途有為な若者」の特権だけを享受してゆきたい、という、思えば横着であつかましい夢でもありました。

「いつまでも「若者」のままでいたい、そして「権力」=「大人」に「反抗」して「批判」だけを続けていたい――こんな妄想がこのニッポンに、しかし、どうやら予想以上に広い範囲に蔓延しているようです。思いっきり刈り込んだ言い方をすれば、「好きなことだけ暮らして行ければいいなあ」と言うことですが、これは、それこそ夏目漱石以来の高等遊民願望で、それ自体がまさに近代の生んだものだったりする。」

(拙稿「「辻本清美的なるもの」の考察」2002年『正論』6月号)

 公務員であれ、新聞記者であれ大学の教員であれ、はたまた昨今にわかに社会問題化されているらしい若年層のニートであれ、彼らがそのような境遇、身分にしがみつく理由のかなりの部分は、掘り下げてゆけばそのような夢、いまの特権的生活(と当人は少なくとも思っている)を奪われたくない、というきわめて俗物的なモティベーションに関わっていることは間違いありません。

 去年の郵政民営化の議論でも、反対派は「公務員でなくなったら、仕事に対するモティベーションが保てない」といった主張をしきりにしていました。耳を疑いました。全体に対する奉仕、というパブリックサーヴィスへの崇高な使命感などでいま、公務員志望が多いのではない。この先行き不透明なご時世に給与が安定して保証され、いろいろあっても事実上未だに終身雇用に等しく、九時から五時で定時に帰宅できて結果として「プライベート」が大事にできるから――そんな世俗的な理由が大きいのは誰もが少し省みればわかることのはずです。

 私的生活、個人のプライベートの充実こそが正義である――「豊かさ」というそれ自体は抽象的でとりとめないものをそれぞれの日常に還元して手ざわりあるものとして理解しようとした時に、そのようなスローガンに変換されていったのは、ある意味当然かも知れません。けれども、思えばそれはなんと短兵急なスローガンであり、そしてあきらめの悪い夢だったのでしょうか。ただ、そんな夢を抱くことが可能なくらいには、まだ「大学」という場には何か内圧があったし、そこに連なる活字メディアの場もまた同様、いずれそれらはその程度にバーチャルな楽園であり、浮世離れが許される場でもあったらしい。しかし、そのことの意義や価値もまた、現在のこの文科系の終焉の中であわただしく忘れられつつあります。


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 文科系の終焉は、大学の制度においては一般教養課程の解体がその端緒でした。

 九一年の大学審議会答申でこのことが決定された当時、あたしはまだ大学の教員でした。国立大学だったので、文部省から出された答申の影響は、かなりダイレクトに被っていたように思います。その後、九三年に大学から大学共同利用機関(博物館が併設された研究所)に移って九七年の春まで勤めましたが、思えばその間、そのような「教養」解体に象徴される戦後の大学再編の大きな流れの中にいたことは間違いありません。

 玉石混淆、味噌も糞もいっしょくたに「大学」とひとくくりにされている今の大学を、そろそろきっちり選別するよ、やる気があって成果を出せるところにはどんどんカネを出すよ、でも口もきっちり出すよ、学生をいっぱい抱えてるところはもっと客商考えなさいよ、カルチャーセンターやるもよし、もっとわかりやすく就職予備校になるもよし、そうでないところはせめて専門学校みたいなことはくらいはしてくださいよ、でないともう大学なんて世間の信頼を回復できないんですよ、あなたたちは何かというと学問の自由、研究の優越を言いつのって自分の特権擁護にまわるばかりで、もう少し世間を納得させられるような仕事をしてみせてくださいよ――敢えて下世話なもの言いを弄せば、当時の文部省の言いたかったことというのは、まあ、そういうことだったのだと思っています。何のことはない、「戦後」の枠組みの中で維持されてきたバーチャルな楽園の特権性に風穴をあけて中和してゆくという意味では、その後本格的なうねりが起こった「構造改革」と本質的に共通しています。物議を醸した大学院大学構想というのも意図としてはまさにそれだったわけですし、COEだなんだという能書きも同様。法律系の学部がなだれを打ったロースクールに代表されるのが、就職予備校構想の線でしょうし、その他、昨今増殖している福祉/介護系の資格取得を看板にした学部の再編などは、専門学校化の脈絡で理解できるものでしょう。

 一般教養があって専門課程がある、総論・概論があって各論、演習が積み上げられる、そういう学問個々の垣根や敷居といったものが、とりあえずなしくずしにどんどん解体されてゆきました。「○○学」「○○総論」といった題目にとってかわって「○○論」といった科目が増えてゆきました。「入門」といった言い方も影を潜めました。学生はもちろん、教える方も何をどう、どのような価値に向かって再編すればいいのかよくわからないままに、とにかく何か変えなければ、というドタバタが日本中の大学に伝播してゆきました。どうやらその混乱は、まだ続いています。

 大学の教員、研究職、特に文科系のそれはもはや意地汚く特権にしがみつく手合いとしか世間から見られなくなり、と言って、その特権に見合った責任意識ももう自前で持ちようがない状況に煮詰まりながら、日々やるべき仕事に追い回されるだけの情けなさ、やりきれなさに自分自身いたたまれなくなったこともあって、あたしは大学を辞めました。友人たちには今もなお大学に残って教員稼業をやっている者も当然、います。日々の営みにまぎれてふだんの行き来ももう薄くなっていますが、それでも何かのはずみで行き会う機会があるような時には、必ずここ十年来、未だに続いている大学の現場のめちゃくちゃさ、「知性」としての最低限のアイデンティティもディグニティも保てなくなった現状についての愚痴になります。ああ、そんなもんだろうなあ、と相づちを打ちながら、もしも自分がいまなおそんな場にいたら、さて、どうなっているのだろう、と考えて、また考え込みます。]\

 あたしが大学に教員として就職した当時、学科の上司にはまだ旧制高校の経験を持つ人がいました。その後数年で彼らは定年退官してゆくことになったわけですが、彼らが持っていたある独特の雰囲気というのがその後の世代には、たとえ同じ上司であってもどうにも感じられない場合が多かった。これは何も勤務先の大学だけのことではなく、学会その他のつきあいの範囲でもその印象はそんなに変わりませんでした。

 何が違っていたのか。ざっくり言ってしまえば、「学問」を共に志す者同士の信頼、とでもいう点です。「知識人」「インテリ」としての連帯感、が自明のものとして共有されていた。活字を読む、書物に親しむ、そういう営みによって自らの輪郭をかたちづくってゆくような心の習慣を持ってしまった者、平たく言えばそういう「趣味」「性癖」を同じくする者として、彼らは年下であってもできる限りフラットにつきあおうとしていました。部下や同僚はもちろん、「学生」に対してもそういう意味での「後輩」として接していたように思います。活字を読み、ものを考え、自らの理想に従って生きる、そういう人間そういう「個人」として尊重する、という態度。いまとなってはまあ、なんとものどかなものなのですが、しかし八〇年代の終わり頃にはまだそういうエートスは、大学にもかろうじて残っていました。

 けれども、彼らのすぐ下、団塊の世代になると、学内の会議や委員会はもとより、講義や演習でさえもを「雑務」と称して恥じない人たちがあたりまえになりました。彼らに、じゃあ何が「本務」なんですか、と尋ねれば、決まっている、それは「研究」だ、とふんぞり反って答えるのが常でした。ならばその「研究」がどれだけ世の中の役に立ち、あるいはまた、世間からどう見られているのか、については、問いかけても眼をそむけるばかり。果ては、自分はもう定年まで十年もないから何もできない、と開き直って、ひたすら「研究」に閉じこもるばかり。

 虚勢でもいい、世のため人のために自分は学問をやっている、と胸を張って言える文科系の知性がいま、果たしてどれだけいるでしょう。自分の「研究」が世の中の、同胞の未来に役に立つんだ、とまっすぐに言える、そんな思い込みや勘違いも含めた自信、確信のかくも長き不在。文科系の知性がいま、このようにみっともないものになってしまっている理由の最も根源には、そんな自分の営みと世間との関係が見失われたまま、そこから逃げ回り続けてきたことがあるように思います。

 ですから、問題は相変わらず古くて新しいまま、です。文科系の知性の失地回復のためには、まずその知性を支えるだけの器の回復が鍵です。この状況でなお、世間から信頼されるだけの主体の回復。それは単に道徳的、倫理的な意味だけでなく、自分自身の操る言葉、そしてそれを介して構築される関係性といった微細な水準までもまるごとひっくるめて、ひらたく語ることのできる語彙とスキルとを自分のものにしてゆくことでもあります。

 そして何より、今のこのような情報環境においては、固有名詞として突出してゆこうとする欲望を自ら制御してゆけるだけの前向きなあきらめの必要。現在に埋没しながらその他おおぜいとして何ごとかを見、考え、そしてそれをもう一度同時代の場に投げ返してゆく、そういう営みの中にゆるやかに共有されてゆく認識こそを、とりあえず最も信頼できる真実=リアリティとして尊重する態度。専門家として、秀才として、突出した個として世に立つことを第一義に置くことは、実はもうそんなに必要でもなくなっている、そういう認識の地平にまずさらりと立ってみること。

 ひとまず「戦後」の枠組みの解体と共に終焉を迎えた文科系が、社会と人間についての信頼されるだけの言葉を〈いま・ここ〉から新たに構築してゆけるためには、そのような現在と共に生きる主体の回復がまず、求められているのだと思っています。



■追 記……

 ここまで書いてきてちょうど締め切り直前に、あのライブドアへの強制捜査が行われました。

時 代の寵児、ITベンチャーの象徴としてここ二、三年、メディアにもさまざまにとりあげられ、持ち上げられてきた「ほりえもん堀江貴文社長ですが、彼に限らず、昨今のいわゆるIT系ベンチャーの最前線にいる人たちのもの言いに接していて感じたことは、ああ、これはこれまでの枠組みにいる人間には話が通じないだろうなあ、ということでした。

 いま、この場の話に引き寄せて言えば、それはまさに「戦後」の枠組みが崩壊し、文科系のありようも変貌してゆかざるを得ない情報環境で自己形成してきた、そんな世代の世界観でした。そのことの是非はひとまず措いておきましょう。言いたいのは、それはそれまでとは少し違う内実を伴った、しかし確かにそれは「知性」ではあった、ということです。

 巷間言われていて、強制捜査以降もそのように語られているほど、彼らが金儲け第一の拝金主義で、カネさえあれば何でもできると思っている、という理解はちょっと違うように感じています。情報の処理能力は間違いなく高いし、ある種動物的な直感力というか反射神経は優れている。だからこそ激変する経済構造の最先端で荒波をかいくぐりながらあそこまで会社を膨張させることもできたのでしょうが、しかし、その「優秀さ」というやつが、こちら側=「戦後」の枠組みの内側にいる者たちからはうまく見えない。だからどこかで気持ちが悪い。

 ひとつ、ずっと気になっているのは、彼らが折に触れて口にする「経済」というもの言いの、その響きでした。堀江社長自身、「経済をバカにしちゃいけませんよ」といった言葉をたまに、強い調子で吐いていた。メディアを初めとした世間はそれもまた、拝金主義の象徴としてのみ解釈していましたが、しかし、あの「経済」の内実は、あたしたちがこれまで持っている語彙におけるそれとは、おそらくかなり違っているはずです。

 それはもう少しほどいて言えば、彼らの生きている〈リアル〉、彼らが見、感じている「現実」のある独特な手ざわりを何か既存の言葉に置き換えようとした時に、とりあえずその「経済」というもの言いが使われている、そんな印象でした。しかし、もちろんそれはそれまでの文科系が生きて作動し得ていた環境、あたしたちの語彙における経済とはズレている。どうズレているのかについてもっとゆっくり確かめ、できるならばその間をつないでゆく翻訳装置、「違い」をうまく既存の現実の側に橋渡ししてゆくコンバーターの役割を果たす存在を準備しなければならなかったのだと思いますが、しかし、不幸にして「違い」は埋められるモメントを求められぬままだったようです。