馬主会のモラルハザード

 地方競馬については、これまで現場の各主催者と共に、上は農水省競馬監督課から地全協、日本軽種馬協会など、日本全体を見通した競馬についての政策に責任ある立場の、いわゆる競馬エスタブリッシュメントたちの怠慢や不作為などについて、ことあるごとに指摘してきました。と同時に、それぞれの競馬場に生きる現場の厩舎関係者や周辺の業者など、競馬を仕事として生活の糧にしてきている人たちについても、これまでの無自覚ぶりや他人任せの習い性などについても、等しく苦言を呈してきたつもりです。

 実際、地方競馬の低迷すでに長く、ここにきて競馬法改正が具体化してくる中、主催者側の動きがまた一段と鈍くなって、およそ不作為の作為としか言いようのないサボタージュぶりがあちこちで顕在化しています。先日、ある競馬場では馬体重を計測するカンカン(体重計)が壊れていたのに主催者側が何日も放置、計量不能のまま開催するという事態がありました。厩舎側が気づいて早くから指摘していたのに、現場の職員が上にあげず放置していた結果だとか。あるいは、「今(競馬場が)つぶれても退職金が少ないから居座る」などと平気でうそぶく職員も横行、少し前まではタテマエとして「仕事をしています」というふりをする点数稼ぎくらいはしていたのが、今年になってから、どうせ平成21年度には新しい組織になるみたいだから今は何もしない、と言わんばかりの態度が目立ちます。競馬に携わる者たちのモラルハザードは、厩舎関係者よりも先に主催者の側に、あらわになり始めています。

 さらに、それら以外にもうひとつ、言っておかなければならないことがあります。馬を持っている馬主たちの組織である馬主会の旧態依然の体質、です。

 競馬というのはとにかく儲かるものだった、というのが「戦後」の常識でした。控除率25%のお役所競馬、というのは、まさに濡れ手で粟だったわけで、そのように儲かるからこそ、そこにぶらさがる構造というのもできてきた。それは競馬に限らず農政一般、いや、「公」が関与するいわゆるパブリックセクター周辺の生き方、ものの考え方の最大公約数として、「戦後」のニッポンに骨がらみになってしまった、ある世界観だったりします。特殊法人改革の流れの中で、競馬法改正も「構造改革」の一環として具体化されるようになってきた、そのことの時代的な背景とは、まさにそういうことです。

 JRAでも馬主会の改革は急務で、実際このところいろいろもめごともあちこちで噴出してきているようですが、地方競馬はそれ以上に伏魔殿。敢えてどことは言いませんが、たとえば馬主会を介さないと馬糧が買えなかったり、地元の馬主会に所属しないとその競馬場に馬を出走させられなかったり、地元の県在住の者でないと正会員として認められなかったり、といった、旧態依然のやり方が未だにまかり通っています。それもこれも、かつて競馬が濡れ手で粟だった頃、賞金も高く、無事に競馬を使っていれば預託料はペイできるし、ちょっと走る馬が出ればその稼ぎで次の馬の購入資金も調達できる、そんな「戦後」競馬の幸せな時代の遺物。要は、そのように地元の馬主会の「利権」を囲い込んでおく必要があるくらい、“おいしい”ものだったということです。馬主会による抽選馬、補助馬購買など最たるもの。このへんは生産地も含めて先刻十二分にご存じのはずで、そのような「構造」にどっぷり漬かったままだったそれぞれの関係者の体質が、今の競馬の「改革」の足をひっぱっている部分がかなり大きい。

 主催者と馬主会、場合によっては調騎会の幹部なども含めて、儲かる競馬の上前をはねてきた、そんな痕跡はどこの競馬場でも「みんなうすうす知っているけれども口にはできない話」としていくらでもあります。賞金がカットされる、出走手当が減らされる、でも、何らかの形でプールしておいた基金から補助が出されて不満はガス抜きされ、そもそもそんな基金がどうしてあったのか、という理由についてはみんな問わないまま、事態はどんどん行き詰まってゆく。

 いい機会です。馬主会のそんな「戦後」の利権もこの際、できる限りすみやかに解消し、競馬で儲かった分はきっちり馬と厩舎に、そしてファン=お客さん、に還元してゆく、ガラス張りの仕組みを新たに作ってゆくんだ、という強固な意志が必要です。競馬がどこか世間に信用されない、うさんくさいレジャーのまま、の理由のひとつには、馬を持つ馬主と馬主会自身の体質というのも、間違いなくあると思っています。