競馬から日本が見える

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競馬から見る日本

 今日は、競馬の話をします。北海道と競馬、特に地元に密着した地方競馬のあり方について、少し理解を深めてもらおうと思っています。

 と言っても、あなたがたいまどきの若い人たちは、競馬そのものをもうあまり楽しまなくなっているんじゃないかなあ……ためしにこの中で、実際に競馬をやったことがある、馬券を買って楽しんだことがある、あるいはテレビなどの中継でもいいから見たことがある、どういうことをやっているか知っているという人、どれくらいいますか? (手をあげさせる。パラパラと十人足らずが手をあげる) ……う~ん、これだけしかいませんか(苦笑) いや、ほんとに最近はそんなものだと思います。

 (前の方の手をあげた女子学生に)あなたは競馬知ってるんだ? (女子学生「お父さんに馬券買ってきてと頼まれて場外に買いに行っていた」) ああ、そうか、お父さんが競馬ファンでそれで頼まれて馬券を買いに。競馬場じゃなくて場外馬券の発売所に行っていたんですね。

 彼女の話が象徴的かも知れません。つまり、あなたたち二十歳前後の若い人たちの親の世代、多くはちょうど僕くらいの四十代半ばから五十代といった人たちでしょうが、彼らが一番競馬を熱心に見て、馬券もよく買っていた、もしかしたら、最後の世代かも知れない、ということなんですね。

 もっとわかりやすく言えば、いわゆる「団塊の世代」、最近は2007年問題とか呼ばれて今後、大量に仕事の現場からリタイアしてゆくことになる世代ですが、まさに彼ら「団塊の世代」あたりから、今のように誰もがあたりまえに競馬を楽しむようになったんですね。そんな彼らに支えられて、戦後の日本競馬は世界的に見ても珍しいくらい、高い売り上げを誇る競馬になってゆきました。

 「大衆競馬」という言い方を僕はしています。実際に競馬場に行かずとも、テレビの中継でレースを見て、あるいは場外発売所でモニターを見て、今なら携帯やインターネット経由で、馬券を買って楽しむ、そんな高度経済成長期の大衆レジャーのひとつとして競馬は、少なくとも中央競馬(今のJRAですね)は世界的にも評価される繁栄を謳歌してきました。

 一年中毎週休みなしの通年開催。売り上げは一時期、四兆円に届きそうな時期もありました。それまで日本の競馬に認識のなかった欧米のホースマンが20年以上前、視察に来て「工場のようだ」と感想を述べたそうですが、それはまるで機械のように整然と競馬が運営されていることに対する、彼らなりの皮肉も込めた感嘆だったはずです。

 もともと競馬というのは、よく言われるようにイギリスの王侯貴族の遊びでした。「スポーツ」という言葉の定義にも関わってくるんでしょうが、何より貴族が自分で馬を持ち、自分で毎日乗り、後には雇った調教師や騎手に調教してもらうようになりますが、そうやって、おまえの持ってる馬と俺の馬、どっちが強いかいっちょ賭けるか、という貴族同士の勝負が始まりです。まさに「ステークス」ですね。だからそのためにだけ血統も改良してゆくし、日々つきあいながら馬を調教し、変えてゆく。サラブレッドというのは最初からそのように作られてきた、妙な言い方ですが「人工的な動物」です。それは欧米人の生きものとのつきあい方をある種、特殊にとぎすませたところに生まれたものだと思います。

 で、そんな競走馬を、そういう生きものとのつきあい方を持っていなかったわれわれ日本人が、特に日本の普通の農民がわずか数十年で一応扱えるようになり、曲がりなりにも今や世界水準のサラブレッドを調教も含めて送り出すようになっている、それはやはり日本人の持っている不思議な適応性というか、近世以来の日本の農民の妙なところではあります。

どうして競馬なんかを研究するようになったのですか、といったことをよく尋ねられるのですが、自分が競馬を好きだったということと同時に、そのように競馬を糸口にして、さまざまな角度からわれわれ日本人のことや、その日本の文化というものを考えてゆくこともできる、と民俗学者としての僕はずっと言っています。



かつて、競馬は国策だった

 もともと、一般の人たちの馬券の売り上げを原資に競馬を支える、という日本競馬のような発想はかつてのイギリスにはなくて、馬券は下々が勝手に売ればいい、という態度でした。

 今のように円周の決められた馬場でレースをする「近代競馬」が日本に入ってきたのは幕末、居留地の外国人たちが楽しみでやったのが始まりです。これには日本の武士も参加した記録が残っていますが、西欧とそれまでの日本とじゃ馬の騎乗方法、乗り方からしてまるで違っていたので、なかなか珍妙なレースだったようです。

 このあたりのことを話し始めるとおもしろい話が山ほどあってどんどん長くなるので、思い切り端折って言いますと、明治以降、日本の「近代競馬」はまず国策として展開されてきました。お国のための競馬、だったんですね。

 「富国強兵」の方針の中で、当時の戦争にとっては軍馬が非常に重要な武器でした。ならばその馬を強くする、改良しなければならない、という目的で、本当は賭博、つまりギャンブルは刑法で厳しく禁止されているのだけれども、そういうお国のための政策だから例外的に認める、ということで、競馬法という法律がつくられました。ですから、その制約と管理の下で、国や「公」のセクターが関わることで「公正確保」にものすごく気をつかった、だから誰もが安心して馬券を買って楽しむことのできる競馬が行われるようになったわけです。

 騎兵が陸戦の華、とされ、馬が軍事的に重要だったのは、おおむね第一次世界大戦までと言われています。それ以降、騎兵は戦車部隊に、あるいは空挺部隊にとその伝統を受け継いでゆきます。もっとも、最前線に馬がいなくなっただけで、兵站が伸びた分、ロジスティックスに必要な馬の数は増えたんですが、それはまた別の話です。

 敗戦後、日本で最初に競馬が再開されたのは札幌でした。これは俗に「進駐軍競馬」と呼ばれたアメリカ軍の命令で行われた競馬でした。将兵と家族の慰安のために競馬をやらせろ、と言ったそうですが、この部隊も仙台から移動してきた空挺部隊でした。真駒内種畜場を駐屯地にしていたのですが、60頭も馬を連れてきたそうです。やっぱり馬が好きだったんですね。開催は昭和21年7月4日、アメリカの独立記念日。天気は霧雨だったそうです。食糧不足から芋畑になっていた桑園の競馬場を米軍の重機を使い一週間ほどので突貫工事で整備して、こうやって戦後の日本競馬が北海道から始まりました。

 でも、それより以前、たとえば明治維新の頃の日本の馬は、サラブレッドは言うまでもなく、その頃の普通の西欧の馬ともまるで違う、未改良のものでした。

 当時日本に来た外国人の日記などに、日本の馬のことがよく書かれていますが、とにかくよくかみつく、ということが繰り返し出てきます。去勢もせず、調教技術も欧米に比べて遅れていて、街なかでも荷馬車を曳く馬が竿立ちになって暴れるようなことは茶飯事だったようです。馬を扱う馬方にしても、欧米人から見れば馬をこわがっているとしか見えない。このへんは、同じ生きものでもこと「四つ足」に対する、日本人のタブーの意識が濃厚に現われています。

 明治の始め、日本でも騎兵を作ろうというので、確かフランスでしたか、当時の騎兵の軍装を真似てつくって、銃も騎兵銃という短いのをこさえて馬具も整え一応の格好をつけて、さあ、馬を連れてこい、とやっていざ乗ってみたら重くて動けなかった、という逸話が残っています。それくらい当時の日本の在来種の馬は小さく、貧弱だったんですね。これじゃいかん、というので、それこそ明治天皇の号令がかかって馬匹改良というのが国策になった。

 日露戦争の時、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』でも有名な「日本騎兵の父」と言われる、あの秋山好古少佐率いる騎兵部隊も、ロシアのコサック騎兵にたいへんな目にあってます。何より馬自体の大きさが違っていて、体高が二十センチくらい低かったといいますから、実際の戦闘ではさぞ苦戦したことでしょう。欧米の軍人からも高く評価された秋山の能力にしても、当時のそんな劣悪な日本の馬で世界最強のコサック騎兵とわたりあった、という面も含めての評価だったはずです。

 北清事変の時でも、西欧から各国の観戦武官がやってきたのですが、日本の騎兵は馬のようなものに乗っている、といった報告が本国にあげられていたという逸話もあります。いずれにせよ、明治の国家にとっては、在来種の馬に西欧の優れた馬の血を入れて改良し、軍馬として優秀な馬をつくることは国策として最優先課題だったわけです。



地方競馬という「影」

 そんな国策としての競馬は、敗戦を境に変ります。復興競馬などと言われ、空襲で被災した自治体が競馬の利益で復興資金を稼ぐ、そういう目的が新たにつけ加えられました。 

娯楽の少ない時代でもあり、競馬はたいへんな人気を博します。同じように競輪や競艇オートレースといういわゆる公営競技も新たに計画され、始まります。全部、競馬を下敷きにして開催形態などを検討してできたもので、これらは「公」が管理する公認のギャンブルとして、高度経済成長期にかけて「公」を潤す装置になってゆきます。このあたりのこともまた機会があれば詳しくお話しできればと思います。

 現在、日本の競馬には、JRAの中央競馬地方競馬のふたつの競馬があります。

 みなさんも含めていま、普通の人が「競馬」と聞いた時、思い浮かべるのはほとんどがJRAの競馬でしょう。たとえば、武豊であり、ディープインパクトであり、以前ならオグリキャップであり、さらにはハイセイコーテンポイントといった名前も年輩のファンにはなつかしいかも知れない。でも、そういう中央競馬、JRAの競馬「だけ」が日本の競馬だと思うようになっているのは、もちろんテレビや雑誌、スポーツ紙その他の各種のメディアによって日々報じられる競馬が90%、いやそれ以上、ほとんどが「ザ・競馬」としての中央競馬だからです。

 けれども、それら光の当る競馬の一方で、日本競馬の言わば下半身を支えているのが地方競馬です。主催者は県や市など地方自治地方競馬というのは、国策としての競馬の中心としてあった国営競馬、今のJRAに連なる「ザ・競馬」に対して、戦前は地方それぞれの畜産組合などが個別に許可を受けて開催していた、いわゆる「草競馬」が前身です。それ以前にも、江戸時代のお祭り競馬、地方によっては旗競馬、ボンテン競馬などと呼ばれた農耕馬を使った祭礼競馬もあるのですが、それはまた別の話です。少なくとも明治以降、近代における日本の競馬の一方の極に、この地方競馬の流れがありました。 かつては中央競馬の売り上げよりも、全国の地方競馬全体の売り上げの方が上だった時期もあります。それだけ地元の財政に寄与してたわけで、競馬の儲けで学校や公民館が建てられてきた歴史があります。

 なのに、地方競馬を開催している地元でさえも、「うちの町には競馬がある」とおおっぴらに自慢する、語り合えるものでは必ずしもありませんでした。言わば「必要悪」、ほんとはいけないことだけど財政のために仕方なくやっている、だからなるべく触れないようにする、それでも競馬をやるような特別な人たちはやってくるし売り上げはあがるのだから構わない――まあ、そういう認識でしかなかったんですね、主催者も、そして地元の人たちも。

 高度成長期以降、中央競馬の方は場外発売を全国的に展開し、マスコミを使って競馬自体のイメージアップに専念した結果、「家族揃って中央競馬」といったことまで言われるようになったのに対して、地方競馬は相変わらず以前のまま、なかったことにされたままの状態が続いて、同じ日本競馬の中で明暗、光と影のコントラストがこれ以上ないくらいくっきりとついていったわけです。



「馬産地競馬」ということ

 北海道の競馬は「馬産地競馬」ということが言われます。

 ご存じのように、日高地方を中心にサラブレッドなどの競走馬、軽種馬の生産牧場がたくさんあり、重要な地場産業にもなっている。それら馬産地を背景にした地方競馬なので「馬産地競馬」と呼びます。全国に残っている地方競馬の中でも、そういう意味で特別であり、まただからこそ、他の競馬場もホッカイドウ競馬の動向をいつも注目しています。北海道でさえ競馬をやれなくなってるんだったらうちなんて……というのは、他の競馬場の主催者からよく聞かれる言葉です。

 でも、実際には牧場の人たちも、地方競馬ホッカイドウ競馬については、正直言ってあまり熱意がないんですね。自分のこしらえた馬はJRAの、中央の馬主に買ってもらうのが理想で、というのも賞金の額がケタ違いで生産者にもいろいろ手当がついたりしますし、何より中央で走ってこそ牧場の宣伝にもなるわけですから、ホッカイドウ競馬に限らず地方競馬に行くのは、言わば仕方なくなんだ、という感覚が、残念ながらかなりあります。あるいは、売れ残ってしまい、でもほんとは走るかも知れない、という想いがあるのであきらめきれないような馬を、ならば自分の名義でちょっと走らせてみようか、と、まあ、そんな競馬なんですね、ホッカイドウ競馬は。

 少し前まで、ホッカイドウ競馬は春から秋にかけてのシーズンの間、いくつかの競馬場を巡回して開催していました。まるで旅役者の一座のように、馬と一緒に一定の期間でいくつかの競馬場を回ってゆくわけです。岩見沢旭川、北見、帯広……架設の厩舎で寝泊まりし、それをばらしてまた移動してゆく、まるでジプシーのような暮らしを、競馬を仕事とする人たちはあたりまえのようにしてきました。門別にトレーニングセンターができて、そこが根拠地になって初めてちゃんとした畳の上に寝られるようになった、といった話も、古い厩舎関係者から聞かれました。

 考えてみたら、普通の北海道の人でも、わざわざ日高に足を向けることはあまりないんじゃないですか? 友達や親戚がいたり、あるいは仕事の関係で行くことはあっても、レジャーや観光で日高の、それも牧場に出かけるということは、競馬が好きな人でもない限り、あまりないはずです。静内の桜の季節に静内に花見に行くというのが多いでしょうが、でも、あの花見も地元の牧場にしたら、出産や種付けのデリケートな時期にかちあってるので、いつも神経をとがらせていたりするわけで、いずれにしても「馬産地競馬」と言い、また事実ホッカイドウ競馬の存在を頭では知っていても、やっぱり地方競馬はちょっと限られた人たちの関わるレジャー、遊びである、という認識が一般的でしょう。

 最近話題のばんえい競馬も、平地の競馬以上にそういう性格でした。ちょうど去年の今頃、赤字続きでついに廃止か、といった騒動になっていたのが土壇場で踏みとどまり、ソフトバンクの支援を受けて帯広市の単独開催で何とか生き残って、今は「ばんえい十勝」という名前で新たな挑戦をしている最中ですが、夏場のナイター競馬をやったり、また施設の改修をしたりで、今年の夏はとにかくお客さんが一気に増えました。売り上げがそれに比例して伸びるわけでもないのは、来場しても馬券をそれほどたくさん買うようなお客さんじゃないということでしょうが、それでも競馬場が実際に賑わうというのは主催者はもちろん、実際に馬を走らせる厩舎の人たちにとっても一番張り合いのあることだったりします。

 帯広その他、地元の道東にいながら、それまでばんえいの競馬場に実際に足を運ぶ人というのは、やっぱり限られた人たちだったんですね。それが今年は、存廃騒動からこっちマスコミなどでもいっぱい取り上げられたこともあり、それまでばんえい競馬に関心を持ってなかったような若い世代を中心に、とにかく競馬場に人が集まるようになった。それはひとつ大きな変化だったと思います。

 このところ、競馬を規定する競馬法自体を改正して、こういう中央と地方、特に地方競馬のこの現状を何とかしよう、という動きが始まっています。ばんえい十勝が民間の協力で何とか踏みとどまったのも、そういう動きを背景にしたものですし、ホッカイドウ競馬の方も近いうちに同様の、事実上の「民営化」の方向に踏み出すはずです。これまで競馬に興味がなかった、あるいは興味があっても中央競馬しか眼が向かなかった普通の人たちにも、なんだ、地元にこんな手づくりの楽しい競馬があったんだ、と気づいてもらう、そして何も馬券だけではない楽しみ方を競馬場というのは提供できるんだ、ということを知ってもらう、そんなことができるようになるはずだと、僕は期待しています。

 これはとても皮肉なことですが、日本の競馬が中央競馬中心にここまで発展して、世界的にも高い売り上げとそれに支えられた高い賞金水準を誇るようになっていった戦後の過程というのは、しかし同時に、われわれの身のまわりから馬が一気にいなくなっていった過程でもあるんですね。もともと馬となじみのあまりない文化ではあったにしても、わずか十数年で農耕馬も含めて一気にそれだけ馬をなくしていった文化ってのは他にないんじゃないか、と、以前、アメリカの学会で向こうの民俗学者からも言われたんですが、でも、かつては日本でも日常に馬がいた。いなかはもちろん、街なかでも荷馬車はいたし、普通に生きものとしての馬の姿はあった。道路は舗装されていなかったし、馬糞だってそこら中に落ちていた。ましてや、北海道ではほんとに馬と身近な暮らしがついこの間まで、あったはずなんですよね。なのに、「馬産地競馬」という時にそういう記憶、体験といったものは、あまり反映されていなかったりする。それが僕にはずっと不思議ですし、はがゆく思うところでもあります。

 実は今年、夏場に毎週どこかでやっている草ばん馬を見てまわってたんですが、ああ、ばんえい競馬の背景にはこういう具合にまだ、草ばん馬を楽しむ文化があるんだなあ、さすが北海道だなあ、と改めて痛感しました。内地でも平地の草競馬は残っていますが、仕事と密着した文化的な背景を感じさせるものは正直、もうないと言っていい。「馬産地競馬」というもの言いを単なるスローガンにしてしまうのでなく、こういう〈いま・ここ〉でもまだ生きている「伝統」の中に投げ返してやることで改めていきいきしたものにしてゆける、そういう意味でも、これから先の北海道の「馬産地競馬」には新たな未来を切り開いてゆける可能性が大いにあるんだと、思っています。

*1:某大学での講義の記録をもとにしたもの。