山田洋次の「晩節」

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――ぼく自身、大衆の側に立って映画を作りたい。それを忘れたから、だんだん映画というものをみんなが見なくなったのじゃないか、と思っています。ぼくは、そういう立場で映画を作り続けたい、と思っている人間だし。

――貧乏に耐えて、歯を食いしばって一生懸命映画をつくるというのは大事なことですが、ただそれが「売りもの」になるのはおかしなことです。「こんなに一生懸命に作ってます」と言われたって、お金を払って見る観客には関係のないことですから。



 まずは過去形で始める。山田洋次が好き、だった。

 若い頃撮った『馬鹿シリーズ』は、黒澤だの小津だの今村昌平だの岡本喜八だの増村保造だのの作品のいくつかと同格、未だに個人的なベストフィルムのひとつ。ああ、ハナ肇の身体を存分に使い回したあの味わいは、民話にも等しい定型の〈おはなし〉の盤石さとあいまって、ニッポン映画ってすげえ、とケツの青い生意気盛りの十代にして、しかと思い知らせてくれたものだった。

 「寅さん」?  おう、やっぱり好きだったよ。盆暮れに「寅さん」見ないと落ち着かない、てなベタベタの常民にゃとても及ばないし、庶民的なるものへの信仰なんざクスリにしたくとも持ち合わせず、ただ純粋に娯楽として、エンタテイメントとして上質のものとして好きだった。、気ままにつまみ食いで見てもどれもそれなりに当たり外れなし、ラーメン屋のカラーボックスに放り投げられているツユがしみて端っこのヤレまくった『あぶさん』だの『流浪雲』だのに接するのと同じ信頼と安心。とりわけ初期の、まだ渥美清が若くて、その若い分間違いなく生身の彼の持っていた剣呑さ、異人ぶりが役柄を超えて滲み出していた頃の車寅次郎の「ろくでなし」ぶりってやつは、ほんとによかった。「あんの野郎、いっそ死んじまえばいいのに」と吐き捨てる森川信の初代おいちゃんの、その気分も確かにそう思えるだろうと共感できるくらい、当時の渥美と寅次郎は厄介者そのもの、だったのだ。

 そんな映画を撮っていた山田洋次が、ここにきてどうもヘンだ。言わせてもらえばなけなしの晩節すらもここにきて汚してるんじゃないか。そんな不信感がまず最初にあった。だから過去形、なのだ。

 だって、とにかく直近のあの『母べえ』がひでえ。純粋に映画として、つまり売り物商売ものとしてデキがなんだかなあ、ということだけではなく、そのフィルム一本をでっちあげるに際して寄ってたかってうごめいたであろうあれやこれやの思惑や当て込みなどもろもろのしがらみが観客席のこちら側からでさえたやすく透けて見えちまって、映画そのものにも卑しい翳りを染みつかせてしまっていた。海外の映画祭を当て込んだ提灯持ちをやらかしても、結果は落選、それどころか同じ日本人の無名の若造のこさえたフィルム以下の評価ときた。そんなこんなを全部ひっくるめてやりきれないくらいにひどい、見てらんない、そういうことだ。


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 まず、作者が野上照代。何者だよそれ、と思ってたら、黒澤明のスタッフで長年スクリプターをしていた女傑。一部じゃ「日本映画の語り部」などと提灯までつけられているとか。それが自分の生い立ち、体験談をもとに書いたもの。なんでまたそんなシロモノをわざわざこの忙しいのに映画化までしたのか、山田自ら取り上げたというが、何にせよ不可思議千万。

 そりゃあ、その手のわけありヒモつき興行は映画であれ芝居であれつきものだが、そんなシロモノはたいていそのヒモの向こう側を握る手合いがわかりやすくなってる、と相場が決まっていた。だったら、今回の『母べえ』のヒモの端をにぎってるのは……法華経でもなければ在日や解同利権でもなく、ましてヤクザ方面でもなく、ええい、要するに「戦後」の、とりわけゲージュツ方面に長年巣くってきた「サヨク」「リベラル」亡者の呉越同舟、最後のひと山いくらの大醜態なんじゃないの、ということだ。

 舞台は戦前、ダンナがドイツ文学者で治安維持法でぶちこまれた家族を守るかあちゃんの話。要は、戦時下の都市部「良心的」インテリとその苦悩、ってやつで、それでも「家族」の絆はしぶとくもゆるがなかった、てなところが最大公約数のテーマで泣かせどころか。

 『三丁目の夕日』シリーズのロングランに象徴される昨今の「昭和レトロ」ブームにつながる設定を狙った興行的眼力はひとまずありだと思うが、だが、敢えて思想的脈絡で言えば、それは、90年代の「歴史教科書」問題などからはっきり形になってきた「戦後」史の、ひいては近現代史の国民的規模での失地回復運動の流れに対して、言わば逆手から関節技をかけるような「反動」の一手でもある。「なつかしさ」「人間関係のあたたかさ」といったものをミソもクソも一緒くたにフックにして、でも持ってゆく先はある一定の「戦後」の枠内にきっちり誘導、逆戻りさせてゆくような、まあ、そういう手口。このへん、意図的なものかどうかはともかく、ひとまず敵ながらあっぱれではある。「戦後」と骨がらみになってきた構造としての「サヨク/リベラル」ってやつは、この清算期に至ってなお、未だこの程度にしぶとく「文化」である。

 とは言え、映画としては華もなければコクもない。いや、映像をこさえてゆく職人仕事の丹精は存分に見られるし、それに見合った完成度というのももちろんある。けれども、肝心の〈おはなし〉、ドラマとしての闊達さ、躍動感といったものが、そこには宿っていないのだ。その見事なまでの落差はある意味、感動的であり、またしみじみと〈いま・ここ〉である。

 何より、当の「母べえ」を、吉永小百合にせざるを得なかったあたりが、そこへと至るしかなかっただろうしがらみもひっくるめて、いまの山田洋次の不幸。無茶を承知で言うが、70年代「寅さん」全盛時の山田自身ならば、絶対に吉永小百合などは登板させなかっただろう。ということは言い換えればそれは、いま、この時点こういう局面の現場で“あの”吉永小百合をあてがわれ使わされてしまうような立ち位置にうっかりいてしまうようになっちまっていることの不幸、でもある。

 「昭和レトロ」につながる「なつかしさ」ブームの最大の弱点でありまた利点でもある、当時を〈いま・ここ〉に媒介しながら反映できるだけの身体を持った役者がすでにいなくなっているということが、ここでは最も悪い形で出た。吉永小百合? そんなもの、すでに〈いま・ここ〉を生きられなくなって久しい、だからこそ「戦後」「サヨク/リベラル」のトーテムにおさまっちまってる、実存なき団塊還暦越えバアさまじゃないのよ。長嶋茂雄を持ってくりゃプロ野球がまだ何とかなると思っているあのナベツネ並み、場外ホームラン級の見当違いだ。


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 山田洋次。言わずと知れた「寅さん」――「男はつらいよ」のシリーズで国民的映画監督となった御仁。それがいま、近代ニッポンの興行界を仕切ってきた大松竹の、近年いっそ見事に骨粗鬆症に陥っちまっていた屋台骨を、ギリギリ最後のところで踏みとどまって何とか支える役回りになっちまってる。

 いや、ひとり松竹どころか、「戦後」の枠内で生きながらえてきたニッポン映画そのものの敗走に次ぐ敗走をしんがりで、あの駒形茂兵衛のごとく大手広げて土俵入りしてみせる羽目になっているように見える。結局、ニッポンの映画ゲージュツの最期を看取る役回りになっちまったってことなんだなあ、と嘆息した。心ならずも葬儀委員長。そして本人もまた、うすうすそんな立場を自覚しているんじゃないか、とにらんでいるのだが。

 昭和六年大連生まれ。ということは、うへえ、石原慎太郎ともほぼ同世代。当人とって78歳。押しも押されもしないジイさま、ではある。あるが、なのにそんな印象は持たせないあたりが、まさにこの世代あたりから出てきた「戦後民主主義ジイさま」のひとりではある。

 昭和29年松竹入社。松竹である。大船である。ある意味、守旧派の総本山、古い因習的なニッポン映画界の構造そのものである。それは山田洋次を今のような山田洋次に仕立てあげてきた背景、ざっくり言っちまえば「戦後」の「左翼」とがらんじがらめになってきた「ゲージュツ」のありようそのものもその構造の一部として抱え込んじまってきたような文脈も含めて、だ。

 そう、「左翼」もまた、そのように「戦後」の構造の内側にあり続け、そしてそこからついに自らをはがしてゆくことができないまま、運命を共にしようとしている。山田洋次の現在とは、そのひとつの象徴でもあるはずだ。

 松竹では、あの大島渚と同期。かたや京大卒、そしてこちら山田は東大卒。東大京大を出て映画メジャーに入り、もちろん映画監督をめざす、という道が、おそらくは今からもう考えられないくらいに輝かしいものとしてあり得た時代。もちろん、東大ったってその後とも、もちろんいまともまるで違う、官僚や政治家をめざすのが当たり前、いくら文学部だと言ってもそこはそれ、やっぱり活字が王道で、新聞記者(これもまだ当時は輝かしかったろう)や出版社(もちろん良心的な出版ジャーナリズムが夢想できた時代だ)がメインで、それでも映画という道がひとつ、確実な「自由」の依代としてあった。そんなサブカルエリートの群れの中に、かつて山田洋次はまぎれていた。吉田喜重篠田正浩、そして大島渚のニッポンヌーベルヴァーグ三羽烏の「前衛」たちほど華々しくとりあげられることもなく、企業内序列の助監督として、通り一遍のプログラムピクチュアのルーティンの枠内で、おそらくは決められた予算、上限の決まった時間といった制約を逆手にとりながら少しずつ自由になってゆく、そんな道行きを始めていた。

 定型のゆらぎなさと、その定型から何ものかを間違いなく受け取ることのできるリテラシーを、まだ人々は持っていた。世間はそのように〈おはなし〉を滋養として何ものかを受け取る、そんな作法がまだ十分にあり得た。山田洋次がその手法を自分のものにしていった時代状況、情報環境とはそのようなものだった。

 おそらく山田に限ったことではない。そんな定型が活きてある、つまり耳と語りの〈おはなし〉がまだ存分に活きて稼働していた情報環境で主体化していった世代の創作は、定型をきちんと定型として動かして、なおそこに何ものかを宿らせてゆく腕力が備わっていた。映画に限らず、おそらく芝居も、そしてそれ以外のジャンルであっても。

 だから、それら定型の現実からひきはがされたところの者である「インテリ」であることが、そのままで「庶民」の側に寄り添うことになるかも知れない、そんな「夢」を同時代のものとして生きることもできた、その意味で幸せな民主主義の空気をはらんでいったのが、まさに山田洋次だったのだと思う。

 「インテリ」であることの恍惚と不安。彼の「庶民」「常民」像は、敗戦後、昭和20年代杉浦明平きだみのるの描いたようなイメージが下敷きになっている。ムラがそのように描かれるようになった、同時にそれは民俗学の捕捉してきた村落社会が「戦後」の言語空間において初めて、それまでにないくらい「広く読まれるようになってゆくこととパラレルだったりするのだが、それはまた別の話だ。山田洋次が体現しているのは、「戦後」の「インテリ」の自意識のある最大公約数である。「進歩的」であり「良心的」であり、融通無碍に「民主的」でもあり、でも現実には決して当事者になれず永遠の傍観者の気分のままの役立たず。

 でも、一発釘を刺しとくよ。だからといっていまどきの「プロ市民」だの「サヨク」だのといった下等物件とそのまま同じでもない。断じてない。その間の決定的な違いってやつを、ならばどのように〈いま・ここ〉から役に立つように繰り込んでゆけるか、それこそがいま、一番難儀な問いだったりするのだから。

 馬鹿シリーズから寅さんへとつながれてゆくキャラクターの来歴については、原型はあの無法松。それはかつて拙著『無法松の影』で全力で論じてみせたから繰り返さない。ただ、あの『馬鹿まるだし』で、田舎まわりの無法松を見た時に、「あんまり聞いたことのない芝居だね」と、ハナ肇の安五郎親分にまず言わせた距離感の正確さに、白状する、舌を巻いた。まいった。この御仁、やっぱりただもんじゃない。さらにダメ押しに「あたしゃやっぱり股旅もんの方がいいねえ」「単純なんだな、生まれつき」と呵々大笑。でも、そんな安さんが田舎芝居の無法松に一発でハマってしまう。そんなキャラクターは「戦後」において「お笑い」を介在させながら、ようやく生き延びることができた。その最終ランナーの寅さんが90年代末まで生きながらえたのは、実際象徴的だ。同じ時期に、現実の渥美清も命を落としたことも。


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 いま、山田洋次は「巨匠」と言われる。だが、彼がそのように呼ばれることは、かつてのニッポン映画は想像できなかっただろう。
 なぜなら、映画はアヴァンギャルドであり、ゲージュツである、という自己規定が強烈にあった状況では、プログラムピクチャーを職人として撮ってゆくことに修練した山田洋次のような監督は好まれなかったからだ。少なくとも、映画をそのようなゲージュツとして見るのをよしとするような価値観、世界観にあったファンの側からは。

 なにせ義理人情を肯定しただけで「反動」と目されかねなかった時代だった。古くさい人情もの、とくくられた「寅さん」などは、映画で能書きをいいたがるようなこまっちゃくれた手合いから好まれるはずもなかった。仮に、何かの脈絡で山田洋次と「寅さん」を評価することはあっても、決してニッポンの、同時代の映画を語る時、いの一番に出てきはしなかった。

 くすぶっていた、のだとは思う。固有名詞として突出してゆくこともできず、当時最後の全盛時を迎えていたニッポン映画産業の最前線で、組織として動いてゆく中で懸命に自分に与えられた役回りをこなしながら、華々しく踊り、活躍する同世代のあいつやこいつの姿を横目で見ながら、あいつらとは間違いなく違う場所にいざるを得ない、そんな自分の現在について冷静に解釈し、落ち着かせようとしていたはずだ。

 そのような自省は職人としての自分、というアイデンティティに向かう。それも個人としてでなく、集団の中で、チームの中で支えられている自分、という方向に。長谷川伸ならば「何ものかに生かされていたことに気づいた」といったもの言いになるのかも知れない。だが、山田洋次にとってのその「何ものか」とは、映画づくりの現場で個別具体に結ばれてゆくチームワーク、共に現場を過ごしたスタッフや役者たちとのソリダリティだったろう。

 そういう仲間意識、共同制作の創造の場の成り立ちに、どこからどこまでがそうだったかもすでにわからなくなっている程度に、左翼的なるもの、は骨がらみになっていた。それは昨今、ようやくおおっぴらな批判にさらされるようになった局面での「サヨク」とはおそらくかなり違う、もっとなんというか、思想だの信条だのといった水準にまで蒸留されてしまうより前の、共に身体を張って仕事をしている、そんなかつての渡り職人、飛びっちょたちのソリダリティに支えられたような、そんな現場だったのだと思う。

 そういう手ざわりを前提にした左翼とは、今やすでに歴史的過去になってしまった文化としての左翼のエッセンスではあり、すでに左右で弁別できない領域にあるものでもある。そして、ここはもう言っちまうのだが、あたし自身、そういう手ざわりがかけがえのないものであるという信心を原初的に持っちまってるがゆえに、こういう類の汗臭くもうっとうしい〈リアル〉の気配に対しては、必ず一歩斟酌してしまうところがある。

 だからこそ、なのだ。山田洋次自身を責める、批判するということよりも、山田をそのように萎縮させ、硬化させていってしまったものもまた、その〈リアル〉の重要な部分である、という意味も含めて、ああ、やりきれないなあ、と思うのだ。

 本来、突出した固有名詞も、しかしそれを支える関係と「場」の中で初めて立ち上がる。その相互性、弁証法というのがイデオロギーとしても、現実としても、もう信心を集められなくなった。それは観客の側も同じこと。「巨匠」というもの言いが、市場の観客の側からわきあがるのでなく興行側や広告屋の都合でのみインフレ化してゆき、黒澤や小津から始まって、ついに山田洋次にまでくっつき始めるようになった。


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 しかし、彼は生き延びることができた。「戦後」が傾き終わってゆく過程でも、映画資本内での職人としての立ち位置を「寅さん」シリーズにたてこもる形で確保しつつ。「寅さん」がそのシリーズの長命さと共に、なんだかんだ言ってもすごいかも、といった感じで評価され始めるのは、やはり80年代に入ってからだった。

 そんな彼が、断末魔を迎えつつあった「戦後」になりふり構わずとりつかれ始める。それがおおむね97年、渥美清の死後、「寅さん」シリーズ終焉前後の山田洋次をめぐる状況だった。

 渥美清が死んで、「寅さん」シリーズが事実上継続できなくなり、ということは年間の赤字を盆と正月の「寅さん」で何とか穴埋めする、という経営のしのぎ方が不可能になった。そしてその同じ頃、あの「奥山事件」が松竹に勃発した。若社長奥山和由を中心にした90年代にあった松竹の内側からの「改革」運動。まさにある種の構造改革だったのだろうが、しかし皮肉に言えば、没落してゆく映画業界の中、「寅さん」がかろうじて可能にしていた「構造改革」という名の“道楽”、それを支えていたのが「職人」山田洋次だった、ということになる。だがそれは、内部のクーデターによる解任という末路を迎えた。

 映画業界的に、そしてその取り巻きたる評論家的にはそれこそさまざまな解釈や解説があるのだろうが、この場じゃそれらは知ったこっちゃない。奥山のやらかしたことの是非はともかく、少なくとも彼なりに必死に否定し、乗り越えようとしたニッポン映画業界の旧来の構造、大船調とひとくくりにされてきたような「古い」「戦後」のニッポン映画の、その構造の内側に山田洋次はいた。しかも、いつしかその中核に。

 「戦後」の構造を、それが没落してゆく最悪の状況で、おのれの持ち場で支える責任をなぜか負わされてしまった、という役回り。まわりを見渡しても他に人はすでにいない。だったらそのめぐりあわせひとまず引き受けるしかない、場合によっては殉じるしかない、と思ったはずだ、彼が正しく昭和六年生まれの日本人ならば。

 思えば渥美清を、いや、あたし的には断固、ハナ肇もひっくるめて言うのだが、彼らのあの身体を失った時、山田洋次は自らの方法論を現実に適用する足場を失った。それは役者個人の肉体という意味だけでなく、同時代から彼らのような身体がフェイドアウトしてゆく状況との関係においても、ということでもある。

 結果、山田洋次の手もとに残ったものは、彼を中心として映画をこさえてきた「山田組」のソリダリティと、そこに宿ってきた「技術」だけだった。それは具体的にはドラマの定型、という形でひとまず現出されるしかないようなものだし、その次元ではまだ再生産の可能なものだ。だが、同時にその定型を十全に味わい、読み取って楽しんでくれる観客=「戦後」の常民、そのものからして、同じく状況からフェイドアウトする過程も必然的に同伴する。同時代の〈リアル〉とは〈おはなし〉の水準でさえも、いや、だからこそ、か、このように互いに反響、共鳴しあいながら、いつしか異なる〈いま・ここ〉へと知らぬ間にうつろってゆく。

 かくて、映画監督山田洋次は、同時代の仲間との「場」を媒介に自分のものにしてきた「技術」と定型を手に、同時代から切り離されたまま、同じく〈いま・ここ〉から落伍し始めた「戦後」の「構造」の重心へとようやく呑み込まれてゆく。


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 2002年、『たそがれ清兵衛』で初めて本格的な時代劇を、それも京都太秦にこれまた初めて出張って撮った。奥山事件以後の松竹の、そして「戦後」ニッポン映画の「構造」の側からの言わば本土最終決戦。その決戦をひとまず山田洋次は何とかしのいだ。『たそがれ清兵衛』は興行的にヒットし、山田の評価も「構造」の側で一気にあがった。

 実際、松竹自体、奥山追放後の業績は回復しているという。『たそがれ清兵衛』でとりあえず面目一新、『武士の一分』『』時代劇シリーズ三部作でしのぎながら余裕をこさえ、そしてそんな中でまたぞろ少しは“道楽”ができるようになった時に『母べえ』が出てきた、ということになる。商売として利益を出し、会社に儲けさせ、そのことによって自分の居場所を拡張してゆき、発言力も増し、そうやって自分のやりたいことを現実にさせてゆく。もちろん、その過程で自分の現場もまた。そう、かつて山田洋次がそのように自分の領分を確かなものにしていった迂遠なやり方。だが、そこにおおいかぶさるものの厖大さはどうだ。

 要はこの人、「民主社長」に取り巻かれて身動きとれなくなってきたんじゃないか、そう思った。

 「民主社長」とは、呉智英の傑作エッセイ「民主社長の肖像」に出てくる零細「良心的」出版社社長のこと。たとえば、大マジメにこんなことを力説するような御仁である。

 「民衆ってものは、本当に柔軟で、おんもしろいことを生み出すものですね。私は、民衆を信じることとぱろでえ、この二つが、頭か固い秀才左翼によってだめになった革命運動に活を入れることになると思ってますよ。」

 言われた呉はもちろん困惑した。だからエッセイの題材にしたのだが、その距離感はたとえば、未開の蛮族にいきなり文明を教え諭された文化人類学者のそれ、だった。

 冒頭の山田の発言は70年代半ば、「民主社長」のエピソードもほぼ同時期のことだから、今からもう30年も前のこと、共に古証文には違いないが、しかしだからこそ、「戦後」の構造というやつが如実に露頭しているのが、いま、この時点だからこそかえってあからさまに見えたりもする。

 いつの頃からか、こういう「民主社長」とその係累に十重二十重に取り巻かれ、いずれ眼はキラキラ、まさに常民そのものの人のよさ、誠実すっぽんぽんの顔つきで自分と自分の「寅さん」をうっとりと仰ぎ見る、外形だけは確かに現代人、どうかすると一応インテリ/知識人/文化人の類だったりもするのだけれども、でもその群れなすたたずまいはどう見ても〈その他おおぜい〉、良くも悪くも一本立ちの「個」としてあしらうに足るものの気配はついぞ見えない。実際、彼自身そんな自分のまわりの状況に、内心かなり辟易しているかも、いや、間違いなくそのはずと思うのだが、それでもそんなことはおくびにも出さず、また出さないことにもう長い間慣れてしまって、いまや立派に老境、八十歳に近くなった現在ではすでにその慣れ自体が、ああ、いまや「個」としての山田洋次の一部にまでなっちまってる。

 そっけなく言い放てばまずは自業自得、自ら選んだ果ての現在だとは思う。思うが、しかし同時にまた、う〜ん、やっぱり気の毒っちゃ気の毒、なのだ、今のこの状態は。他の愚物下等物件、十把一絡げの凡俗ならいざ知らず、あの山田洋次だからこそ、いかに現在、ここまで気の毒なことになっていても、あたしゃやっぱり無碍に突き放してはしまえない。

 そう、かつて間違いなくリキのある映画を何本も産み出し、うっかり踊ることもなく自分の持ち場で時代と切り結び、そしてそんな自分の仕事ぶりをそれを可能にした技術と支えた「場」と共に必ず同時代の関係の中で内省し、その時その時の自分の「場」に連なる歴史と来歴の脈絡においてつぶさにことばにして方法化してきているはずの、そんな「戦後」の映画職人。その意味で民俗学的知性のひとり、でもある。だからこそ、「左翼」が間違いなく時代のデフォルトであった「戦後」を主に生きてきた世代の知性としては、未だこの二十一世紀の状況においてもなお、読み取るべき何ものか、が絶対にある、しぶとくも憎たらしいひとりだと信じているからだ。

 聞くところでは、最近、山田洋次は「寅さんがまたいくらでも撮れるような気がする」と漏らすようになっているという。それも、ふらっとロケハンに出かけた折りなどに。

 ほんとだろう。〈いま・ここ〉の、高度経済成長からもすでに遠く、「戦後」が確実に違う時代に移行してしまったことを誰もが身をもって「わかる」ようになったこの二十一世紀のニッポンを眼前にして、いや、だからこそ、定型としての「寅さん」はまだいくらでも再生できる、そういう宣言なのだと思う。かつての〈リアル〉を支えた定型が、定型として新たな命を獲得できるようになっている。その程度に文脈がずれてしまった現実からでも、再び定型を動かすことはまだ可能だ、と。

 〈リアル〉は再び定型として生命を宿してゆく。〈リアル〉の中からそれを支えていた定型が定型として時代の推移の中で抽出されてゆき、文脈をずらしたところで違ういのちをうっかりと吹き込まれてしまったりする。そんな定型の凄みについて改めて気づいた、気づいて方法化する秘訣を自分の内側に感じ取った、そんな山田洋次に、しかしいまの松竹は、未だ「戦後」にしがみつくしかない「構造」の側は、いま一度「寅さん」を撮らせたりするのだろうか。

 高倉健で無法松をやれ。やるなら「喜劇」で。かつて間違いなく同時代の下支えを背景にあんたが獲得したあの定型を、定型として臆面もなく〈いま・ここ〉でやらかしてみろ。「いくらでも寅さんが撮れる」ということの証明は、その方向でしかあり得ない。民俗学者としてあたしゃこのことは断言しておく。

*1:『正論』産経新聞社、掲載原稿