「シナ」幻想の精算を

 シナに対してはなんとなく引け目が、というのが、いつしかわれらニッポン人の大方に組み込まれている気分らしい。とりわけ、「媚中派」などと呼ばれ、何かというと「友好」第一、ご無理ごもっともで平身低頭、パンダと国益を平気で引き換えにするようなエラい人たちの眼には、特製の不思議フィルターが。与党も野党も、官も民も、財界も労組も、シナに対しては腫れ物扱い、さすがに世間も「なんでそこまで?」と不審に思い始めているのを尻目に、なお一向に了見を改める気配もなく、労働者も留学生もまだまだ増やすぞ、と意気軒昂。ああ、そうか、こういう無力感を「あの暗い戦前の再来」って呼ぶんでしたっけか。

 「戦後」を通じてわれらの価値観世界観に無意識のうちに埋め込まれているらしい、この「シナ」幻想。「シナ」「中国」から、時に「大陸」や「アジア」などまでひっくるめて、それら一連の単語自体にまつわってきていたあれこれの夢や思い込みの類を、ここらでいったん全部、精算しませんか? だって、今のシナ、眼前の中国は、もうかつてのシナじゃない。毛沢東のシナでもなければ、訒小平のでもない。ましてや、紅軍長征とその後の建国神話の頃などすでに遠い昔。なにせあの文革は言わずもがな、近くは「一国二制度」のワヤを敢えてやっての成金バブルな経済成長、その道行きでさて、向こうさんがどれほどかつてと別ものになっているのか。真の日中友好はこの先、まずそこを確かめることから始まるはずです。