馬産地の荒廃

 馬産地の風景が、ここにきて大きく変わりつつあります。
 まず何より、馬のかわりに牛があたりまえにいるようになった。いや、これはもう一、二年ほど前からちらほらと見かけるようになっていたことなのですが、それにしても今年の春先あたりから一段とそれがまた増えた。あれ、ここって確か牧場で、以前は馬がいたよな、というところに白黒まだらの乳牛や、見るからにいかついおそらくは肉用牛でしょうか、そんな牛たちが草を食み、ごろりごろりと寝転んでいるようになり始めていた。最初は、それこそクルマで通り過ぎる中にたまに見かける程度だったのが、ここにきてそんな牧場、放牧地がそこここに立ち混じるようになっています。
 「いや、牛に変わったところもそれはそれできついらしいよ」と言うのは地元日高の、こちらはまだ馬で頑張る小さな生産者のひとり。飼料高騰を始めとして、畜産をめぐる環境が一気に厳しくなっているのは牛とて同じこと。エサやら燃料やらが当初のあてを圧迫していて、自前で牛を入れたところはもちろん、預託でしのいでいるところでも、これじゃ何のために牛に転換したかわからん、というのが正直な現状とのこと。

 「どだい、地元の農協からして、馬じゃもうカネ貸さん、牛に転換するなら融資する、なんてこと言って尻押ししてるんだけどさ、でも考えたら、補助金なんてもとは出どころは一緒みたいなもんでしょ。馬で稼いだカネがまわりまわって牛やら何やらのカネになってるところがあるわけでさ。やれどれだけ補助金引っ張った、牛でこうやってしのぐんだ、って寄るとさわるとこそこそ自慢しあう人がたもいるけど、何のことない、農協経由でおりてくる補助金頼りで何とかするしかないってのは、馬でも牛でも同じこと。なんも変わらんのだわ」

 だから、小さな規模の生産者の中には、全部を一気に牛にするのでなく、馬の生産を縮小した分を牛でカバーするような形にして、で、牛の名目で引っ張った資金を馬に流用するような「工夫」も出てくる由。

 「これだけ馬が売れなくなると、おっかなくてタネつけできなくなるよ。たとえば、自分ちにいる繁殖五頭のうち来年生ませるのは二頭くらいにして、同じような状態の近所がたで施設や放牧地を共用したりとか、そりゃいろいろない知恵しぼってしのいでくしかないんだよねえ」

 戦後のニッポンの、補助金頼りの農政がどれだけ近世以来の「百姓」を、その積極的に評価できる価値観やエートスなども含めて最終的に絶滅させていったのか。いまさらですが、改めて思います。もはやほとんどの競馬関係者が意識しなくなっていることかも知れませんが、馬も競馬も、そのような「農政」の枠の内側にあらざるを得ない部分がどうしようもなくあってしまう現実。にも関わらず、表立っての農政のディスクールからは余計者としてなかったことにされる、という構造的な矛盾も、また。
 加えて、四半世紀にわたる「国際化」の最終段階で、主なG?(正確には「旧表記でのG?」ですか。ああ、めんどくさい)を全部外国馬に「開放」する、という施策ももう既成事実化。馬産地への「説明」も形式的にやられていますが、そんなもの単なる事後報告でしかないのはいつものことで、馬産地の生産者のさまざまな声や意見がうまくそのようなニッポン競馬の大枠でのこの過渡期の施策に反映される回路というのは、情けない話ですがこの21世紀になってもなお、まともに確保されていません。
 いちばん馬に近いところで、日々の仕事を黙々とやるしかない、そういう〈その他おおぜい〉のひとりひとりの声や想いをうまく集約し、その大きな枠組みを支え、変えてゆく責任ある場所にいる部分に届けてゆく、そのための仕組みがさまざまな組合や団体、組織といったもののはずなのに、ことこの馬と競馬にまつわる世界では、そのような組織がうまく末端のさまざまな利害も含めた意見や要望を吸い上げてくれるようにはなってきていません。生産者団体だけではなく、それこそ競馬場の調騎会や馬主会から、各主催者同士の横のつながりなども全部ひっくるめて、いったい何のための組織なのか、連絡機構なのか、というのがほんとにわからないようなシロモノが、失礼ながらあまりに多すぎます。

 「パート?国だ、なんてことを平気で口にしてうかれてるのが、JRAや農水のおえらいさんがただけならまだしも、生産者を代表する立場の人がたまで一緒になって同じこと言ってるんだからどうもならんっしょ。国際化で日高の生産者の三分の一は廃業するようになる、なんて言われてたけど、なんの、今でもうそれくらいの軒数にまで減ってるし、まだ下げ止まってないんだからさ。たとえ競馬場が残って競馬が続いても、今度は馬がいない、馬主がいない、厩務員も若い衆からどんどん辞めてく、なんてことになり始めてるよ。ほんとに十年先、いや五年先にどういうことになってるのか、誰にももうわからんような状態だよねえ」

 それでも競馬はある、日々開催は続きます。新たに生まれる馬たちもいる。ならば、そのように動いてゆくしかない眼前の競馬の現実に対して、誰がどのように責任をとろうとするのでしょうか。