「政治」の変貌、をめぐる隠れた難儀

 思ってることとやってることがズレちまってる人。というのがいます。

 人というより、誰しもそういう状況、そういう場合ってのはあると言えばあるわけですが、それが習い性みたいになっちまってるというのは、また別のモンダイではあります。何がって、まあその時節柄、選挙がらみのハナシなんですが。

 ホンネとタテマエ、という言い方もあります。本当に腹の中で思ってることと、立場上そう言わねばならないことやとらねばならない態度、の間のズレを説明するのに、これはこれで便利なもの言いとして長年、使い回されてきています。

 ホンネだけでは世の中生きてゆけない。ホンネはホンネとして、それとは別にタテマエを守ろうとすることで世の中それなりに支障なくまわってゆくもんだ――程度の差や文脈の違いはあれど、概ねそういう理解で誰もみな日々をやりすごしてきたし、実際今もそうやっている、少なくとも「オトナ」というのはそのあたりをうまくバランスとって生きてゆくものだ、と。

 難しく言えば「政治」ということになるのでしょう。それも大文字のものでなく、日々の日常、誰もが生きている当たり前の現実の中の。ただ、それが「政治」として自覚されることなく、いやそれどころか、タテマエがホンネを覆い尽くしてしまうのが常態化しちまい、そもそもホンネが何だったのか自分自身ですら意識することがなくなっちまってる、それこそがおそらく、ニッポンの「政治」をめぐる隠れた大きな難儀なんだと思います。

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 とは言え、誰もが大方そういう状況にあると、互いに便利なこともある。

 たとえば、ああ、あんな風に一応言ってるけれどもあの人、本当はあんなこと思ってないよな、立場として役回りとしてああ言わねばならないんだよな、といった「理解」を先回りしてしてしまう、あるいはしてあげる、そういうことも自然にできてたりする。そういう「理解」というホンネもまた表沙汰にしないように別のタテマエで抑え込んでおく、という作法つきで。

 政治家や官僚、あるいはテレビのコメンテーターや評論家の類のメディアを介して眼に触れる人がたはもちろん、生身の範囲の日常のやりとりでさえも、どうやらそういう「理解」が以前よりずっと自然に、約束ごととして共有されるように昨今なってきているようです。「立ち位置」だの「ポジショントーク」だのといったもの言いが近年、普通に使われる語彙に加えられてきているのも、そのひとつの証拠。人はタテマエだけで日々やり過ごしてる、そういうもんだ、という理解が知らぬ間に国民的規模で共有されるようになっているらしい。

 同時に、タテマエを演じる側もまた、そういう「理解」をあらかじめある程度当て込んだ上でタテマエを演じているところがある。「わかっている」「理解されている」という担保、ないしは安心の拠り所。そのタテマエで自分がどれだけ辛い状況に置かれたとしても、それがタテマエであってホンネではないことを「わかって」「理解して」くれている人たちがどこかにいる、そのことを頼りに何とか辛抱して耐えてゆくことができる、そういう感覚。

 善し悪しはともかく、そういうタテマエとそれを暗黙のうちに「わかっている」まわりとの関係こそが、どうやら日々の日常はもとより、それらの上に積み重なっているはずの組織や団体、さらには地域や自治体、公的セクターに至るまで、われらニッポン人にとっての「政治」のありようとして、かなりの程度無言のうちに了解されてきているもののようなのです。

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 で、選挙です。仕事としての国政、大きなものを動かす「政治」です。

 タテマエとしての演説や公約、活動の向こう側にさて、どれだけホンネに値する何ものかをわれわれ「わかって」「理解」しているのか。わかっているのは眼にし耳にしているものがほぼタテマエであるということ、それだけなんじゃないだろうか。ならば、彼ら彼女らがホンネで目指しているものは何なのか。いや、彼ら彼女ら自身、そんなもの確かに自覚してタテマエに血道あげているんだろうか。

 自明のものとして演じ続けられるタテマエの中からしか、ホンネもまた生まれてこないかも知れない――そんな情報環境にもはやわれわれは生きているらしいことも含めて、「政治」は静かにその様相を変えてゆきつつあるようです。