オグリキャップの語りかけたこと

 オグリキャップ東京競馬場での「展示」は、まず大成功だったようです。同じく、マスターズジョッキーのイベントも。あの佐々木竹見大明神も直線、かるく追ってみせるなど、いやもう、そのシーンだけでオールドファンにしたら涙モノ。岡部も元気そうでしたし、何よりです。

 本欄では前々からこういう企画がいまこそ必要、と折に触れて力説していたわけで、それは最も競馬が熱かった時代の「記憶」を共有している今の三十代以上、上はそれこそ団塊の世代に至るまでの最もコアなボリュームゾーンに訴えかけるという意味で必要なのだ、という趣旨でした。まさかあの天下のJRAがそれを聞き届けてくれた、とは思いませんが、それでもこういう企画、こういうファンサービスを曲がりなりにもやる、ということは、まだJRA、ニッポン競馬を本当に何とかしようという気概がある証拠と見ます。

 そもそもオグリキャップは「里帰り」として、以前、笠松競馬場にお目見えしています。今から3年前、「存廃」の瀬戸際が踏みとどまった笠松が、ファンに対するお礼の意味も込めて招いたもの。あの時も、なんとファンが一万人も集まって、改めてニッポン競馬の熱かった時代の「スターホース」の「記憶」というのはすごいもんだなあ、と実感しました。外厩の専用厩舎を設定、馬房もいくつかぶち抜いて広げた特別仕様のうまやにいたのですが、途中、ファンが夜、厩舎の塀を乗り越えて中に入ってくる騒ぎもあったりで、二十四時間体制で専属の警備員を置いたり、いろいろとエピソードは残っています。

 先には、そう言えばイナリワンも大井にお目見えしていました。あるいは、もっと前にこういう企画ならば福山競馬場が先んじてやってたりする。マスターズジョッキー的なエキジビションも二回ほどやってるそうですし、スターホースの里帰りならばローゼンホーマを一昨年、数日間にわたってかつてのホームトラック福山に招待することもやってました。アラブ競馬がこの国ですでに事実上終焉を迎え、種牡馬としてもすでにお役目を終えていた老ローゼンホーマに、彼の最も強かった時を見知っている地元のオールドファンたちに最後の挨拶をさせてやろう、という趣旨は、今回のオグリキャップの企画とも通底する、無数の名もない競馬ファンの間に宿る「記憶」の中の競馬の「熱さ」に訴えかけるものでした。

 こういうイベントについては以前から、売り上げに直接結びつかないじゃないか、という「批判」が主催者筋ではお約束です。でも、そんなもの第一義に考えてのイベントじゃない。「競馬」にいま、関心をつなぎとめてもらえる、かつて熱かった「記憶」をよすがに、今もまだ競馬は元気ですよ、競馬場は同じように熱い場所だし、だからまた足を運んで今現役で走っている馬たちを見てやってくださいな、という、そんな裾野を広げたところでの、ファンサービスの一環でしょう。

 オグリキャップ、できれば本馬場を歩かせて欲しかったところもありますが、管理上、あるいは体調上などいろいろ懸念されることもあったのでしょう、大事をとってのパドックでのお披露目はひとまず想定内。いまどきのこと、携帯電話のカメラを向けるファンがずらり取り囲む光景は、報道などでも紹介されていましたが、なかなかいいものでした。

 今走っている馬や騎手たちだけが競馬じゃない、かつて走っていた、そしてそれが人々のそれぞれの「記憶」の中に残っている馬たちやレース、何でもない風景のひとコマから、もっと言えばこれから先、生まれてきて競馬場で走ってくれる馬たちも含めて、ぜんぶがニッポンの競馬であり、それらの全体像をぜんぶひっくるめて初めて、競馬「文化」なんだ、ということを誰の眼にもわかりやすく、啓蒙してゆく。そういう事業も、売り上げに一喜一憂することと全く等価に、JRAの、そして地方競馬の、主催者の重要な仕事のはずです。

 歴史を作るんだ、という言い回しが英語にはよくあります。あるいは、われわれ自身の価値を作り出す、といった言い方も。そういう意味での、「文化」としての競馬の歴史をひとつひとつ積み重ねてゆくことは、単に感動するレース、その時代その時代に人気のある強い馬たちを作り出すことと共に、それらを確かなことばにし、語り、伝えてゆく営みも併せて成り立つことです。その意味で、なるほどオグリキャップの時代のニッポン競馬は、未だ語り継がれるにたる競馬を確かにやっていた。それは今の競馬と比べて時計がどうの、馬の水準がどうの、といった、昨今ありがちな一部競馬ファン(実はこういう手合いはファンですらない、とあたしは思っていますが)味気ない能書きで貶められるようなものでは断じてありません。強いばかりが競馬じゃないといつか教えてくれた馬、の一頭としてのオグリキャップの語りかけてくれたものが何だったのか、改めて、いま競馬に携わり、ニッポン競馬のこれからに責任ある立場にある当事者それぞれが、深く考えてねばいけないことだと強く思います。