未だ「庶民」幻想強し

 「正義」「公正」とは、この世に生きる人々の手によって共につくりだされる状態である、ってことを、きれいさっぱり忘れてらっしゃるようです。元の厚生労働大臣、津島さんのご発言「一生懸命やっている人たちに、歪んだ批判を向けるのは良くない」、であります。もちろん、昨今逆風真っ只中の厚労省の方々を想定しての擁護発言。「一生懸命」だから勘弁してやれ、とはまったくおそれいります。そもそも、間違ったことを長年修正もせず、そのまま「一生懸命」続けてしまってきたからこそ、年金も何も、今のこういうていたらくなんじゃないですか? 考えなしの「一生懸命」ほど始末の悪いものはありません。
 「一生懸命」そのものが無条件に価値である、という認識は、市井の個人の処世道徳としては結構ですが、政治家としては通俗的な「庶民」理解と地続きで、上から目線の差別意識の温床にもなる。それは昨今うっかり表象される「庶民」「国民」をあてこんだ彼らのパフォーマンスにも共通しています。
 麻生首相カップラーメンの値段を尋ねて得意満面の若手議員や、ホテルのバーより焼き鳥屋、で「庶民」気取りの新聞記者。割烹着を着ながらその下からきれいなおべべが丸見えという街頭アピールをやらかしたのは菅直人の奥サマでしたし、小沢代表ときた日にゃ、おまえら「国民」は難しいことは考えなくていいから黙ってオレたちに投票しろ、とまで言い放つ男前ぶり。ああ、まるで「サザエさん」か「フクちゃん」の頃の新聞マンガの定番そのまま、いまやバーチャルでしかない「戦後」「昭和」な「庶民」イメージが、永田町からマスコミに至るまで、今なお亡霊のようにしつこくとりついているようです。