ニッポンに「ヴァーチャル・リアリティ」はあるか

 

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  日本に「ヴァーチャル・リアリティ」は成立しているか、というのが編集部からの質問でした。それに対する答えとしては、おそらく成立はしているんでしょう、と答えておくのがひとまずフェアなのでしょう。

  われわれは言葉をあやつる動物であり、その限りで意味を呼吸して生きてゆかざるを得ない生きものである、その意味では、われわれ人間そのものがむき出しの自然からあらかじめ疎外された存在なのですし、その限りで人間は本質的にヴァーチャル・リアリティの中で生きてゆくべく宿命づけられた生きものなのだ、という言い方も、なるほどできなくはありません。

 しかし、それをよく言われるような、コンピューターその他の新しいメディアの普及によって「現実」よりもその「ヴァーチャル・リアリティ」の方にリアリティを感じる偏った感覚の人間を作り出してしまっている、といった脈絡においてだけいきなり理解していたのでは、それこそ「張りめぐらされた情報メディアの網の目によって濃密な幻想が成り立ってしまい、国際標準のリアリズムから疎外された特殊な国、ニッポン」といった昨今ありがちな、海外からのわけ知り顔した日本理解のステレオタイプ以上にはまず到達しません。「ヴァーチャル・リアリティ」というのは日本語では「仮想現実」と訳されるようになっていますが、何より皮肉なことに、そのような「ヴァーチャル・リアリティ」を云々したがるような日本の知識人たちのあやつる言葉自体がすでに身の丈のリアリティからかけ離れた「仮想現実」を作り出すものになっていて、まただからこそ、そのような海外からの日本理解ときれいに同調できるものになっている。そのねじれた構造に対する自覚が薄いまま「ヴァーチャル・リアリティ」というもの言いを振りかざすことは、それ自体が日本で今起こっていることを見えなくしてしまうところがあります。この「ヴァーチャル・リアリティ」に限らず、ことさら海外にまでその発言がスムースに流通してゆきがちなこのような日本の知識人のもの言いの作り出す「仮想現実」としての日本の、さらに向う側にうずくまる身の丈の日本の現実を凝視しようとするためには、何より日本の情報環境のこのような構造に対する方法的自覚がまず不可欠です。

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  とは言え、現象として、何やら生身の現実の手ざわりが希薄になっているらしい、そのことがうかがえるできごとは、なるほどここ十年足らずの間に日本では次々に起こってきています。それは、たとえば犯罪にそのことが最も先鋭に反映されているところもある。大きなものだけざっと拾ってみても89年の幼女連続殺人事件、95年のオウム真理教の一連の事件、そして今年97年の神戸の小学生惨殺事件、それらの犯人たちはみな、高度経済成長の「豊かさ」の中で生まれ育ってきた世代の日本人でした。具体的には今、三十代から下の世代です。彼ら「豊かさ」を自明のものとして生きてきた世代がそれまでの日本人とは違ったリアリティを獲得しているらしい、そのことはまず素朴に問いかけていい。

  では、その彼らが呼吸してきた「豊かさ」の内実とはどのようなものだったのか。しかし、困ったことに日本の知識人たちはそれを言葉にすることをほとんどしてこなかった。社会の現在をつぶさに言葉にして知的思考の舞台に投げ返す回路が整備されないまま、経済論理による独裁で成し遂げられた「豊かさ」の必然として、今、そのツケはまさにその理念も美意識もない「豊かさ」の中で生まれ育った世代に回っています。

  たとえば、パソコンです。日本におけるパソコンの普及は、なるほど90年代に入って以降、急速に進んできました。ウインドウズ95によるOSの統一が事実上ほぼ達成されたことももちろん大きいのでしょうが、それら市場的な理由の外側にもうひとつ、未だあまり正面切って指摘されない社会的な要因があると僕は感じています。それはキーボードに対する慣れです。これが、先にあげたような日本の「ヴァーチャル・リアリティ」状況を規定してきているところは決して小さくない。

 歴史的に言って、日本人はキーボードによる言葉の入力を学んできませんでした。タイプライターはアルファベットという表音文字によって構成される外国語のための専用機としてだけ使われ、和文タイプも開発されたものの例外的なものでしかなかった。一般の庶民にとってキーボードはまず縁のないものだったわけです。

  それが80年代半ばあたりから、ワープロ専用機がかなり普及するようになった。それは、庶民にとっては主に年末に自分で作った年賀状をきれいに印刷するための道具として普及してゆくわけですが、しかし、それによって若い世代を中心にキーボードで言葉を打ち込む技術が浸透していった。それはパソコンの普及よりもずっと広汎に、先行して起こったことです。そのようなキーボードのリテラシーの浸透が前提となって、その後のパソコンの一気の普及を支えたところがある。その結果、今、少なくとも三十代から下の世代の日本人にとっては、もはやキーボードアレルギーはあまり問題にならなくなっています。彼らの世代にとってはパソコンが仕事に必要とされるようになったということもありますが、一方でそれとはまた別に、私的生活の領域でパソコンをインターネットも含めた通信に利用する側面が大きくなっている。

  つまり、日本の社会において、大衆化されたパソコンというのは事務処理のツールとしてよりも、本質的にキーボードを媒介にした新たなコミュニケーションのツールとしての意義が大きいわけです。キーボードによって「思う」「考える」速度で言葉を叩き出し、文字という形にしてゆく、その国民的経験の広がりは、明治維新このかた、西欧の言語とそれまでの知的伝統との間に複雑に引き裂かれた日本の知識人層にとりついた言葉と現実の乖離の傾向に対して拍車をかけ、しかもそれをより広い層にまで拡散させることになりました。三十代から下の世代の、それも未だ多数が男性であるような国民層を中心にして、パソコンは携帯電話などと同じく、若い世代の日本人のコミュニケーションのありようを大きく変えているところが確かにある。その変化は活字を介した表現や口頭の発言といったその他のコミュニケーションの局面にまで逆流して波及し、先にあげたような日本的な「ヴァーチャル・リアリティ」状況を全体として促進するようになっている。キーボードを叩くようによそごとの言葉、現実と切り離されたもの言いを繰り出す技術が、生身の個人のレベルでどんどん浸透しています。

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  もうひとつ、同じような文脈で重要だと思われるものにゲーム機の普及があげられます。これはまだ社会的な文脈できちんと論じられていませんが、ともすればパソコンやビデオ、アニメといった機器の局面でだけ語られがちな「ヴァーチャル・リアリティ」の問題を、日常生活の次元から誠実に考えようとする時に決して無視できない現象です。事実、ファミコンを小学生の頃からやっていた世代が今、すでに二十代前半にさしかかっていて、しかも最近ではプレイステーションを始めとしたより高度化したこれら家庭用ゲーム機の需要は急速に増大している。パソコンを扱わないまでもゲーム機をいじらない大学生はむしろ珍しいでしょうし、携帯電話に触れたことのない層となるとさらに少数派のはずです。

  ただこれらも、ともすれば言及されがちなその映像自体の刺激などよりも、むしろキーボードと同じく、手もとのコントローラーを忙しく動かしてゆく身振りとの対応でその映像がどのような意識をもたらすかという、言わば上演される場での生身の身体との関係においてそのメディアの意味を考えることが必要でしょう。

 「自分」という感覚がキーボードなりコントローラーなりを媒介にして、画像の方へと吸い取られてゆく。いや、もう少し正確に言えば、生身の身のまわりを飛び越えて、ディスプレイの画像の中に、あるいはさらにネットワークの空間にいきなり「自分」が組み立てられてゆく。そのような「自分」の感覚が若い世代のある定数として成り立ってきている結果、書物と活字によって作られた現実の中で「自分」を形成してきたそれまでの世代と、そうでない、むしろ書物よりもその外側に出現した「自分」に依拠する彼ら若い世代との間の世代間の軋轢がいよいよ深刻なものになってきています。

  「ヴァーチャル・リアリティ」が真に日本の社会問題になり得るとしたら、このような「豊かさ」によってもたらされた情報環境の変貌が、国民の中に質の異なる「自分」をそれぞれ存在させるようになっていることでしょう。それはひとまず世代間の軋轢として現象化していますが、しかし別の局面では、たとえば自らのアイデンティティを外部に求める過剰な「国際化」としても現われるでしょうし、また一方では、たとえば「おたく大国日本」的な屈折したナショナリズムの表現としても現われるでしょう。海外から観察される「日本」の背景にこのようなねじれた構造があることをどこかで知っておいていただくことは、日本人と言葉のありようがこれまでと変わってきていて、言葉に限らず表現されたこととその表現した主体の間の関係がどんどん希薄になってきている現状について敏感に覚ってもらえるための第一歩なのだと、僕は思っています。

*1:Japan なんちゃらという英文の対外広報誌みたいなメディアだったはず。それなりに公的な機関かその外郭団体的なところが出していたような。そういう掲載誌が掲載誌なので、日本語で書いたものを先方専門家が英訳してくれ、それをこちらが再度確認、という手続きだった記憶がある。ガチの英訳ってのはほんとに大変な作業なんだとおのれの悪文棚に上げて感服した。