ホッカイドウ学、のこと

 ホッカイドウ学、ということを考え始めました。札幌は清田区、あの羊ヶ丘の南どなり、札幌ドームともごくご近所の小さな大学で、です。

 北海道学、ではなく、ホッカイドウ学、です。敢えてカタカナ表記にしてみたのは、奇を衒ったわけじゃない。小さな大学であることを逆手に取った、これまでとちょっと違った新しい学問のカタチがきっとある、という確信からです。

 中身は見ての通り、北海道についての学問。と言って、何も新しい学問を一から立ち上げようというんじゃない。まずは、これまでさまざまな学問領域で蓄積されてきた北海道についての研究成果を、地元の人たちにもわかりやすくほぐして紹介してゆく。専門家の手によるまとまった研究だけでもない。普通の人の、趣味や道楽で手がけてきた仕事も視野に入れれば、さらにとりとめない、それこそ日々を生きる中でのちょっとした感想や記憶の断片、明るみになっていないできごとや忘れられたおはなし……何だって構わない、この北海道にまつわることなら何でもありにひっくるめて、この「ホッカイドウ学」という大ナベに放り込んでみたいと思っています。そうして、地域に生きる人たちの口にあうように料理をし、味を調え、新たな器に盛りつけてみる。そのように大学と地域、学問と世間の間をつないでゆくことで、大学も地域も共に賢くなってゆこうという、まずはそんなゆるやかな運動のイメージでの学問です。

 その意味では、近年あちこちで起こってきた、地元を足場にした地方学の試みにも通じます。90年代半ば頃から、それら「○○学」と銘打った地域研究の流れが、地域の大学や研究所などを足場に全国に広がってゆきました。それは一方で、まち起こしや地域振興といった同時代的な要請にも呼応しながら、自治体や公共団体などパブリックセクターも巻き込んだ動きを伴っていました。けれども、それら一時期もてはやされた地方学も、一時の熱がさめると硬直したり、あるいは町おこしのアイテムのひとつとして都合よく消費されていったり、その後なかなか苦労しているところが多い。関わってきた人たちはこう言います。結局、資金と人脈がないとダメだよ、続かないよ、と。

 でも、資金も人脈もないからこそできることもあれば、小さな大学ならではの役回りもあります。いまみたいに、時代が大きくそれまでと違うあり方に変わってゆく変わり目ならばなおのこと。立派な門構えも屋敷もない分、おのが足腰と運動神経だけを頼りに身軽かつ縦横無尽に、眼前にとりとめなく広がるこの現実とつながってゆくこともできる。点は線になり、面となって新たな「場」をつむぎ出してゆき、そこに連なってゆくことで誰もがみんな一緒くたに賢くなってゆけるとすれば……ほら、こりゃもう立派に学問、プロもアマチュアもない、立場を越えた開かれた知の運動になるじゃないですか。

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 ホッカイドウ学、のホッカイドウとは、これまであたりまえのように語られてきた、他でもない北海道の人たち自身もそのように思ってきた、いまある北海道ではありません。

 開拓に移住、アイヌに辺境、厳しい自然環境……そんなこれまでの歴史や経緯に良くも悪くも縛られた北海道でない、当の地元の人たち自身も気づいていない、未来に向けて開かれたイメージもはらんだ〈いま・ここ〉からの、まだ見ぬ新たな北海道=ホッカイドウ、です。

 北海道という字面から規定されるさまざまなイメージや、すでにまつわっているあれこれのしがらみなどからいったん距離を置き、一歩離れたところからもう一度、この北海道のカタチを、他でもないこの北海道に実際に生きてきた人たちの内側から改めて発見してゆきたい。そうして、北海道自身がすでに持ってしまっている自分自身についてのイメージをもう少し自由なものにさせてやりたい――そんな想いを込めてのカタカナ表記です。

 ですから、ホッカイドウ学は、いまある北海道に対するフィルターであり、濾過装置です。北海道に棲みながら北海道についての認識を内側から新たにしてゆくための道具です。自分たちの生きる現実を常にいきいきと現前させ続けるための活きた方法であり、よりよい未来をひとりひとりが自分たちの手もと足もとで選択してゆくための媒体であり、さらに目線を先にくれるなら、それぞれが生きる現在=〈いま・ここ〉から等身大の〈リアル〉を取り戻すための、日本人としての失地回復運動にもどこかでつながってゆくはずです。

 北海道“を”、じゃない。むしろ、北海道“で”考える。その結果として新たな地元、生きてゆくべき場としてのホッカイドウを発見し、ひいてはニッポンまでも再構築してゆく――そんな大それたたくらみもひそかに込めているからこその、ホッカイドウ学、なのです。

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 手はじめに、去年の暮れ、ちょっとしたイベントを開催しました。

 北海道に縁の深いこまどり姉妹の記録映画の上映会に加えて、当のこまどり姉妹のおふたりをお招きしてのミニライブにトークセッション。資金も乏しく人手もない1日きりの、学生たちと一緒になった文化祭に等しい手づくりのイベントでしたが、ありがたいことに700人以上の人に集まっていただくことができました。

 そのほとんどが50代半ばから60代以上の方。つまり、こまどり姉妹と同じ時代を生きた世代の方々、でした。しかも、道内各地からはるばるやってこられた方も予想以上に多かった。自由席にも関わらず当日、開場の2時間以上も前からホールのロビーに並び、行き会った見知らぬ同士がこまどり姉妹の話題でおしゃべりする、そんな様子を間近に眼にして、これまで「歴史がない」と一律に言われてきた北海道の、未だ文字にならない、表に見えてこない記憶の水準でのもうひとつの歴史の豊かさ、を改めて感じました。

 当日、アンケートをとらせてもらっていたのですが、その場で記すだけでなく、わざわざ用紙を持ち帰って自宅でていねいに書き込んで後、返送してくれる方もたくさんいらっしゃいました。かつてどういう状況で、どんな思いでこまどり姉妹の唄を自分が聴いていたか、いまもお元気なおふたりの姿を目の当たりにすることでその頃の記憶がどのようによみがえってきたのか。いずれ北海道がまだ「豊かさ」の恩恵に浴し始める前の、どれもこれもまごうかたない生活の断片と共にそれらがびっしりと書き込まれていました。

 芸能の力、というのはこういうものです。こまどり姉妹を触媒にして、未だ語られていない当時の北海道の暮らしの記憶が、生きたことばとして引き出された。ふだんは記憶の底にしまいこみ、改めて引き出すこともないままだっただろう日々の暮らしの記憶。それらを一気に〈いま・ここ〉に召還するだけの力を、なるほど、こまどり姉妹のおふたりの72歳の生身ははらんでいました。

 「演歌」というのははっきり見下されていたこと。今あるような意味で「演歌」というもの言いを使うようになったのはもっと後のことで、ほんとの「演歌」というのはわたしたちみたいな流しの芸人の歌うものだったこと。その一方で、当時のレコード歌手の多くは学校出で音楽の教育を受けた人たちだったこと。だからずっと下に見られていたし、レコード会社とまともな契約もかわしてもらえなかったこと……などなど、身近に接した中での問わず語りにじっと耳傾けながら、でもだからこそ、ああ、その頃の北海道の暮らしの側からはそんなこまどり姉妹はまるで地続きの存在であり、まるで身内のように身近に感じられたであろうことを、ともすれば一律に語られてしまう高度経済成長の「豊かさ」にもその程度には地域や時間の「格差」が厳然とあったらしいことを、改めて感じたものです。

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 北海道には歴史がない、と言われてきました。当の北海道自身、そう思ってきたところもある。道産子は歴史に関心が薄い、自分の両親や祖父や祖母がいつ、どこからやって来たか、家族の出自や来歴を知らないしそんなに興味もない、由緒ある神社や寺もないし、土地の記憶と密接に結びついた地名にもなじみがない、だからダメなんだ、と。

 そんなことを言えば、たとえばあのアメリカなども歴史がないことになります。けれども、アメリカでの歴史を考える学問は、こちらで言う民俗学社会学などと近くて、〈いま・ここ〉にはらまれている生身を介した歴史、いわゆるoral historyの水準も軽視せずに扱う姿勢が強い。文書や記録、書かれたものだけでない、それ以外の素材もまた、歴史を構成する大事な資料という考え方。だから、日々の暮らしの細部も淡々と語り、聞き、ちいさな言葉で地道に記してゆく作業も、そんな歴史の下ごしらえとして確実に評価される。小さな大学は地域と関わってそのような作業を促すことで、新たな学問の場を準備しています。

 歴史とは、年表のようにひとつの方向にだけ延べ広げられるものというだけでなく、同時に、それぞれの手もと足もとに、〈いま・ここ〉のふところに幾重にも折り重なりながらはらまれているものでもあるらしい。少なくとも、民俗学者はそう考えます。歴史がない、と北海道が言われるならば、上等です、それこそが逆に北海道のアドバンテージ。これまでの既製品の歴史とは違う、<いま・ここ〉にたっぷりはらまれている記憶や話しことば、身振りや感覚といった生身に近い水準を介した、未だカタチにならないもうひとつの歴史の相とも、むしろ屈託なく自在に出会ってゆける可能性がたっぷりあるというもの。

 空間としての地域に縛られた地方学ではなく、均質な時間としての歴史に引け目を感じる地方史でもなく、この北海道から一点突破で日本までもとらえ返してゆくような構想力を宿し得る運動としてのこのホッカイドウ学の夢は、さて、どこまで行けるのか。まずは歩く速度からゆっくりと、歩みを始めてみたいと思っています。