年齢62歳。職業、騎手、なお現役――山中利夫


 7月31日、金沢競馬場第5競走。C3四組1,400?、11頭立て。

 11頭の出走馬たちののべ出走回数、1010回。一頭あたり平均出走回数、91.8回。若い4歳馬二頭を除くと、106.8回。つまり、あれだ、かのハルウララ級がずらり並んでいる、そんな競馬だとまずおぼしめせ。

 ああ、これぞ地方競馬のその他おおぜい、日々繰り返されている仕事としての競馬の、どこにでもあるレースのひとつ。いつもと同じ、いつも変わらぬありふれたちいさな競馬。

 しかし、それでも競馬は競馬。勝負である。勝ち負けである。だから、身体を張ったかけひきもあれば、命のやりとりだってそこにある。決して大げさでなく、淡々とした事実として。だから、勝負の当事者たちはいつも同じ、知恵をしぼるし緊張もする。

 馬の名は、タノムバンチョウ。父はオフサイドトラップ、母はアグネスラークの牡馬8歳。早来は吉田浩三生産の栗毛馬。2005年10月、ホッカイドウ競馬でデビュー一戦後、金沢へ。以後ずっと足かけ6年地元在厩、この日まで通算成績118戦5勝、2着16回。獲得賞金、210万円とちょっと。最後に勝ったのは2年前、2009年の夏8月。

 スタートして出足もつかず中団、ロスしないよう内側でじっと我慢で追走、前を行く馬たちの出入りをじっと見ながら向こう正面過ぎ、三コーナー手前あたりから手綱をしごきあげて徐々に上昇、何とか先行馬群のうしろにとりついたところで、直線入り口ではスッと外めに持ち出して、手応えも悪くなかったのだろう、そこからなお全身で追い続ける。右ムチばかりをひと完歩かふた完歩おきくらいに一発一発、確かめるように、また馬を励ますようにしっかりくれてやりながらの、そこにある馬体から生身の力をこってりと絞り出すような騎乗ぶりの3着入線、1分33秒5。勝ち馬との差、コンマ5秒。着差、ハナと2馬身半。それでも、最後の力強い伸び方は1、2着馬よりも明らかに目立っていた。

 あがってきた騎手の勝負服は、青に胴桃縦縞。馬を下り、後検量を終え、鞍や馬具を片づけているところに声をかける。あわや2着か、という差し脚でしたね。

「よかったやろ? 最後、今日はちょっと本気で追うたからね。あまり大きな声じゃ言えんけど」

 汗が額やこめかみを流れ落ちしたたっているまま、苦笑い気味にそう言った。いたずらっぽい眼がくるっと動く。息はまだ荒い。勝負服の下、いまどきのこととてブロテクターひとつになった頑丈そうな身体から、これも生身の熱気がふんわり放たれている。

 騎手の名は、山中利夫金沢競馬場所属。通算成績2811勝。昭和24年7月11日生まれの御年62歳。今も正真正銘の現役ジョッキー、である。

 JRAならば、あの岡部幸雄柴田政人らとひとつ違い。アンカツより10歳、大井の至宝、的場文男よりまだ7歳年上。この6月、日本の競馬史上の最年長騎乗記録を更新、それをきっかけに「お元気な還暦ジョッキー」としてこのところ、地元の新聞やテレビその他に紹介されたりで、ちょっぴり顔も売れている。そのせいもあるのだろう、何の打ち合わせもないのに阿吽の呼吸でカメラ目線をくれたり、取材のあしらいにも手慣れたところが。

 実は、初対面で開口一番、もうあかんあかん、乗るのしんどいんや、とすれ違いざま、投げつけるように言われたのが挨拶代わり。一瞬、出鼻をくじかれたのだが、それでも、地方のベテラン騎手にありがちな、磯の生きもののような閉じた偏屈さのこびりつく気むずかしいタイプとは感じられなかったのは、その言い方や声の響きにどこか開かれた、ある種の余裕、あるいは達観みたいなものを察知していたから、だろう。

 そして、その予感は、あたっていた。

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 62歳、という年齢もさることながら、春木競馬場の出身、と聞いていた、それがとても気になっていた。大阪は岸和田市に、かつてあった競馬場。70年代初めに廃止になった。競馬好きなら、河内洋調教師がこの春木出身ということをご存じかも知れない。これまで消えていった競馬場は数あれど、春木と紀三井寺はすでに歴史の彼方、おぼろげにしかその像を結んでくれない。その春木のことからまず聞いてみたい、そう思った。

「実家が春木競馬場の近くやったんよ。生まれは岸和田。家から競馬場の観覧席が見えて、ああ、人がいてるわ、今日は競馬してるわ、ああ、今日はガラガラやわ、競馬ないなあ、と、そういうとこやった」

 家は地元の普通の百姓。自分の家で食べるだけのコメを作っていたり。けれども、決して普通でないところも、一方で。

「兄貴が調教師で、ほいで、うちのおじさんとかもみな馬主やった。そういうことで競馬場とはもとから関係深かったんや」

 家にはうまやもあった。自然と馬になじんだ。中学1年の頃から、競馬場から故障馬持ってきては、自分がカイバやったり、田んぼのまわりで乗り運動をしたり、世話をした。

「いまはそこらみな住宅地になっとるけど、いまから50年くらい前やもんねえ、田んぼばっかりで、また岸和田はため池も多いところやからね。わしゃトンボとりとかそんなんして育ったんやから。そういうとこにうまやがあって、そこでカイバつけたり、夏になったら草刈ってきて食わせたり、そんで兄貴に小遣いちょっともろたりしとったんや」

 高度成長期のとば口、まだ競馬場が日々の暮らしと隣り合わせにあった頃。春木だけじゃない、紀三井寺でも笠松でも高崎でも中津でも、ちいさな競馬、地方競馬とはそういうあたりまえの風景の中、百姓仕事を前提にした技術や感覚と共に、平然とそこにあった。

 そして、そんな競馬場のまわりならどこにでも生まれた、馬と競馬にうっかり魅入られた人たち。近世以来、ニッポンの「農」と共に平野に宿った豊かさのある部分、そのように馬のまわりに集まった人たちが、期せずしてその後の競馬を支えるようになってゆく。

「その時分は騎手になろう思てたんや。けど、だんだんカラダが大きなったもんで、こりゃ重たなったら大変やなあ、と思て、と言うて、わしら高校行くアタマもないから、いっぺん就職したわけや」

 帝国鋼線というワイヤーロープの会社。家から近く、電車で20分もあったら行けるとこにあった。中学校からの紹介で、言わば集団就職。だが、3ヶ月ほど働いてケガをした。ワイヤーを巻く30?くらいの道具を落とした。床が油だったもので足が滑った。「安全靴はいてたんやけど、足を複雑骨折してしもて」結果、ひと月ほど休養。

「そしたら、調教師やってた年離れた兄貴が、トシ何してんねや、って感じで声かけてくれた。競馬場来いよ、目方重たかったら別に騎手にならんでも、テツ屋の丁稚でもしたらええがな、わしとこで厩務員かてできるがな、と。家もカネ持ちやないし、ほいで10月の中頃からやったかな、競馬場に行ったわけや」

 馬には乗れた。でも、運動はできても攻め馬はできない。しかし、それも稽古して乗れるように。仕事がおもしろくなる。その先を見る。

「そうなったらやっぱり騎手がええわなあ。若いし、競馬場おりゃなあ。で、目方減量して、その年の12月の試験受けたんや。背は今と同じくらい(約155?)やったから、目方だけ絞って。主
催者の方も、やっばり調教師の弟やから、と。それに地元のおれらの村の人が上の方にもおったし、そういう人らのチカラもあって、まあ、うかったわけや」

 60年代半ば、高度経済成長の果実がゆきわたるに連れ、競馬も市民権を得始めた頃。中央ではシンザンが出て、浦河の牧場には馬もさわったことのないファンがふらりと姿を現すようにもなり始めていた。今に連なる大衆競馬の黎明期。地方はまだその恩恵に浴しきれなかったものの、大阪という土地柄もあったのか、春木競馬は順調に売り上げを伸ばし、全国でも屈指の賑わいだったという。カネがまわれば人も集まる。気も荒くなる。武勇伝も飛び出す。氷屋の使う大きなノコギリを振り回しての喧嘩沙汰も普通だった、とか、やんちゃで男前な話は春木に限らずこの時期の地方競馬、特に西の競馬場にはてんこもりだ。

 ヤクザだって馬を持つ。子分もこぞって馬券を買う。そのスジの馬が出走すれば1日の売り上げが一千万単位で変わることも。場内立ち入り禁止なんて無粋な……あ、いや、お行儀よしな規則などまだ生まれる前、外国タバコだけを置く売店やれっきとした職人の握る寿司屋が場内にあったり、いずれ昭和の「鉄火場」、焼跡出自の「バクチ場」としての沸き立つようなあやしい空気はたっぷりとそこにあったはずだ。

 そんな春木でデビューした山中さん、ほどなくリーディングジョッキーにもなっている。それも2回も (70年と72年)。人気もあった。

「春木の頃から「ガッツ」が売り物で、ガッツガッツ言われてこれでもなんぼか人気あったんよ」

 そう言えば、そうだ、ガッツ石松と同い年。風貌やキャラも、当時売り出し中だった彼と通じるものがあったのだろう。

 『岸和田少年愚連隊』という映画をご存じか。もとは中場利一の小説で、井筒俊幸が映画に仕立てた。デビュー間もないナインティナインのふたりが主演で、まだ売れる前の宮迫俊之やブラマヨの吉田なども脇で盛り上げていた。70年代初め、まさにその岸和田に生きる若い衆の生態を描いたやんちゃな作品なのだが、どのシーンでもいい、そこに映し出される岸和田のくすんだ町並みに、当時の「ガッツ」――若き日の山中利夫騎手の姿を想像し、重ねてみる。岸和田の競輪場に行きたいんよ、と線路上に仁王立ち、片手で電車を止めてみせた地元の遊び人「カオルちゃん」(小林稔侍が怪演!)のような無茶な客だって、その頃の春木だもの、いなかったはずがない。そんな地元に支えられてちいさな競馬は賑わっていたのだから。

 春木競馬が廃止になったのは1972年(昭和47年)、山中さん23歳の時。それまでもいろいろ経緯があったのだが、現場にいた山中さんたちの理解だと、まずこんな話になる。

 「共産党の知事(黒田了一)が公約で、私が知事なったら春木競馬場廃止にします、言うて知事になった。で、しゃあないわなあ、公約やから。ごっつ売れてんのに競馬やめることになって、なんやかんや言うて補償競馬を2年間やったんやが、それが売れまくったんや。何十億集めなあかん、言うてたのがその倍くらい集まったんやから。競馬のよくなる上向きの時分に辞めたからまだよかったんやな。みんなようけカネもろた。そのカネにみな目くらんだわけやな。(厩舎の)中の人間がカネカネカネ、言うてしもたからなあ……」

 関係者への補償金を出すためだけの開催を2年間も。一説には、調教師で二千万くらいずつもらえたとも。廃止になっても厩舎関係者に補償はしない、なぜなら主催者と彼らの間に雇用関係はないから――こんな不人情な前例をこさえたあの中津競馬の廃止以降、ドミノ倒しが続いた昨今の地方競馬とはまるで別世界、時代も状況も違う。

 それでも、仕事の場所、稼業と暮らしの場としての競馬と競馬場が未来永劫、そこからなくなってしまうことは、昔も今も全く同じ、変わらない。

 「そんなカネなんか結局(使ってしまって)パアや。アホやで。仕事なくしたらしまいや。カネみたいなん、働いちゃったらカネになるんやから。けど、働くとこなくなったら終わりやもん、そやろ?」

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 仕事場の春木はなくなった。それでも、当時はまだ地方の競馬場同士で、行く先のなくなった騎手を積極的に受け入れてくれた。それだけの余裕が、まだ競馬にあった。山中さんは、大井に行くことに。当時の名門のひとつ、鈴木富士雄厩舎。けれども、2ヶ月ほどいてあっさり辞める。

 「そら、南関東のジョッキー見たらうまいもん。高橋三郎さんやら(佐々木)竹見さんやら、渥美(元調教師)さんや岡部(盛雄 元調教師)さんや赤間(清松 元調教師)さんや、もう、みんな現役バリバリの頃やて。わし、春木でもリーディングジョッキー二回とってたけど、あかん、見てたらみんな上手やし、攻め馬かてレベルちゃうもん。攻め馬一緒にしてて、おう山中、おまえなんじゃこのムサい乗り方は、明日オレ乗っちゃるから見とけっ、言うて。またかかる馬でもあの人ら乗ったらひっかからんとビシッと乗るもん。なんっとうまいなあ、と。

 春木はアラブ主体やったからねえ。南関東サラブレッド主体やろ。もう感覚が違う。レース見てても鞍つきはええし、追えるし……竹島(** 元調教師)とかなあ、若手でもうまいのんがバンバン乗ってる。ああ、こりゃここおったってオレ、ダメやわ、と」

 辞めるんやったら早めに辞めたろ、とばかりに、大阪は岸和田の実家に舞い戻る。

「けどまだ若いしねえ、26(歳)くらいやろ。もったいないし、そんで名古屋行ったん」

 名古屋には当時、あの坂本敏美がいた。若くして落馬事故で半身不随、悲劇の天才騎手として伝説の人物。

「いままで一緒に乗った中で、オレ、あれが一番うまい思うな。オレ乗せてもうた馬にあいつ乗ったりしてたから、肌で感じてた。 (違う点は) 重心やろ、やっぱり。そこにパワーがあって追えるし。まあ、敏美が日本一のノリヤクやと思う」

 地元名古屋ではあと、「東海の星」と言われた伊藤光雄。

「ミッちゃんはきれいな乗り方やったね。ほんまに本に書いたとおりのモンキーで、ほんっまにフォームがきれいやった。逆に坂本は我流の、自分にあった乗り方やったけど、とにかく馬を動かしたね」

 その坂本敏美も伊藤光雄も、共に還暦を前にした50代後半で亡くなっている。一方、山中さんはというと、還暦を超えてもまだ現役、騎手稼業。

 ちなみに中央だと福永洋一がうまかった由。若い頃、身近に接した彼ら、同じ時代を競馬に生きた名手たちの記憶は、話すことばに一段と力を、熱さを与える。

「昔は馬をジョッキーが走らせたん。馬を追うっちゅうことは走らせてたんよ。みんな馬追うもん、動かすもん。うまかったし、乗れたし、腕が違う、レベルが違う。脚力とか腰とか技術面とか追い方とか……馬を走らす追い方や。今はただ馬なりや。馬が走ってるのに人間ついてってるだけの乗り方や。今の中央でもどこでも同じ。いまみたいになんでもかんでもうまいうまい言うて育てるのやなしに……なんちゅうんかなあ、刀でもはさみでも包丁でも、叩いてつくる鋼の包丁と、ただサッサッサッとつくるステンレスの包丁と、ちゃうでしょ? そういう差。昔は走らん故障馬を持ってきて競馬して、みなで工夫して鍛えて使うてたわけでしょ。競馬してても鍛え方がちゃうかったんやと思うよ、人も馬も」

 そんな名古屋競馬場に2年近く。でも、結局また辞めた。

「まだチョンガ−やったからなあ。やめろおもたらやめれるわなあ、相談なしに。家族おりゃそんなわけいかんけど、ひとりやから自分が決めたら自分でやめれるわな」

 またもや、岸和田の実家に舞い戻り。そしてまた、調教師のお兄さんが声をかける。トシ何してんねや、おまえ名古屋やめたらしいなあ、うんやめたんや、何してんねや、いや遊んでんねや。そやったら紀三井寺来いよ、(騎手)免許あるんやろ。あるよ、悪いことしてないし。それやったら免許つなぐつもりで紀三井寺こいよ。

 春木と紀三井寺は言わば隣近所、縁が深い。調教師もよく知っていた。馬主さんも、当時の馬主会長が顔見知り。「そんな人らもみなで、トシ、来い来い、言うてくれて」
そうして紀三井寺にまた2年ほど。

「そこで今のカカ(奥さん)と結婚して子どももひとりでけたん。リーディングジョッキー争いするくらい仕事も頑張ってた。けど、なんせ紀三井寺や。その時分、益田か紀三井寺かと言われるくらい売り上げのない、日本一、二を争う貧乏競馬場や。収入少ないわなあ」

 もともと、冬場に開催のない東北や北陸の馬を引き受ける競馬場だった。70年代初めに通年開催になってからも、他場からの転入条件を有利に設定していたこともあり、地方へ流れてゆく馬をまず入れる競馬場として、競走馬流通の重要な役割を果たしていたのだが、賞金もまた安かった。その後、この紀三井寺競馬場も1988年、廃止になる。

 喜多さん(喜多 寿?)という大先輩がいた。元は同じ春木の騎手。この人が金沢の松任の出身で、春木がつぶれた後、金沢に移ってそこで調教師になった。その喜多さんから、またもや声が。トシ来いよ、金沢売り上げええし賞金もええし、こんな紀三井寺よりええぞ。

「まあ、オレも結婚して子どもも半年くらいのおったし、その時分、30歳までやったら(金沢に)入れるぞ、という話やった。ギリギリ29(歳)くらいやったけど、今年中に移籍したらおれるから、と言われて、そいで金沢にお世話になることになったわけや」

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 「トシ、来いよ」――何度も取材で語られてもきたのだろう、よく練られた身の上ばなしの中に、この一節がいい感じでさしはさまる。それまでの流れを変えてちょいと鞍替えしようかといった転機に必ず、決まり事のように。

 ブラブラしていればそうやって声をかけてもらえる、そんな関係。ちょっと聞いていると競馬場から競馬場へ、風に吹かれるように気ままに渡り歩いたかに聞こえる身の上話も、しかし、そうやって声も眼もかけてくれる関係が確実にあってのこと。何より、それに見合う腕と信頼が最低限の条件。良い悪いではない、それが競馬という稼業であり「うまやもん」の生きる世界だった。日本中どこへ行っても、同じ仲間だという意識と信頼があるから声がかかれば気楽に出向ける。そして、どこへ行っても仕事はひとつ、そう、同じちいさな競馬だ。

「知り合いもようけおった。船橋おった内野(?)とか、寺田茂(金沢 現調教師)、高知の打越(初男)とか浦和の牛房(栄吉)、あれらみんな(騎手学校の)同期や。北海道の山中静治(現調教師)なんか、一緒に春木おったんや。園田から北海道行ったけど、元は和歌山の人間で、父さんも調教師やったんで」

 競馬場を替わるのは難しい、とよく言われる。事実、近年つぶれた競馬場の厩舎関係者でも、すんなり他の競馬場に移籍できた人は本当に少ない。移った先でいろいろ言われる。よそ者扱いが続く。時には陰に陽に、いやがらせめいたものまでも。

 けれども、それもある時代までは、そして人によっては、案外そんなに大変なことでもなかったのかも知れない、話に耳傾けながら、そう思った。少なくとも、山中さんのように、騎手で、腕一本で流れてゆくことを自ら選んできたような気質の人にとっては。

「福山なんかもちょこちょこ行ってたよ。上原兄弟(共に調教師)いうて、そのふたりの馬でそこらなでまわしてた頃やけど、上原トシさん(上原俊夫)言うその弟のとこおった。あらあ、ええ馬ようけおったわ。「青い鳥」いうてね、福山の駅のすぐのところでうどん屋とかそういう商売してるとこの(馬主の)馬ね。昔からその「青い鳥」の馬、オレ乗ってたし。大阪や春木来たら、キクマサムネとかオープンのぶっとい、ごっつい馬を「籍」つけるために春木に先におろしてよ。それにオレ乗ったり、また福山持ってったり……けど、今みたいに行ったから言うて簡単にすぐ乗せてくれんから、馬連れていって攻め馬するくらいよ。昔から福山は夏、春木に遠征に来てたし、園田にはなんぼでも乗りに行ってたし、いろいろ調教師とか関係知ってたからね。まあ、身内のとこに泊まりに行くようなもんや」

 福山でも、しばらく辛抱しときゃええ、そしたら(正式に移籍できて競馬に)乗れるようになるから、と誘われた。でも、さしもの山中さんもこれには躊躇した。

「だって福山、ガラ悪かったもん。今は知らんよ、けどあの時分、福山いうたらそりゃ悪かった。レベルがちゃうわ、厩務員でも調教師でも。オレも大きなことばっかし口で言うオトコやから、こらヘタにもの言うたら殺されるんじゃねえかな、思たもん。」

 70年代、地方競馬はアラブ全盛、売り上げも右肩上がりの言わば神話の黄金時代。そのアラブのメッカ福山の当時の男前ぶりは、なんとも微笑ましくもうれしい限り。誤解しないで欲しい。この「悪かった」という表現の背後に横たわっているのは、それくらい日々の勝負に、ちいさな競馬に本気でカラダを張るうまやもんたちがいた、ということだ。正しくそう解釈しなければならない。

 それまでいた競馬場に比べれば、金沢はまだのんびりしていた。疾風怒濤の20代を過ぎ、女房も子どももできて少しは身を固める気分になった頃、腰を落ち着けるにはいい場所だった。

「静かでええとこやしねえ。カカも子どももおったからねえ。女の子も生まれたしね。30歳超えたら、やめるとか気に入らんとか言うてれんもん」
それからすでに30年以上。ずっと同じ競馬場で、馬の仕事で生きている。

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 現在、金沢競馬場の在厩頭数は、500頭あまり。開催1日につき12レースが組まれ、出走頭数も多くはまだ10頭立て以上を維持。いまや300頭を切る資源で何とか開催を維持しようとあえいでいる他の多くの競馬場に比べれば、まだましだと言える。1着賞金も最低20万円を堅持。賞金水準だけなら、今や兵庫と並んで南関東の次、岩手や東海より上だ。

 さらに、5着から一定のタイム差があると次を続けて使えない、という規則も。出走手当だけを目当てに馬を出走させることを排除、競争原理を健全に働かせたいという思いからとか。流通馬を買い叩いてたくさん仕入れ、預託料も原価ギリギリ、テツ屋も獣医もコミで厩舎に交渉、月に2回3回、どうかすると毎週競馬を使って出走手当を稼ぎ、それで1頭あたりわずかずつでも浮けば全体では儲かる――こういう馬主も出てきているのがいまの地方競馬。良し悪しではない、そういう競馬でしかもう成り立たなくなりつつあるのだ。

 競馬の凋落。少し前まであんなに輝いて見えていた競馬が、いまや見る影もない。地方競馬だけじゃない。あのJRAでさえも。
 
 もちろん金沢でも厳しい状況は変わらない。地元生え抜きの調教師や騎手は櫛の歯引く如く辞めてゆき、高崎や新潟など、他のつぶれた競馬場から移籍してきた調教師たちが死にもの狂い、必死に頑張って馬を集めて何とか競馬をもり立てている構図。

「(地元の人たちは)辞めてもう、カネもらうことばっかり考えてる。外から来た人はやる気十分やわ。また、あの人らは(前の競馬場で補償されてるから、万一金沢がつぶれても)補償対象外くらいのこと言われてるしね。一回(廃止を)経験してるし。オレも春木で経験してるし」

 もうひとつ、金沢は騎手の数が出走頭数に比べて少ない。現在22人。特に若いジョッキーがいない。△や▲、☆の減量騎手が出馬表に見あたらない。金沢の若武者として全国区の吉原寛人も気がつけばもうデビュー10年、27歳。なのに、その下の世代が寂しい。

 「若いジョッキーらが稼ぎが七万や八万しかないやら言うてるけど、おまえら月に20万も30万もどこ行ったら稼げる、こんな中学やらわけのわからん高校出たくらいで誰が相手してくれる。こんなちっちゃい、力もないわドタマもないわの男が……わかるやろ、そんなこと思たら騎手でももっと頑張って売り上げよくして競馬を永遠にして、よっしゃ10年20年先にボクらも調教師なって、とみな思や、競馬もよくなるんやて」

 競馬という仕事への信頼。いや、自分には他に何もない、というギリギリの覚悟に裏打ちされた想いだから、なのだろう、みんなが努力して頑張らなあかんのよ、と山中さん、ここはかなり声が大きくなった。

地方競馬が低迷してきたのは、アラブが廃止になってからやで。売り上げ下がってるんも馬主さんも少のうなってるんも、みんな原因はそれやで。そういうのわかってる人間おるんかなあ。生産者かてアラブで生きてる人、たくさんおったんや、ちっちゃいのが。そういう人らは中央関係なしに、地方相手で生活でけたわけや。サラブになってしもたら、そらあんなん社台たらダーレーたら、何兆円たらあるような人間らに太刀打ちしていけんやろ。ニッポンの、こんなちいちゃい国のビンボウな百姓がやで、世界にあうレベルを、て言われたかて、そら合わすのはJRAだけでええわ。地方は地方でやってきゃええんやから。上ばかり見らんと、自分の左右や身の回り見てわかれ。今やってる仕事を、競馬がまだあるなら今ある競馬場を何とかよくしてみなで努力して、永遠に競馬続けてもらわなあかん、ちゅう気持ちにならなあかんのよ」

 異議なし。全面的、かつ全力で同意。こういう話、当の若い騎手たちにもするのだろうか。

「そんなん、うちの息子より下のやつばっかしやもん。うちのおとうさんより山中さんの方が歳いってるわ、ちゅうような子ばっかしやもん」

 相手にされない、ということか。それとも話す価値もない、なのか。そのへんはことばを濁した。でも、若い騎手たちの間にも、山中さんに対する仰角の視線は確実に共有されている。「エラい人ですよ、ボクらあの年なって乗ってること自体、信じられませんもん」(ある騎手)

「わしらこれでも騎手やってるから、いまもひとつ(競馬に)乗って(騎乗手当が)4,500円+(賞金の進上金が)3着1,200円で5,000円か6,000円になってるけど、これ、おれ外行って1日働いたかて同じだけ稼げんで。そこら掃除しまくっても難しいで。わかるやろ? そういう風に思わなダメやて。人間上見て暮らしゃキリないもん」


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 引退、は今は考えていない。

「騎手辞めて厩務員やるんやったら、まだひとつでも乗せてくれる馬おったら乗ってる方がやっぱりええし。今は自分で1頭か2頭、テキ(調教師)と一緒に仲間で4人くらいで馬(世話)したり攻め馬したりして乗ってる。よその馬なんか乗せてくれんし、また乗りたくないし。で、給料もろて、生活の方は何とかなってる。遊びいうてもパチンコくらいやし。カカも働き、子どもも3人独立したし。朝、攻め馬乗って自分の小遣い稼ぐくらいでええわ。家族もそれでええ、言うてくれてるし」

 実は少し前、55歳の時に調教師試験も受けてみた。結果、不合格。

「こらまあ、自分のプライベートなこともあったんやと思う。家もあったのに売ってしもたりしたし……けど、最年長記録をつくれたのも、ヘンな言い方やけど、調教師すべったおかげやし。結果的にはよかったと思てるわねえ」 

 敢えて尋ねた。馬の仕事、やっててよかったですか。

「よかったなあ。人生悔いないなあ。もういつ死んだってええ」

 ああ、ここも力いっぱい。即答だった。

「アラブもサラブも、ここの重賞レースも白山大賞典以外はみな勝ったし、なっんにも言うことない。なっんにも悔いない。60歳の還暦祝いも主催者からしてもらい、またこないだ国内最年長記録を更新してお祝いしてもらい、これ以上なんか言うたらバチあたるわ」

 その還暦祝いで山中さん、表彰式でふと、涙ぐんでいた由。「まさか泣くとは思わなんだ」(ある地元の職員) ふだんからよく知っている人たちでも、この涙は意外だったらしい。

 「まあ、馬の上でレースで死ぬわけにはいかんし。第一、迷惑かけるし。もうあとは静かに仕事して暮らせたらええと思うわ。今年(も騎手として)乗って、頑張って来年も乗らなきゃならん気持ちはあるし。頑張って頑張って乗りゃ、またええこともあるやろし」

 アスリートの寡黙、それは珍しくない。特に騎手はそうだ。馬の上はオレたちだけの世界。シロウトに話したところで何がわかる――そんな矜恃が表情の奥に貼りついているのが常。

けれども、山中さんはちょっと違った。ことばが豊かで、話がはずむ。心地よい大阪弁の呼吸。若い頃の笑福亭仁鶴にちょっと似た風貌。ちょっと前までなら、関西の町場にいくらでもいた町工場のおっちゃん、そんな感じ。そう言えば、仁鶴さんもかつて鉄工所の工員だったはず。そうか、そんな町育ちの世渡りの賢さ、どこへ流れていこうとまわりとなじんでしぶとく生きてゆくひとり歩きの職人の達観が62年を支えてきたのか。

 実際、大きなケガをしていない由。落馬はしても、何ヶ月も療養しなければならないような事故は不思議となかった。

 「わし、カラダがやわいから。これ、生まれつきもあるけど、酒も飲まんし。体質的にあわんのよ。また、酒飲んだら筋肉が硬くなるしね。なんぼか減量もするからこれもカラダにええんちゃう? キツい減量はでけんけど、1?くらいとるから筋肉やわくなるし」

 いやあ、あれでもちょっと前までやったら、汗とりしてハダカでそこら歩いてたもんですよ、とは地元の関係者。減量はもちろん、この還暦過ぎまで競馬に乗れる身体を維持してゆくための体調管理は、やはり並たいていのことではないはず。皮膚の張りや肩口の筋肉の感じ、勝負服を着ていればもちろん、脱いだ姿を見ても40代にしか見えない。60歳にしたらパバ若いわねえ、と娘さんにもからかわれる由。

「オレ、世間見てきたんやもん。なんとかのカワズやないもん。(金沢で)ずっと座って2800勝したから言うて偉そうに能書き垂れるような、そんなジョッキーじゃねえもん。そりゃあシャバのことはしゃべれんけど、馬のことやったらなんぼでも、1時間でも2時間でも、1日でもしゃべれってられるもん」

 しゃべることはしゃべっても、でもそれを実行できるか、言うたらオレはでけんよ。なまくらやから。また、そういうノリヤクやから、今まで乗れたんとちゃう?――身の上話にそうオチをつけて、身じまいを始める。
 別れ際、手にしたタバコをもみ消しながらこんなことを、置き忘れたような何気なさで、ふと、口にした。

 「……ホンネを言うたら、3000勝したかったねえ。ここまで最年長の記録つくれるくらい乗れるんやったら、努力しとりゃあできてたよ」

 すでに過ぎ去っておそらくは二度と帰らない地方競馬の、ちいさな競馬の黄金時代。その最前線でしのぎを削ってきた誇りがほんのちらっと横顔に浮かんで、でも、じきに見えなくなった。