変わる外国人留学生、変わらぬ大学事情

 少し前、本誌で半ばスクープ的に報じられていたご当地、北海道は苫小牧駒澤大学「売却」をめぐる騒動の件、その後週刊誌や全国紙にも後追い的に報道されるようになり、本誌のジャーナリズム的嗅覚の鋭さが証明される形になっているようで何よりです。

 地元紙の報道では、あれこれ事情もあるのでしょう、「儒教系」日本語学校に売却、といった表現になっていましたが、要するに中国の影が背後に垣間見える学校法人に大学を売り飛ばす約束をしたということは確かなわけで、少子化がいよいよ本格的に学校経営、殊に私立大学や専門学校の経営基盤に大きな影響を具体的に見せ始める時期に突入し始めている昨今、いろんな意味で各方面に波紋を呼ぶできごとにはなっています。

 今から20年以上、もう四半世紀ほども前になりますか、90年代半ばから後半くらいの時期に「私大バブル」とでも言うような私立大学の拡張や、新たな学部学科増設が相次いだことがあります。既存の大学が新たな学部や学科を増やすだけでなく、短大などもこぞって四年制大学に衣替えして学生若い衆を呼び込むことに躍起になっていました。実際、当時はそれでしこたま儲けた学校経営者はたくさんいたわけで、近年言われる「大学の経営危機」というのも、一般に報じられている文科省界隈からの大文字の問題や課題などとは少し別のところで、ぶっちゃけその時期に後先考えず拡張・拡大に奔走した私大業界の半ば強制的な手立ても含めた整理縮小過程、つまりは私大バブルの後始末というところが間違いなくあります。

 言うまでもなく、少子化の問題というのは何も最近になっていきなり始まったことでもない、もうずいぶん前からそうなることは数字として見えていたことで、もちろんその私大バブルの時期にはすでに常識として共有されていたはずです。まして、各世代年齢層の増減がそのまま市場規模として予測できる学校経営の場合はなおのこと、このまま推移すれば何年後にはこれくらいの市場規模になる、それを見越して中長期的な経営戦略を立てねばならない、どこも最低限それくらいの認識は持っていたと思うのですが、いずこも同じお役所による規制に守られた業界の水に長年なじんできた悲しさ、みんながバブルに踊って儲けてるんだからうちも乗り遅れないように頑張って踊らないと、的な横並びの考えなしが横行した。中には日本人だけでは飽き足らず外国人留学生もどんどん受け入れる大学が、特に地方の中小規模のところに増えてゆき、まだ当時はわが日本も経済状況が良かった頃のこと、学生として受け入れたはずの彼ら彼女らが出稼ぎ感覚の労働者と化し、中には行方不明になって不法滞在者に変貌するといった事態も起こっていたのは、当時いろいろ報道もされていたゆえ、世間でもまだ記憶に新しいと思います。

 けれども、いまどきの外国人留学生というのはその頃とはまた様変わりしている。何よりこの日本の状況が大きく変わっているわけで、そこをめがけてやってくる留学生の目的もモティベーションも、今世紀始め頃までのそれとは違ってきています。件の苫小牧駒澤大学が目論でいる留学生というのも、比較的富裕層の優秀な子弟限定で、日本のレベルの高い大学に正規編入を希望するような子たちを全寮制で日本語教育中心に鍛え上げて、それぞれ望む進路に誘導しようといったものらしい。実際、そういう需要は中国にだけ関しても潜在的に大きくなっているようで、単にカネ目当て、日本で働くことが目的の以前の留学生とはそのへん、前提が異なってきています。

 その一方で、少子化が雪崩を打って本格化する時期にさしかかり経営基盤の崩壊が始まっている大学業界としては、留学生に頼らざるを得ない状況はある意味以前よりも強まっている。その留学生自体、この先しばらくの間はいいとしても、20年から30年というスパンで考えると今後は減ってゆくという予測も出ているわけで、いずれにせよなりふり構わぬ生き残り戦略の中で、外国人留学生をどのように取り込んでゆけるのかが、進行しつつあるこの「私大バブル」の後始末の過程で重要なポイントのひとつになっています。ただ、肝心要の文科省がなにせあのていたらく。かつての考えなしの横並びと同じように、またも考えなしに留学生招致の受け皿をあれこれ画策してゆく事態が各地で起こり始めるような気配も正直、拭えない。苫小牧駒澤大学の騒動はそういう意味でも、全国の先駆けになるかも知れません。