〈北〉のおはなし――〈それ以外〉の日本ということ

 「東北」でも「北海道」でもなく、ただ〈北〉である、ということ。そんな足場を最近、特に考えるようになっています。

 いま、わたしたちが普通にイメージする「日本」というのは、概ね西南日本、少なくとも中部地方より西の地域に根ざしたさまざまなものの見方や感じ方などをベースに成り立ってきたもののようです。水稲耕作前提の「農」やその上に作られてきた「里山」的なムラのありよう、それらに規定される感受性や自然観、などなど、いわゆる「日本」文化を語るもの言いは、良くも悪くもそのような西南日本由来の要素によって組み立てられてきている。そんな「日本」からすれば北の地はひとまず〈それ以外〉、現実的にも、また意識の上でも、その視野の中心に置かれるようなことはまずなかったと言っていいでしょう。それはご当地北海道は言わずもがな、ざっくり「東北」と今ではくくられるその中身にしても、そのような「日本」のあたりまえからは良くも悪くも意識しなくていいようになっていますし、まただからこそ、その「日本」というフィルターを介したイメージとしての「東北」や「北海道」はいつも穏やかに美しく、絶好の「観光」素材として扱われるようにもなってきています。

 けれども、そんな「観光」素材のようなイメージとしての「東北」や「北海道」がもたらす不自由というのもある。

 エミシが、平泉の藤原三代が、三内丸山遺跡が、あるいはあの義経伝説やキリストの墓など出自来歴のあやしげな「おはなし」に至るまで、いずれそれら「東北」のこれまでの歴史の懐に宿った“もの”や“こと”たちが、一律「観光」の素材に変換されていることで、なしくずしに「縄文」と一緒くたにされたり、時に「アイヌ」などともつき混ぜられて、さまざまな「ロマン」(これが実に曲者で厄介です) の媒介として、好き勝手に使い回されることが多くなってきていて、現にその地に棲んでいるあたしたちはというと、その好き勝手な「日本」に対する違和感を抱くこともなくなっている。

 たとえば、今ある普通に思われているような「東北」でも「北海道」でもなく、とりあえずただ〈北〉というくくり方にとどめてみることで、今ある「日本」のあたりまえの〈それ以外〉の側からの違う見え方を発見してゆくことも、また可能かも知れません。

 


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 そんな〈それ以外〉としての〈北〉でくくってみる試みとして、眼前の不思議をひとつ。

 青森は津軽一帯から南部の一部、岩手にかかるあたりも含めて、「馬力」と呼ばれる輓馬の草競馬が行われています。津軽海峡から北、ご当地北海道でも初夏から秋にかけて、各地で行われている草競馬ですが、しかしこの東北の「馬力」競馬は北海道のそれと少し様子が違う。

 まず、コースは概ね馬蹄型、障害となるヤマも一カ所だけ。今も帯広競馬場(ばんえい十勝)で行われている正規の、競馬法統制下の輓曳競馬のコースは直線200mのセパレート、障害も二個所というのが定型になっていますが、資料などによると、むしろこの馬蹄型の方が古いらしい。さらにもうひとつ、輓馬を扱う人間が、馬の曳くソリに乗る騎手(ドライバー)だけでなく、馬の口を取って誘導する口取りの先駆けが別にひとりつく。つまり、一頭の馬に人間がふたりついて走らせることになります。これは明治時代の馬車曳きなどと同じ、少なくとも近代以前からのわれら日本人の、馬という生きものを制御するやり方のようです。

 それだけじゃない、これは現地に通って写真を撮ったりしているうちに気がついたのですが、青森の草輓馬のその口取りは、人が馬の首の左側でなく右側に寄り添っている。これは今の馬の扱い方、競走馬であれ何であれ、欧米の馬扱いが入ってきてこのかたの約束ごとからするとまるで逆。どうしてこうなったのか、タオル鉢巻きに日焼けした地元の人がたに尋ねてみても「昔からこうだから」といった程度以上の答は返ってきません。世界的に見てこのように馬の右側について馬を扱う地域があるのかどうか、あれこれ調べてみたら、ロシアはツングースのトナカイの扱いがまさにそうらしいということを知りました。ならばさて、どうして?

 眼前の事実、〈いま・ここ〉の“もの”や“こと”から遡るようにして「むかし」の気配を探ろうとする民俗学の作法からすれば、間違いない史実、確かに証明できる事実としての歴史という考え方は苦手というか守備範囲外。気宇壮大な大文字の文化論や文明論を繰り広げるのもガクモンでしょうが、それはそれとしてまずそういう遠いところの一致が〈いま・ここ〉にある、その眼前の事実そのものを素朴におもしろく、興味深く感じてみることから、知らぬ間に「日本」にひとくくりにされているようなところもあるこの〈北〉のそもそも〈それ以外〉でしかない手ざわりについて、もう一度取り戻せる糸口になるはずだと思っています。