「団塊の世代」と「全共闘」⑧――秋田明大という漢、その蹉跌

秋田明大という漢 その蹉跌

 六九年に山本義隆(物理学者・予備校講師/一九四一~)が全共闘の議長、秋田明大(一九四七~)が副議長となって、彼らが警察から指名手配を受けたときだって、日比谷での集会のときに彼らを守ったのは中核派だった。中核派のヘルメット部隊が警察の目をあざむくために、影武者を出して山本や秋田を護衛したんだよね。で、そういう組織力っていうのは、実は全共闘にはなかったんだよ、当たり前だけど。そういうのはやっぱりどこかにアジトを持っていて、資金のルートも持っている中核派のような「組織」でないとできない。そこに良くも悪くももたれ合いの関係があったんだけどさ。

 その辺のことは、当時「全共闘の××」という本がいっぱい出てたし、その他、若者文化評論家たちの本や、東大紛争の記録本なども含めて、さまざまあるから読もうと思えばいくらでも探して読めると思うけど、でも、今はもう三十何年経って、もう若い人たちもわざわざ読まないだろうし、また、読んだって何のことかほとんどわかんないだろうけどね(苦笑)

――だと思います。どうかしたら、当時はみんなこんなにヘンだったんだ、という読み方しかしなかったり。


 プロジェクト猪、なんてのもありましたよね。もう干支がひとめぐりして十二年前になりつつあるんですが。全共闘体験を世代的な原体験として位置づけてもう一度頑張ろう、みたいな趣旨だったと思うんですけど、あの集会の雰囲気がもう、どうしようもなく団塊臭かったというか、悪い意味での「団塊的なるもの」の自己パロディみたいな感じがして、いたたまれなかった記憶があります。吉本隆明を呼んで講演させたり、またそれがどう聞いても晩年の古今亭志ん生並みにボケちまってるのにありがたがって拝聴してたり、と、「団塊的カルチュア」を目の当たりにしたという意味で強烈な印象がありました。


 とりあえず、山本義隆からもう少し続きを……

 東大全共闘の議長だった山本義隆。この人はこの間も本を出して、賞も取っている。

 彼は東大の物理で素粒子論を専攻してて、あの段階で京大の基礎物理学研に国内留学中だった。学生時代から秀才でならしていたから、当然あれだけの業績を挙げたわけだ。東大の場合は、同じ全共闘でも最初からエリートだから、その後もしかるべく才能を生かし、各分野で仕事に就いたりしている。それはそれでいいとして、問題は日大だったんだよ。日大で全共闘が盛り上がったのは、まず要因として思想構造が簡単であったという面があった。思想というか、闘争課題自体がアホみたいに簡単だったんだよね(笑)。

 というのは東大の場合は、最初はさっき言ったように医学部の学生がストライキをして、そこにいなかった学生が何か冤罪で処分された事件がまずあって、でも考えてみれば、それは「医学部で冤罪になったやつがいるらしいぞ、許せない」という単純な、そして局地的な問題だったんだよ。ところが、結局は事態の責任は大学執行部という頂点にある、という理由で、大学としても全体を問い直すという流れになっていった。ただね、これはものすごく抽象的な話で、大学はいかにあるべきか、とか、学問とは何ぞや、みたいなこういう議論は、実はほんとにところはみんなにはよくわからないわけだ。それがたまたま、頭のいい東大でのできごとだったから結構、問題化してしまったんだけどね。やっぱり自分たちは全国の大学の中心、エリート中のエリートだ、という自負があったからこそ、起こったことだったと思うよ。


――東大の、それも医学部での処分事件、ですからねえ。大学ったってほんの一部の、しかもきわめつけのエリート間の事件だったものが、糸口になって大きなうねりになっていった、と。

 そう。ところが、日大の場合にはもう少し話が簡単で、「おれたちが払った高い月謝を、おまえ、理事がその権力使っておのれの懐へ入れたらしいぞ。あいつら、勝手にいいことをしてんじゃん」ってわけで、これはこれでまたわかりやすい構造なんだよね。悪役がいて、そいつがひとりじめでカネをかすめて、と。だから怒りも非常に単純。わかりやすい。

――それこそ、バカでもわかる構造だったわけですよね。誰が見ても一目瞭然、大学の経営陣や執行部が独り占めしてズルやってた、と。まあ、大企業でもそうだったと思いますけど、当時はそういう「悪」も、まだものすごくわかりやすい形で存在できたんだなあ、と改めて思いますね。

 そう。しかも、騒げば騒ぐほど、さらにぼろぼろ大学の悪弊が出てくる。うわあ、実はこんなにひどかったのか、ということにどんどんなってったわけだ。

 秦野章(元法務大臣/一九一一~二○○二)は当時の警視総監で、もともと日大出身だという思い入れもあるかもしれないけど、彼の手記によれば、警察も初期の全共闘、なかんずく日大に関しては非常に同情的だった、って書いているね。「これは大学側があまりにもあくどく理事が金をがめていたということで、警察も呆れていた」と。警察でさえそれだから、一般の日大生が燃える要因は充分ある。日大というのは後に名門大学になるんだけど、その当時は全然名門ではない。はっきり言って三流の「ポン大」だったんだから。学生は、だいたい漢字が書けない、文盲がいるなどといわれた大学だった(笑)

――うわあ、呉智英さん、またそんな……。・゚・(ノД`)・゚・。

 (意に介せず)しかし!「日大」は、まだ漢字の画数が少ないから書ける。でも、「慶応」は書けない。「近畿大学」ももちろん書けない。自分の名前以外には「日大」の二文字しか書けない、と、まあ、当時一般に言われている、そんな大学だったわけだよ。

 そのレベルだから、マルクスは読めない、マルクスという概念さえ理解していない者が多かった。さっきも言ったようにこの日大の騒動については構造がはっきりしてるんだよ。「おれたちの月謝を、あいつら、懐に入れている」、ほんとにこれだけ。で、わーッ、と血気に走って「おれたち、理屈はわからんけど、正義感だけはあるぜ」と、まあ、文字通りの体育会のノリで盛り上がったんだな。その熱気の中で、まさにオトコ秋田明大が、行動的だし正義感があるということで、全共闘副委員長になった。秋田は、わりと侠気がある奴だったから、「みんなが言うんなら、じゃ、おれがやるよ」みたいな感じで引き受けたらしい。また、そういうオトコだから後々まで人望もあった。歳は私より一つ下になるけどね。

――日大丸太左翼、みたいなことも言われてたじゃないですか。ほんとに腕力と心意気一発でメチャクチャ暴れた、という。そのリーダーというか親分、だったわけですよね。言わば、『男一匹!ガキ大将』の戸川万吉みたいなもんで。


 まあ、まさにそんなもんだよ。でも、結局、そういうオトコだから、いざ全共闘運動が終わった後、何をしていいかわからなくなるわけだ。ひと頃は、自分の個人史みたいなものを書いてお茶の水の駅前で配っているのを見たりしたんだけど、それは彼の中では、ウォーミングアップではなくクーリングダウンの段階で、ほんとにもう何をしていいかわからないから、そうしていただけなんだと思うね。

 東大出だったら予備校の教師でもできるんだろうけど、悲しいかな日大だからその頭がない。仕事もない。ぶらぶらしているうちに、しようがなくて田舎に帰った。自動車整備工の免許を取って、工場で働いていたわけだ。それでも、時々新聞記者がやって来たりするから、周りも、ああ、そういう人だったのか、と気づくんだけど、でも本人は、自分はとにかくもともと頭が悪いから物が考えられない、とはっきり言うんだよね(笑)。「自分はあのとき正義感でやったけど、それも終わっちゃったし、今は言うことは何もないんですよ」と。これは何も演技で言うんじゃなくて、本当に何もないらしいんだよ。そういう意味じゃ、まさに天然。希有なオトコだったんだよ。

 そのうち地元のかわいい女の子と結婚し、子供が産まれたけど、しょせんは自動車整備工で大した稼ぎもなくて、奥さんからは「もっと働いてくれなきゃ駄目よ」と言われ、そのうちうまくいかなくなって別れて、と。そういう、ごく普通の人なんだよね。で、バツイチになっても、年収百五十万くらいで、村人のバイクを直してやってる。

 

――うううむ……どう考えてもそれ、「いい人」ですよねえ。幕末なんかにもいくらでもいたような、時代の大きな波に巻き込まれてしまったことで人生も規定されちゃった、みたいな。長谷川伸だったら『相楽総三とその同志』なんかで「紙碑」として書きとめようとしたような、そんな人生ですよねえ、それは。

 そうなんだよ。だから逆に、日大ゆえのロマンチックでわかりやすい精神の高揚と、秋田自身の人間臭さに対する感情移入というのが、その日大だけでなく、私らの世代みんなに、未だにあるんだよ。秋田明大、って名前にはだから……何というか、特別の思い入れがあるなあ……

 そういう感覚があるから、新聞記事なんかに秋田のことが載ると必ず読むんだけどね。今から七、八年前かな、道浦母都子歌人/一九四七~)との対談が朝日新聞に載ったんだ。たぶん若い記者が何も理解していないのに、道浦とは歳も同じことだし、男と女で語り合えばいい対談ができるだろうと、安易に企画したんだろうけど、いや、これが実にものすごいものでさ。とにかく、新聞での対談史上前代未聞、空前絶後の対談かもしれないくらいの、それはすさまじいシロモノだったんだ。

 いかに、いかに道浦のアタマが悪いか、私はそのとき改めて思い知ったね。ほんっとに何もわかっていないんだよ。だからかみ合ってもいない。でも、対談としてはまた、非常にいいんだよねえ……

 何もわからない道浦が、「でも私たちって、いまだに社会に対する怒りみたいなのってありますよね」と話し続け、秋田とは全然噛み合わない問答を、新聞一面にわたって綿々と繰り広げてるんだからさ。心底、「いいなあ~」と、ため息が出たよ。あの後、同世代を中心に、しばらくの間「あれ、読んだ?」、「読んだ、読んだ」とか、「すごいよな、あの対談」「道浦って何もわかっていない」、「本当にバカなんだな」とか、とにかく会う人ごとにこの気持ちを互いに確認しあったもんだ。

 

――そういう同時代のバカを見つめる呉智英さんたちの世代の視線って、正直、うらやましい時があります(苦笑) あたしらになると、バカはやっぱりそこまで許容できない。っていうか、バカもまた愛嬌のないバカが増えてるところもありますし。

 道浦は悪い人間じゃないよ。ただ、一種の少女趣味的なロマンチシズムのまま歳を重ねてしまった、男で言う「とっちゃん坊や」なんだよ。自分の中の社会に対する怒りや「私はどう生きるか、女とは何だ」という内省やロマンチックな感傷が一緒になって、文学少女から短歌少女になり、たまたま全共闘に突き当たっただけだから、そのへんがそのままの形で保存されてる、と。

 単に十七、八歳の少女が、全共闘がどうの反戦運動がどうのと言ってるのなら、「きっと、この子、将来頭がよくなるだろうな」と、頼もしくも思っただろう。ただ、悲しいかなその対談の頃には、もう五十五、六歳なんだよね。なのに、延々と「いまだに心の怒りが……」とか語り続けてるわけ。相手させられた秋田にしてみりゃ、十何年ぶりにいきなりそんなことを言われても、「おれ、ブレーキとアクセルのことなら解るけど」とか「プラグが焼けたんなら直せるけど」といった答え方しかできない感じなんだよね。もともと頭悪いから日大に行って、考えたらおれ、何もわからないんだ、と、そう言うしかない。 何も考えていない男が素朴に「あいつら、おれらの金くすねたくせに、いい気になりやがって」と憤って、殺到した学生たちに、代表がいなけりゃ駄目だと言われて「秋田やれ」、「じゃ、おれやるよ」と舞台に上った。これはもう、時代の流れに翻弄された被害者の姿じゃないか。

――うんうん、まさに『相楽総三とその同志』、ですよ。

 彼だって、もし闘争がなければ普通に日大を卒業し、肉体系の仕事に励み、そのころ言われた「産業下士官」の道に進んだことだろう。エリート大学出身者の場合には、組織に入れば尉官、佐官にあたる大手企業の部長、重役になるわけで、中卒者は中卒者で金の卵と言われて、安い給料で効率よく利潤を生んでくれるから、一番下の層を支える。するとそれらの中間層として、現場をコントロールする下士官が必要になってくる。たとえば、東大工学部が設計し、役所と折衝してビルをつくる。そこに行って、人足を束ねて木材を加工させ鉄板を運ばせて、労働管理をする人間、そういう立場が必要になってくるわけだよ。

 具体的に言えば、ドスの利いた声で、しかも少しは片仮名もしゃべるから現場からは尊敬される、といった人間なわけだ。それを、産業下士官と言ったんだけど、それには例えば日大出ぐらいがちょうど向いてたんだよね。秋田などはまさにそういう気風がある男だから、ほんとに適任だったと思うんだよ。日大を出て、どこかの建設会社か製鉄所などへ行って、現場で汗にまみれて仕事をし、そこそこの功績で部長あたりで定年退職する。逆に子供は、やはり日大じゃ駄目だと思うから、早慶に行かせて……といったような人生を平穏に歩んでたんじゃないかと思うんだよ、ほんとに。

 ところが彼ははからずも歴史の波に翻弄され、しかも、彼の素のままの言動が実際に運動を動かしてきたものだから、周りは「あいつはいいやつだったよな」という風にいつも言う。でも、当人は本当は非常につらいんだと思うよ。「おれはあのことを思い出すのも嫌だ。あんなもんがあったから、おれは今も田舎で整備工をやってるし」と言うわけでさ。それでも、見ている方としては、何か心安らぐみたいな、「あいつ、いいよな」ということに、ついなってしまう。どっちにせよ、無惨だよねえ。


――やっぱりそこなんですよ。さっきも言いましたけど、同じ時代を生きた、でも何かの間違いでそれぞれ全く違う方向に行ってしまった同時代の人生に対して、団塊の世代にはなんかうまく言えないけど、どこか同志というか戦友みたいな意識が強いじゃないですか、良くも悪くも。主義主張や世界観、価値観は違って、処世としても全然違う道を歩んでいるけれども、でもどこかで互いに尊重して認め合っている、みたいな感じですね。あいつはあいつで頑張ってこの時代を生きてきたんだから、それはそれでちゃんと評価してやろう、という雅量みたいなものが、少なくともそれ以降の世代よりはあるように思うんですよ、やっぱり。それって前提に何らかの「共同性」がまだ担保されてるんじゃないかな、と思います。

 そういう評価のまなざしの前提には、もちろんある種の「共同性」があるんだけど……ただ、秋田の場合はまたちょっと特例だと思うよ。運動がダメになってその後、タクシーの運転手をしているとか、田舎へ帰って布団屋を継いでいるとか、そんな話はそれまでもたくさんあったし、またあの頃にはそれなりの、幅のある評価の仕方が同世代の間で、まあ、きちんとあった。それはそれでいいじゃないか、という感じかな。「あいつ、いまどうしてるの」と聞けば、「いま、タクシーの運転手をやっているよ」、「そう、よかったね」――そうやって了解しあうような、そんな雰囲気があったんだよ。でも、それにしても……秋田ってのはまた特別なオトコだったんだよ。