Blue Collar Aristocrats : Life Styles at a Working Class Tavern ……④ 仕事の世界

仕事の世界

「俺たちが組合を持ってるってのは、クソみてェにいいことさ」
――『オアシス』に来る大工の弁

● はじめに

  歴史的に言って、西欧社会においては人生の中心は仕事であった。その自己イメージと、その地域での地位双方は、どれだけ稼ぐかにかかっていた。仕事のない者は、裕福でもない限り、文学的に言って社会の中で居場所を認められなかった。今日でさえ、ふたりの男が初めて出会ったとして、最初の質問は「何してますか」である。これは、お互いを社会構造の中に位置づけようとする試みに他ならない。

 ここ数十年、アメリカ社会では(そしておそらくはその他の都市化、工業化社会においても)仕事は人間生活の中心であることが少なくなってきているという仮説が立てられてきた。この仮説は次のふたつの証拠によって支持されている。 生産の機械化、とりわけ製鉄や自動車工業などの大量生産の大規模工業が、倦怠感と早い時期の離職をもたらす均一的で反復的な作業をもって平均的労働者を機械のレベルにまで落としめたこと、 人は(高度に発展した社会では)今や一日のうちわずか数時間ですべてのものを生産できるし、人生の真の重要性を探すために仕事以外の部分を見つめねばならなくなっていること、このふたつである。

 ウォーレン・G・ハーディングの定義的研究において、ハーディングがアメリカン・スティールの八時間労働の導入を擁護しようとした一九二〇年代初期、ラッセルは十二時間労働かあるいは週六日労働が工業生産として妥当であるという反論を示した。もしも週七二時間仕事に従事する男がいれば、明らかに仕事が彼の人生の中心になるに違いない。今日では、週五日、四〇時間労働というのが合衆国の標準になっているし、近年週三〇時間労働を実現している組合もわずかだが存在する。

 私は、この研究のブルーカラーの誇り高き貴族主義者たちにとって、仕事の世界はその最も根本的な重要性を持ったものであり続けているということを信じるものである。以下の章ではこの仮説をある程度検証することになるだろう。


● 仕事の満足度

 アメリカで実に膨大な読者を獲得してきた本の中で、チャールズ・A・ライクはこのように言っている。「この国の大人の大部分は自身の仕事を憎んでいる。」だが、これが平均的アメリカ人の事実であろうとなかろうと、この本に出てくる熟練したブルーカラー労働者たちにとってこのことはおそらくあてはまらない。前述した調査期間の間、独身者が彼の仕事を憎んでいる、というのはもちろん、あるいは嫌いだと言っているのにさえついぞ出くわすことはなかった。野外の建築作業にまつわる天気のことや、ある種の上司についての不満は耳にしたが、全体として彼らは彼らの仕事を楽しんでいるように思えた。彼らは親しい者たちと仕事についての冗談を言い合い、仕事の後では仲間とビールを呑んだ――そして、悪くない賃金をとっていた。

 典型的な会話を紹介しよう。私はバーにいるひとりの男に何の仕事をしているか尋ねた。

「俺はポーテージにある新しい発電所で夜勤してるんだ」


「そこで何してるんだい?」


「でかい「ネコ」をころがしてんのさ――つまり砂を動かすんだな。俺たちゃ六〇万立法ヤードの土を運ばなくちゃなんねェんだ。わかるかい兄さん、そこじゃ腐るほど多くの機械が土を放り上げてるもんで、まるで交通整理のお巡りがいるくらいなんだな」


「で、その仕事は気に入ってるのかい?」


「ああ、あんたも一度やってみりゃわかるよ。給料はいいし、夏中やってるさ」

 この男の仕事は単調ではない。彼は常に気を配ってなくてはならないし、工作機械の高価な部品に責任を負っている。仕事についていちいち細かい指示はされない。彼はコンピューターでは置き換えられない。彼は強い労働組合に属している。そして、その仕事を通じて、彼はパブリックスクールの教師のほぼ二倍の賃金を得ている。

 この仕事に対する満足度の原因は何か? それについては以下に示そう。


● 男たちの仲間集団 (ピア・グループ)

 『オアシス』の常連の男たちは、仕事においてもそれ以外の場でも、他の男たちとの日常的な相互作用 (つきあい) から多大な満足を得ているように思える。彼らのおしゃべりはこのように織り込まれる。

「月曜にチャーリーが仕事に行くのを見たかよ? あのろくでなしめ、昼までに野郎、てめェの指をハンマーで五回も叩いたんだぜ。あいつは情けねェよ。」

 男たちの一部はクルマで仕事場へ行き駐車場で一緒になる。彼らは小さな仲間で仕事をし、一緒に昼食をとる。そして、仕事の後は一緒にビールを一杯やったりする。結果として個々の関係は非常に重要になる。彼らは常に仲間を好きだというわけではないにしろ、そのつきあいは豊かだ。

 おしゃべりには仕事場の天気や、建築現場でのポカ、親方とのいざこざ、事故、プラクティカルジョークなどが反映される。

「センセイ、今日は大学にいたんかい?」

 あるコンクリート打ちの労働者が私に尋ねてきた。

 「俺たち何ブロックも立ち往生してたんだよ」


 「一体どうしたんだい?」


 「湖のそばの新しい図書館のいっちゃん上の階にコンクリをポンプであげてたらよ、あのボロポンプが俺たちの方に流しやがんだよ、今夜俺たちがあそこを引き上げる前に、会社に五千ドル損させることを祈ってやるよ」

 こういう「プラクティカルジョーク」は建築労働者の世界では珍しくない。クルマがいたずらされてその日最後まで仕事に行けなかったとか、ランチバスケットが隠されたとか、魔法瓶の中のコーヒーが他にものに変えられていたとか、道具が封印されていた、などなどだ。普通これらはいい息抜きになるが、たまにはそのような「馬鹿をやる」ことから喧嘩になったりもする。いずれにしても、熟練ブルーカラー労働者たちの作る男の仲間集団はとても豊かで意味深いものに見える。


● 仕事の本質

 『オアシス』にたむろするブルーカラーの貴族主義者たちは、彼らの仕事に対する満足の原因を説明ようとする際、仕事のいくつかの側面を強調する。賃金がいいことはもちろんだ。大恐慌をくぐってきたわずかの教育しか受けていない元農夫の少年にとっては、日払い賃金が印象的だった。さらに、彼らはそれ以外の余禄、有給休暇、ボーナスを平日の、あるいは休日の仕事(土曜、日曜を含む)に対して受け取ることができる。彼らは、仕事の安全性が組合の連帯を可能にしていると言う。

 また、男たちは彼らの仕事が単調でないことを喜ぶ。ある大工が言う。

 「俺にはデトロイトの自動車工場の連中が早く定年になりたいってのがわかるよ、俺は職のないクズを馬鹿にしやしないよ、もし俺がひとつところに立って一日中左のフェンダーを取り付けてなきゃなんないとしたら、俺なんざ三五歳で定年にさせていただきたいもんだね」

 建築労働において(トラック運輸労働においても)仕事は相対的にゆるい管理の下にある。

 「親方は朝、その日の仕事をざっと説明するんだ」

 ある左官屋が言う。

 「そしてこちとらが何かやっかいをおこさない限り、その日はもう二度と親方の姿を見ることはないってわけ」

 実際、腕のいい大工は流動的存在である。これは彼の能力の証明になるものだ。そして、自由を好む男たちは仕事から仕事をわたり歩く。