Blue Collar Aristocrats : Life Styles at a Working Class Tavern ……③ 居酒屋と街とセンセイ

居酒屋と街とセンセイ

「『オアシス』であんたはいつだって楽しい時を過ごせるってわけだ」
――『オアシス』の常連の弁


● 居酒屋

 『オアシス』はご近所のための居酒屋ではない。その客たちは歩いてではなくクルマでやってくる。彼らのうちの何人かは数マイル離れたところからやってくる。彼らがそこへやってくるのは、同じところで働いている者同士だからだ。男たちの多くは熟練建築労働者で、仕事からの帰り道、その店に寄ってゆくのだ。店には「ブルーカラーのカクテルタイム」というジョークがある。夕方五時から七時の間、出される飲みものはカクテルでなくビールばかりなのでこう言われている。

 客同士がお互いをよく知っている理由のひとつは、同じ職場で働いているというだけでなく、この同じ店にもう十年から十五年通っているということもある。実際、店の主人は、この店を開けた時から二十五年通い続けてくれる客もいる、と語ってくれた。

 この店の持ち主であり経営者であるハリーは、あらゆる意味で心やさしい父親であり、大きな家族の家長である。彼はなじみの客の女房や子供とは顔見知りだし、親戚までも知っている。なぜなら、なじみ客には「連中に会わせるために」家族を店に連れてくることが習慣になっているからだ。以前、私はハリーがなじみのひとりにこう言っているのを聞いたことがある。

「ここは俺の家なんだ――つまり、この店で俺は人生のほとんどをすごしてきたんだな、だから、俺のお客は俺の友だちってわけさ、わかるかい?」

 店の主人であるハリーは、客たちが呑みすぎないように気をつかっている。が、その挑戦はしばしば敗北に終わる。私は「ベロンベロン」になってしまったなじみ客をクルマで家まで送ってゆくために、彼が他の客に店番を頼んでいる光景を目撃したこともある。

 一方、なじみの客たちもハリーだけをよく知っているというわけではない。彼らはお互いの女房や、子供や、主な親戚のことをお互いによく知っている。あとで見てゆくように、このような居酒屋の社会的機能のひとつは、大衆社会の没個性的性格から個人を守っている点にある。

 物理的に言うと『オアシス』は特に印象深い場所ではない。それはふた昔も前の、一八八〇年代から一八九〇年代あたりに戻ったようなむきだしの地下室で営業されている。店は隣にある『タキシード』と呼ばれる派手なカクテルラウンジレストランのおかげで部分的にかすんでいるし、また逆の側は墓地になっている。かつてハリーはこう言ったものだ。

「こっち側の連中は俺たちともめたりしないんだが、もう一方の連中とは時たまイザコザがあるんだ」

 店の中へ入ると、三十人ばかりが座れる馬蹄型のバーがある(これは主人がどれだけバーの椅子の近くにいられるかということに規定されている)。この造りは、ほとんどの客が互いに顔を合わせていることで会話をはずませる。店の左の隅にはジュークボックスが置かれている。逆の隅の棚には、カラーテレビがある。たいていスポーツ番組を見るために使われるこのテレビは、バーのどの椅子からでもよく見えるようになっている。テレビの横の隅には小さな調理場があって、サンドイッチを作ったりスープを温めたりするのに使われる。

 バーのそば、出口の逆の側には婦人部屋があり、近年改装されて(女性客の証言によれば)普通の居酒屋よりはよくなっている。また出口の右側には、客がビールをカートンごと、ケースごと家へ持ち帰る時のためのビールクーラーが置かれている。さらに、その右にはスリークォーターサイズのコイン式ビリヤード台がある。二五セントを放り込むとボールが出てくる式のものだ。

 このビリヤード台から部屋を横切る形で長いシャッフルボードが置かれている。ここにはふたり連れの客がよくたむろしている。というのは、女房たちの中にはやり手が何人かいてここでゲームを楽しむからだ(これらの人々はビリヤードはまれにしかやらない)。ビリヤード台とシャッフルボードの向う側、出口の右側は紳士部屋がある。こちらは近年になっても改装されていないがブルーカラーの居酒屋としては水準以上のものだ。バーを基準にしたこの部屋の位置関係は、男性客からの苦情の種になっている。以前、私は次のようなやりとりを耳にしたことがある。

「えーいコン畜生ッ、ハリーよ、おまえさんは一体全体どういう了見で婦人部屋をバーのこんなに近くに造って、紳士部屋をこんなに遠くにしたってんだよ、オンナ共は俺たちなんかに比べてそうそうバーのとこにゆくわけないってのわかってんだろ!」

 ハリーはこう答えた。

「俺がそうしたのはこういうわけさ、あんたら腹が出てきたもんでちっと運動が必要だろうと思ってね」

 その客はぐいと一杯ひっかけて、紳士部屋へと戻っていった。

 バーとビリヤード台とパチンコ台との間には、飲んだり食べたりカードをやったりするための小さなテーブルがいくつか置かれている。紳士部屋のそばの遠い隅には公衆電話がある。そんな場所に置かれているのはプライバシーを保証するためだ。ダンスのできる空間もあちこちあるが、バーが混んでいる時は難しい。とは言うものの、本当に踊りたいカップルにとってはこれはそれほど克服できない問題ではない。

 店の外には二十台ばかり入る駐車場がある(このことは客の一日のアルコール消費量にいくぶん関係している。ある年のセント パトリック ディにはわずか二台のクルマが衝突している。しかも、駐車場のまん中でだ)。

 『オアシス』はいちげんさんを相手にするにも便利な場所にある(表通り二本に隣接している)が、その売り上げのほとんどはなじみの客に依存している。



● 街――やっかいな近郊住宅地

 『オアシス』のある街レイクサイドは、近郊住宅地となり始める前にはひなびた村だった。一八二〇年代、最初に街が作られた時には、近郊農村の農民たちのためのショッピングセンターという役割があったに過ぎなかった。というのも、都市メトロポリスは一〇マイルも離れていて、馬と馬車でそうそう往き来するには遠かったからだ。一九世紀の終わりになると、メトロポリスに住む中上流階級が夏の別荘を村のそばの湖畔に建て始め、通勤電車で街へ通うようになった。一九〇〇年までには街の人口は一二〇〇人だった。一九二〇年代になると安い自動車が大量に作られるようになった。メトロポリスに住むブルーカラーたちもレイクサイドに家を買うようになり、新しくできたハイウェイで街へ通うようになった。

 長い間、地域(コミュニティ)には小さな工場がごくわずかながらあった。その主な理由は、労賃と税金が市の中心部よりも安いということだった。この段階では、地域の経済的基盤は地元農民への小売業、地元の工場、メトロポリスへ通勤する人々のための交通産業の三つに依拠したものであった。

 第二次世界大戦の終わりまで、地域は同じ発展パターンをたどっていった。この時期には、都市中心部からの中上流階級の家族が地域に入り込んできて、二万五千ドルから四万ドル程度の単世代家族用住宅を建て始めた。今やメトロポリスは自動車でわずか十五分の距離となり、レイクサイドは便利で自然に恵まれた理想的住宅地になった。

 この時期、地域にまつわる政治的な争いが持ち上がった。一方はもともと住んでいたブルーカラーと村から隠遁した年長の農民たちに支持されていて、もう一方は新たになだれ込んできたホワイトカラーに支持されていた。この争いは学校システムをどうするかということに主として問題の焦点は絞られていたが、その他にも多くの波及的問題をはらんでいた。

 この私の研究が始まった一九六〇年代になると、地域はメトロポリスに働くホワイトカラーのために設計された何百棟ものアパートが建てられることに揺さぶられた。一方で、このアパート建築は物理的に人々の気持ちをひきつけるものだった。この事業は、村にこれまで経験したことのないほどの一時的な人口を大なり小なり抱えさせることになった。さらに、それらアパートの住人のほとんどはホワイトカラーであった。このことは伝統的なブルーカラー主導型の地域政治がこれまで以上におびやかされることを意味した。

 一九六〇年までの街の人口はおよそ六千人だったが、一九七〇年までにそれは約八千人にまでふくれあがった。

 社会学的に言って、レイクサイド以上の興味深い地域を見出すことは困難だったろう。美しい湖の汚染、ブルーカラーの住んでいた街へのホワイトカラーのなだれ込み、地元高校でのドラッグ、税金の高騰、アーバンスプロール、インドシナでの戦争、インフレ、若者の叛乱、よりよい待遇を求める女性運動、などなど、アメリカが直面している問題の全ては、ここレイクサイドの直面している問題である。この居酒屋はこれらの問題を考える要衝だった。このことはこの本の以下の部分が示してくれるだろう。

 いくつかのカクテルラウンジやサパークラブといった高級なものの他に、レイクサイドには多くの居酒屋がある。それらの居酒屋はまず客の年齢と仕事とによって分離されている。少なくとも、それらのうちふたつの店は若いひとり者の男性、女性のためのものである。彼らの多くは近くにある州立大学のキャンパスからやってくる学生か、州都でもあるメトロポリスにある州関係の事務所群で働くホワイトカラー労働者である。

 その他の居酒屋は主として中年のブルーカラー労働者とその妻たちとを客にしている。それらのうちのある店は離婚した男性とそのガールフレンドがよくたむろしているようだ。一方、別のある店は、『オアシス』で飲んでいる男たちよりに比べて熟練度も劣り、収入も低いような男たちが大部分のように思える。私はレイクサイドにある居酒屋全部に入ってみた(そのうちいくつかの店には何度も行った)が、綿密に調べたのは『オアシス』だけである。

 私が『オアシス』に興味を抱いたのは以下のいくつかの理由による。

 二十年以上も同じ人間によって所有され、経営されてきた居酒屋であること、 異なった時間に、男性だけでなく家族全員が出会える場であること、 毎週毎週同じ人々が見られ、いちげん客が非常に少ないこと、 社会的階級と職業という面から見て、客が高度に均一的なこと。ほとんどの男性は熟練建築労働者か、ブルーカラー現業公務員であった。これらのことから、私はこれらの男性、女性が、アメリカ社会における静態的な熟練ブルーカラーの世界についての価値ある視野を提供できる人々であるように、以前にも増して(そして今も)思えている。

 居酒屋は「ライフサイクル」とでも記述されるかも知れない過程を経めぐってゆく。ある時点においてそれらはよい経営状態を維持しているし、繁盛していた、楽しい店だろう。また別の時点では、同じ居酒屋が新しい経営者、新しい客、新しい雰囲気といった過渡期にあたっている。一九六五年、私が最初に『オアシス』を訪れた時、この居酒屋はおそらくそのライフサイクルのある頂点にあった筈だ。経営は順調だし、オーナー兼経営者と彼の主任バーテンダーはほとんどの客を個人的に知っていた。客は客でその多くは地域で認められている人々で、常連のほとんどがお互いに顔見知りだった。そして、誰もがほぼいつでも『オアシス』で「楽しいひととき」をすごすことができていたのだ。伝説的なイギリスの詩人であるサミュエル・ジョンソンは、ボスウェルによれば居酒屋について次のように言ったと言われている。

「人々が、あたかも議事堂の居酒屋にいるかのように自身を楽しむことのできるプライベートな場所は、ここをおいて他にない」

 このことは一九六〇年代の『オアシス』についても言えることだ。

 後に、オーナー兼経営者が年をとり、末期の癌に侵されて店が売られてから、転機が訪れた。『オアシス』は何よりもブルーカラーのたむろする居酒屋ではあり続けたが、既婚の夫婦者のいく人かは他の居酒屋に移ってゆき、それ以後『オアシス』では姿を見かけなくなった。もしも、この研究の資料がいくらか希望に満ち満ちてバラ色に見えるとしたら、それは『オアシス』がこの研究を始めた頃に楽しい場所――今の世界で誰もが探し求めているような――として記憶されているためかも知れない。


● センセイ(プロフェッサー)

 この研究を思いたったもともとのきっかけは、第二次世界大戦中、合衆国海軍航空隊の一員として、とあるイギリスの地域に私が三年間駐留していた頃のことである。この時期、私はイギリス流のパブ(パブリックハウス)にいれあげて、イギリス社会におけるその機能に興味を持った。まもなく、イギリスのパブはその客となる人々によって高度に階層化されていることがわかってきた。例えば、ある都市の場合、私がよく行っていたあるパブはほとんど全く男子校の教師たち(イギリスではスクールマスターズと呼ぶ)だけをお客としていた。ブルーカラー労働者や中上流階級の人々は、そのパブには稀にしか姿を見せなかったし、常連客は毎晩毎晩店にやってきた。

 私は、ほとんど労働党の党員であるブルーカラー労働者たちばかりを相手にする『ダヴ』と呼ばれるパブの常連になった。地域のホワイトカラー労働者が『ダヴ』に現われることはまずなかったし、激しい政治的議論のテーマはいつだってイギリスの労働者階級の問題にまつわるものだった。この本の書き手である私が、ひとたび戦争が終わったらウインストン・チャーチルと彼の政府が「ひっくりかえる」(敗北する)だろうことを感じたのは、まさにこのパブにおいてだった。後に、このことは本当になった。

 第二次世界大戦の後、私の兄はオハイオの片田舎で労働者のたむろする居酒屋を経営していた。休暇になると、私はこの居酒屋で客の話を聞いたり、兄のことについて議論したりして過ごした。土曜日の夜には、ほとんど村中の人口がこの店に集まった。その頃、このバーはそのあたりでたった一台のテレビが置いてある場所だったのだ。ついに兄は、十二才以下の子供は十一時になると家へ帰ること、という決まりをつくらなければならなかった。

 この小さな街のその居酒屋は、社会生活の中心であり、そこのマスターは街の人々についてびっくりするほど多くの知識を持っていることははっきりしていた。例えば、彼は選挙の結果をかなり正確に言い当てることができた。また、彼はどこの夫婦がうまくいってなくて、どこの夫婦が浮気をしていて、どこの娘がはらんでいて、新しい「革新的」知事家が前の知事と同じくらい汚職をやっていることなどをすべて知っていた。(もしも、居酒屋がスロットマシンを置いたり宝くじを売ったりすれば、この郡の政治的「首切り」屋である知事はそれぞれの店から月に五十ドルずつかすめとれるようになることも、彼は知っていた。しかし、「オハイオでのギャンブル廃止」を政治綱領として選ばれた新しい知事はそれができなかった)

 私の父は炭坑夫として成人した。何百フィートももぐった地下の、水びたしの中、一日二ドルで一日中石炭を堀った。東オハイオの軟炭地域、ジョン・J・ルイス指導下の炭坑夫組合連合ができる前のことだ。死ぬその日まで、父は自分が穴に降りていた頃の炭坑夫の労働条件について語っていた。

 オハイオの私の親戚のほとんどは、ブルーカラー労働者か貧しい百姓だった。一九二〇年代から一九三〇年代にかけて、オハイオのそのあたりには裕福な百姓などほとんどいなかった。第一、土壌そのものが耕作に適していなかった。加えて、経済的な状況は百姓たちにとって厳しいものだった。

 炭鉱のストライキの間、父は食料雑貨屋に職を求めた。そして、次にその卸農場のセールスマンの仕事にありつく幸運に出食わした。このため、私の家族は街で中流の下あたりに位置することになった。

 社会的階級という視点から見て、私たちが落ち着いたところの近所は入り混じっていた。道路をへだてた向かい側には、街でいちばんやり手で有名な判事が住んでいて、繋駕競走の競走馬を何頭も持っていた。同じく道路のをへだてた東側の二軒隣りには、山師の家族が住んでいて、結局大戦中に百万長者になりあがった。しかし、私たちの家のすぐ隣りには、ふたりの男が住んでいて、私は彼らをブルーカラーの貴族主義者(アリストクラット)と呼んでいた。なぜなら、ふたりはいわゆる労働者階級の頂点にいて、誇りと尊厳に満ちて道を歩いていたのだ。

 私たちの右隣りに住むひとりは、鉄道技師だった。その頃、鉄道技師はその街の水準に比べて高い給料を貰っていた(そこは人口一万二千人の街だ)。彼は仕事に出かける時、ブルーのオーヴァーオールと、ブルーのシャツと、ブルーの鉄道帽を身につけ、ぴかぴかに磨き上げたかかとの高い黒い靴をはき、腕には大きな弁当箱(ランチバスケット)をぶらさげていた。彼が道をゆくのをただ見るだけでも、それは何か意味のあることだった。一九二〇年代、ブルーカラー労働者のほとんどが未組織で、低い賃金の下で働いていた頃の話だ。

 私たちの三軒左隣りにも、もうひとり、誇り高きブルーカラーの貴族主義者が住んでいた。彼は、地元の製鉄所のひとつに勤める「圧延工」(ローラー)だった。この男はアイルランドの出身だったが、製鉄作業の過程で最も重要な位置にいるキーマンだった。鉄が最後の仕上げができる状態になっているかどうか、彼が決めるのだ。今ではこの仕事はコンピューターがやっている。しかし、当時、経験豊富で熟練した腕を持った労働者は、製鉄作業において決定的な位置にいる職人(アクター)だったのだ。というわけで、この圧延工は、いつも筋向かいの判事と同じ大きなビュイック(とにかく、いろいろある中でも一番高いやつだ)を運転していた。

 このような私の出自背景に関する材料は、読者が私の中でいつもふたつの社会的世界――ブルーカラー労働者の世界とホワイトカラー労働者の世界――が重なりあっていることを理解する助けになると思い、ここに記しておいた。社会学的感受性から言うと、私はずっとはずれもの≒「境界的」人間(マージナルマン)だった。『オアシス』にたむろする男たちは、私が若い頃眼にしたあの誇り高いブルーカラーの貴族主義者を思い起こさせたてくれた。彼らは誇り高く、そして誰にも頼らずひとりで歩いていた。そのことは今も変わらない。私が彼らについての本>を書こうと思った理由のひとつは、これだ。