「外国人留学生ビジネス」利権の背後にある文科省

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 ごぶさたです。大月隆寛です。かつて、「つくる会」2代目事務局長をつとめさせていただいていたこともある、あの大月です。

 とは言え、いまやもう四半世紀も前のこと、今の会員には、何のことやら、という感想が大方でしょう。今回、何かのご縁でまたこのように「つくる会」の機関誌に顔を出す機会を頂戴しましたが、まずはあれこれ型通りなご挨拶などよりさっそく本題を。

 すでに報道その他で何となく耳にされている向きもあるかも知れませんが、自分は去年の6月29日付けで、2007年以来足かけ13年間、籍を置いていた北海道の札幌国際大学という大学から「懲戒解雇」という処分を受けました。

 理由は、その大学で2018年度から新たに導入した外国人留学生をめぐる入試のあり方や在籍管理等、制度の運用にさまざまなコンプライアンス違反、ガバナンスの不適切な状況が学内で生じていて、それを当時の城後豊学長以下、学内の教員有志らと共に何とか是正しようと努力していたのですが、それが大学法人側の経営陣によってことごとく阻害され、学長は手続きも不透明なまま事実上の解任に等しい仕打ちをされるまでになっていた。なので、致し方なく外部の関係諸機関、文部科学省出入国在留管理庁、労働基準監督局から札幌弁護士会などにそれら内情を訴え、各報道機関にも協力を求めて世間の眼から公正に判断してもらおうとした――まあ、単にそれだけのことだったはずなのですが、なぜか、それら一連の行動が「懲戒解雇」にあたる、という判断を、法人側お手盛りで立ち上げた賞罰委員会による強引で一方的な答申に従うという形で、弁護士でもある上野八郎理事長自らこちらに申し渡してきた、とまあ、ざっとこういう顛末でありました。

 当然、これは報復的な処分であり、解雇権の濫用、内部告発者と目した者に対する見せしめ的な恫喝、威圧でありハラスメントでもあると考えざるを得ず、地位保全等を求める仮処分の申し立てと共に、民事での訴訟も札幌地裁に提起させていただきましたが、仮処分の申し立てはなんと地裁では却下、高裁に抗告するもこれもつい先日、1月下旬に棄却されたので、現在、最高裁に特別抗告の手続きをしています。一方、本訴の方はというと、昨年10月より開始され、冒頭陳述を自分自身で行った後、現在公判が進行中、次回は3月上旬を予定していますが、まあ、向こう数年はかかるでしょうし、相手側も現状、その先まで戦う構えですから10年戦争も覚悟しています。

 なんだ、地方の小さな私大の内輪もめ、よくある内部紛争か、と思われるでしょうが、しかし、どうやら事態はそんな局地戦を越えて、「留学生30万人計画」時代の外国人留学生ビジネスを支えてきたからくりのようなものが、期せずしてうっかり見えてきてしまったようなのです。つまり、少し大げさに言えば、文科省とそのOBを介した外国人留学生ビジネスを取り仕切ってきた利権構造との戦いらしい。こう言えば、教科書採択などをめぐって文科省との丁々発止を繰返してきた「つくる会」のみなさんにとっても、ああ、そういうことか、と腑に落ちるところは、少なからずあるのではないでしょうか。


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 紙幅が限られています。もろもろ端折って骨組みだけまとめて投げておきます。

 おそらくは「留学生30万人計画」を達成する目的ともあいまって、文科省が国内の大学――要は私立大学に、留学生を実質国内の単純労働力補填という意味あいも含めて大量に受け入れやすくするための政策的なたてつけの一環として、言わば「抜け穴」を作っていたらしい。

 「大学」を憲法23条の「学問の自由」「大学の自治」を盾にして「治外法権」「聖域」化し、外国人留学生という、これまでの日本人学生と意味の違う学生を受け入れるに際して、法務省(入管)その他が直接手を入れられないようにした。そして、入学に際して当然問われるべき日本語能力について、明確な基準を極力文書化しないようにして、申し合わせ程度のやり方で慣習的・常識的な縛りとして、あいまいにしてきていた。その一方で、大学以外の日本語学校などに対しては、留学生の入学に際してN3,N4など日本語能力の基準を明示して、その入学資格を文書化していた。

 つまり、大学「だけ」は入学資格についての日本語能力をあいまいにして、それぞれの大学(つまり私学です、国公立は直接管理できますから)の「裁量範囲」がある、というたてつけにし、グレーゾーンを意図的に作ったのではないか。しかも、日本語学校から大学へ入る際の入学基準についても、日本語学校入学時と同様、日本語能力の基準を明示しているのですが、かたや海外から直接国内の大学へ入ってくる留学生について「だけ」は、ここでもまたそれら日本語能力の基準は明示せず、結果的に大学の「裁量範囲」任せにしてあります。もちろん、現場があまりワヤなことをしないよう、必要に応じて文科省は「後見的に指導助言」はするけれども、それは暗黙の裁量範囲で伸び縮みするし、何より「私立大学」のことですから、問題が顕在化しない限りはお手盛りでどうにでも、ということにもなり得ます。

 京都育英館という日本語学校が、当時の外務省の領事館を介して中国の瀋陽日本語学校をまず作って、そこから直接国内の大学に留学生送り込むシステムを確立し、現地のエリート家庭の優秀な子弟に特化したやり方で、すでにここ20年来結果を出しています。ここは最近、北海道の苫小牧駒澤大学稚内北星大学などを買収し、事実上留学生専門の大学に変貌させつつあるのですが、実は札幌国際大も同じ瀋陽にある日本語学校を「海外事務所」として看板を与えて、そこを経由して直接留学生を送り込むやり方を採用していたことなど考えあわせると、これら一連のビジネスモデルは、ある時期の文科省の政策的思惑と合致した、もうそれなりの年月、すでに稼動してきたものなのだろう、と考えざるを得ません。

 少し前、文科省天下り問題で槍玉にあげられた前川喜平という元文部次官がいます。最近も新聞や雑誌その他で盛んに政府に対する批判的なコメントなどをしてマスコミ文化人として世渡りしていますが、この前川氏の天下り利権の元締めとも言うべき番頭格だった嶋貫和男という文科省OBが、数年前から札幌国際大に関わっており、昨年4月からは理事として堂々と表に姿をあらわすようになっています。この嶋貫氏が一昨年の学内の経営戦略委員会で「留学生の入学資格については大学の裁量範囲が……」という趣旨の発言をして、そこから大学法人側の暴走が加速されてことが内部資料から確認されています。また、自分の裁判においてもここにきて大学側が「留学生の入学基準にN2など日本語能力の枠をあらかじめはめるのは、「学問の自由」「大学の自治」に反する「憲法違反」のおそれがある」などという、ちょっと見には眼を疑うような主張をし始めているのですが、これもまた、嶋貫氏や前川氏が文科省内部にいた現役時代に熟知していた留学生ビジネスを支えるからくり、当時の文科省の政策的たてつけを反映した文言ということなのでしょう。

 ざっとこのような次第で、自分の「懲戒解雇」はどうもうっかり妙なもののシッポだか小指だかを踏んでしまっていたゆえのこと、らしい。

 とは言え、このような留学生ビジネスはすでにもう、外国人に対する国際情勢の変化に伴ったより大きな国策レベルでの政策的変更が明らかになってきている昨年半ば頃から、当の文科省自身、大臣発言として「見直し」を明言もしているような、その意味では早急に清算せねばならない「過去の遺物」になっているはずです。何より、一昨年の夏に東京福祉大学という私大が留学生の在籍管理の不手際から大量の行方不明者を出して問題化し、その後も文科省と入管共同の「措置」が行われたにも拘わらず、ガバナンスの不適切が再度あらわになっていたりと、どうもこの「過去の遺物」のはずの留学生ビジネスモデルは、ちゃんと始末されないまま往生できずにのたうちまわっていて、当の文科省自身、手をつかねて枯死、自然死を待つしか打つ手がないようにすら見えます。

 文科省が管轄する「教育」「文化」「スポーツ」「アート」、さらに「宗教」「信仰」なども含めた領域が、互いに癒着しあいながら「戦後」の環境で予想以上に妙でいびつな「治外法権」「聖域」をつくってきてしまったらしいこと。それらが「大学」に限っても、自浄のしにくい構造を温存してしまっていて、たとえば先の日本学術会議をめぐる問題なども含めて、単に「教育」の問題というだけではない悪さを下支えしてきているように、自分などの場所からは見えます。自分ひとりの身分がどう回復されるか、以上にもはや、それら少し前まで稼動していた利権構造の清算を意識しないことには、この戦いの見通しはつけられないと腹をくくり始めています。

*1:あたらしい歴史教科書をつくる会、の機関誌『史』掲載原稿。

*2:表紙に高市早苗センセと並んで名前が……

「読者の集い」にお招きを

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 『宗教問題』読者の集い、という催しにお招きを受け、出席しました。

 昨年暮れ、押し詰まった東京は池袋。コロナ禍はすでに日常化していたものの、例のGO-TO政策もあってご当地北海道から東京へ行くのは、飛行機代と宿泊費コミで申し訳ないくらいの値段になっていたこともあり、しばらく上京していなかった東京へ、おのぼりさん(死語ですかね)丸出しの足取りで出向かせていただきました。

 何か話を、というお求めが事前にあり、つまり偉そうにも講師という立場だったのですが、宗教や信仰などといった話題には不得要領、何より読者の方々のほうがそれらのことには詳しいどころか、現場の当事者もいらっしゃるだろうとて、えい、仕方ない、ここは昨年ずっと関わり合いになっていて、またこの場をお借りして何度か訴えさせてもいただいている自分の「懲戒解雇」関連の問題をめぐる現状などを、お話しさせていただきました。

 およそ雑誌のたてつけとは筋違いの話題だったのに、30人くらいの方に集まっていただくことができ、まあ、それなりに「懲戒解雇」という稀代のワヤを喰らったその後の経緯と現状、および今後の喧嘩沙汰の見通しなどを、なるべく興味関心持っていただけるよう、ご披露させていただいた次第。

 会がはねた後には、残っていただいた方々とメシでも、という話にもなり、コロナ禍のご時世、三密アウトで飲食店はどこもある程度以上の人数の客は受けつけなくなっているのに、そこはそれ、さすが蛇の道は何とやらで小川編集長の先導の下、中国系とおぼしき団体客上等な構えの呑み屋になだれ込み、遅くまで歓待していただきました。

 飲み食いは制限ある身の上とて、もっぱらあれこれこちらにとっては耳新らしいよもやま話をうかがっていたのですが、年格好はおよそ30代から50代まで、いずれ自分より年下の方々ばかり。大学を追い出されてこのかた、こういう「場」で闊達な「おしゃべり」に、身を浸すこともなくなっていたので、いやいや、還暦過ぎた老害化石脳にとってはいい刺激となりました。三密なんざ知ったことか、と言わんばかりの、まるで昭和末期から平成初期にかけての今様書生ノリの「呑み」の賑わいぶりは、そのような「場」でなければ宿りようのないある種の気分や、それを互いのよすがにしながら確認してゆくものの見方や考え方といったようなものまで含めて、もしかしたらこの先、なかなかもう邂逅できなくなってゆくかも知れない絶滅品種系の体験だったのかも知れません。

 自分はちょうどコロナ禍が日常化してゆきかかった、その矢先の昨年6月末に「懲戒解雇」を喰ったので、その後の夏以降、紆余曲折を経ながらコロナ禍が本邦の日常生活に組み込まれてゆく過程での大学を肌身で知ることのないまま、残してきた学生若い衆たちともメイルやLINEその他、いまどきのデジタル機器を介してのたまのやりとり程度、顔の見える距離で闊達に「おしゃべり」することなどできずじまいで、今に至っています。思えば、コロナ禍と共に大学から切り離されたようなもので、それはこの先、事態がどうなってゆくかとは別に、自分の裡でこの時期を振り返る時の何か目安みたいなものになるような予感はあります。

 生身の対面、顔の見える距離と半径での「関係」と、それらが織りなす「場」。「大学」というのはそれがふだんの暮らしとは違うありようで、年齢や性別、出自来歴その他とりあえず外したところで可能になる、そういう意味では仮想空間だったはずです。そういう空間ゆえのものの見方や考え方、感じ方などがうっかり宿り得る、そのことが〈知〉を育む大事な要件になっていたと、未だに愚直に信じているのですが、さて、それらの信心も含めてこの先、本邦の大学は、そしてそれらが育てる〈知〉はどのような未来を選択してゆけるのでしょうか。

*1:『宗教問題』連載原稿

意見陳述書 2021.1.19

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 大学法人側は、自分が2020年度前期に担当していた科目が、その後、講義の引き継ぎなどもちゃんと行われて問題がなかった、と主張していますが、全く事実に反しています。

 また、受講していた学生たちにとっては、前期半ばで何の予告もなく担当教員がいなくなり、その経緯の説明も満足に行われず、それぞれの講義の後始末やフォローアップについても連続性や整合性を考慮されないままでした。さらに、前期途中で講義を打ち切らねばならなくなったことについて学生たちに対して説明する機会も自分には与えてもらえず、責任として提案したフォローアップについても拒否されました。

 まず、自分の担当講義科目であった「現代文化論」「マンガ学」「ポップカルチャー論」の3科目については、6月末に「懲戒解雇」処分がくだされたあと、7月上旬から中旬にかけての2週間から3週間の間、それぞれの科目の次の担当教員が決まらないまま、学生たちはほっとかれていました。その際も、それまで自分がどのような講義を行ってきていたのか、事前に学生に示してあったシラバスの内容と引き比べ、その後別の講師がどのように引き継いで講義を展開してゆくことが教育課程上妥当なのか、などといった打診や相談、打ち合わせなども一切されないままでした。さらに、その後も含めて、どの科目がどのような教員にその後引き継がれ、以後の講義がどのように展開されたのかなどについても、自分に対しては一切、説明も報告もされないままでした。

 また、演習科目である「応用演習Ⅰ」(3年生ゼミ)と「テーマ研究Ⅰ」(4年生ゼミ)についても、後任がどの教員になるのかはもとより、学生ひとりひとりのそれまでの研究テーマやそれに応じての指導内容など、いわば医師ならば個別のカルテにあたる内容を引き継ぎにあたって参照されるべきところ、これまた何ひとつ打診や相談、打ち合わせをされないままでした。4年生には卒業論文を抱えている学生もおり、これは卒論指導という大学教育においては研究と連携する重要な案件のはずですが、これもまた同様の対応に終始しました。

 大学側がその間、自分の担当していた講義や演習について、誠実に学生たちに起こっていることについて事情を説明し、高等教育機関としての責任ある対応をしてきたとは到底言えない状態だったことを強く申上げておきます。

 また、在学中の現役学生のみならず、OB、OGの卒業生たちが今回の自分の「懲戒解雇」に関して文書を大学側に提出していて、その内容について大学側からの回答を求めていたのですが、それに対しても大学側は誠実な対応をしないまま、今に至っています。

 大学の教員は研究と共に教育も大切な本分であり、特に自分のようなタイプの教員は学生たちとの日々の具体的な関係やつきあいから常に刺戟を受け、さまざまなヒントをもらったりしながら、研究生活を続けてくることができたと思っています。

 少人数での個別指導も含めた濃密なつきあい方になる演習は言わずもがな、レクチュア形式の講義であっても、単にあらかじめ伝えるべき内容を淡々と一方的に伝えるようなものではなく、受講する学生たちとのその回その回のやりとりによって、こちらの考えを整理しなおしたり、また新たな発見を加えていったり、微調整をしながらシラバスにあらかじめ示した講義の内容と達成目標に向かって努めてゆくのは、大学教員ならば誰しも経験していることのはずです。

 大学側が「思い込み」と断じて、自分の「懲戒解雇」の根拠にしている、外国人留学生に関するさまざまなコンプライアンス違反やガバナンスの不適切については、それが「思い込み」ではないことは明らかであると思います。裁判所にはその点をきちんと見ていただきたいと思います。ただ、それとは別に、大学教員としての自分が学生たちのいる場に早く戻れること、講義や演習などを介して自由に闊達に、大学本来のあり方にふさわしい「学ぶこと」の愉しさを共にわかちあえるようになることを望んでいます。

 そのためにも、まずは私の大学教授としての地位を仮にであったとしても裁判所に認めていただき、オンライン授業など様々な手段を通じて大学教授として学生を教育指導したいと考えております。

 どうかよろしくお願いします。

*1:例の「懲戒解雇」訴訟での、審理の過程で、原告としての意見陳述書として提出したもの。

「小唄」ということ

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 小唄、というもの言いがある。

 学術的な定義その他についてはあれこれ沙汰あれど、とりあえず自分ひとりにとってなじみがあるとすれば、いわゆる流行歌の中の「●●小唄」。やはり大正末年から昭和初期、震災後に流行ったと言われる新たな小唄、改めて「小唄」とひとくくりに名づけられるようになった当時の商品音楽としての流行歌、になる。それら商品音楽における題名のつけ方としては、「●●節」と並ぶ昭和のある時期までのいわば双璧で、たいていはその手前に地名などを冠していた、いずれそういう「うた」の呼びならわし方のひとつではある。

 たとえば、こまどり姉妹の持ち歌「アリューシャン小唄」。1965年(昭和40年)の発売当時は競作もので、しかも元は俚謡・俗謡の類として巷に流布されていたものを下敷きにした気配。それが証拠に競作ごとに作詞者の名前が違っていたりもする。自分の耳はこまどり姉妹の声でなじんでいたのだが、他にも三沢あけみや久美悦子(裕次郎の相方で当時、映画で売り出されていたショートヘアの美人)、後にはなんと、かしまし娘までがカバーしている逸品らしい。なるほど、出だしから三拍子で歌われる明るい曲調の、「小唄」と銘打たれている楽曲としてはいささか珍しい味わいで、「アリューシャン」という北辺異郷の固有名詞とあいまって、確かに題名からして独特の雰囲気を醸しだしてはいた。

逢わぬ先からお別れが
待っていました北の町
行かなきゃならないアリューシャン
行かせたくない人なのに


どうせあたしはニシン場の
街の夜風に咲いた花
今度あなたの帰るまで
咲いているやらいないやら


アリューシャン小唄 こまどり姉妹

 ニシンでもシャケでもカニでもいい、いずれ北方漁業、遠洋も含めた華やかなりし頃の記憶が揺曳しているとおぼしいその歌詞は、もとは北の港町にでも流れていたのだろう自生天然ものの「うた」を拾って、プロの作詞家の手を介して商品音楽の調子に仕立てたもの。そのような楽曲が、当時高度経済成長の上げ潮に従ってまた新たに都市部に蝟集させられ始めていたその他おおぜいの同胞のココロに、ここではではないどこか、を織り込んだ「小唄」として提供されるようになった。

 もちろん、それらはそれまでも本邦の巷に流れていたありふれた「うた」の定型、何度も繰返し耳にし、また自分たちも特に意識もせず口ずさんだであろう、それ自体どこといって特徴もないありきたりのもののひとつでしかなかっただろうが、それでも、いや、あるいはだからこそ、それらの記憶はその後半世紀以上たった後の今日でも、何かのはずみで眼前の電脳空間の、ちょっと立ち止まってみたくなるようなつぶやきごととして、ふと行き会うことにもなる。たとえば、こんな風に。

「1965年に大変人気のあった曲のひとつに「アリューシャン小唄」があった。他にも「お座敷小唄」「松の木小唄」など小唄ものが何曲かあったが、私の一番のお気に入りはアリューシャン小唄だった。」

 そう、アリューシャンばかりではなかった。その当時、高度経済成長が軌道に乗り、めでたく東京オリンピックも開かれて昭和元禄真っ盛りになりつつあった時代、なぜかこの「小唄」がちょっとしたブームになっていた。それまでもずっとそこらにあり続けてきたような「小唄」というもの言いが、なぜ、にわかにその時期に。

 本邦商品音楽としての流行歌を考える時、この時期の「小唄」は「ブルース」とも互換されるものだったらしい。いや、これはアメリカは深南部からミシシッピ川をさかのぼってシカゴやデトロイトなどを経由しながら輪郭整えられていったとされる、あのこってりと脂っこくもステキな本場ものでなく、あくまで本邦通俗流行歌としてのブルース、つまり淡谷のり子や森進一、青江三奈その他の声と共に、皆の衆ご存知の「●●ブルース」という、そっちの方だ。「小唄」がそういう通俗「ブルース」にいつの間にやら置き換えられていった過程というのもまた、別途ひもといてみて必ず損はないお題なのだが、まあいい、急がぬ旅のこと、とりあえず今は小唄からゆるりと手をつけてみる。



 いわゆる邦楽研究、音楽史的な分野からすると、長唄から端唄、そして小唄といった系譜的な整理はひとまずされているようだが、ことばやもの言いとしての「小唄」自体の来歴はというと正直、茫漠としてとりとめない。

 たとえば、それら教科書的な記述によれば、小唄は爪弾きが基本だとされている。撥を使った大きな音ではなく、四畳半程度の空間、つまり言い換えれば「さしむかい」が前提での「個室」モジュールでの音曲ということになる。ということは、その「うた」自体がそのような個人、ひとりである生身の半径で届くことを意図したものになる。

 共鳴させるためのうつろなホローボディなど持たぬ、たかだか猫や犬といった小動物の皮を張った木製の胴しかない、だからその本領として「響かせる」ことの苦手な弦楽器が、あの三味線だといわれている。だから、今でも録音しようとする場合、マイクをどのようにセッティングするか、ギターなどの西洋出自の「響かせる」ことに長けた楽器に対する場合と異なり、それなりの工夫が必要なのだとも。

 だが、そんな三味線程度の音量でも、その頃の本邦同胞らの生活空間にとっては大きなものであったらしい。街の稽古屋、三味線のお師匠さんと呼ばれたような稼業の家から洩れ聞こえて来るその音は、いかにそれら日常にさまざまな音が交錯しているのが当たり前だったとされる時代であっても、やはり生身の売り声や掛け声の喧噪などと違う、わけて耳に立つものだったのだろう。だから、三味線の響く界隈というのはそれだけで、あの「歌舞音曲」というくくりに象徴されたような、常ならざるものだった。その三味線を敢えて音量をおさえて、楽器としての音色をはっきり際立たせるのではなく、爪弾きで「うた」の背後の、言わば伴奏として「個室」のモジュールで響かせる、それが「小唄」だったのだ、という理解は一見、腑に落ちるし、おさまりのいいものに思われもする。

 けれども、本当にそうだろうか。おさまりがよさげな分、ちょっと立ち止まってみよう。

 すでにそれらお座敷と三味線の組み合わせがあたりまえに身近にあるような生活空間に棲むこともなくなり、このような引きごと入れごとを貼り交ぜにしながらでしかそれら「逝きし世の面影」を、たとえかすかにでも立ち上げることのできなくなっているわれわれにとって、早とちりの早上がりで「わかる」を導き出す手癖が身にしみついていることを折に触れ自省し、立ち止まろうとできる足場をわれとわが身に仕掛けながらでしか、こういう道行きの先はおぼつかない。

 実際、傍らこういう話もある。

 「小唄といっても短い唄という意味ではない、小ぶしで無造作に口ずさむ唄と考えることが正しい。(…)うた沢と端唄は三味線以後のものだが、小唄は三味線以前どころか、もっと前から日本にはあったらしい。何しろ、小ぶしを無造作につけて口ずさむのだから、聞いてもらうための唄ではなく、思うことがうっかり口からほとばしり出て唄になったという筋合いのものであった。(…)小唄は三味線をあしらいにつかって唄い、端唄は三味線にのせて歌う。小唄は唄い込まれる唄の文句の面白さを味わい、端唄は節廻しと声づかいのよさに耳を傾ける。だから端唄の三味線は撥をあてる方がよく、小唄は爪びきでなければいけないというのは行きすぎである。土台そんな窮屈な条件をつけることが既に小唄の定義をはづれている。」(平山蘆江「小唄手引――附、端唄と歌沢」、1960年)

 爪びきかどうかは本質ではない、小唄は文句が、つまり「ことば」による表現が大事であり、しかもそれが「聞いてもらうため」でなく「思うことがうっかり口からほとばしり出て」唄になるようなものだ――こういう見解である。ならば、なぜ爪びきであることが小唄であることの条件として言われるようになったのか。

 「明治の中頃に、江戸小唄中興の祖として又小唄作曲の天才として立てられた清元お葉といふ人とお葉のけい古場にあつまる小唄愛好者たちとの間に、新曲をうつしたりうつされたりする時、つい手近の三味線をひきよせ爪びきなり忍びゴマであたつて見たといふやり方が、何となしに仕来たりとなつて了ひ、やがて氣取った人たちが、小唄は爪弾でなければ野暮になりやすなど半可通を云ったのがそのまま習ひ性になつたものと思はれる。」

 このお葉というのは、明治の中頃に江戸小唄を復興したという四世清元延寿太夫の妻。清元の名手として今も斯界に名を伝えられているようだが、節附の天才でもあり、その場の誰かが気まぐれに鼻歌程度に口ずさんだ文句に三味線で節をつけてゆく即興の妙があったという。

 「作る作らせる、唄って見る、唄はせて見る、そばからそばからと批判する、やり直して見ると云ったやうなことがいつもお葉の身邊でくりかへされる時、お葉は一曲毎に三味線を弾きよせて見るが、きつと爪びきのままで当って見たにちがひない。(…)一曲が出来る移す、移させるといふほどの橋わたしがいつもいつも爪びきのままであつたらう。こうしたことが、ついつい小唄は爪びきで唄ふものときまつたものかと思はれる。」

 少なくとも明治の中頃以降、末年から大正にかけてくらいの時期に、それまでのとりとめない来歴とは少し別に新しい、今と地続きの「小唄」のかたちが改めてこしらえられてゆく過程があった。そこに即興的な創作の「関係」と「場」とが関わっていたことで、三味線の爪びきが必然的にクローズアップされざるを得なくなっていた――蘆江はこう説いている。それは新たな時代の新たな情報環境で、「うっかり口からほと走り出た」「思うこと」を「うた」に変換してゆく「関係」と「場」とが、昔ながらと見えていたはずの邦楽の世間にも宿るようになっていたことの、ささやかな証言でもあった。

 「元来、小唄ばかりに限らず清元長唄常磐津などの段ものでさへ、邦楽は芝居についたもので、邦楽だけを大勢の耳に聴かせるやり方が日本で催されはじめたのは明治末か大正のはじめ頃からのことで、それまでは各師匠の社中のあげ浚いか、あげ披露かで集まるだけのものであつた。もしお葉たちが二十年も遅れて此世に生れてゐたら、きつと小唄演奏會なり清元演奏會を盛大に催したであらうし、演奏會をやるとなれば必ず撥をあてて弾いたにちがひない。」(平山蘆江『小唄解説』、1953年)

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*1:平山蘆江、にだいぶ前から喰らいついてきていたことが、こういうところでもやはり「効いて」くるあたりの、おそらくは捨て育ちの野良ゆえの功徳が、いや、ありがたやありがたや……king-biscuit.hatenablog.com

福本日南とマクルーハン

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 言葉にまず意識を合焦させて「うた」を聴く。それが音楽であれば、歌謡曲でも洋楽でも、歌詞があるならまずその歌詞に耳がゆく。こういう性癖みたいなものは、個人差や濃淡はあれど、誰しもある程度持ってしまっているのだろう。少なくとも、戦後の本邦の教育を同時代の情報環境で受けて、人となってきた世代にとっては。

 そこには、当然「意味」が伴っている。というか、むしろその「意味」こそが耳を、こちらの意識を吸い寄せる磁場の中心にあるようにさえ感じる。言葉とはそのような「意味」へと意識を導く糸口、目安みたいなものでもあるらしい。

 ならば、いわゆる音楽ではない、言葉が音声として、あるいは文字としてでもいいが、いずれそのようにそこにあるだけの「うた」はどうだろう。「詩」であれ「短歌」であれ、そしてそれが朗読、朗詠されて耳によって受け入れられるかたちであれ、紙や短冊などの上に文字や活字として定着されたものが眼を介して認識されるかたちであれ、そのように広義の言葉としてそこに「ある」というだけのありようの「うた」は。それらいずれ言葉と、その言葉に伴う「意味」をこちらの身の裡に浸透させてくる、そのことから湧き上がる感情なり感動なりココロのありようなりは、いわゆる音楽をも含めた身体的表現一般としての「うた」と、どのように繋がり得るものなのだろう。

 まあ、柄にもない大文字のもの言いをおぼつかぬ手つきで振り回しての大風呂敷広げてばかりでは芸がない。いつだって話は個別で具体的で、そしてできれば素朴なのがいい。抽象度の高い、だからそれだけ射程距離も長く、カバーできる範囲も無駄に大きい大文字のもの言いを、日々の個別で具体的な言葉と同じように扱えるとうっかり思い込んでしまわされている多くのわれわれの意識にとって、つい忘れられがちなこと、というのは案外に、そこここにある。それも、よほど意識して立ち止まって省みようとしなければ、まず思い至ることすらないほどに。

 たとえば、文字による作品としてできあがったものは、紙を介して読まれることより先に、まずそれを朗読することが、ある時期までは半ばあたりまえだったらしいこと。近代の文学史を専門としている向きなどには、何をいまさら、と嗤われるだろうが、個別具体の相からしかものごとを「わかる」に導けないのが持病の民俗学者にとっては、その「何をいまさら」こそが新鮮で、〈そこから先〉へ赴くための大事な橋頭堡になる。

 それはどうやら小説のみならず、詩なども同じことだったという。仲間や同人による合評会というのはそのように作者筆者自らその作品を「読む」「朗読する」というのが作法だった。というか、そのような朗読という発表の場があたりまえに想定されていたからこそ、仲間や同人といった「関係」も生身を伴った具体的な「場」と共に繫がれていたところがあったらしい。これは小説など新しく成立してきた表現のジャンルよりも、それ以前からのもの、たとえば短歌などでは言わずもがなのことだったのだろうし、だからこそ「朗詠」といった「朗」と「詠」もまた、敢えて一緒にひとつの言葉になっていたのだろう。

 いま、「うた」と言った時、つい忘れがちになり、だからこそまたそれらを考えなしに「詩」などとひとくくりにして片づける習い性になっている領域ひとつとっても、そのように立ち止まって考えてみれば、結構多様で多彩な内実がはらまれているらしいことが、まだ新たに見えてきたりする。

「我國の歌は、紀・記の神詠に發して、萬葉の諸什に至るまで、歌つて其懐を述べた。それで其歌は神氣蓊鬱、泣く可く、笑ふ可く、悲む可く、喜ぶべく、世を動かし、人を感ぜしむるものがあった。それが一たび平安朝に入り、延喜の綺麗となり、天暦の繊巧となり、幾んど一定の窠窗に落ち、寄木細工かモザイツクのごとく、巧むもの、作るものとなつて歌謡の原意は何時か消失せた。されど祖先の血は一日も枯れず、繼々承々して今日に至れば、其熱情の發動する毎に、何物をか假りて、託出せざるを得ぬ。是れ其の時代々々に由り、或は催馬楽となり、或は今様となり、下つては甚句となり、都々逸となつた所以である。それで詩・賦・歌・謡の原意と其徳とは所謂俗謡に就いて見る事が出來る。」(福本日南「詩・賦・歌・謡の徳」、1919年)

 形式は問わない、何でもいい。「熱情の發動」があって、それが「うた」になる。それを自分のみならず「世を動かし、人を感ぜしむるもの」にしてゆくことまでも含めて想定している。表現はそれ自体で完結しているのでなく、それを受け取る側との相互性において初めて十全に成り立つものである、というこの認識。だから、「うた」という表現は、そのように感情を動かすこと、自分と同じように自分以外の誰かのココロをもざわめかせることが大事な目的であり、それによって「関係」とその先にあるべき「場」に、「熱情」という感情を介した何らかの共感、共同性を宿してゆくものとしてとらえられている。つまり、これはある種のアジテーションなのであり、だからこそそれは、生身を介した「関係」と「場」において直接に、〈いま・ここ〉という設定において朗読されねばならない。

 紙の上の文字や活字とひとり対峙し、しかもそれを黙読する作法では、そのアジテーションとしての効きは減衰するだろう。詩や短歌はもとより、たとえ小説であってさえも、作品として作者自身が朗読することがまずあたりまえに求められていたのは、そのような紙媒体と黙読の組み合わせで「読む」ことが、個人的で内面的な行為に切り縮められてゆく過渡期ゆえのありようではあっただろうが、しかし、逆に言えば、たとえ小説という、詩や短歌などに比べて静態的で「冷たい」表現の形式であってさえも、「うた」としての役割、「世を動かし、人を感ぜしむる」目的のためにあるという初志が未だ忘れられていなかったことの、それは現われでもあるかも知れない。つまり、表現とは、それがどんな形どんなありようであれ、その向こう側に必ずそれを受け取る側が存在する、ゆえに、あらゆる表現とは媒体であり、その目的とは「世を動かし、人を感ぜしむる」ことである――あれ? これはあの「メディアはメッセージである」という、これもまた「今さらなにを」な程度に耳になじんだ能書きにも関わってくる、そんな認識にどこかで重なってはいないだろうか。

 よろしい、ならばそのマクルーハンと福本日南を、春秋戦国の古典を縁に結びつけるというワヤを敢えてやってみる。

 マクルーハンの言ったあの「メッセージ」とは、伝えられる内容、つまり中身が前提になっていたもの言いであり、それは当時、20世紀半ばあたりのいわゆるメディア論、コミュニケーション論のたてつけだったはずだ。そしてそれは、「外見と中身」「見てくれと内実」「表層と本質」といった、いずれ人間存在の本質にまでもうっかり関わる大風呂敷な二分法の発想にも下支えされていただろう。学者であると同時に商売上手な書き手でもあった彼は、それを逆手に取って伝えられる内容、つまり「中身」だけがコミュニケーション――「情報伝達」などと、例によって本邦ならではの生真面目に訳され始めていたが――において重要なのではなく、それがどんな媒体、つまりメディアという「外見」「見てくれ」を介して伝えられるのか、という部分もまた重要なもうひとつのメッセージであり、伝えられる内容になっている、ときれいに引っ繰り返し、鬼面人を驚かすことをやってみせた。

 外見や見てくれも中身と同様、何らかの伝えられる内容に同時になっている、人と人とのやりとりとは実はそういうものだ、というこの言挙げは、まさに「コミュニケーション」communication――「関係」と「場」を介してやりとりしながら何ものかを共有させてゆくこと、に理会してゆくために重要な転轍機として作用した。本邦日本語環境においてはともかく、少なくとも彼の地ではそういう役割を当時、果たしていたはずだ。その伝でゆけば日南の、表現としての「うた」理解も、表現の形式ではなく、それによって何を共有させてゆくためのものか、というあたりの視点において、実は裏返し気味にマクルーハンと案外に近いものにも見えてくる。

 もちろん、日南は「熱情」を最重要な要素とし、それをいわばダイナモとしエンジンとして、伝えるべき内容を形式不問で伝え、共有してゆくための媒体という意味での「うた」を語っている。その意味で、中身も形式も共に伝えるべき内容になり得ているという、言わばメディア論的な相対主義に踏みとどまることで持論を全面展開していったマクルーハンとは違う。違っていてあたりまえだ。生きた時代も背景も違う。

 だがしかし、形式不問と言いながら、表現の〈いま・ここ〉における役割を先に述べたような意味での「コミュニケーション」の相において説明しようとする、その社会的な視点において、個体としての「個人」にだけ偏執的に繋ぎ止められ、それら個人的かつ内面的な桎梏に身動きとれなくなっていった本邦の近代の「作者-作品」系至上主義の貧血症状とは違う、むしろ近年ようやくあたりまえになってきつつあるかに見える、作者や作品のみならず読者との関係なども含めて言葉本来の意味での歴史社会的な文脈からとらえなおそうとする「文学」その他、われらニンゲンの表現一般に対する理解などに、むしろなじみやすいものになっていないだろうか。

 近代の小説のはじまりをどこにとるのか、専門的にあれこれ山積されてきた議論とは別に、まずは「朗読」されるのが当然というこの認識が、当時目新しい表現の形式として注目を集め始めていただろう小説においてさえも、何らかの理由や来歴によってうっかり引き継がれていたことを足場にしてみる。そこから、言文一致の文体の浸透にしてもそれら「朗読」の作法のあたりまえと関係がなかったか、詩と小説、さらには絵画や彫刻などいわゆる美術とくくられる領域との相互作用が、どのように新たな「関係」と「場」を紡ぎ出し始めていたのか、などなど、「今さらなにを」に敢えて立ち止まろうとすることで初めて、新鮮な問いは数限りなく浮び上がってくる。

 「噫『詩は志を言ひ、歌は言を永うす。聲は永きに依り、律は聲を和す。八音克く諧ひ、倫を相奪ふ無ければ、神人以て和す』詩・歌の妙用は此に在る。」