「読者の集い」にお招きを

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 『宗教問題』読者の集い、という催しにお招きを受け、出席しました。

 昨年暮れ、押し詰まった東京は池袋。コロナ禍はすでに日常化していたものの、例のGO-TO政策もあってご当地北海道から東京へ行くのは、飛行機代と宿泊費コミで申し訳ないくらいの値段になっていたこともあり、しばらく上京していなかった東京へ、おのぼりさん(死語ですかね)丸出しの足取りで出向かせていただきました。

 何か話を、というお求めが事前にあり、つまり偉そうにも講師という立場だったのですが、宗教や信仰などといった話題には不得要領、何より読者の方々のほうがそれらのことには詳しいどころか、現場の当事者もいらっしゃるだろうとて、えい、仕方ない、ここは昨年ずっと関わり合いになっていて、またこの場をお借りして何度か訴えさせてもいただいている自分の「懲戒解雇」関連の問題をめぐる現状などを、お話しさせていただきました。

 およそ雑誌のたてつけとは筋違いの話題だったのに、30人くらいの方に集まっていただくことができ、まあ、それなりに「懲戒解雇」という稀代のワヤを喰らったその後の経緯と現状、および今後の喧嘩沙汰の見通しなどを、なるべく興味関心持っていただけるよう、ご披露させていただいた次第。

 会がはねた後には、残っていただいた方々とメシでも、という話にもなり、コロナ禍のご時世、三密アウトで飲食店はどこもある程度以上の人数の客は受けつけなくなっているのに、そこはそれ、さすが蛇の道は何とやらで小川編集長の先導の下、中国系とおぼしき団体客上等な構えの呑み屋になだれ込み、遅くまで歓待していただきました。

 飲み食いは制限ある身の上とて、もっぱらあれこれこちらにとっては耳新らしいよもやま話をうかがっていたのですが、年格好はおよそ30代から50代まで、いずれ自分より年下の方々ばかり。大学を追い出されてこのかた、こういう「場」で闊達な「おしゃべり」に、身を浸すこともなくなっていたので、いやいや、還暦過ぎた老害化石脳にとってはいい刺激となりました。三密なんざ知ったことか、と言わんばかりの、まるで昭和末期から平成初期にかけての今様書生ノリの「呑み」の賑わいぶりは、そのような「場」でなければ宿りようのないある種の気分や、それを互いのよすがにしながら確認してゆくものの見方や考え方といったようなものまで含めて、もしかしたらこの先、なかなかもう邂逅できなくなってゆくかも知れない絶滅品種系の体験だったのかも知れません。

 自分はちょうどコロナ禍が日常化してゆきかかった、その矢先の昨年6月末に「懲戒解雇」を喰ったので、その後の夏以降、紆余曲折を経ながらコロナ禍が本邦の日常生活に組み込まれてゆく過程での大学を肌身で知ることのないまま、残してきた学生若い衆たちともメイルやLINEその他、いまどきのデジタル機器を介してのたまのやりとり程度、顔の見える距離で闊達に「おしゃべり」することなどできずじまいで、今に至っています。思えば、コロナ禍と共に大学から切り離されたようなもので、それはこの先、事態がどうなってゆくかとは別に、自分の裡でこの時期を振り返る時の何か目安みたいなものになるような予感はあります。

 生身の対面、顔の見える距離と半径での「関係」と、それらが織りなす「場」。「大学」というのはそれがふだんの暮らしとは違うありようで、年齢や性別、出自来歴その他とりあえず外したところで可能になる、そういう意味では仮想空間だったはずです。そういう空間ゆえのものの見方や考え方、感じ方などがうっかり宿り得る、そのことが〈知〉を育む大事な要件になっていたと、未だに愚直に信じているのですが、さて、それらの信心も含めてこの先、本邦の大学は、そしてそれらが育てる〈知〉はどのような未来を選択してゆけるのでしょうか。

*1:『宗教問題』連載原稿