「小唄」ということ

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 小唄、というもの言いがある。

 学術的な定義その他についてはあれこれ沙汰あれど、とりあえず自分ひとりにとってなじみがあるとすれば、いわゆる流行歌の中の「●●小唄」。やはり大正末年から昭和初期、震災後に流行ったと言われる新たな小唄、改めて「小唄」とひとくくりに名づけられるようになった当時の商品音楽としての流行歌、になる。それら商品音楽における題名のつけ方としては、「●●節」と並ぶ昭和のある時期までのいわば双璧で、たいていはその手前に地名などを冠していた、いずれそういう「うた」の呼びならわし方のひとつではある。

 たとえば、こまどり姉妹の持ち歌「アリューシャン小唄」。1965年(昭和40年)の発売当時は競作もので、しかも元は俚謡・俗謡の類として巷に流布されていたものを下敷きにした気配。それが証拠に競作ごとに作詞者の名前が違っていたりもする。自分の耳はこまどり姉妹の声でなじんでいたのだが、他にも三沢あけみや久美悦子(裕次郎の相方で当時、映画で売り出されていたショートヘアの美人)、後にはなんと、かしまし娘までがカバーしている逸品らしい。なるほど、出だしから三拍子で歌われる明るい曲調の、「小唄」と銘打たれている楽曲としてはいささか珍しい味わいで、「アリューシャン」という北辺異郷の固有名詞とあいまって、確かに題名からして独特の雰囲気を醸しだしてはいた。

逢わぬ先からお別れが
待っていました北の町
行かなきゃならないアリューシャン
行かせたくない人なのに


どうせあたしはニシン場の
街の夜風に咲いた花
今度あなたの帰るまで
咲いているやらいないやら


アリューシャン小唄 こまどり姉妹

 ニシンでもシャケでもカニでもいい、いずれ北方漁業、遠洋も含めた華やかなりし頃の記憶が揺曳しているとおぼしいその歌詞は、もとは北の港町にでも流れていたのだろう自生天然ものの「うた」を拾って、プロの作詞家の手を介して商品音楽の調子に仕立てたもの。そのような楽曲が、当時高度経済成長の上げ潮に従ってまた新たに都市部に蝟集させられ始めていたその他おおぜいの同胞のココロに、ここではではないどこか、を織り込んだ「小唄」として提供されるようになった。

 もちろん、それらはそれまでも本邦の巷に流れていたありふれた「うた」の定型、何度も繰返し耳にし、また自分たちも特に意識もせず口ずさんだであろう、それ自体どこといって特徴もないありきたりのもののひとつでしかなかっただろうが、それでも、いや、あるいはだからこそ、それらの記憶はその後半世紀以上たった後の今日でも、何かのはずみで眼前の電脳空間の、ちょっと立ち止まってみたくなるようなつぶやきごととして、ふと行き会うことにもなる。たとえば、こんな風に。

「1965年に大変人気のあった曲のひとつに「アリューシャン小唄」があった。他にも「お座敷小唄」「松の木小唄」など小唄ものが何曲かあったが、私の一番のお気に入りはアリューシャン小唄だった。」

 そう、アリューシャンばかりではなかった。その当時、高度経済成長が軌道に乗り、めでたく東京オリンピックも開かれて昭和元禄真っ盛りになりつつあった時代、なぜかこの「小唄」がちょっとしたブームになっていた。それまでもずっとそこらにあり続けてきたような「小唄」というもの言いが、なぜ、にわかにその時期に。

 本邦商品音楽としての流行歌を考える時、この時期の「小唄」は「ブルース」とも互換されるものだったらしい。いや、これはアメリカは深南部からミシシッピ川をさかのぼってシカゴやデトロイトなどを経由しながら輪郭整えられていったとされる、あのこってりと脂っこくもステキな本場ものでなく、あくまで本邦通俗流行歌としてのブルース、つまり淡谷のり子や森進一、青江三奈その他の声と共に、皆の衆ご存知の「●●ブルース」という、そっちの方だ。「小唄」がそういう通俗「ブルース」にいつの間にやら置き換えられていった過程というのもまた、別途ひもといてみて必ず損はないお題なのだが、まあいい、急がぬ旅のこと、とりあえず今は小唄からゆるりと手をつけてみる。



 いわゆる邦楽研究、音楽史的な分野からすると、長唄から端唄、そして小唄といった系譜的な整理はひとまずされているようだが、ことばやもの言いとしての「小唄」自体の来歴はというと正直、茫漠としてとりとめない。

 たとえば、それら教科書的な記述によれば、小唄は爪弾きが基本だとされている。撥を使った大きな音ではなく、四畳半程度の空間、つまり言い換えれば「さしむかい」が前提での「個室」モジュールでの音曲ということになる。ということは、その「うた」自体がそのような個人、ひとりである生身の半径で届くことを意図したものになる。

 共鳴させるためのうつろなホローボディなど持たぬ、たかだか猫や犬といった小動物の皮を張った木製の胴しかない、だからその本領として「響かせる」ことの苦手な弦楽器が、あの三味線だといわれている。だから、今でも録音しようとする場合、マイクをどのようにセッティングするか、ギターなどの西洋出自の「響かせる」ことに長けた楽器に対する場合と異なり、それなりの工夫が必要なのだとも。

 だが、そんな三味線程度の音量でも、その頃の本邦同胞らの生活空間にとっては大きなものであったらしい。街の稽古屋、三味線のお師匠さんと呼ばれたような稼業の家から洩れ聞こえて来るその音は、いかにそれら日常にさまざまな音が交錯しているのが当たり前だったとされる時代であっても、やはり生身の売り声や掛け声の喧噪などと違う、わけて耳に立つものだったのだろう。だから、三味線の響く界隈というのはそれだけで、あの「歌舞音曲」というくくりに象徴されたような、常ならざるものだった。その三味線を敢えて音量をおさえて、楽器としての音色をはっきり際立たせるのではなく、爪弾きで「うた」の背後の、言わば伴奏として「個室」のモジュールで響かせる、それが「小唄」だったのだ、という理解は一見、腑に落ちるし、おさまりのいいものに思われもする。

 けれども、本当にそうだろうか。おさまりがよさげな分、ちょっと立ち止まってみよう。

 すでにそれらお座敷と三味線の組み合わせがあたりまえに身近にあるような生活空間に棲むこともなくなり、このような引きごと入れごとを貼り交ぜにしながらでしかそれら「逝きし世の面影」を、たとえかすかにでも立ち上げることのできなくなっているわれわれにとって、早とちりの早上がりで「わかる」を導き出す手癖が身にしみついていることを折に触れ自省し、立ち止まろうとできる足場をわれとわが身に仕掛けながらでしか、こういう道行きの先はおぼつかない。

 実際、傍らこういう話もある。

 「小唄といっても短い唄という意味ではない、小ぶしで無造作に口ずさむ唄と考えることが正しい。(…)うた沢と端唄は三味線以後のものだが、小唄は三味線以前どころか、もっと前から日本にはあったらしい。何しろ、小ぶしを無造作につけて口ずさむのだから、聞いてもらうための唄ではなく、思うことがうっかり口からほとばしり出て唄になったという筋合いのものであった。(…)小唄は三味線をあしらいにつかって唄い、端唄は三味線にのせて歌う。小唄は唄い込まれる唄の文句の面白さを味わい、端唄は節廻しと声づかいのよさに耳を傾ける。だから端唄の三味線は撥をあてる方がよく、小唄は爪びきでなければいけないというのは行きすぎである。土台そんな窮屈な条件をつけることが既に小唄の定義をはづれている。」(平山蘆江「小唄手引――附、端唄と歌沢」、1960年)

 爪びきかどうかは本質ではない、小唄は文句が、つまり「ことば」による表現が大事であり、しかもそれが「聞いてもらうため」でなく「思うことがうっかり口からほとばしり出て」唄になるようなものだ――こういう見解である。ならば、なぜ爪びきであることが小唄であることの条件として言われるようになったのか。

 「明治の中頃に、江戸小唄中興の祖として又小唄作曲の天才として立てられた清元お葉といふ人とお葉のけい古場にあつまる小唄愛好者たちとの間に、新曲をうつしたりうつされたりする時、つい手近の三味線をひきよせ爪びきなり忍びゴマであたつて見たといふやり方が、何となしに仕来たりとなつて了ひ、やがて氣取った人たちが、小唄は爪弾でなければ野暮になりやすなど半可通を云ったのがそのまま習ひ性になつたものと思はれる。」

 このお葉というのは、明治の中頃に江戸小唄を復興したという四世清元延寿太夫の妻。清元の名手として今も斯界に名を伝えられているようだが、節附の天才でもあり、その場の誰かが気まぐれに鼻歌程度に口ずさんだ文句に三味線で節をつけてゆく即興の妙があったという。

 「作る作らせる、唄って見る、唄はせて見る、そばからそばからと批判する、やり直して見ると云ったやうなことがいつもお葉の身邊でくりかへされる時、お葉は一曲毎に三味線を弾きよせて見るが、きつと爪びきのままで当って見たにちがひない。(…)一曲が出来る移す、移させるといふほどの橋わたしがいつもいつも爪びきのままであつたらう。こうしたことが、ついつい小唄は爪びきで唄ふものときまつたものかと思はれる。」

 少なくとも明治の中頃以降、末年から大正にかけてくらいの時期に、それまでのとりとめない来歴とは少し別に新しい、今と地続きの「小唄」のかたちが改めてこしらえられてゆく過程があった。そこに即興的な創作の「関係」と「場」とが関わっていたことで、三味線の爪びきが必然的にクローズアップされざるを得なくなっていた――蘆江はこう説いている。それは新たな時代の新たな情報環境で、「うっかり口からほと走り出た」「思うこと」を「うた」に変換してゆく「関係」と「場」とが、昔ながらと見えていたはずの邦楽の世間にも宿るようになっていたことの、ささやかな証言でもあった。

 「元来、小唄ばかりに限らず清元長唄常磐津などの段ものでさへ、邦楽は芝居についたもので、邦楽だけを大勢の耳に聴かせるやり方が日本で催されはじめたのは明治末か大正のはじめ頃からのことで、それまでは各師匠の社中のあげ浚いか、あげ披露かで集まるだけのものであつた。もしお葉たちが二十年も遅れて此世に生れてゐたら、きつと小唄演奏會なり清元演奏會を盛大に催したであらうし、演奏會をやるとなれば必ず撥をあてて弾いたにちがひない。」(平山蘆江『小唄解説』、1953年)

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*1:平山蘆江、にだいぶ前から喰らいついてきていたことが、こういうところでもやはり「効いて」くるあたりの、おそらくは捨て育ちの野良ゆえの功徳が、いや、ありがたやありがたや……king-biscuit.hatenablog.com