本邦いまどきの「ポリコレ」・考


 明らかに何かがおかしい。いや、前からおかしくなってきているのは確かでしたが、ここにきてまたそれが一段と加速、もはや何か取り返しのつかないところにまで事態の底が抜けて、見渡す限り何やら煮崩れ始めたような印象です。

 他でもない、昨今「ポリコレ」と丸められ、ぐっと扱いやすくなってこのかた猖獗を極め始めている、あの「政治的正しさ=ポリティカル・コレクトネス」をタテにしたさまざまないまどきのワヤの諸相であります。

 まずは、最近出来したその一連の事案、眼についたものをざっとおさらい気味に。
(引用は、web上含めた各種報道などから適宜抜粋)

■事例① 日本テレビ「スッキリ」。「アイヌ」を謎かけで「あ・犬」とやって炎上。
放送当日、夕方のニュースでアナウンサーが謝罪したが、翌13日、北海道アイヌ協会が「はらわたが煮えくり返るような気持ちで残念という他ない」と「激怒」した声明を出し、日本テレビに対応を求めていく方針を明らかに。「加藤勝信官房長官は16日の記者会見で、放送は「極めて不適切」「誠に遺憾」と述べ、内閣官房の担当部署を通じて当該放送局に厳重に抗議。政府としても再発防止に向けた対策を検討する考えを示した。」

■事例② 電通。オリパラ演出プランで渡辺直美を「ブタ」扱いしていたことがLINE経由で流出、炎上。
「3月17日、東京オリンピックパラリンピック開閉会式で演出の統括役を務めるクリエーティブディレクターの佐々木宏氏が「渡辺直美さんの容姿を侮辱するようなメッセージをチーム内のLINEで送っていた」と文春オンラインが報じた。翌日、佐々木氏が謝罪文を公表したほか、大会組織委員会橋本聖子会長も辞任の意向を受け入れた。」問題の事案は、去年3月5日、オリンピック開会式の演出担当者たちのLINE上で、渡辺直美をブタに例え「オリンピッグ」として演出する提案をしたもの。メンバーから猛反対されてグループ内で謝罪、この『オリンピッグ』案は却下されていたが、ここにきて週刊誌にほじくり返されて炎上ネタに。内容は、「ブヒー ブヒー/(宇宙人家族がふりかえると、宇宙人家族が飼っている、ブタ=オリンピッグが、オリの中で興奮している。)空から降り立つ、オリンピッグ=渡辺直美さん」「豚=渡辺直美への変身部分。どう可愛く見せるか。」「可愛いピンクの衣装で舌を出して『オリンピッグ』と。これで彼女がチャーミングに見えると思った。」

■事例③ NHK「ハートネットTV」。盲目の弁護士が「障害者は女性より差別されている」発言で炎上。
(前記、「表」参照)*1 

■事例④ テレビ朝日報道ステーション」。web上のPR動画が「ジェンダー平等」関連で炎上。
「動画はテレビ朝日のユーチューブアカウントで30秒版が、「報道ステーション」のツイッターアカウントで15秒版が公開。」「東京新聞編集局や「しんぶん赤旗」の公式アカウントも反応、ジェンダー論の識者、国会議員などからも批判が相次いだ。テレビ朝日の公式YouTubeチャンネルでは、24日午後1時時点で約13万4000回再生され、高評価が約500に対し、低評価が約8450だった。同日、番組のツイッター公式アカウントは「幅広い世代の皆さまに番組を身近に感じていただきたいという意図で制作しました」「その意図をきちんとお伝えすることができませんでした」と投稿し、動画は削除された。」

 「アイヌ」「女性」「障害者」などをダシにして、「ポリコレ」の名の下に非難や糾弾が始まり、それに対して指摘された側はほぼ間髪入れずに対応し「なかったこと」にしてゆく一連の過程の右へならえ具合、実にわかりやすく看て取れます。

 特徴的なのは、標的となっているのがメディアの舞台での各種表現や言動であること、それに対して「炎上」と呼ばれるような非難や糾弾の集中砲火がなされるのが主にTwitterなどSNSを介した「ネット桟敷」であること、そして、いずれの場合もそれら「被害」なり「不利益」を蒙ったはずの当事者の顔が具体的に見えないままなこと、あたりでしょう。

 もちろん、この「ポリコレ」を利権化して自分たちの利害へ臆面なく誘導しようとする既存の「運動」界隈が、例によってあらかじめ仕込んだような姑息な動き方もしている。

 事例①などは、放送翌日から「北海道アイヌ協会」が「声明」を出していて、それに即応してマスコミ取材がかけられ、そこから政府が遺憾を表明するまでわずか3日。この迅速果敢さは偶然とは考えにくい。また、事例②にしても、昨今「文春砲」などと自称して派手に跳ねている『週刊文春』が仰々しく報道した事案ですが、現在進行形のできごとでなく1年前の、それもLINEを介した(ほら、またSNSだ)関係者のごく内輪のブレーンストーミング的な場での「発言」を今になってわざわざほじくり返して晒してみせたあたり、ことの内容とは別に、何かあらかじめ政治的な意図や仕掛けがあったのでは、という疑念も出てきます。

 これらの点に注目し、やはり何か背後に陰謀めいた策略が……といった方向に想像力を働かす向きがあるのも、まあ、わからないではないですし、それは同じく最近、それこそ「ポリコレ」と同じくらいことさらにあげつらわれる、あの「陰謀論」という定型の解釈ツールにも、いずれうまくなじんでゆくようなものでもあります。

 ただ、それらの眼前の現象とは違う水準でひとつ、この場で指摘しておきたいのは、仮にそれら既存の「運動」の類からの仕掛けがあったにせよ、それらの「意図」と、「炎上」をさせた「ネット桟敷」以下いまどき世間一般その他おおぜい水準の気分がはらんでいるものさしとは、一見対抗しているように見えていたとしても、その背後で双方気がつかないところですでにきれいにシンクロしているらしいこと、そして、それらの意識されざるシンクロ具合も含めて表現するのに、あの「ポリコレ」というもの言いが、これまたあまねく実に便利なものとして使い回されるようになっているらしいことです。*2

 「運動」も「忖度」も「炎上」も「ポリコレ」あるがゆえだし、またそれは同じからくりで「陰謀論」の培養基にもなってゆく。当事者ならざる「観客」たちが「ポリコレ」に「忖度」した動きを起こし、それがまた素早く媒体の現場から関係者、さらに地方自治体から政府筋の反応までも連鎖的に導き出して、事態の鎮静から処理、収拾にあたるところまでもがまるで一連の台本かプログラムのように粛々と行われてゆき、「炎上」から謝罪、弁解を経て、その表現の削除までがフルコース。起こったできごとをとにかく「なかったことにする」これらの顛末はもはや一連の様式美、まるでよくできた「おはなし」の上演に立ち会っているような気にさせてくれるほどの型通りです。

 この「そういうもの」から「なかったことにする」までの過程はほぼ自動的かつ無自覚、無意識的なものであり、だからその途中で、なぜ、どういう理由や根拠でそういう処理がされるのか、などについて言語化されず、記録されることも、まずない。事例①の「スッキリ」の場合など、「アイヌ」を引き金に即座に北海道庁(「アイヌ制作推進局アイヌ政策課」という部署がすでに中心で動くようになっている)が関与して鈴木知事と北海道アイヌ協会が共同メッセージを出し、そこから政府の「遺憾」発言まで脊髄反射的な対応でしたが、これは敢えて言うならまごうかたなく「公権力」による「表現・報道の自由」への介入事案でしょう。しかし、にも関わらず、ふだんからそれらの能書きを神輿のごとく担いで「反権力」ぶりっこに邁進している「運動」界隈から何ひとつ異議申し立てが見られなかったことに加えて、キャスターの加藤浩次が「北海道出身者でありながら即座に対応できなかった」という、これまた「ポリコレ」への「地元」を体した無意識買弁全開な阿諛追従を謝罪の中に組み込んでいたことなども含めて、本邦のテレビというメディアの現場が、すでにそのような「ポリコレ」ごかしの「抗議」「クレーム」の類に対する理性的な足腰など失っていることを、実に無惨なまでにわかりやすい見世物として晒すことになりました。

 そこでは、起こっているできごとの理由や根拠は全て言葉以前の「そういうもの」になっていて、「ポリコレ」はすでに自明の基準、だからこそ、理由や根拠をすっ飛ばして「合理的」「効率的」に事態をただ「そういうもの」として「前へ進める」ために最も便利なツールになっている。かくて、日本語化された「ポリコレ」は、かのジョージ・オーウェルが『1984』で描いて見せたあの「ビッグ・ブラザー」、誰も抗えない存在としてひびの行動の規範、価値の源泉となって現実の社会生活のあるゆる局面を支配してしまっているにも拘わらず、果してそれが実在のものかどうかもわからないまま自明のものにされている形象のごとく、この21世紀の本邦、令和の御代に君臨し始めています。

 一方で、非難や批判、罵倒などが表現されるのは、顔の見える個別具体の名前においてでなく、概ね匿名の場です。昨今の情報環境のこと、それはTwitterその他のSNSであったりするわけですが、いずれそれら匿名性を担保される回路を介して「世の中の声」として現場に届けられることになっている。ただ、それらは昨今、個々に是々非々で吟味され読まれるのでなく、一律にネガティヴな「抗議」「クレーム」として受け取られるようになっていて、現場の側にはそれを「合理的」「効率的」に「処理」しなければいけないというプログラムが、「おはなし」のように起動されるらしい。このへんの事情は、何もこれらメディアの現場に限ったことでもなく、それこそコンビニのレジからレストランやスナックその他各種外食産業などのいわゆる「客商売」「接客業」の小さな場所から、役所や各種公共施設、学校や病院や介護施設など、民間に限らず公的セクターも含めた「サービス」を提供する仕事の現場一般において、ほぼ全面的に「平等」に共有されるようになっています。

 かつてのような一次、二次産業主体ではなく、いわゆる三次産業が社会の生産過程の主流を占めるようになり、それに伴い「経済」もまた金融経済的な領域の比率が高まってゆくことで、そのような世間の「評価」「評判」がそのままカネの流れも規定する――前世紀の終わり頃このかた、そういう仕組みでわれらの社会は動くようになってたようです。そのように社会を動かす大きな仕組みが否応なく変わってきた中、いずれ商業メディアの、それも「マス」を相手取る媒体、「広告」「広報宣伝」という機能にまつわるゼニカネの流れが、世間一般その他おおぜいの「お気持ち」をタテにして、そのような社会のありかたに適応した「正義」としての「ポリコレ」を要求しています。「評判」「世評」の動向がそのままゼニカネに反映されるこの仕組みにおいて、これはたかだか個人の思想や思惑などとは別に、〈いま・ここ〉を生きる全ての同時代にとって、およそ抗いがたい「新たな自然」「もうひとつの生態系」として機能し始めているようです。


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 とは言え、これでは話がうまくまとまりすぎる。昨今の本邦「ポリコレ」沙汰、欧米海外本場のそれとはどうも違うところがありそうにも思えます。そのような事情は、この間のもうひとつの事例が、うっかりと象徴的に見せてくれていたかも知れません。

■事例⑤ NHK聖火リレー配信映像から「反対」の声を削除
「4月1日、NHK東京五輪聖火リレーを生配信している特設サイトの映像で、五輪への反対活動をしている人たちの近くをリレーが通過した前後の音声が約30秒消されて配信され、疑問の声が上がっている。「オリンピックに反対」といった声が聞こえてきた直後に音声が約30秒間途切れ、音声が戻った時には反対などの声は聞こえなくなっていた。」

 ここには、もう「抗議」「クレーム」もなければ、「炎上」もない。メディアの現場の側が先廻りして「忖度」して、あらかじめ意図的に音声を消して配信しています。

 生放送でなく、地上波やBSなどでもないweb配信映像だというあたりは、先のテレビ朝日のCM動画などと同じ。webだから後付けで加工することに意識としてそれほど躊躇せず、「つくりもの」としての手の入り方が既存のメディアよりも過剰になることに抵抗感も少ないといった、いまどきの映像・音声前提となったメディアの現場特有の事情もあるのかも知れませんが、いずれにせよ、リリースされた時点でそのような加工がされ、気づいた視聴者から指摘されて配信後に問題の所在が初めて表沙汰になりました。すでに表現は「公共」に流れた時点で整形され、「ポリコレ」準拠の「正しい」ものになっていたわけですが、さて、どうしてこれを「検閲」と呼ばないのか。外部の公権力の指示や視聴者・観客の具体的な抗議やクレームなどの圧力によるものですらない、外から見えない現場の自主的「検閲」による「報道・表現の自由」の危機であるとは、なぜ認識されないままなのか。

 あるいは、先の事例③でも、「ポリコレ」的に「正しい」側の属性とされ、共に「差別」される側として「忖度」される立場にあるはずの「盲人」と「女性」が、同じ「差別」の土俵でどちらがより「忖度」されるべきか、といった構図に巻き込まれるという、以前ならばそれこそ全盛時のビートたけし立川談志あたりに「お笑い」のネタにされていたような事態が、現実になっていました。実際、いみじくも松本仁志が『ワイドナショー』(フジテレビ)で、事例②の渡辺直美をあげつらった電通の事案に関連して「オレももう二人くらいハゲほしいな、とか言うてるし」「ジェンダー関連でわ~と言われたら謝るしかないってのは絶対良くない」と、割と深刻な調子含みのコメントをしていたこなどは、そのへんの危機感の反映だったでしょう。放送したNHKは「全ての差別は許されるべきではなく、比較することが不適切だった」といった趣旨の一般論での弁明をしていたようですが、これら本邦昨今の「ポリコレ」沙汰はもしかしたら国際的な標準からしても悪しき一歩先を行っている部分がすでにあるのかも知れません。

 アメリカにおいて、ポリティカル・コレクトネスを現実化するためには、BLMのような具体的な「運動」があり、またそれに対抗するカウンターの運動もあって、それらは「暴力」を伴うものになっていました。だが、「草食化」が進行したわがニッポンではその必要もない。そんなバグすら必要ないスムーズな適用が粛々と、「忖度」任せに行われ、なるほどアメリカのような社会秩序の急激な崩壊や、「公共」のモラルの危機がそのように具体化し、可視化されることは一見、ないように見えます。

 ゆえに、本邦での「ポリコレ」とは、「忖度」というエンジンで駆動する、世間ぐるみの「検閲」のからくりとして立ち現れる。この「検閲」、かつての20世紀のそれと異なり、わざわざそのための強面の組織やいかつい法律などを整える必要はないらしい。すでに世間に実装されている「そういうもの」というものさしによる「忖度」によって、それは自動的に行われ、その手口や仕事っぷりが言語化され表沙汰になることもない。それは無意識の裡に、言わばコンピュータのOSのように自然に抵抗なく「そういうもの」として粛々と稼動し、実にゆるふわで合理的で省力化された「検閲」を現実のものにしています。

 思えば、何も「ポリコレ」などの外来カタカナ用語を振り回さずとも、そのような事態はすでに以前から、本邦の社会に出来していました。ことばと眼前の事実との乖離、現実を編み上げてゆくための身の丈のもの言いの後退が、「私」と「公」の間のあるべき垣根をなめしてゆき、結果的に「公」の水準でのことばの合理性だけが優越するようになってしまった。その速度に歯止めをかけるべき「私」の領分は、その輪郭をくっきりさせてゆくような個別で具体的なことばや、半径身の丈の生身の実存に紐付いたもの言いを失い、「公」の領分と同じ語彙同じ話法でしか語れなくなっている。 *3

 「個人」主義が突出して称揚されてきた結果、個人が属する集団や組織など「社会」へつながり得る水準のイメージが希薄化してゆき、それがポリコレ談義においてもいきなりその属性に関する取扱いが突出する結果になっているように見えます。オンナであり障害者であり、いずれそれら「所属する集団」の属性を介して「政治的な正しさ」は規定されてくる。以前ならば「個人」ベースの「平等」や「自由」だけが称揚されていたところに、いきなりこの「集団」が意識されるようになったわけで、これは裏返して言えば、それほどまでに「個人」とは一個の個体である同時に何らかの集団に属するものであるという意識が疎外されてきた結果でもあるように思えます。もちろん、だからこそ抑圧は「私」の領分に堆積してゆくわけで、「ポリコレ」と釣り合うような形で最近、やたら使い回され「正義」の依代にされるあの「お気持ち」や「想い」といったもの言いは、おそらくその反映なのでしょう。「公」と「私」、近代このかた連綿と続いてきた本邦ゆえのその間の緊張は、「豊かさ」まかせにそれを考えなしに放置してきた戦後80年近くの経緯のなれの果ての〈いま・ここ〉において、そうと気づかぬ間にある臨界点を超えてきているようです。

 「心ゆかせ」というもの言いが、かつてありました。「心」を「ゆかせる」ということ。それは「気晴らし」であるようなものですが、そのためにはことばが必要だったわけで、ふだんのままだとわだかまってしまったり濁ってしまう、そんな残余の部分こそが「こころ」や「きもち」だったのでしょう。それらは決して表沙汰にことごとしく語られたり言い張られたりするものではなかったけれども、だからこそその分、存分に手当てをしておかないことには、何かの折りに予期せぬ復讐をしかけてくることもある。それは個人の、ただひとりのこころの裡ということでもなく、「みんな」の、「世間」のそういう気持ち、心延えということでもあったはずです。

 本邦の天地にずっと以前からささやかに存在してきた「ポリコレ」が、もしもあるとしたら、それは「お天道様」であり「世間」であるような、いずれそういうもの言いで表現されてきたものさしに準拠していたものかも知れません。そして、それこそが本邦「民俗」レベルも含めたところでささやかに受け継がれてきた、われらの「公共」の原風景だったのではないでしょうか。

*1:掲載誌上で別途、これら事例の内容の概略が一覧表として示されていたのでそちらに誘導。割愛した内容はこちら。「「3月22日、「盲目の弁護士」として知られる大胡田誠氏が出演し差別問題でコメント。「自分でもゆがんでいるなと思いますけど」と断った上で、「『女性差別』と世間が騒いでくれてうらやましいなと思います。障害者差別はもっとエゲつないことがたくさんあるのに、全然騒いでくれない」「視覚障害のある女の子が交通事故に遭ってしまったのですが、『健常者と同じ仕事ができないから損害賠償の額は7割』という判決が出ちゃったりしているんです」などとした上で、「女性差別なんて生っちょろいぞ、なんて思うんだけど、世間は(障害者差別については)あんまり騒いでくれないんですよね」と指摘した。」番組のTwitter上での内容紹介に対してSNS上で批判が殺到。番組サイドは謝罪し、内容紹介の部分を削除した。

*2:内容が抽象的になって読者にはわかりにくいだろう、とて最終的に割愛した部分。

*3:この部分も、雑誌掲載原稿としては抽象的にすぎる嫌いがあるとのことで割愛。持論であることばと現実、〈リアル〉の関係性の変貌を前提にして、高度成長期を介した偏差値世代あたりで全面的に可視化された「ことばと主体の乖離」のさらに延長線上

「作詞家」と「作詞」の今昔



 「作詞家」という肩書きも、もうあまり見かけなくなった。

 いや、商売としては現存しているのだろうが、それが仕事の肩書きとして眼に触れる機会が少なくなったというだけのことなのか。web検索を叩いてみると、それら「作詞家」志望をあてこんだとおぼしきサイトや広告の類はまだたくさんヒットするし、オーディションやコンテストの類もそれなりにあるらしい。また、昨今のこととて「資格」商法の一環に取り入れられていたり、あるいは専門学校のコースになにげなく組み込まれていたりと、ふだん気づかないものの、「作詞」という言葉自体はある種の創作として、それこそ「クリエイティブ」な仕事として、本邦の世間一般その他おおぜいに向けて、今なお夢を与えるものになってはいるようだが、ただ、よく見ると様子が違う。

「ひと昔前には、作詞家を目指す若者はレコード会社や音楽制作会社を直接尋ねていくことがデビューへの登竜門でした。自分が作詞を担当した曲のデモテープを売り込み、プロデューサーやディレクターに聞いてもらい、デビューや仕事のチャンスをうかがっていたのです。しかし現在のように音楽がデータ化され、メール添付でデータのやりとりができる時代になると、こうした持ち込みはほぼなくなりました。」(ある職業紹介サイトの「作詞家の仕事」)

 「作詞家」になる道としてデモテープの持ち込みが、それもすでに過去のこととして語られている。要はシンガーソングライター、楽曲と一緒に歌詞も作るのが自明の前提で、最初から「歌詞」だけを売り込むようなかつての「作詞家」のルートは、もう想定すらされていない。つまり、言葉としての「歌詞」を「うた」として創作し、文字にするという作業を商売に繋げることは、今の時代、考えること自体もう現実的ではなくなっているということなのか。事実、いま「作詞家」という肩書きですぐに思い出せる名前は、たとえば阿久悠だったり、松本隆だったりする。また、それが昨今、世間の大方のはず。現在第一線で活躍中の作詞家の名前など、誰も気にしなくなっている。

 逆に、曲を作るということ自体、すでにデジタル機器を介したデータ上の作業になって久しい。五線譜にオタマジャクシを書き込むのでなく、キーボードでモニタ上に打ち込む、それも手指と身体で楽器を操ることをせずとも、各種デバイスを使ってひとりで何種類もの楽器の音を作り出し、かつそれらをひとつにとりまとめて編曲さえしてかたちにしてゆくといった段取りがあたりまえというご時世。「歌詞」にしたところで、今世紀に入ってあのボーカロイドが普及してこのかた、半ば自動的に「うたわせる」ことは同じくデータ上で容易になった。仮に歌詞が必要でも曲が先にできていて、それにあわせてつけるのが「作詞家」の、もしもまだあり得るとしたら残された分担らしい。

 だが、かつては必ずしもそうでもなかった。「歌詞」と「曲」とは一心同体、むしろ「歌詞」が先にできて、それにあわせて曲をつける過程が、商品としての「流行歌」の現実の制作現場にはあった。そしてそれは、戦前は大正末から昭和初期、レコードを介して「流行歌」が商品として市場に流れるようになった頃からの、言わば業界の習い性のようにもなっていたようだ。

 とは言え、当時の日本人にとって、曲を作ることと歌詞を書くことの間は大きかった。いかにラジオやレコードを介して「流行歌」が世の人がたのこころをうっかり刺戟するようになっていたとしても、だからと言って誰もがおいそれと曲を作って五線譜に転記することができたわけでもない。なのに、紙媒体としての楽譜は、「十銭楽譜」と称され、レコードと共に爆発的に売れるようになってはいた。

「一方楽譜出版はすさまじいものがあった。当時の楽譜は現在のレコードに比較されるほど有力なものであった。「ハーモニカピース」と呼ぶハーモニカ用の楽譜(ピアノ楽譜とちがうところは、ビアノは本譜、ハーモニカの方は123の数字で書く略譜)と、ピアノ用の大きな版のものと、二種出たがこれまたすごく売れた。(…)当時の大衆の多くは、このハーモニカ楽譜で、ハーモニカを使って流行歌をおぼえたもので、これは現在のギターに匹敵する役割を果した。」(時雨音羽『人生流行歌』有隣書房、1972年)

 大衆楽器としてのハーモニカの役割や、その略譜を介した「うた」の浸透過程などは別途また俎板に乗せたいが、この場でひとまずおさえておきたいのは、紙媒体としての楽譜にもまた、そこに「歌詞」が共に印刷されていたということだ。このへん、レコードに歌詞カード(当時は「文句カード」と呼ばれていたらしい)が附されるようになっていった経緯など含めて、本邦同胞の「うた」がやはり言葉で、それも眼にする文字を介して記憶されるようになっていったという、リテラシーに関する新たな経緯が重ね焼きされている。言葉に曲が、「ふし」がつけられる、それは明治期の演歌師が一枚二銭程度で実演しながら売っていたという歌詞だけのザラ紙の紙片が、より立体的な、身体的な躍動を導き出す媒体になってゆく過程でもあった。


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 言葉で、うたの「文句」をとりあえず自在に考える、そしてそれを「作詞」と考えることの方が、いきなり曲を作ることに挑むより敷居は低かった。だから、その「流行歌」からの刺戟は「自分でもうたってみた」から「作詞してみた」という方向での発露がなされてゆくことになる。もちろん、「ひと山当てたい」「儲けたい」という、「流行歌」ならではの広がりを獲得し始めた市場に向けて、これまたうっかりと解放されるようになった欲とふたり連れで。

「私のところへ、いろいろ歌詞を書いて送つてよこす人がある。みんな、レコード會社へ紹介してくれといふのである。一人で十篇二十篇と書いてよこすなかには、かなりいいものを發見することもある。が、私は、その一篇がよかつたからと云つてすぐその人を紹介するといふやうな輕い考へ方をしたくない。」

 こう言うのは高橋掬太郎。北海道は根室の漁師の子として生まれ、地元の新聞社で記者をやりながら各種創作を手がけた当時よくあった地方の文筆系趣味人で、自身もレコード会社への投稿をきっかけに、昭和6年にあの「酒は涙か溜息か」で作詞家デビュー、戦後も後進の指導に邁進して星野哲郎や石本美由紀などを育てたという、まずは本邦職業的「作詞家」の濫觴のひとり。とは言え、文字のリテラシーからの出自は争えず、作詞は「詩」であり「文学」だ「芸術」だ、と実に調子高く、諭してゆく。

「レコード小唄の眞似は出来ても、文學とはどういふものか、詩とはどんなものか判らないやうでは困る。(…)歌謡の勉強をすることはいいけれど、レコード歌謡の眞似だけではいけない。もつと廣く、もつと深く、文學を學び、藝術を識り、人生を究めなくては、本當に力の入つた作品が描けるものではないと、常に説いてゐる。」(高橋掬太郎「歌謡研究」 佐藤惣之助・髙橋掬太郎『民謡と歌謡研究』所収、1943年)


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 彼は、当時から「歌謡詩人」という言い方もしている。その「歌謡」の部分に込められた内実は、いわゆる「うた」の既存のジャンルなど越えたところにあった。それを可能にしていたのは、「大衆」に向けて「受け入れられるもの」を作るということ。眼前の聴衆ではない、その場にいない顔も見えない、でも確かに自分の作ったものを買ってくれる不特定多数の茫漠とした、新たに現前し始めた広がり。だから、「歌謡」というもの言いも無限に間口を広げられてゆき、定義や枠組みといったたてつけは事実上意味をなさなくなる。耳にするものすべてが「歌謡」であり、それに携わる「詩人」という自意識のたてつけが完成する。そうなると、浪花節もあっぱれ、その「歌謡」になる。

「「唄入観音経」の作者として知られてゐる畑喜代治君の如きは歌謡詩人の出であり、その他秩父重剛君にしろ、水野草庵子君にしろ、此の方の作者のなかには、歌謡も書くといふ人々が多い。いや、歌謡も書くといふよりは、歌謡を書ける人でないと、浪花節の名文句は書けないと云った方が本當かも知れない。」


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 流行歌だから「売れる」ことが目的で、間違いなく「通俗」ではある。しかし、それだけを目的にすることは許されない。そういう感覚がまだあたりまえに理屈抜きに標榜される程度に、時代はまだ大衆社会化の現実に対して、うぶでおぼこで青臭かった。

「このやうに歌謡の種類は多いのであるから、はやり言葉の片鱗を拾ひ集めて、ネー小唄の一篇やハー小唄の一篇を書いたところで、これで歌謡詩人に候とは、世間が認めない、一角の歌謡詩人となるには、特別の天才でまづ五年位、普通は十年以上、みつちりと勉強しなくてはいけない。それも、レコードの文句カードなどを蒐めて、獨り勉強をしてゐる程度では、何時までやつてどの程度に成長するか判らない。」

 一方、同じ時代に「歌謡詩人」になっていた、われらがサトウ・ハチローは、こうだ。

「作詩家は詩人ではない、レコード屋にたのまれて、唄をでつちあげる職人である。」

「「やあ、チクオン機屋さん、いらつしやい」
僕はそのコーヒー店へ這入ると、そこの主人である早大の生徒は必らず、かう聲をかけた。僕は詩人ではない、いままさに立派なポリドールの一員である。僕はチクオン機屋さんと呼ばれてゐる方が、詩人だと言はれるよりずつと嬉しい。」

「僕は、現在蒲田のテーマソング屋の一人である。」

 韜晦しつつの、昂然たるマニフェスト。だが、志は同じ。「作詞」も当初は「作詩」だったようだ。少なくともサトハチにとっては。だから当然「詩人」だったし、そういう前提での扱いをされるものだった。そしてそれは「作曲家」と対等、あるいはそれ以上の関係でもあった。作曲する方も「詩」としての言葉を存分に尊重するし、その上で自分の曲作りの肥やしにもしていた。いい「詩」ができたからこちらもいい「曲」が書けた、といった同志的感覚。「詩」だから当然「文学」である、「芸術」である。そういう権威が「文学」にはあったし、流行歌の制作現場にも「作詞家」を介して色濃く揺曳していた。

 サトウ・ハチロー、戦前昭和初年の浅草徘徊時代のものを眺めていると、とにかく「詩」が次から次へと湧いて出ている。ただ、それを書いたものとして見せるのと、自らうたってしまうのと、表現と伝達については経路が複数あったらしい。「書いた」ものはいわゆる「文学」的な、おそらくは「読む」こと前提の形式の「詩」。人に見せるのも紙に記した状態だったが、ただ、当時の盟友エノケンですらそういうのには素っ気ない。

「僕は、こんな詩を書いて、「どこかに木下杢太郎の匂ひがござるでせう」と鼻をうごめかし(…)エノケンにしめした。エノケンは、「それがいゝんですかね」と、わからねぇが七分、わかッたが三分みたいな顔をした。」

 だが、そういう「書いた」詩とは別に、それを容易に「うたう」ことも彼は日常、あたりまえにやっている。全身で「詩」を生きる、それが習い性となっている中から、流行歌にも小唄にも、あるいは現代詩にもなり得るようなものが日々、湧き出ていた。

「あの頃はよかッた。僕の神経も、いつもたのしくピリピリとふるへて、何でもかんでも詩になつた。唄になつた。ピツコロを聞けば――寒さうな音をお出しなさるなピツコロ殿 そのたは、やつがれのふところ具合をあまりによくごぞんじで――とやるし(…)詩はノートへ書き、友達に聞かせ、節をつけて歌ひ、その日その日にうれしかッたものである。」(サトウ・ハチロー「浅草詩抄」 『昨日も今日も明日も』所収、草原書房、1947年)

「歌謡」と「曲」の来歴

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 戦前、ざっと大正末期から昭和初期にかけて、「童謡」と「民謡」はうっかり隣り合わせになり始めていた。そこでは「童」と「民」、つまり「子ども」と「民衆」≒普通の人々が、共に「謡」≒「うた」を媒介としながら、文字・活字ベースの情報環境で編制された〈知〉の側から改めて「発見」されるようにもなっていた。

 とは言え、ことお題が「うた」という、いずれ生身とからんだ茫漠とした領域にまつわるゆえ、それらの言葉の定義は使う人により、また場合によりさまざまに揺れ動き、それぞれの文脈を落ち着いて斟酌しながら立体的に読もうとしないことには、なかなかその内実にまで届かない憾みが常にまつわってくる。たとえば、こんな具合に。

「童謡とは童心を通してみたる事物の生活を音楽的旋律のある今日の言葉で言ひあらわされた芸文である。」(野口雨情『童謡教育論』、1923年)

「一口に民謡と申しても、その定義といふものは大變に複雑して居りまして、理窟の上から申せば、歌謡といふのも、俗謡、俚謡といふもの、又は童謡といふのも、悉く民謡であつて、昔から古く唄はれたもの、或は地方から發生した唄は、みんな民謡なのであります。」(佐藤惣之助「民謡の研究」、佐藤惣之助・髙橋掬太郎『民謡と歌謡研究』所収、1943年)

 定義自体が目的化するのは、いずれ文字・活字ベースの情報環境で編制された〈知〉の宿痾のひとつではあるだろう。だが、それにしても、これら行儀の良い、だからその分平面的でゲームめいた味気なさもまつわる説明にひとつひとつ律儀に向かい合うだけでは、「うた」としての「童謡」「民謡」がうっかり隣り合わせにさせられるくらいに当時一緒くたに はらんでいたらしいある気分のふくらみについて、〈いま・ここ〉から手ごたえある「わかる」に到達することはできないものらしい。

 「明治初年から民謡は歌われていたが、それは地方でうたわれたもののうちで、座敷唄として適用するようなものを、花柳界で芸者が三味線にのせたのであった。(…)それで、民謡といっても、三味線流行歌のような形であった。レコードができてからも、歌手は芸妓か寄席芸人であった。それほど、民謡は当時百姓唄として音楽界からは重く見られなかった。」(森垣二郎『レコードと五十年』、1960年)

 この時期の「童謡」と「民謡」の隣り合わせは、児童文学と民俗学の本邦近代思想史上の相似という補助線を引くことによって、また別の様相も呈し始める。共に近代的な〈知〉の通俗化と凡庸化の過程にあった当時、それぞれの版図をうっかり拡大してゆくことになったという意味においての、大衆社会化に伴う〈知〉の側からの現実認識、〈いま・ここ〉を把握してゆく新たなたてつけの前景化の過程として。そしてそれは、あの柄谷行人がある時期から今さらながらに柳田國男をあれこれ相手取るようになった、その脈絡の必然ともおそらく重なってくる。

 柄谷的な、あの本邦ポストモダン流儀を愚直に反映した文芸批評の作法に従ってみるなら、「児童」の発見にはそのための「文体」があらかじめ発見されることが必要であり、それゆえ「内面」「自己」という近代的自意識がその輪郭を明確なものにしている必要があった。そして、「児童」は「風景」のように発見されていったというわけだが、それと同じく、「民俗」や「常民」もまたそのように発見されていった過程があったと考えられる。それはいわゆる「現実」の発見、さらに押し進めれば「日常」や「生活」「暮らし」などのもの言いで表象されてゆくことにもなるであろう〈いま・ここ〉をそのように見出してゆくからくりの歴史性にまで敷衍してゆくことになる。あるいはまた、違う方向に視野を広げるなら、柳田的な意味あいとは異なる折口信夫的な意味も含めての茫漠とした「古代」や「むかし」、「文化の古層」といったもの言いによって表象されようとする領域を発見していった過程にもつながると思われる。だが、そのような考察はこの場の間尺になじむものでもない。ここでもまた、初発の問いである「うた」の場所から何度でも、だ。


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 「歌謡曲」という言葉も、最近では使われなくなってきている。

 Jポップなどというすわりの悪いもの言いが一時期編み出され、その後少しは広まったけれども、それも商品音楽の一部のジャンルをカバーする言葉でしかないまま霞んでしまったようだ。まして今やボカロだのYouTuberだのを介した新たな楽曲すらいくらでもwebを介して手もとのデバイスにダウンロードされてくる昨今の情報環境では、そのように日常にあたりまえに遍在するようになった商品音楽をその属性から定義する大きなもの言いは、もはやその必要すらなくなっているのかも知れない。対照的に「楽曲」という、おそらくもとは商品音楽を生産する現場で使われていたような無機的なもの言いが、個々の曲についてのみならず「音楽」一般にまで置き換えられる大きな言葉として、少し前までの「歌謡曲」に代わって使われるようになっているのも、またいろいろ示唆的ではある。

 その分、かつての「歌謡曲」のその「歌謡」の部分がある時期まで独立したひとつの単語として使われていたということも、忘れられかけている。「歌謡曲」とは「歌謡」プラス「曲」であったことの経緯には、その前段の「歌謡」と後段の「曲」とが成り立ちも来歴も別ものでもあったこと、「歌」と「謡」は共に「うた」と読み得ていたのに対して「曲」はそれらと少し距離がある内実を伴っていたということなども確かに含まれていたはずなのだ。

 もちろん、「曲芸」や「戯曲」などのように、それら「曲」という一語に込められてきた意味あいやニュアンスから考えてみようとすれば、そもそもその漢字の本家本元、大陸からの由来や来歴がそこにこってりとからんできていることに思い至らざるをえず、いずれ門外漢には手にあまる。だが、それらを十分承知した上で、とりあえずこの場の「歌謡」プラス「曲」という言葉の成り立ちにおける近代このかたいまどき日本語の脈絡での「曲」について言えば、生身の主体の動作にまつわる「うた」の部分とは別の、それら主体の外側からアタッチメントのように取り付けられる客体としての楽曲の部分、といった意味あいになるだろう。つまり、近代西欧的な意味での「作曲」と地続きな、あらかじめ楽譜に置換され整理された形式で「うた」とは別の主体の制御の下に作り出される生産物としての「曲」、である。そして、その「曲」の部分こそは当時、レコードという新しい媒体を介して拡散されてゆくことになった商品音楽――「レコード歌謡」という言い方もあった――に必然的に伴い始めていた、「作曲家」の手による創作物という新たな属性を付与した「うた」のありようを受止めるために必要だったらしいのだ。

「レコード音楽が成長するとともに、歌謡の詩すなわち歌詩は純然たる文学的色彩を次第に失いながら、音楽と結びついた文字表現の新しいジャンルの芸術として発展していったのである。ここに「流行歌」が普及するとともに歌謡作家という新しい職業が出現することとなった。」(小山心平『我つらぬかむ――作詩家・髙橋掬太郎小伝』(財)北海道科学文化協会、2004年)

 「歌」と「謡」は共に「うた」であり、前者の「歌」が「歌手」に、後者の「謡」が歌の「文句」を創作する「詩人」「作詞家」に、そして「曲」はそれらに伴う楽譜化された客体的な楽曲を創作する「作曲家」に、それぞれ対応していた。そしてそれは、レコードという当時の新しい媒体を介した「うた」の共有のされてゆき方、「流行歌」と呼ばれるようになっていたその「流行」の部分についての当時の情報環境の変貌を期せずして反映した言葉でもあったらしい。

 それらは単に個人の主体的な創作物というだけでなく、あらかじめ不特定多数の読者や受け手を想定したところで作られる、いわば「市場」的な広がりを視野に入れた上での創作という意味において、当時急速に前景化していったものだった。「純粋詩」との対比として「レコード歌謡」「ラヂヲ歌謡」といったもの言いが生まれてきたのはそういうことだ。そしてそれは、あの「純文学」と「大衆文学」という、近代の文学史において定番になっている図式と同じく、今世紀に入ってからそれまでと異なる様相を示して変貌し始めていた大衆社会化の現実に伴い、広義の文学・文芸がそのありようを変えてゆかざるを得なくなった同時代状況の反映でもあった。

 そう考えてゆけば、「流行歌」の「作詞」に詩人が関わっていったことに、何の不思議もない。ただ、いわゆる正当とされる「文学」史のたてつけにおいて、それら「詩」の立ち位置からそれら「流行歌」に手を染めていったかつての詩人たちの系譜は、ほとんど正面から取り上げられることはなかったように見えるし、まして、その彼らの仕事について、その正当とされる「詩」と「文学」の側からでさえも、改めて位置づけ、評価しようとすることなど及びもつかないままだったようだ。それは、吉川英治長谷川伸など「大衆文学」とされた側の仕事が、戦後のある時期までそれら「文学」史の正統の視野にうまくおさまれないままだったこととも、間違いなくパラレルである。

 十代の頃から西条八十に見出され、また、当時のオトコとしては極めて異例にピアノが弾けて楽譜も読めるという、恵まれた生まれ育ちからのアドヴァンテージをフルに活用、早く頃からレコード産業に「作詞家」として関わってきて、敗戦直後「リンゴの唄」で一躍、国民的な知名度を獲得することになった男でさえ、このように愚痴っている。

 「實際こんなにヂヤーナリズム(チクオンキ屋と映畫屋)に支配されてはやり切れない。僕自身のことにしても、自信のあるいゝ唄を作つた時にはきつと映畫會社から文句がくる。


「先生この歌は大變結構です、ケツサクです、でもヒツトにする為には「林檎の唄」のやうなのがいゝやうですな、如何でせう、先生、一つ「林檎の唄」のやうに直していたゞけませんか」


 さうして僕の氣持ちなど少しも考へず、次の如くのたまうのだ。


「先生小説の筋なんかに、こだわつては困りますよ、何でもやんやと大向うから受けるやいに流行語をはさんで、くださればそれでいゝのですよ」


 人と生れて小唄つくりとなるなかれである。」
サトウ・ハチロー+松坂直美『流行歌謡の作り方』全音楽譜出版社 1948年)


リンゴの唄 - 並木路子、霧島 昇 (1946)
 敗戦後、「流行歌」はそれまで以上に大きな市場を獲得してゆく。「歌」も「謡」も「曲」も、それぞれを担当する人間が新たに求められるようになり、だから「歌手」をめざし、「作詞家」を志す世間一般その他おおぜいは沸騰した。「うた」もまた、それまでと違うありようで世間に浸透し、同時代気分の大事な血肉になっていった。

雨情は必ず「うた」にした

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 詩が「うた」であり、「うた」である以上、それは実際に声に出し「うたわれるもの」であったということは、今のように活字・文字を介して詩を「よむ」のがあたりまえだという認識になっていると、すでに気にかけることすらないままに忘れられている。同じく、詩を作る人という意味での詩人もまた、それら「うたう」ことをあらかじめ想定しないのが普通だろう。「吟遊詩人」といった、どこかなつかしい響きを含んだように思えるもの言いもまた、ある歴史的な文脈においてしか通用しなくなって久しい。気ままに、自在にうたい、時に楽器を携え自ら奏でもしながら「詩」を「吟遊」していたと言われる彼らにとって、詩は自明に「うた」であり、肉声を介した音や響き、リズムなども含めた「節」の属性も当然に含まれているものだったはずだ。

 とは言え、詩人がそのように当然に「うたう」ものでもあったことは、本邦においても、書き言葉を介した散文が音読、朗読されるのがあたりまえだったのと同じように、ある時期までそう異例のことでもなかったらしい。

 たとえば、野口雨情。北原白秋西条八十と共に、童謡界の三大詩人などと呼ばれる御仁だが、いわゆる大正期の「童心主義」系のムーヴにおいて、これまで言われてきた文脈とは少し違うところで、「うた」をめぐるもうひとつの歴史の相に関わる重要な位置を期せずして占めていた気配のあることを、かつて朝倉喬司が鋭敏にも指摘している。

「雨情が童謡を書くにあたって、対象として想定した子どもは、まずなによりも「境界」上に心身をあそばせる存在としての「子ども」だった。このことは、ひとり雨情に限らず、大正童謡の形成全般のキーポイントであり、(…)北原白秋においては、彼以上に自覚化された、表現の問題だった。異界から、あるいは民俗の古層から境界域ににじみ出してくる、容易にはコトバにならぬ信号、これが雨情における「声」だった。それにその「声」は、あらかじめ歌に連動すべきリズムと抑揚を内包した「声」なのである」(朝倉喬司「民俗の古層からの「声」」、『流行り唄の誕生――漂泊芸能民の記憶と近代』所収、1989年)

 わかったようでわからない文章、と微妙な顔をするなかれ。これは朝倉の文章が難解というのではなく、もともとこれら民俗レベルまで深入りするイメージや想像力の水準での人のココロのささやかな動きや気配を察知するためのことばやもの言いとは、輪郭確かな概念や術語による規矩明らかな細工もののようなわけにはゆかない、それゆえの読み取りにくさ、なのだから、しばしご辛抱を。

 こういうことだ。この世とあの世、というのは常にそんなにはっきり線引きされたものでもなく、日々生きて棲んでいる眼前の現実とは異なるもうひとつの現実の手ざわりや確かさも含めて、初めて〈リアル〉である、と感じられるような事態が、どうやらわれらニンゲンには訪れるものらしい。その程度に現実とは〈それ以外〉と隣り合わせになっていて、だからこそそれらは、「境界」と仮に言いならわしておくしかないようなあいまいな領分をどこかに隠し持っている。そのような意味で、子どもは〈それ以外〉に半身を浸した存在であるし、ゆえにうっかりと「異界」や「民俗の古層」とでも呼ぶべきもうひとつの、水準の異なる〈リアル〉の気配をこの世に伝える媒体ともなり得る。だが、それは明示的で理にかなった表現、意味のたてつけに収納され得る範囲を越えた向こう側の「声」や「音」、生身の「気配」やそこにある「感じ」などの融通無碍な領分を自在に駆使して迫ってくるようなものになる。「あらかじめ歌に連動すべきリズムと抑揚を内包した」という部分は、そのような意味で読まれるべきなのだ。

 そのように「雨情の詞のコトバがもともと「声」をひきよせ“内在的に”歌を成りたたしめる方向に成立していたこと」からの一点突破で、ここでの彼は「当時の童謡(詞)にはかならずしも歌がついてなかった」こと、そしてそれら活字・文字として表現された「よまれる」べき詩として作られていたはずの童謡が、読み手の側で勝手に気ままに「節」をつけて「うたわれる」ものになっていたらしいことなどと共に、雨情とその作物が当時の「童心主義」系ムーヴにおいてうっかりと占めていた独特の立ち位置について、果敢にほどこうとしている。おお、その志やよし。及ばずながら自分もそれを受け止めて、先へ行こう。


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 近代的な文学作品としての詩の脈絡に「童謡」は現われた。とは言え、「当時、「童謡」という語は一般人のほとんど使わない特殊なタームであり、もっぱら子どもが歌う歌をさすコトバとしては(学校)唱歌とわらべ歌の二つが一般的だった。」(朝倉、前掲書) 「よまれる」詩の形式として「童謡」は、少なくとも作者においてそのように意識され、実作されるもので、だからこそ「児童文学」の脈絡で当然のように「評価」されることにもなってきている。

 それら児童文学史の標準的な「童謡」理解は、たとえばこんな感じになる。

「大正期童謡は、その詩精神において、そしてそのメロディーにおいて、前代の唱歌を完全に克服し、その新しい芸術的開化のゆえに、限られた階層の子どもたちにだけでなく、およそ同時代に生きる日本のすべての子どもたちに迎えられたのであった。〈国民的児童文学〉というのがわたしの理想とする児童文学の在り方であるが、大正期童謡のいくつかは、その概念にもっとも接近していたと言って過言ではない。」(上 笙一郎「「赤い鳥出身の童謡詩人――赤い鳥童謡会から「チチノキ」へ」、『赤い鳥研究』、1965年)

 「よまれる」詩としての童謡という形式は、文字で表現されるものとして理解され、また実際、だからこそ普及した。雑誌『赤い鳥』を主宰していた北原白秋は、彼を師と仰いで自分たちも実作したいという全国の読者たちを組織し、運動的なムーヴを起こそうともしていた。それは同じ時期、雑誌を介して読者を組織し、ある種の歴史認識の改革を運動として画策していた柳田國男の初志とも共通する、同時代の情報環境に足をつけた内実をはっきりと持っていたはずだ。だが、それは「流行り唄」としての「うた」が「流行る」メカニズムの、民俗レベルも含めた来歴とは、また別のものだった。

 一方、雨情はというと、「童謡」というたてつけで詩作をしながら、同時に「民謡」にも意識を開いている。

「それまでの雨情は、札幌や小樽の新聞社に転々と籍をおいたり、故郷にもどってまた出奔したりの“放浪生活”を送っていた。在来の俗謡や俚謡からモチーフやコトバを詩にくりこんだ「民謡」(当時にいう俗謡、俚謡が現在民謡といいならわされている)を主体にした彼の詩は、自然主義象徴主義隆盛期の詩壇、文壇の主流からはずれざるをえなかった。大正期に勃興した『赤い鳥』『金の船』などによる童謡運動、あるいは、時期的にほぼ併行した流行歌の台頭がなかったら、詩人としての雨情はおそらく無名のまま、その生涯を終えただろう。」(朝倉、前掲書)

 この雨情に才能を見出され、戦前から戦後高度成長期にかけて活躍した作詞家に時雨音羽という御仁がいる。フランク永井の「君恋し」の作者と言えば、作風含めて何となく、ああ、と思われるかも知れない。この音羽氏、北海道は利尻島の出身で日本大学卒業後は一時、大蔵省に勤めたという経歴の持ち主。先に触れたような「児童文学」系ムーヴとは、おそらく縁の薄いところで自己形成されていた人と考えていい。

 その彼が書き残した、雨情との出会いの場。大学法科を終わろうとする時、関東大震災に遭遇、落胆している時に友人から同人誌に誘われた。だが、下宿の女主人が「自分に天分があるかないかを見きわめないで文学になどに手を出すことは危険である。幸い私は有名な人を知ってるからその人に作品を見て貰って自分を確かめてからにしなさい」と説教の上、添書きまでしてくれ、草稿を持って雨情のもとを訪れたとおぼしめせ。時は大正13年、春3月の東京は巣鴨

巣鴨宮仲にあった雨情さんの宅を訪れたのは夜であった。格子戸の玄関のある平家で古い借家らしかった。若い奥さんに案内された六畳ほどの部屋でかしこまっていると、やがて和服姿の雨情さんが現われた。四十がらみの小柄な人で、きれいな目にいいしれない光があった。「えらい人だから……」と下宿の女主人にいわれたが、ちっともえらそうでない。しきりに武田さん(下宿の女主人)と私の関係をきく。わけを話して私は持参の風呂敷包から、自作の短章、四、五十篇を出した。雨情さんはそれを幾度も繰り返しみていたが、その中の一篇を指して「これはあなたが本当に書いたものですか」と私の顔を見た。目がキラリと光って射るようであった。そうですと答えると、どこで着想を得たかという。駒込から下って私の下宿先初音町へのぼる途中の料亭にその札が貼ってあった。女の人がそれを見上げていたのが印象的だったので、それを素材にしたと答えると、雨情さんは大きな目でふたたび私を見詰めてから、うなずいてやがて鼻のつまったような声で歌い出した。」

はすかいに 貼るものですよ うり家札
わらうでしょうね 待合の
おかみが男に だまされて
家を売ったと きいたなら

 その時の「うり家札」の一節。小唄か都々逸のような調子だが、音羽自身がこれを「詩」として同人誌に出そうとしていたとこと、さらにこれらの詩作が雨情の紹介で同名の「民謡集」として出版されたということにもひとまずご留意の上、再度経緯を確認。

 見て欲しい、と持参し示された文字の詩編を、最初は「みていた」雨情が、その詩編の着想をどこで得たかを尋ねる。音羽が遭遇した場面を説明することで、おそらく雨情の裡に何か具体的なイメージとしてその詩の宿った情景が合焦してゆき、ある確かな情感と共に〈リアル〉なものへとみるみる変貌してゆくことで、何か感じ入るものがあったのだろう、次には自ら「歌い出した」。

「何回も何回も繰返し低い声で歌ってから奥へ向かって、「酒もってコウ」とどなった。やがて六、七歳の女の子が銚子を捧げるようにして現われた。(…)のちに雨情ぶしといわれた雨情独特の節まわしは、えんえん、めつめつとして銚子四本をひとりで空けるまでつづいた。」(時雨音羽『人生流行歌』、1972年)

 すでに「船頭小唄」などで流行歌の作詞家として名声を得ていた雨情だが、このように「うたう」のは習い性だったようで、その「船頭小唄」にしても「(作曲者の)中山晋平は、この曲について「野口さんが気分まかせの節をつけて歌っていたので、その節を土台に、少し修正を加えただけですよ」と語った」由。「童謡」と「流行歌」の間をつなぐ「作曲」は、その頃にはこのようにあり得るものだったらしい。

「憲法違反」と留学生問題、他

① 学問の自由の侵害と言われたことについて

 1月の3回目の裁判の準備書面において札幌国際大学側は、なんと留学生に日本語能力を問うことが「学問の自由」「大学の自治」に抵触するおそれがある、と主張してきました。学ぶ意志のある者の自由を阻害する、という理屈のようですが、話にならないのは言うまでもなく。これだと、大学の入学試験自体がそもそも憲法違反という理屈になりますよね。

 逆に日本人が海外の大学に留学する際にも、たとえばアメリカの大学ならTOEFLその他で英語の能力問われるのはあたりまえですよね。日常会話ならいざ知らず、大学という高等教育の場で使われる外国語としての日本語が理解できなければ、いくら熱意だけがあっても現実に教育の実はあがるわけがない。もう、こうやって説明するのもバカバカしい主張ですが、仮に裁判における戦術だとしても、こういうバカバカしいことを法廷に提出する準備書面に平然と書いて主張してくる、そこまで論理的思考ができなくなっているのが札幌国際大学の経営にあたっている法人だということを証明しています。

 こちらが主張している留学生入試や在籍管理のコンプライアンス違反やガバナンスの不適切について、反証をあげて反論してくることができないらしくて、こういう大風呂敷をいきなり広げてきたというのはあるでしょう。また、憲法をひきあいに出すのは「最高裁までいくからな」というブラフの意味もあるようで、これは裁判所に対する牽制も含めてなのでしょうが、ならば上等、こちらも最高裁まで憲法判断を求めることもやぶさかではありません。それくらいメチャクチャな状態になっています、札幌国際大学の問題は。

 実際、本訴とは別に先日高裁で棄却された自分の仮処分申し立てにおける大学側の主張でも、実際に大学が教員を雇用しても、大学の図書館その他の研究施設を使わせる権利まで自動的に付与するわけでもなく、また特定の講義をもたせるとは限らない、と主張していることも、これまた「学問の自由」「大学の自治」に抵触するおそれのある議論になってくるわけで、これはもう最高裁に抗告する手続きをとりました。


② 中国の侵略を肌身で感じられるか? 事例をあげてください

 大学で日々の仕事をしている限りはそういう実感は正直、薄かったですし、「侵略」と呼ぶような事実もまあ、なかったと言っていいかも知れません。

 ただ、たまたま懲戒解雇を喰らって裁判沙汰になったことで、いろいろ勉強したり取材したりすることがたくさんあったおかげで、ああ、これは「侵略」という言い方が適切かどうかはともかく、何らかの意志が働いてこうなってきているんだな、ということは実感するようになりました。それが中国という国家なり何なりの意志かどうかまではわかりませんが、少なくとも中国側とこちら日本側とのある部分、ある組織などが複雑にからんで、結果的にこういう事態になってきているんだな、と。

 大学の留学生というたてつけで労働力としての外国人、実質中国人を大量に入れよう、という目的にために、「大学」という聖域をそれこそ「学問の自由」「大学の自治」など戦後憲法の枠組みを利用して治外法権にした、それは戦後このかたの過程の上にそうなってきたところがあるわけですが、それを逆手に取って、大学にだけはN2の日本語能力を文書その他にはっきりと明言しないままだったわけです。日本語学校などにはN3とか明言して指示しているにも拘わらず、大学だけは「そんなこと言わなくてもあたりまえだよね、高等教育機関だし、それくらいわかりますよね」ということなのでしょう、いずれにせよN2明示をまずしてこなかった、2年前に東京福祉大学の一件が露呈するまでは。

 結果的にグレーゾーンをつくる抜け穴をそのままにしておいた、と見られても仕方ない。政策的な意図があったかどうかはわかりませんが、文科省が結果的にそういうことをしていたのは事実で、それを悪用して何でもかんでも「大学側の解釈の範囲」で留学生を入れまくるビジネスモデルをやらかす私大がたくさん出てきた。それらの結果の「留学生三十万人計画」の目標達成でもあったように思います。

 例の前川の片腕の嶋貫和男理事が、国際大学の経営戦力委員会というところで「N2どうこうは大学の運用によって解釈の幅があるので」といった発言をして、それをきっかけに大学側の暴走が加速されたということは、議事録その他で確認しています。ということは、文科省時代にこういう認識は省内で共有されていたのでしょうし、その上でそのようなビジネスモデルを結果的に後押しするようなことも、全国的にされていた時期があったんだろうな、と。

 ただ、国家安全保障の観点から、外国人留学生についての政策転換がされるようになり、労働力としての外国人は留学生枠ではなく研修生なり何なり別の枠組みでするようになりつつある中、これら古い留学生ビジネスモデルは清算されるべき時期になっています。それは日本語学校などでは数年前から予測して動いてましたし、大学でも留学生はこれまでよりずっとハードルを高くして精選して入れるような仕組みに変えてきています。なのに、そのタイミングで国際大は古いワヤなビジネスモデルに飛びついてポカをやらかしたということでないかと。


③ このままいったらどうなるか。

 大学については、国際大は早晩、留学生ビジネス破綻で大学自体、危機に陥るでしょうが、その他の大学の留学生ビジネスは新たな状況に対応しながら、粛々と維持されてゆくとみます。日本語学校も少人数で精鋭を育てるような、外国人留学生向けの大学予備校みたいなビジネスモデルに移行していますし、実際東京などもう中国人経営のそういう中国人向けの大学予備校ができて動き始めています。

 観光と同じで、中国人が中国人留学生のために高校や予備校から大学まで、言わば一貫教育でシステムを整えてきているとみれば、国際大の問題はそのバグみたいなポカの例にすぎず、本体の思惑やシステム整備は今後も行われてゆくでしょうし、それは大学からあと、日本国内に中国人向けの就職先を準備することと連動して、結果的に「侵略」と見ていいような事態がどんどん露わに、普通の日本人の眼にもあらわになってくると思います。

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【ch桜北海道】いよいよ危険水域!中国の侵略が進む北海道[R3/1/21]

*1:以下の番組のための事前取材といった形の質問に対するメモ。20分頃から