「作詞家」になりたい

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 敗戦直後、『夢とおもかげ』所収の論考において、南博が正当にも言及していた「大衆娯楽」の「産業構造」の部分への視線は、その後の彼ら思想の科学研究会の進路はもとより、「戦後」の過程における本邦日本語環境での人文社会系自体の脈絡においても、それほど積極的に展開されていったとは言い難いものでした。それは「文化」がそのような漢字二文字の熟語の間尺に囲繞されることで、現実の〈いま・ここ〉に現前し、かつ存在しているということについての具体的な背景にまで見通しにくくなる症状としても深まっていったようです。

 ならば、それらの過程から少し「おりる」ことを、試みてみますか。

 たとえば、当時、「流行歌」を商品として市場に売り出すレコード会社の組織というのは、具体的にはこんなものだったようです。

   1. 文藝部 …… 企畫課 
           音響課
          宣傳部
   2. 營業部
   3. 工 場

 いきなり「文藝部」が出てきます。

「この文藝部というのは、レコードを作ることに關してあらゆる企畫をするところである。例えば、この次にはどんなレコードを作ろうか、それには詩は誰にたのみ、作曲は誰にやらせるか、どの歌手を起用して、どんな風に使うか、などなどといつたようなことをするのである。どこの會社でも大抵の場合、順序として文藝部で企畫を立てる。(企畫を立てたものと別に作詩作曲者の持ち込みも相當あるが)そして、それを最初に詩人に作詩を依頼する。歌詞が出來上つてきたら、よく検討して、これでよしとなると、今度はそれを作曲家に廻して曲をつくらせる。」(清水瀧治『レコード界 人氣花形千一夜』キング音楽出版社、1948年)

 これは当時、新劇や軽演劇などでも似たようなたてつけになっていて、台本を作る作家や演出家など、舞台に実際にあがる役者や歌手、ダンサーなど演者の背後でそれらを動かす仕事、その中でも大道具や小道具、照明などの現場の技術を介した仕事とは別の、広義のマネジメントも含めた事務方に近いペーパーワーク主体で、文字を介した紙とペンの創作作業に従事する者たちを「文藝部」とくくっていたようです。このあたり、それら創作の現場における文字の優越が明らかになってゆく歴史的過程とも関わってくるはずですが、それはまた別の大きな話。

 舞台と違うところは、録音つまり吹き込みに関する技術系専門職もまた「音響課」として「文藝部」に入れられていたところかも知れません。舞台の視線からすれば、大道具や小道具、照明や衣装などと同じく、具体的な技術によって全体としての創作のある一部分を担うといった理解になって不思議ないと思うのですが、当時のレコード会社としては、これは技師だけでなく、それ以上に個々の楽曲を実際に作る作曲家がここに属するもので、また事実、その地位としても録音技師よりも、作曲家(当時は編曲もあわせて担当する場合が多かった由)の方が上だったらしい。さらに当時のことですから、実際の吹き込みに際して伴奏を担当する演奏者も必要になりますが、録音に際して集められる彼ら演奏者たちの差配もまた、この「音響課」の担当だったようです。

 「關係者というのは、文藝部員(ディレクター)、吹込み技師、作詩家、作曲家、編曲指揮者(作曲家がやる場合が多い)、歌手、オーケストラの楽士、このオーケストラのメンバーは大てい十五六人が普通で、本吹込の前に練習をやつて、これならとなると、愈々本吹込みにかゝる。(…)こうして吹込んでワックスにとられた原盤が工場に送られ、工場ではこのワックスをメッキしてマザーという母型を作り、それからそれと反對の盤、第一シェルを作り、又それと反對の、つまりマザーと同型の第二シェルを作って、これをプレス機の中に入れ、上下に第二シェル、眞中にレコードの原料を入れて、壓力器で押すと、これでレコードが出来るので、それをきれいに化粧して袋に入れ文句カードを添えて市場へ出すのである。」

 このような現場の流れから、レコードは昭和初年の市場に流通させられるようになってゆき、それに応じて音楽もまた、それまでと違う世間の視線にさらされるようになっていった。それに伴い、「歌手」をめざすことも立身出世の道筋になってゆきます。と同時にまた、同じ音楽に関わる仕事としての 「作詞家」をめざす熱狂というのも、産業としてのレコード界、「流行歌」を商品音楽として市場に売りに出すしくみの伸長と共に、人々をとらえてゆきました。それらは戦前、大正末から昭和初期にかけてのレコード産業勃興期から始まり、敗戦をはさんだ戦後の情報環境においてさらに拍車をかけられ、「流行歌」が「歌謡曲」となり「芸能界」を支える大きなコンテンツとなってゆく過程では、もはや「歌手」に負けず劣らず、名も無い市井の徒が「自分もなれるかもしれない」と胸膨らませることのできる世渡りの目標、創作を介した「夢」になったようです。


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 たとえば、『歌謡文藝』という雑誌がありました。

 戦前すでに作詞家として一家を成していた高橋掬太郎主宰のサークル「歌謡文藝友の会」発行で、手もとにある創刊当時のものはB5版程度のホチキス止め。雑誌というよりも同人誌、あるいは機関誌と呼んだ方がいいような小冊子ですが、このような「作詞」サークル、流行歌の「歌詞」を創作することを目的とした小さな集まりが、どうやら全国的にあちこちに簇生し始めていて、それらの一部は短歌や俳句、詩の同人などとも重なっていたらしい。なるほど、作「詩」という当時の表記も、まんざら字ヅラだけのことでもなかったようです。

「歌謡は唄はれるべきものである。即ち歌謡は音樂である。故に我々は歌謡を作るに當つては、つねに音樂的條件を考慮する。(…)だが、歌謡は音樂である以前に、まづ文學でなくてはならない。(…)歌謡は文學と音樂とが結合することに依って初めて完成するものであり、その製作過程から云へば、文學を先とし、音樂を後にするのが當例である。」(高橋掬太郎「創刊の辞」『歌謡文藝』第一号、1947年)

 たとえ流行歌の作詞であっても、それはあくまでも「文学」であり、言葉の創作であることを強調し、「我等の茲に創刊する「歌謡文藝」は、まづ此の歌謡の文學的自覺を世に促し、それに依つて紙上歌謡の昂揚を企て、進展を圖りたいと思ふ」と言いながら、同時に「如何に文學的自覺をもつて製作したところで」「大衆を相手とする歌謡の宿命」として「甘んじなければならない程度がある。」「ただ我等は理想を有ちたい。つねに大衆と肩を組みかはし、平明通俗の道を歩かうとも、その眼は、その心は、絶えず彼方の高嶺に向けてゐたい」と、商業音楽として市場を介して「大衆」を意識せざるを得ない立場、分際についても明確に意識しています。

 「文学」「文芸」の志が、大衆社会状況に後押しされた市場の〈リアル〉に否応なく直面させられることで、それまでのありようとは別の内実を宿さざるを得なくなる。「売れる」ということ、「商品」としてあらかじめ規定される属性を意識して、それでもなお創作としての作業をしなければならない、という状況が訪れます。それはもちろん小説などにおいても当時の大衆小説、大衆文芸作家も直面していた同時代の必然的な局面ではあったでしょうが、だがしかし、こと「詩」に関する限り、その状況は「うた」という要素と不可分になった「流行歌」という新たな形でフィードバックされざるを得なかった。「ことば」と「うた」の複合形態。それは文字の読みものにとっての「おはなし」と「さし絵」の関係にも通じるもののはずですが、それもまた別の大きな話。

 大衆的な市場に対面することで、フィードバックされてくる何ものか。それは、それまでの「文学」なり「文芸」、あるいは「詩」といったもの言いでくくられてきた、いずれ文字を介した創作に関わる独特の自意識や態度に、期せずして深刻な影響を与えずにはいられない。限定された同人的広がりの「評判」「評価」「人気」によって規定されていた自意識の輪郭に、大衆的な市場を介して「売れる」という商業的なものさしが重なってくることで、その結果の金銭的な利益の衝撃と共に、創作に関わる意識の変容ももたらされてくる――高橋掬太郎と彼の仲間たちが当時残したものには、そういう経緯に放り込まれた葛藤がにじみ出しているようです。

 北海道は根室の渡り漁師の息子として生まれ、北辺僻地の末端で文字の創作に心啓かれて詩作その他に没頭、地元の地方新聞社に記者として奉職しながら、半ば仕事、半ば趣味としてそれら創作を続けてゆく中で、時代のめぐりあわせとひょんなきっかけでそれら作物が「レコード」になって当時の市場に送り込まれることになり、それによって彼の裡の「文学」「文芸」のあり方も、その意味も、当人の自覚とはまた別な水準も含めて変わってゆかざるを得なかった――高橋掬太郎という、敢えて言えば間違いなく凡庸な、そしてだからこそ当時の情報環境の裡に宿った文字リテラシーの通俗の水準に忠実でもあった「作詩家」の軌跡は、彼のもとに集った全国の無名の同人たちの創作と共に、同時代の民俗資料としての「読み」を待っているように見えます。

 「今日世に續々と流れ出る歌謡や、あらゆる歌謡誌のすべての作品(すべてと断言してもそう誤りではあるまい)が、全く、愛、戀、星、夢、華、鳥、等々の文字を、たゞそれらしく組み合せるに止り、昔の歌謡より、そのレベルが、思想に於て、感情に於て、一歩も進んだものを見る事の出来ないと云ふ事は誰も否み得ないと思ふ。(…)歌謡は、なによりも先ず詩である。だから詩の深さと高さを有たねばならない。歌謡は音楽である。だから民謡の普遍性と、リズムを有たねばならぬ。(…)今日世に歌謡を書いてゐる人々の大部分(勿論一部専門家は論外)は、詩を極めて居ない。先ず歌謡の低さ、通俗さの面からその創作に取組んだ人々である。此等の人々が、此の儘でいくら歌謡を勉強しても、器用に纏め上げる、所謂歌謡創りの熟練工にはなれるであらう。が、併し、これでは歌謡を一歩も前進させる事は永久に出来ないであらう。詩魂を、高く、深く練り上げる事が我々の怠ってはならぬ條件である。併し此の詩魂の飛躍によつて、歌謡の通俗を輕んじ、此れを厭ひさへする様になり勝なものである事を忘れてはならない。さうすればその時、その人は歌謡詩人では在り得なくなるわけである。」(槇耕一郎「歌謡の進路」)

対談・朝倉喬司・頌

*1

現代書館から『朝倉喬司芸能論集成』が刊行された。ルポライター朝倉喬司氏(1943~2010)の芸能関係の文章を集めた968頁の大著である。刊行を機に、編集委員会のメンバーである、株式会社出版人代表の今井照容氏、民俗学者大月隆寛氏に対談してもらった。(読書人編集部)

今井 私にとって、朝倉さんの命日というものがありません。大月さんは2010年の12月8日に、札幌国際大学主催の「こまどり姉妹とその時代」という催しで、朝倉さんとご一緒する予定だったといいます。その日が、朝倉さんの命日といっていいのかもしれません。そのあたりの経緯からお伺いできればと思います。

大月 もう10年以上前のことですね。2007年からご縁があって札幌国際大学という大学で教えるようになって、ご存知のように昨年6月に不当な懲戒解雇を喰らって裁判で係争中なんですが、ただ、当時はまだ先代の理事長が健在で、いろいろ好きなことをやらせてもらってました。「BSマンガ夜話」のメンバーを北海道に呼んでトークライブをやったりね。

 当時、こまどり姉妹ドキュメンタリー映画こまどり姉妹がやって来る ヤア!ヤア!ヤア!』(2009年)が完成したんですが、なぜか彼女らの故郷の北海道で公開されてなかったんで、制作のアルタミラピクチャーズと交渉して、こまどり姉妹の実演つきで札幌の道新ホールで上映会を開催することになったんですよ。だったらついでに、こまどりさん交えたトークショーもやろうと。それで朝倉さんと赤坂憲雄さんを呼ぶことにしたんです。


 朝倉さんに電話で依頼したときは「いやぁ、こまどり姉妹! なつかしかね~ それはよかね~」と快諾してくれて、上映会の直前の12月4日ごろだったか、事前に「忘れてないですか?」と電話とファックスで確認したときにも、「大丈夫、行く行く!」と言ってたんですよ。

 当日は、北海道中からお年寄りのお客さんたちが集まってきて、上映三時間くらい前から並んでて、「元気にしてたぁ?」と同級生か何かのように楽屋入りするこまどり姉妹に手を振ってたりして、かなり盛り上がってました。でも、お昼ごろになっても朝倉さんが来ない。こりゃしょうがねえな、と思って、司会の僕も会場のお客さんに謝りました。まあ、朝倉さんのことですから、どうせまた青森や函館あたりで飲んでそのまま沈んでるんじゃないでしょうか、と、その場はとりあえず収めたんです。

 そうしたらその翌日だったかな、電話が入って、実は亡くなられてた、と。ああ、こういうことってあるんだな、と思いましたね。でも、やっぱり朝倉さん、会場に来てくれてたんだな、とも思った。ホールの最後方で腕組みしながら眺めてたな、と。その意味では、今井さんのおっしゃるように、12月8日が朝倉さんの命日だと思ってます。

今井 朝倉さんは飲みの席で、こまどり姉妹の「ソーラン渡り鳥」なんかをよく口ずさんでいました。彼女たちは東京・山谷をバックグラウンドにもっているから、そこをしっかり踏まえて聴かないとわからないんだ、と。

大月 いやぁ、ほんとに来て欲しかったですよ。だって朝倉さん、年寄りが好きだったじゃないですか、特にバアさんがた(笑)。実際その時も、またその後もこまどりさんには何度かお話を伺って、門付をしてまわっていたころの話、上京して山谷に住んで、お座敷の営業なんかにも声がかかって活動を広げていった話とか、そりゃもうたまらなかったんですが、ただ、もしも朝倉さんがいてくれたら、もっといろんな角度からもっとたまらない話をたくさん引き出してくれたんじゃないかなぁ、と。

今井 こまどり姉妹は、この論集のテーマである「芸能と任侠」とも接点があります。朝倉さんの語るこまどり姉妹をもっと聞きたかったですね。

大月 まったく。北海道じゃ稼ぐのは限界があるから、お父さんがこまどり姉妹を山谷に連れてくる。小学生くらいの女の子二人がドヤ街で門付をする。そのうち評判になって料亭なんかにも余興として呼ばれるようになる。そこで政治家の大野伴睦なんかに出会って引き立てられて……とかもう、そういう当時の世相含めての出世譚がほんとに面白かったです。

 彼女たちは学校を出ていないし、三味線で歌を歌うことでお金をもらう「流し」だった、つまり乞食だった、これ、ご自分で悪びれずはっきり「乞食」とそうおっしゃってますから。だからレコード会社と最後まで正式な契約を結ばせてもらえなかったのよ、と。

 こまどりさんの少しあと、北島三郎ぐらいから、「流し」上がりでも歌手として認められるようになったんだそうで、北島さんは「流し」の先輩の自分たちに対してとても礼儀正しくやさしく接してくれた、だからサブちゃん、サブちゃん、とすごく親しみを込めて呼ぶんですよ。それまでは戦前以来、音楽学校を出て楽譜を読める人たちが、正規の歌手、作曲家としてレコード会社と契約して雇われるのがあたりまえで、海のものとも山のものともつかない彼女たちみたいな存在は、まともに扱われなかったんだそうです。

今井 江戸期には「賤民文化」が花開きます。そういう芸能の歴史がこまどり姉妹には滲み出てきてしまうところがあります。朝倉さんはそういうものを掬うのがとても上手な人でした。いわば朝倉喬司という存在自体が市井の歴史を召喚してしまうような磁場をもっている。そして、ジャーナリストのように対象と距離を置くというよりは、むしろ融合しちゃうような面がある。渡世という言葉がありますが、渡世と芸能、渡世と漂泊は密接に関わっています。朝倉さんがずっと書いていたテーマのひとつですね。

 先日、歌手の浅川マキのプロデューサー、寺本幸司さんが『音楽プロデューサーとは何か』を出しました。浅川マキもキャバレー回りをしていた。フォークでも演歌でもロックでも、日銭を稼ぐところからレコードを売るようになるまでの、渡世と漂泊の道がある。そのことをこの本から教わりました。

大月 そういう意味で言えば、たとえばあの暗黒舞踏だってキャバレーやストリップでどれだけ稼いでいたか。それを調べている知り合いがいるんですが、土方巽あたりが元締めになって、若い人たちをそういうところに回してたくさん稼いでいたみたいですね。ストリップの現場では知られている話らしいですが、演劇史などの分野ではそういう稼業、「シノギ」の面はほとんど語られていないですよね。

今井 なるほど。朝倉さんが芸能を見るときの視点は、縦にも横にも逸脱します。現代をひょろひょろ歩きながら見ていても、そこに落ちている江戸や中世のかけらを拾い上げていく。構造主義などとは関係なく、身体が共時性に反応するといえば良いのでしょうか。また歌と革命が結びついたり、ブルースと音頭が一緒になったりする。縦と横、歴史と情況を自在に逸脱していく。そこが朝倉さんの魅力だと思います。それは朝倉さんが柳田国男折口信夫から学んでいたことなのではないでしょうか。

大月 朝倉さんって実は勉強家で、すごくブッキッシュな人ですよね。いろんな文献に結構ちゃんとあたって、相当調べている。いわゆる大学のお行儀いい学者の調べものとは少し違うけど、それぞれのテーマの勘どころというか、いいポイントを文献資料介しても案外押さえてる。その逸脱が活きてくるのも、実はそういうブッキッシュな部分の押さえが効いてるからだと思います。

 で、そういうブッキッシュさには世代性もあるように思うんですよ。活字が良くも悪くも、もっとも信頼できるメディアだった、そういう情報環境のなかで育ってきた世代の一人なんだ、と。もちろん朝倉さんは週刊誌の記者でルポライターですし、僕にとっては同じく大事な書き手である平岡正明にしても音楽評論もやっていたわけですが、みんなそういう活字媒体の記録に対する誠実さがその仕事のベースにあると思ってます。少し上の世代だと、竹中労なんかもそう。デスクワークとフィールドワークは二分法じゃない。このへん、活字あっての現場の豊穣さみたいなのは、もっと意識されるべき論点のはずですよ。

 ただ、朝倉さんが柳田と折口をどこまで意識していたかについては、本人からちゃんと聞いたことはないですね。てか、折口はいきなり古代に行っちゃうじゃないですか。薬屋の息子で、自前で歯磨きなんかもキツいの調合して、コカインまでやってて原稿用紙に血しぶきが飛んでた、とか。きっとクスリやらなきゃ『死者の書』なんて、ほんとのところはわからないですよ、あれ(笑)。なので、折口の仕事はある種トリップの産物、ドラッグ文学みたいなもんで、その意味でも当時の柳田も含めて、大正から昭和にかけてのモダニズムの産物だと思ってますが、朝倉さんはそういう意味では折口より、むしろ柳田に近かったんじゃないかな。梅棹忠夫は柳田の方法を科学だとして、文化を理解する方法には「つらぬく論理」だけではなく「つらねる論理」があると言ってましたが、これは卓見で、朝倉さんもそういう「つらねる論理」で文化を理解しようとした人かと。

今井 朝倉さんのあの歌い方は、その連関想起法なんだと思います。理屈ではなく、そういう身体として反応するところがすごい。だから、その文体は、ねじれたりうねったりする。

大月 なるほど。それは文字の連関想起ではなくて、むしろ音声や身体感覚も含めた連関想起だったんじゃないかなぁ。酔っぱらうとあの「犬殺しの唄」が飛び出して、でもそれが「ぐろーりーぐろーりーはれるーやー」とリパブリック賛歌にナチュラルに転調して、さらに野口雨情や西条八十河内音頭浪曲にまでどんどん脱線していく。まあ、ある種の痴呆老人みたいなもので、当人ののっぴきならない原体験みたいなものの周りをぐるぐる回っている。でもその動きの意図や背景も、見える人には見えるところがあった。


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最初期の『犯罪風土記』や、これは割と見落とされてますが対談・座談集の『天覧思想大相撲』(平岡正明上杉清文)とかでは、朝倉さんは本当に好き放題語ってて、ああ、気持ちよさそうだなぁ、ということがよく伝わってきます。

今井 『バナちゃんの唄――バナナ売りをめぐる娼婦やヤクザたち』もそうですね。

大月 あれはもう絶品です。お好きな方にはたまらない(笑)。ただ、そういう語りや文章に対して、読みの水準がうまくシンクロできるかというと、読み手を選ぶところはあるでしょうね。いまどきの若い衆世代じゃもう難しいかもしれない。何より、そういう朝倉さん的な身体をもった日本人自体が減ってきてるじゃないですか。とすると、その読み手もいなくなる。だからどんなにテキストの素材があっても、発見されることがないままになってしまう。朝倉さん的なテキストは、実にそういうふうに疎外されてゆくんだろうな、と。

今井 朝倉さんは現場にいくとよく踊っている。民謡を聞いて歌を合わせるというよりも体が動いていく。ふつうのルポライターやジャーナリストって、そういう反応をしないですよね。朝倉さんは積極的、攻撃的に反応していくから、その場がわあっと盛り上がる。

大月 あれは意図的なものではなく、反応してしまう身体があってしまう、ってことかと。 勧進元錦糸町河内音頭にもよく姿を現わしてましたよね。そういえば山口昌男も踊るんですよね。お世辞にも上手じゃなくて、見てられないんですが(笑)、それでもとにかくその場に身体ごと入っていきたがる。山口さんは東大の国史の出身で、もとはブッキュッシュの権化でフィールドワークなんてできない人だったのが、東京都立大の大学院に行って人類学を始めた。当時、都立大の社会人類学のトップだった岡正雄が沖縄に山口さんを修行に行かせた際、僕の大学院の指導教員だった野口武徳さんが同行、一緒に現地調査をしたそうで、面白い挿話もいろいろあるんですが、その山口さんや朝倉さんが錦糸町河内音頭の踊りの輪にフラフラしながら入っていく後ろ姿は、僕の裡の同時代の記憶と共にある風景です。

 ヘンな言い方になりますが、ああ、こういう人が字を書いたりものを考えたりしてもいいんだ、という驚きみたいなものがあって、ほら、ルポライターやノンフィクションライターって、たいていしち面倒くさいじゃないですか。溝口敦さんや佐野眞一さんなんか今じゃ偉くなりましたが、朝倉さんは資質的にそういうタイプの人ではなかった。個人的な印象としては、たとえば吉田司関川夏央なんかに近かったような気がしてます。

今井 そうかもしれません。関川さんの『海峡を越えたホームラン』は、在日コリアンの問題を扱ったいい本ですね。

大月 あ、それなら根本敬さんらの『ディープコリア』も(笑)。まさにノリと身体の問題ですね。そういう人たちには関係と場に対して開かれた感覚があり、場のなかに踊り込んでいく身体、自分と他人の境界もわからなくなる瞬間がうっかり降臨してしまう、そういう身体がある。それでいてその身体を介した文字で表現できる。そのへんのバランスというものが、最近の日本語環境での優秀で意識の高い人がたから忘れられ、文化的資源としても失われている気がしますね。

今井 朝倉さんは初期には共同性という言葉をよく使っていました。いま大月さんがおっしゃったことは、朝倉さんが共同性という言葉で言おうとしていたことなのではないかと思います。その後、さらにアンダーなところに降りていく。もともとアンダーな人でもあったから、本来の場所に戻っていったようなところもあるかもしれません。

大月 ただ、朝倉さんの文脈だとそれは近代文学的な自我や自意識なんかじゃなく、そういう共同性の中ではじめて生かされている自分をつねに感じているような資質があったんだろう、と。柳田国男と近いところがあるとしたら、そういう部分も含めてなんだろう思います。

 でも、ジャーナリズムの世界でああいうやり方が仕事として成り立たなくなって久しいわけですし、読者はもとより、ああいう才能を発見する編集者自体、おそらくもういなくなってるんでしょうね。

今井 目的をあらかじめ設定してそれに向かって進めるやり方はどうもつまらない。朝倉さんはそう思っていた。晩年には、どういう意図かはわかりませんが、クリプキジジェクを足して二で割るというようなことも言っていましたね。

大月 そういう現代思想系のものもどこか読んでたんでしょうね。世代性を感じるのはそのあたりなんですよ。そういう関心もあったし、読んで肥やしにしようとする土台があった。平岡さんにもそういうところありましたね。極真の試合会場にも連れていかれて、「いいだろ、面白いだろ」というノリで熱く説得されましたが、何がいいのかは正直よくわからなかった(笑)。竹中労さんとは一度しかお会いしたことはありませんが、「たま」を語る『「たま」の本』を出した時の取材でうかがって、あれはどこかの喫茶店だったか、もうお身体が悪くて点滴のバッグみたいなの持ち歩かれてるような状態だったんですが、話の流れで、「たま」ってのは大正アナキストの末裔なんだとおっしゃるんで、それってつまりオタクってことですよね、と訊いたら、「そうです!!」と破顔一笑、熱く手を握られました(笑)。僕のなかではみんな同じハコの書き手なんですが、ライターであれ何であれ、そういう書き手がいなくなってきているのは寂しいですね。

今井 竹中労さんの言葉でいえば、えんぴつ一本で立つ「えんぴつ無頼」ですよね。「えんぴつ無頼」がいなくなってしまった。朝倉さんも、自分は筆一本で渡世の道を歩いている、どこかの組織に属して一定の収入を得ているサラリーマンではないと強調していました。

大月 「無頼」という言葉自体、もう通用しませんってば。それを支えていたダンディズムやら美学やら何やらも全部まとめて「昭和」の「おっさん」として笑い飛ばされて、そこで終わっちゃう。

今井 朝倉さんの取材の仕方は、社会学や人類学のフィールドワークと似ています。調査する地域集団、宗教団体に入っていってしまう。すっと入って、すっと出ていく。

大月 そうそう。そこに居着くことなく、結局は通り過ぎていく。「そうか、俺は無人の舟なんだと思う」とすでに『バナちゃんの唄』で言ってましたが、そういう「流れ」の意識がまずあって、そこに身をまかせざるを得ないというある種の諦念みたいなものが身に宿ってて、でも流れながらも考える、まわりを見ながら「自分」を意識し続けている。そこのバランスは生まれつきの性質か身につけたものなのか。どこまでもそこの人にはならない、あるいはなれない。宮本常一風にいえば「世間師」なんでしょうが、つねに自己疎外みたいなものを抱え込んだまま、でもその場で、その他大勢と自分はどこかでつながっているんだということを信じながら願っている。そういう意味では近代のインテリのある祖型でもあります。でも、なかなかそういうふうには読まれてきてないんじゃないかなぁ、これまでにしても。

 てか、そもそもいまの若い人は朝倉喬司って知らないでしょ。平岡正明はジャズ評論などで再評価される動きはありましたけど、朝倉さんはまずもってその取っ掛かりからしてもう難しいでしょ。

今井 平岡さんも竹中労さんも有名どころのジャズや映画を押さえているけど、朝倉さんはせいぜい河内音頭ぐらいですからね。

大月 だからこそ別の味わいがあるんですけどねぇ。いまなら、ジャーナリズム方面から、別役実さんとの対談『犯罪季評』などが入口になり得るのかなぁ。でも、そういう取材や報道という間尺からみるだけでは、どうしても外れてきてしまうところが朝倉さんにはあって、で、その部分こそが魅力というか豊かな本質だったりするんですよねぇ。

 『犯罪風土記』を書きながら、でも同時にその過程で変なものをいっぱい見たり聞いたりしていて、そっちの方が面白かったりする(笑)。あれは1990年前後だったかな、飲みの席で、最近の若い記者は真面目なんだか忙しいんだか、クルマで来て話を聞いて、すぐ帰ってっちゃう、とボヤいてましたね。一歩横に出たら見えるものが、あのサイクルにはまってしまうと見えなくなってしまうよなぁ、もったいないなぁ、としみじみ言ってた。名刺をもって、会社の旗を立てたタクシー乗り回して腕章をつけたりして現場にわれがちに陣取るのはいいけど、一歩横になんで出ないのか、と。僕の言い方だと、一歩下がって、その場にいながらいないみたいな、「おりる」立ち位置じゃないと見えないものがある。

今井 取材者が目的地にいくことを優先して、途中で降りてみたり道草を食ったりすることを惜しんでしまう。でも朝倉さんは違う。たとえば、いつも二時間ぐらい遅れてくる佐伯修さんと待ち合わせするときに、朝倉さんは嫌な顔をせずに、その間にあっち行ったりこっち行ったりしている。相手が遅れることを楽しんでいるんですね。終わる時間もかっちり決めない。目的から外れるそういう面白さをわかっていたんだと思います。

 朝倉さんの目線は、けっして上から目線ではありませんでした。『凝視録 為五郎のぞき人生』という本では、そういう覗きの目線も獲得しようとしています。

大月 ああ、それは朝倉さんの仕事のなかでも特に異質な、とんでもない本ですね。「覗く」という行為が日本人にとって何なのか、という本質的なテーマに迫っています。セクシュアリティやメンタリティの問題も絡んできますし、そもそも江戸期からのぞきからくりという大道芸もあったりしますし、いろいろ奥が深い。

 待ち合わせの話でいえば、冒頭触れたこまどり姉妹のイベントでも、彼が遅れてくるのは別にあたりまえで、まあいいや、どうせまたどこかで飲んでるんだろうな、と本気で思ってました。だから特に気にもしてなかった。でも、そういうのを許容する関係って、もうほとんどなくなってきてますよね。そんな関係は仕事はもちろん日常でも許されないし、まずそういう人間ごと「なかったこと」にされて排除される。まさに目的合理性最優先の論理ですよね。それは抗いがたい社会の変化でもあるんでしょうが、でもほんとにそれで世の中、大丈夫なのかなぁ、と。

 どこに寄り道するかわからない、ゴールを決めない千鳥足の豊かさというものを身体でもって証明してくれている存在がいた、それが僕にとってはとてもありがたかった。だから、いまの10代、20代の若い人たちに、そういうヘンな大人がそういう豊かさを身体でもって見せることができるか。朝倉さんや平岡さんから僕が教わってきたことを、自分がバトンとして渡せるような年寄りになれるのかな、と、いまさらこのトシになってもまだ自問自答してます。

今井 まさにそうありたいものですね。朝倉さんの芸能論という形で今回の本はまとめられていますが、ぜひこの機会に朝倉さんの本を手にとってみてほしいですね。

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*1:書評紙の老舗『週刊読書人』の依頼で、『朝倉喬司芸能論集成』のプロモーション兼ねての対談企画。お相手していただいた今井さんは『マージナル』同人以来のおつきあいのライターであり編集者。

『夢とおもかげ』の時代

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 敗戦後、流行歌は世相と結びつけられ、語られるようになりました、それまで以上にあたりまえに。

「歌は世につれ、世は歌につれ」というあの有名なもの言いも、玉置宏が自分の番組で使い始めたのが、一説には昭和33年とか。この「世相」と「流行歌」の関係があたりまえのものになっていった過程、というのもすでに「歴史」のようです。

 それら〈いま・ここ〉の眼前の事象としての「世相」と「流行歌」の関係を、学問であれ何であれ、いずれ知的な枠組みからとらえようとする試みというのも、やはり戦後になって本格的になります。

 はじめの一歩、としてよくあげられるのは『夢とおもかげ』(1949年)でしょうか。副題が「大衆娯楽の研究」。思想の科学研究会・編による「ひとびとの哲学叢書」の一冊。「哲学」というもの言い自体に戦前由来、明治このかた本邦近代の知的言語空間のありようが、その窮屈さや不自由さと共に、間違いなくある権威として重みを持って受け取られていた、そんな時代の栄光ではあります。

 この仕事、実は近年、あまり省みられなくなっている。まるでサブカルチュア全盛、大衆文化こそが文化の中核であるかのような様相を呈している、近年の本邦日本語環境での人文社会系のありようの、この只中においても。*1

 「古い」ということがまずひとつでしょうが、それ以上に、流行歌や大衆小説などを「大衆娯楽」(「大衆文化」という言い方はまだしていない)とくくって、それらを世相と結びつけて人々の意識、つまり(当時新しいもの言いだった)「社会心理」を読み解こうとする手法自体の陳腐さなどから、すでに評価の確定した過去の遺物のように片づけられ、「効率的に」忌避されるようになったのが大きいように見えます。*2

 とは言え、その「古い」から汲み取っておくべきものも、きっとある。

 ここで全体を主導しているのは、南博。京大から戦前にアメリカはコーネル大学に留学、戦時中もそのまま滞在、戦後に帰国して「社会心理学」という新しい学問のプロモーターとしてマス・メディアも含めて広く活躍するようになっていった、まだその当初。「大衆娯樂調査の意義」というマニフェストを冒頭、掲げています。

「大衆娯樂の調査に當って、われわれは、娯樂をその内容からだけではなく、一定の娯樂に對して、大衆がそれをいかに受けとるかということ、および娯樂の多少とも永續的な社會的効果、以上、三つの面を、立體的に調査しなければならない。」(南博「大衆娯楽調査の意義」)

 「娯楽」を正面から相手取ること、それによって「大衆」の実際を学問的考察の対象にすること、それらはまず穏当な、戦後の新しい学問の視点を表現したものだったでしょうし、実際それはその後の「評価」としても概ねそのように言われていることです。

 とは言え、彼はこのすぐ後、こんなことをなにげなく付け加えている。

「大衆娯樂を全面的に研究するためには、更にさかのぼってその供給者に關する調査を行わねばならない。それは大衆娯楽を供給する企業體あるいは公私團體の分析である。實際には、大衆娯楽の考察の基本點は、この供給者分析であり、それは供給者の占める社會的な位置と機能の分析に他ならない。そうして供給者の意圖を追究することによって、初めて、内容反應、効果の精確な分析が可能となる。すなわち、供給者の意圖は、大衆娯楽のあらゆる面を貫く一本の線としてこれをとらえねばならない。」

 流行歌であれ、大衆小説であれ、映画であれ演劇であれ寄席娯楽であれ、「大衆」を相手取る「娯楽」であれば、それはどのようなものであれ商品であり、商品である以上、市場を介在して世の中に供給され、流通されてゆくものであって、だからそれらを支える生産と供給、大きく言えば産業構造も同時に視野に入れておかないといけない――要はそういうことを付言しているのですが、ただ、残念ながらこの時点ではこの付け加えた一節の重みをちゃんと受け止められるだけの足場が、本邦の言語空間には準備されていなかったらしい。

 ともあれ、流行歌というとりとめない対象を介してその背後の世相にまで迫ろうとして、彼はこんな手法をとりました。

(イ)各レコード會社の賣上最高のものから選擇する。レコード會社はキング、ビクター、コロンビア、ポリドール、テイチクの五社。
    (この場合には二〇年八月より二三年一二月までの分をとった。)
(ロ) NHKヒット・パレードに三回以上歌われたもの。

 そして、(イ)の方法でえらんだもの53曲、(ロ)の方法によるもの23曲、計76曲から重複を除いて61曲を俎上にあげ、その上で、「歌詞」の内容から以下の4類型に分類する。

 ①  普通感傷的と呼ばれるもの……29曲
 ②  主に頽廃的ともいうべきもの……16曲
 ③  「あこがれ」「恋愛謳歌」「異国趣味」「少女への愛着」「都会謳歌」などの、比較的明るい、ロマンティックな要素が多いもの……10曲
 ④  「ナンセンス」「無邪気」「のんき」などの「おかしさ」を持つもの……6曲

 その後、「歌詞」に使われている単語について抽出し、「自然現象に関する名詞」「抽象名詞」「代名詞」「普通名詞」「動詞」「形容詞」「感嘆詞」などに分けて、それぞれ考察し、「詩形」についてと共に、純粋に言語表現としてかなり機械的と言えば機械的、まさに「科学」の態度で、それら通俗商品の典型でもある「流行歌」にアプローチしようとしているのが、今となっては微笑ましいくらい素朴で、実直です。

 これに対して別稿で、当時「音楽評論家」として著名で、戦前から音楽教育の立場からいわゆる民謡や童謡、わらべうたなども含めた民俗系の音楽や民衆音楽の類までの視野を持っていた園部三郎が、音楽は歌詞だけではなく音楽そのものとしての要素も共に考えねばならない、という、これはこれで穏当な主張をして、カウンターを当てる形になっています。

「音樂という場合、あくまでも感性的な統一體として一つの作品を分析するのでなければただしい結論はでるものではない。もちろん、文學的な面の分析というものが、不必要だというのではない。そういう分析の結果がけっきょくにおいて、音樂的な面にどのようにむすびついているか、あるいは、どのように統一されているかということの結論をうるための前提として、文學的な面の分析も絶對に必要である。」

 このあと、「だから」で受けて展開されるくだりが、なかなか味わい深い。

「だから、たとえば浪花節――は歌曲ではないけれど――の文學的いみを分析してみて、そこに、どのような進歩的な意味内容がかたられているとしても、音樂的な性質をもった作品としては、決して近代的なものだとはいいえないのである。浪花節がほんとうに近代化するためには、音樂的な性質自體が近代化されなければならないはずだ。」

 時代の空気、時節の刻印が、くっきりと見えます。「近代的」「進歩的」というのが自明の価値になっているのはもちろん、その内実もおそらく相当程度に彼らの間では共有されていたのでしょう。こういう前提が当時「そういうもの」として共有されている界隈があり、その中で生きて呼吸していた人がたが書き残した文章であること、それを〈いま・ここ〉から織り込もうとしておかないことには、同じ活字の字ヅラの向こう側にうごめいていたであろう当時の〈いま・ここ〉の手ざわりもまた、うまく察知できない。

「具體的にいえば、もっとも近代的な本質をもった小林多喜二のものがたりが、浪花節のもつ音樂的感性にふさわしいものであるかどうか、ということが第一に問題である。小林多喜二のものがたりの本質が、もっともたかく、またふかく表現されるためには、あのような原始的な音樂的表現によっては完全なものになりえないはずだ。」

 おお、小林多喜二浪花節! いや、ひとつ間違えればそれくらいのことを平然とやってのけるくらいに、実は浪曲浪花節という芸能の器量は融通無碍に広大でしたし、また、それを実際に作り出せなかった本邦左翼(に限らず知性一般)の、およそ「芸術」をダシにした運動というのは、大衆的な通俗の現実に対して認識も力量も足りなかった。小林多喜二がこうまで偶像化されていった過程自体、「戦後」のそのような言語空間が介在してのことだったようですし、浪曲浪花節を躊躇なく「原始的な音樂的表現」と断じるある種の明快さについても同様です。しかし、とは言えそれらがあってなお、そこを足場にしながら次にまた、こんな認識にも連なってゆくあたりもまた、当時の空気なのでしょう。*3

「しかし、音樂的、感性的性質というものは、非常に保守性のつよいものであって、今日日本の民衆の中にふかくくいいっている音樂性が、きゅうに近代化されるものでないことはいうまでもない。そういういみで、私は機械的浪花節ぼくめつ論をとなえるものではないが、民衆の音樂教育が徹底すれば、いわゆる浪花節は全くちがった形をもつにちがいないとおもっている。」

 「文化」とは、そのように無意識なども含めた「そういうもの」として推移しているもので、それは「保守性のつよいもの」という表現にひとまずなってはいるものの、文字を前提にした知性や理性の側から都合良く制御し得るようなものでもないらしい――そのような認識が戦前よりも前面に出てくるようになっていたことが看てとれます。「音楽」のその音楽ならではの「音」や「うた」の部分が、それら「そういうもの」の領分を否応なしに含んでいるものらしい、という認識と共に。とすれば、眼前の〈いま・ここ〉、自らもまたその中に生きている現実≒「世相」についての「科学」とは、果してどのような形であり得るものなのか、といった茫漠とした、しかしより本質的で、かつ素朴でもあるような問いの気配を必然的に伴いながら。

 その上で、園部は「一つの樂曲を構成するさまざまな音楽的要素、たとえば、リズム、メロディー、ハーモニィ(和聲)、音階と旋法、音程などと、それらを現實化する表現手段であるところの人間の聲、あるいは樂器の性質を分析してみなくてはならない」と言い、ここでとりあげられているような流行歌については「流行歌手の發聲と歌唱の方法」について考えるのがわかりやすい、と説いてゆきます。

 このあたりの發聲や音程、邦楽由来という「ユリ」や「コブシ」の影響、さらには、「今日の流行歌の非近代性と頽廢性」に対して「日本の流行歌に共通の叙情性や、あるいは感傷性などとは全くちがった性質」のものであり「民衆が意識した自己矛盾を自ら解決しようとした」ひとつの例を「東京ブギ・ウギ」以下のブギ・ウギの流行に見ようとして、「今日の都會の民衆がすでに過去のお座敷的藝に魅力を失い、より肉體的な動的な娯楽に興味を感じつつあることを笠置のブギ・ウギから學びとらねばならない」とまで熱く言挙げしていたりすることなど、なかなか示唆に富む部分があれこれあるのですが、この場では措いておきましょう。

 そのような戦後間もない頃、思想の科学研究会が「科学」を武器に、知性や理性の側から「大衆娯楽」というくくりの中の「流行歌」をとらえようとしていた、そのとらえようとされていた同じ当時の「世相」≒〈いま・ここ〉の裡に、流行歌の「歌詞」をつくってみたいという情熱もまた、それまで以上に強く宿るようになっていたようです。南がなにげなく附した、先の大衆娯楽の「産業構造」に関わる示唆は、彼自身の論考では「流行歌をめぐる企業體について」という一節が附されて、レコード産業と商品レコードの流通・宣伝のごくアウトラインが記されていますが、その構造のさらに足もとで、「歌謡」を「文学」として、また趣味としてつくりたいという熱もまた、同じ「世相」としてあったことを、もう少し千鳥足ながら探ってみたいと思います。

*1:案の定、あれこれ絡んでくる向きがさっそく……研究史的に必ず触れられているくらい有名な文献だ、何も知らないのか、的な。次のパラグラフをおちついて「読む」ことくらいできないのだろうか……210511

*2:研究史」だの「概論」だので「必ず紹介される」ようなものだからこそ、その「必ず紹介される」間尺でしかインプットしない/されない症状というのが、より難儀で深刻になっているいまどきの情報環境とその内側のエリジウムで純粋培養されている若い衆世代(だけでもないか)の構造的ワヤ、というのもあるんだがな……

*3:小林多喜二浪花節、は実際にあったらしい。「終戦後さほど経っていないころ、私は小林多喜二とその母に取材した浪花節を聴いたおぼえがある。「軍国の母」の愚劣が自明のものとして承認され、コミュニズムが知識人の神であったその当時、戦前の左翼文学については何も知ることになかった私は、正義のために闘った小林多喜二とその母の美談に、かなり心を動かされたのである。その浪花節の作者が、当時の風潮に便乗してそういう作品を書いたのか、明確な社会参加の目的意識をもって書いたのか、私は知らない。」しかし、「軍国の母」の美談と「前衛闘士の母」の美談とが、イデオロギイ的ヴェクトルの対立にもかかわらず、等価な構造をもち、その美談が私自身をも含む大衆の感受性のある側面をゆり動かしたという事実は、現代芸術におけるかなり本質的な問題の所在を暗示してはいないだろうか。」(磯田光一「心情美学と小説造形――反俗信仰の克服」初出『批評』3号 1965年、『パトスの神話』所収、1968年)

馬の頭を蹴った、から始まること

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 馬の頭を蹴った、という些細なできことから、ちょっと騒動が出来しています。北海道は帯広、ばんえい競馬の競馬場でのことです。

 ばんえい競馬というのは、普通の競馬と異なり、サラブレッドの倍ほどある体重1トンにもなる重種馬たちが鉄製のそりを「輓曳」し、200mの直線馬場の2個所の坂路障害を乗り越えながら競うもの。早い話が、荷馬車を引っ張る馬車ウマのその仕事っぷりを競馬にしたようなもので、山仕事や運送などに開拓以来、馬を広く活用してきた北海道ならでは生活文化に根ざした、全国でもここだけの競馬です。以前は道内でも複数の競馬場、北見や岩見沢旭川などでも巡回で開催されていましたが、今は帯広だけになっている。とは言え、道庁から「北海道遺産」認定もされ、またここに来て全国的に地方競馬の売上げが底を打って経営環境が好転したこともあり、この3月までの2020年度は過去最高の売上げを記録して、まずは新年度に向けて得手に帆を上げる状態ではあった、その矢先の椿事でした。

 4月からの開催に向けて新たにデビューする2歳馬たちの能力試験、つまりばんえいの競馬ウマになれるかどうかの模擬レースの場で、障害を乗り越えられずに前脚を折り曲げてエンコしてしまった馬を何とか立ち上がらせようと騎手がソリから降りて叱咤激励、その際、思わず足で馬の頭部を「蹴った」映像がwebを介して拡散され、それを見たいまどき世間のメディア桟敷の善男善女らが「かわいそう」「動物虐待だ」と当該競馬場や主催する帯広市役所に抗議の電話やメールを殺到させたというのが、まずはことの発端。わずか数日で1,500件以上ものそういう「市民の声」が寄せられ、また手回しよく地元の新聞やテレビからwebのニュースサイトなどにも派生的に取り上げられ、それらの中に「動物愛護」の観点からの情緒的な批判から、騎手をやめろ、いや、そんな残酷な競馬そのものもやめちまえ、といった極端な論調まで混じるとなると、事態はさらに「炎上」、主催者側が対応に追われる始末に。

 競馬の開催中のできごとでもなく、競馬法その他に抵触する事案でもなさそうなのに、競馬の監督官庁である農水省は競馬監督課からいち早く帯広市に口頭で事態収拾の指示を出し、それに応じた形で当該騎手の処分と騎乗自粛、その他類似事案の発覚とそれに伴うさらなる処分の発表から記者会見に至るまで、どうも事態の展開があまりに早く、かつ仕込んだかのような手際のよさに違和感を抱いていたところ、ここにきて、とある関連記事にはこんなことも。

「4月23日には本行為は動物愛護管理法第44条第2項で定める動物虐待罪にあたるとして、NPO法人アニマルライツセンターが北海道帯広警察署(署長:野手敏光警視正)に刑事告発状を発送している。」

 「社会運動」として動物をダシに「環境」や「エコロジー」に棹さしてゆく芸風は、かつての消費者運動などから本邦でもすでにそれなりの歴史がありますが、この2月には、かの小泉進次郎環境大臣が唐突にこんなことを言い始めてたり。

小泉進次郎環境相は26日の記者会見で、鶏卵業界で複数の鶏を収容したケージ(かご)を密集させる「バタリーケージ」という飼育方法を採用していることについて、所管する農林水産省と連携して改善に取り組む考えを示した。「バタリーケージ含め、アニマルウェルフェア(動物福祉)の観点から、連携が深められればと思う」と述べた。環境省は動物愛護を担当している。」

 環境省農水省の連携事案の一環、という「問題化」のからくりがほの見えたかな、というあたりで、なんだかんだで40年近くなる地方競馬とそれを仕事とする界隈とのつきあいもまた、否応なくこの21世紀、令和の御代の〈いま・ここ〉に巻き込まれてゆくことになりそうです。

*1

*1: 各種報道、例によっての手癖でしかなかったが、ようやくまっとうな「コメント」と言えるものが出たのは善哉……210503 note.com

本邦いまどきの「ポリコレ」・考


 明らかに何かがおかしい。いや、前からおかしくなってきているのは確かでしたが、ここにきてまたそれが一段と加速、もはや何か取り返しのつかないところにまで事態の底が抜けて、見渡す限り何やら煮崩れ始めたような印象です。

 他でもない、昨今「ポリコレ」と丸められ、ぐっと扱いやすくなってこのかた猖獗を極め始めている、あの「政治的正しさ=ポリティカル・コレクトネス」をタテにしたさまざまないまどきのワヤの諸相であります。

 まずは、最近出来したその一連の事案、眼についたものをざっとおさらい気味に。
(引用は、web上含めた各種報道などから適宜抜粋)

■事例① 日本テレビ「スッキリ」。「アイヌ」を謎かけで「あ・犬」とやって炎上。
放送当日、夕方のニュースでアナウンサーが謝罪したが、翌13日、北海道アイヌ協会が「はらわたが煮えくり返るような気持ちで残念という他ない」と「激怒」した声明を出し、日本テレビに対応を求めていく方針を明らかに。「加藤勝信官房長官は16日の記者会見で、放送は「極めて不適切」「誠に遺憾」と述べ、内閣官房の担当部署を通じて当該放送局に厳重に抗議。政府としても再発防止に向けた対策を検討する考えを示した。」

■事例② 電通。オリパラ演出プランで渡辺直美を「ブタ」扱いしていたことがLINE経由で流出、炎上。
「3月17日、東京オリンピックパラリンピック開閉会式で演出の統括役を務めるクリエーティブディレクターの佐々木宏氏が「渡辺直美さんの容姿を侮辱するようなメッセージをチーム内のLINEで送っていた」と文春オンラインが報じた。翌日、佐々木氏が謝罪文を公表したほか、大会組織委員会橋本聖子会長も辞任の意向を受け入れた。」問題の事案は、去年3月5日、オリンピック開会式の演出担当者たちのLINE上で、渡辺直美をブタに例え「オリンピッグ」として演出する提案をしたもの。メンバーから猛反対されてグループ内で謝罪、この『オリンピッグ』案は却下されていたが、ここにきて週刊誌にほじくり返されて炎上ネタに。内容は、「ブヒー ブヒー/(宇宙人家族がふりかえると、宇宙人家族が飼っている、ブタ=オリンピッグが、オリの中で興奮している。)空から降り立つ、オリンピッグ=渡辺直美さん」「豚=渡辺直美への変身部分。どう可愛く見せるか。」「可愛いピンクの衣装で舌を出して『オリンピッグ』と。これで彼女がチャーミングに見えると思った。」

■事例③ NHK「ハートネットTV」。盲目の弁護士が「障害者は女性より差別されている」発言で炎上。
(前記、「表」参照)*1 

■事例④ テレビ朝日報道ステーション」。web上のPR動画が「ジェンダー平等」関連で炎上。
「動画はテレビ朝日のユーチューブアカウントで30秒版が、「報道ステーション」のツイッターアカウントで15秒版が公開。」「東京新聞編集局や「しんぶん赤旗」の公式アカウントも反応、ジェンダー論の識者、国会議員などからも批判が相次いだ。テレビ朝日の公式YouTubeチャンネルでは、24日午後1時時点で約13万4000回再生され、高評価が約500に対し、低評価が約8450だった。同日、番組のツイッター公式アカウントは「幅広い世代の皆さまに番組を身近に感じていただきたいという意図で制作しました」「その意図をきちんとお伝えすることができませんでした」と投稿し、動画は削除された。」

 「アイヌ」「女性」「障害者」などをダシにして、「ポリコレ」の名の下に非難や糾弾が始まり、それに対して指摘された側はほぼ間髪入れずに対応し「なかったこと」にしてゆく一連の過程の右へならえ具合、実にわかりやすく看て取れます。

 特徴的なのは、標的となっているのがメディアの舞台での各種表現や言動であること、それに対して「炎上」と呼ばれるような非難や糾弾の集中砲火がなされるのが主にTwitterなどSNSを介した「ネット桟敷」であること、そして、いずれの場合もそれら「被害」なり「不利益」を蒙ったはずの当事者の顔が具体的に見えないままなこと、あたりでしょう。

 もちろん、この「ポリコレ」を利権化して自分たちの利害へ臆面なく誘導しようとする既存の「運動」界隈が、例によってあらかじめ仕込んだような姑息な動き方もしている。

 事例①などは、放送翌日から「北海道アイヌ協会」が「声明」を出していて、それに即応してマスコミ取材がかけられ、そこから政府が遺憾を表明するまでわずか3日。この迅速果敢さは偶然とは考えにくい。また、事例②にしても、昨今「文春砲」などと自称して派手に跳ねている『週刊文春』が仰々しく報道した事案ですが、現在進行形のできごとでなく1年前の、それもLINEを介した(ほら、またSNSだ)関係者のごく内輪のブレーンストーミング的な場での「発言」を今になってわざわざほじくり返して晒してみせたあたり、ことの内容とは別に、何かあらかじめ政治的な意図や仕掛けがあったのでは、という疑念も出てきます。

 これらの点に注目し、やはり何か背後に陰謀めいた策略が……といった方向に想像力を働かす向きがあるのも、まあ、わからないではないですし、それは同じく最近、それこそ「ポリコレ」と同じくらいことさらにあげつらわれる、あの「陰謀論」という定型の解釈ツールにも、いずれうまくなじんでゆくようなものでもあります。

 ただ、それらの眼前の現象とは違う水準でひとつ、この場で指摘しておきたいのは、仮にそれら既存の「運動」の類からの仕掛けがあったにせよ、それらの「意図」と、「炎上」をさせた「ネット桟敷」以下いまどき世間一般その他おおぜい水準の気分がはらんでいるものさしとは、一見対抗しているように見えていたとしても、その背後で双方気がつかないところですでにきれいにシンクロしているらしいこと、そして、それらの意識されざるシンクロ具合も含めて表現するのに、あの「ポリコレ」というもの言いが、これまたあまねく実に便利なものとして使い回されるようになっているらしいことです。*2

 「運動」も「忖度」も「炎上」も「ポリコレ」あるがゆえだし、またそれは同じからくりで「陰謀論」の培養基にもなってゆく。当事者ならざる「観客」たちが「ポリコレ」に「忖度」した動きを起こし、それがまた素早く媒体の現場から関係者、さらに地方自治体から政府筋の反応までも連鎖的に導き出して、事態の鎮静から処理、収拾にあたるところまでもがまるで一連の台本かプログラムのように粛々と行われてゆき、「炎上」から謝罪、弁解を経て、その表現の削除までがフルコース。起こったできごとをとにかく「なかったことにする」これらの顛末はもはや一連の様式美、まるでよくできた「おはなし」の上演に立ち会っているような気にさせてくれるほどの型通りです。

 この「そういうもの」から「なかったことにする」までの過程はほぼ自動的かつ無自覚、無意識的なものであり、だからその途中で、なぜ、どういう理由や根拠でそういう処理がされるのか、などについて言語化されず、記録されることも、まずない。事例①の「スッキリ」の場合など、「アイヌ」を引き金に即座に北海道庁(「アイヌ制作推進局アイヌ政策課」という部署がすでに中心で動くようになっている)が関与して鈴木知事と北海道アイヌ協会が共同メッセージを出し、そこから政府の「遺憾」発言まで脊髄反射的な対応でしたが、これは敢えて言うならまごうかたなく「公権力」による「表現・報道の自由」への介入事案でしょう。しかし、にも関わらず、ふだんからそれらの能書きを神輿のごとく担いで「反権力」ぶりっこに邁進している「運動」界隈から何ひとつ異議申し立てが見られなかったことに加えて、キャスターの加藤浩次が「北海道出身者でありながら即座に対応できなかった」という、これまた「ポリコレ」への「地元」を体した無意識買弁全開な阿諛追従を謝罪の中に組み込んでいたことなども含めて、本邦のテレビというメディアの現場が、すでにそのような「ポリコレ」ごかしの「抗議」「クレーム」の類に対する理性的な足腰など失っていることを、実に無惨なまでにわかりやすい見世物として晒すことになりました。

 そこでは、起こっているできごとの理由や根拠は全て言葉以前の「そういうもの」になっていて、「ポリコレ」はすでに自明の基準、だからこそ、理由や根拠をすっ飛ばして「合理的」「効率的」に事態をただ「そういうもの」として「前へ進める」ために最も便利なツールになっている。かくて、日本語化された「ポリコレ」は、かのジョージ・オーウェルが『1984』で描いて見せたあの「ビッグ・ブラザー」、誰も抗えない存在としてひびの行動の規範、価値の源泉となって現実の社会生活のあるゆる局面を支配してしまっているにも拘わらず、果してそれが実在のものかどうかもわからないまま自明のものにされている形象のごとく、この21世紀の本邦、令和の御代に君臨し始めています。

 一方で、非難や批判、罵倒などが表現されるのは、顔の見える個別具体の名前においてでなく、概ね匿名の場です。昨今の情報環境のこと、それはTwitterその他のSNSであったりするわけですが、いずれそれら匿名性を担保される回路を介して「世の中の声」として現場に届けられることになっている。ただ、それらは昨今、個々に是々非々で吟味され読まれるのでなく、一律にネガティヴな「抗議」「クレーム」として受け取られるようになっていて、現場の側にはそれを「合理的」「効率的」に「処理」しなければいけないというプログラムが、「おはなし」のように起動されるらしい。このへんの事情は、何もこれらメディアの現場に限ったことでもなく、それこそコンビニのレジからレストランやスナックその他各種外食産業などのいわゆる「客商売」「接客業」の小さな場所から、役所や各種公共施設、学校や病院や介護施設など、民間に限らず公的セクターも含めた「サービス」を提供する仕事の現場一般において、ほぼ全面的に「平等」に共有されるようになっています。

 かつてのような一次、二次産業主体ではなく、いわゆる三次産業が社会の生産過程の主流を占めるようになり、それに伴い「経済」もまた金融経済的な領域の比率が高まってゆくことで、そのような世間の「評価」「評判」がそのままカネの流れも規定する――前世紀の終わり頃このかた、そういう仕組みでわれらの社会は動くようになってたようです。そのように社会を動かす大きな仕組みが否応なく変わってきた中、いずれ商業メディアの、それも「マス」を相手取る媒体、「広告」「広報宣伝」という機能にまつわるゼニカネの流れが、世間一般その他おおぜいの「お気持ち」をタテにして、そのような社会のありかたに適応した「正義」としての「ポリコレ」を要求しています。「評判」「世評」の動向がそのままゼニカネに反映されるこの仕組みにおいて、これはたかだか個人の思想や思惑などとは別に、〈いま・ここ〉を生きる全ての同時代にとって、およそ抗いがたい「新たな自然」「もうひとつの生態系」として機能し始めているようです。


●●
 とは言え、これでは話がうまくまとまりすぎる。昨今の本邦「ポリコレ」沙汰、欧米海外本場のそれとはどうも違うところがありそうにも思えます。そのような事情は、この間のもうひとつの事例が、うっかりと象徴的に見せてくれていたかも知れません。

■事例⑤ NHK聖火リレー配信映像から「反対」の声を削除
「4月1日、NHK東京五輪聖火リレーを生配信している特設サイトの映像で、五輪への反対活動をしている人たちの近くをリレーが通過した前後の音声が約30秒消されて配信され、疑問の声が上がっている。「オリンピックに反対」といった声が聞こえてきた直後に音声が約30秒間途切れ、音声が戻った時には反対などの声は聞こえなくなっていた。」

 ここには、もう「抗議」「クレーム」もなければ、「炎上」もない。メディアの現場の側が先廻りして「忖度」して、あらかじめ意図的に音声を消して配信しています。

 生放送でなく、地上波やBSなどでもないweb配信映像だというあたりは、先のテレビ朝日のCM動画などと同じ。webだから後付けで加工することに意識としてそれほど躊躇せず、「つくりもの」としての手の入り方が既存のメディアよりも過剰になることに抵抗感も少ないといった、いまどきの映像・音声前提となったメディアの現場特有の事情もあるのかも知れませんが、いずれにせよ、リリースされた時点でそのような加工がされ、気づいた視聴者から指摘されて配信後に問題の所在が初めて表沙汰になりました。すでに表現は「公共」に流れた時点で整形され、「ポリコレ」準拠の「正しい」ものになっていたわけですが、さて、どうしてこれを「検閲」と呼ばないのか。外部の公権力の指示や視聴者・観客の具体的な抗議やクレームなどの圧力によるものですらない、外から見えない現場の自主的「検閲」による「報道・表現の自由」の危機であるとは、なぜ認識されないままなのか。

 あるいは、先の事例③でも、「ポリコレ」的に「正しい」側の属性とされ、共に「差別」される側として「忖度」される立場にあるはずの「盲人」と「女性」が、同じ「差別」の土俵でどちらがより「忖度」されるべきか、といった構図に巻き込まれるという、以前ならばそれこそ全盛時のビートたけし立川談志あたりに「お笑い」のネタにされていたような事態が、現実になっていました。実際、いみじくも松本仁志が『ワイドナショー』(フジテレビ)で、事例②の渡辺直美をあげつらった電通の事案に関連して「オレももう二人くらいハゲほしいな、とか言うてるし」「ジェンダー関連でわ~と言われたら謝るしかないってのは絶対良くない」と、割と深刻な調子含みのコメントをしていたこなどは、そのへんの危機感の反映だったでしょう。放送したNHKは「全ての差別は許されるべきではなく、比較することが不適切だった」といった趣旨の一般論での弁明をしていたようですが、これら本邦昨今の「ポリコレ」沙汰はもしかしたら国際的な標準からしても悪しき一歩先を行っている部分がすでにあるのかも知れません。

 アメリカにおいて、ポリティカル・コレクトネスを現実化するためには、BLMのような具体的な「運動」があり、またそれに対抗するカウンターの運動もあって、それらは「暴力」を伴うものになっていました。だが、「草食化」が進行したわがニッポンではその必要もない。そんなバグすら必要ないスムーズな適用が粛々と、「忖度」任せに行われ、なるほどアメリカのような社会秩序の急激な崩壊や、「公共」のモラルの危機がそのように具体化し、可視化されることは一見、ないように見えます。

 ゆえに、本邦での「ポリコレ」とは、「忖度」というエンジンで駆動する、世間ぐるみの「検閲」のからくりとして立ち現れる。この「検閲」、かつての20世紀のそれと異なり、わざわざそのための強面の組織やいかつい法律などを整える必要はないらしい。すでに世間に実装されている「そういうもの」というものさしによる「忖度」によって、それは自動的に行われ、その手口や仕事っぷりが言語化され表沙汰になることもない。それは無意識の裡に、言わばコンピュータのOSのように自然に抵抗なく「そういうもの」として粛々と稼動し、実にゆるふわで合理的で省力化された「検閲」を現実のものにしています。

 思えば、何も「ポリコレ」などの外来カタカナ用語を振り回さずとも、そのような事態はすでに以前から、本邦の社会に出来していました。ことばと眼前の事実との乖離、現実を編み上げてゆくための身の丈のもの言いの後退が、「私」と「公」の間のあるべき垣根をなめしてゆき、結果的に「公」の水準でのことばの合理性だけが優越するようになってしまった。その速度に歯止めをかけるべき「私」の領分は、その輪郭をくっきりさせてゆくような個別で具体的なことばや、半径身の丈の生身の実存に紐付いたもの言いを失い、「公」の領分と同じ語彙同じ話法でしか語れなくなっている。 *3

 「個人」主義が突出して称揚されてきた結果、個人が属する集団や組織など「社会」へつながり得る水準のイメージが希薄化してゆき、それがポリコレ談義においてもいきなりその属性に関する取扱いが突出する結果になっているように見えます。オンナであり障害者であり、いずれそれら「所属する集団」の属性を介して「政治的な正しさ」は規定されてくる。以前ならば「個人」ベースの「平等」や「自由」だけが称揚されていたところに、いきなりこの「集団」が意識されるようになったわけで、これは裏返して言えば、それほどまでに「個人」とは一個の個体である同時に何らかの集団に属するものであるという意識が疎外されてきた結果でもあるように思えます。もちろん、だからこそ抑圧は「私」の領分に堆積してゆくわけで、「ポリコレ」と釣り合うような形で最近、やたら使い回され「正義」の依代にされるあの「お気持ち」や「想い」といったもの言いは、おそらくその反映なのでしょう。「公」と「私」、近代このかた連綿と続いてきた本邦ゆえのその間の緊張は、「豊かさ」まかせにそれを考えなしに放置してきた戦後80年近くの経緯のなれの果ての〈いま・ここ〉において、そうと気づかぬ間にある臨界点を超えてきているようです。

 「心ゆかせ」というもの言いが、かつてありました。「心」を「ゆかせる」ということ。それは「気晴らし」であるようなものですが、そのためにはことばが必要だったわけで、ふだんのままだとわだかまってしまったり濁ってしまう、そんな残余の部分こそが「こころ」や「きもち」だったのでしょう。それらは決して表沙汰にことごとしく語られたり言い張られたりするものではなかったけれども、だからこそその分、存分に手当てをしておかないことには、何かの折りに予期せぬ復讐をしかけてくることもある。それは個人の、ただひとりのこころの裡ということでもなく、「みんな」の、「世間」のそういう気持ち、心延えということでもあったはずです。

 本邦の天地にずっと以前からささやかに存在してきた「ポリコレ」が、もしもあるとしたら、それは「お天道様」であり「世間」であるような、いずれそういうもの言いで表現されてきたものさしに準拠していたものかも知れません。そして、それこそが本邦「民俗」レベルも含めたところでささやかに受け継がれてきた、われらの「公共」の原風景だったのではないでしょうか。

*1:掲載誌上で別途、これら事例の内容の概略が一覧表として示されていたのでそちらに誘導。割愛した内容はこちら。「「3月22日、「盲目の弁護士」として知られる大胡田誠氏が出演し差別問題でコメント。「自分でもゆがんでいるなと思いますけど」と断った上で、「『女性差別』と世間が騒いでくれてうらやましいなと思います。障害者差別はもっとエゲつないことがたくさんあるのに、全然騒いでくれない」「視覚障害のある女の子が交通事故に遭ってしまったのですが、『健常者と同じ仕事ができないから損害賠償の額は7割』という判決が出ちゃったりしているんです」などとした上で、「女性差別なんて生っちょろいぞ、なんて思うんだけど、世間は(障害者差別については)あんまり騒いでくれないんですよね」と指摘した。」番組のTwitter上での内容紹介に対してSNS上で批判が殺到。番組サイドは謝罪し、内容紹介の部分を削除した。

*2:内容が抽象的になって読者にはわかりにくいだろう、とて最終的に割愛した部分。

*3:この部分も、雑誌掲載原稿としては抽象的にすぎる嫌いがあるとのことで割愛。持論であることばと現実、〈リアル〉の関係性の変貌を前提にして、高度成長期を介した偏差値世代あたりで全面的に可視化された「ことばと主体の乖離」のさらに延長線上