「団塊の世代」と「全共闘」㉓ ――快適なシングルライフ、の尖兵

●快適なシングルライフ

 ひとり者=シングルの始まりは団塊世代か、ということについて、友人の山口文憲が『団塊ひとりぼっち』という本で書いていた。これはさっきちょっと触れた七○年以降の社会インフラの整備と関係することだけど、地域の共同体は崩壊してすでに隣の人の顔さえ知らなくなっててても、家にはインターネット、近所にコンビニがあって、電話一本で深夜でも救急車を呼べる、そんな環境が全国的に広く普及した。だから、その意味では一人暮らしは今や快適になってしまったわけだ。

 戦前は、旦那に子供がいなくても、奥さんが結核ででも死ぬと「ご不自由でしょうね」と、何となくそういう人が来たものだったわけだ。シングルは「ご不自由」、つまり不便と同義語だったんだな。で、それ以上でも以下でもなかった。だから「取りあえず、身のまわりのお世話する女でも置いたらどうですか」という紹介の仕方で、女性が来る。そのことに何の不思議もなかったんだよ。

 当初は正式の後妻でなくても、食事を作ってその辺を掃除したり、時々セックスもあり――まあ、あるいはそんなものなくてもいいんだけど、とにかく隣近所から時間を決めて通ってくる。一種のヘルパーなんだけど、でも実際にはそこらの長屋のおばさん風の人が「じゃ、私はこういう世話好きだから、すこし、掃除だけやりますよ。洗濯物もあれば」となればそれに対して「ちょっと小遣いを」となるし、またそれを世間も認めていたんだよね。

 ところが今は、家事労働からの解放が女性に限らず、家事一般からの解放になってしまった。だから今、キャリアウーマン志向で家事が不得意だという女は多いよね。また結婚しても、家事は電気製品がやるわけだから生活スタイルは独身時代とそうは変わらない。相手が独立した女なら、「おれはこいつが好きだから、とにかく一緒にそばにいたい」と男が言わなければ、二人が分かれて住んでいても同じことになる。別居夫婦、って形だって必ずしも不自然じゃないんだよ。

 逆に独立した女がよく言う「ああ、あたしも奥さん欲しい」も、実際同じことだよ。やはり仕事を持っている女友達で、私の五倍ぐらい稼いでるようなのがいるけど、その彼女はヘルパーを使っている。マンションの部屋に月・水・金と時間制で呼んでいて、二、三時間掃除をしてもらう。食事はたいてい外食だから、料理は問題ない。立派にひとり暮らしをやってるわけだ。


――どだい、結婚なんてのも、これまでだって足入れ婚やら通い婚やら、民俗社会レベルでもほんとにいろんなヴァリエーションがあったわけで、それを今、一律にひとつ屋根の下で世帯をひとつにするのだけがまっとうな結婚、ってことにしすぎてるような気もします。先に出た同棲、なんてのもそういう風に位置づければ、また違う意味があったのかも知れないですが……あれ、なんかフェミっぽいこと言ってますかね、あたし。

 私は、最近父親を亡くしたんだけど、でも、その時いろいろな経緯を経て、世間で一番頼りになるのはやはり金だ、と実感したね。父親に対しては、全く孝心はなかった。でも、病気で倒れたもので、しかたなく私は東京から地元の名古屋へ帰ったわけだけど、その時役に立ったのは、やっぱり父親の貯金だったんだよねえ。

 たとえば、危なくなれば病院に入院させる。空いていれば個室を選んで、ヘルパー資格のある付添婦を一人つければ、家族も病院に詰める必要がなくて具体的に助かるわけだよ。父親は十日ほど入院して容態が悪くなってうちへ帰されたんだけど、うちは母親の方もまたあまり動けないから、改めてまたヘルパーをつけるわけだ。

 介護保険というのは時間単位だから、規定以上は受けられないんだけど、もしこれを二十四時間つけられればそりゃ、非常に楽なわけだよ。その間、私は短期の海外旅行にも行けたし、東京との往復も週に二、三回はできた。父親の容態が変われば、ついているのがヘルパー資格のある人だから、救急車を呼ぶことも慣れている、と。つまり、家族の中に重病人がいても、普段の生活がそんなに変わらなくてすむわけだ。

――そうできるだけの蓄えがあれば、ということでしょうけどね。

 もちろん、それは私の家にたまたま多少の余裕があったから、ということはある。親父はサラリーマンとしては大関クラスまで行ったから、まあ、その程度の貯金はあった。浪費家でもなかったし、子供(私)を育て上げるまではカネも手もかかっただろうけど、でも、その後私は、金銭的な意味では親に迷惑をかけていないしね。

――そのお父さんの財産、ってのはいくらかは残ったんですか?

 貯金は、遺産として残った。で、母親は、財産を私に残す、と、例によってバカなことを言うんだけど、でも、私は親の面倒を見るのは嫌だから「全部使え」と厳命してるんだ。たとえば、仮にいま二、三千万もらっても、私にとってはそれはとても割に合わない。確かにヘルパーを雇えば、年に四、五百万程度かかるけど、それが四年分でも二千万円だろ。だったら、それを生きているうちに母親自身が使い切ればいいじゃないか。

 母親のカネの使い途は年寄りの趣味で、たとえば檀那寺の屋根葺きに三十万寄付するか、五十万にするか、といった程度の話なんだよ。そんな瓦葺きはせいぜい五年か十年に一回の話だから、一年に換算したらたかだか十万程度の出費だ。だったら、それならば、ヘルパーは、それをやってる人には社会的に恵まれない人もいることだし、むしろどんどん雇ってカネを社会に還流させればいい。そういう意味で「残すな」と言ってるんだよ。

――ああ、それはわかります。うちもひとりっ子で兄弟とかいなくて、オヤジは二十年ほど前に過労死の突然死やらかしちゃったんで、今やおふくろひとり、年金その他で食べてく分にはまあ、困らないわけで、ある意味一番、戦後の「豊かさ」を享受できている世代なんだと思いますが、でも、いくらかあるオヤジの財産(ったって、持ち家くらいですが)をこっちに残してくれなくてもいいから、ってのは言ってますよ。ただ、でもそれもまた、たまたまそういうある意味恵まれた環境にいられるから、ってのはありますけどね。

 つまり、当たり前のようだけど、今の私たちのこの社会で、いかにカネが助けになるか、ということなんだよ。同時に、そのあたりが新たに商売に、カネになると見込んで参入してくる者もいる。それは資本主義の原理で、カネをどこかに投資し、回転させることで現在のシステムは成立しているんだから、これも当たり前だ。ただ、こういうのもまた一九六○年代、私たちの学生時代から広がりだした流れだとも言えるね。

 いま、町にはコンビニ、スーパーが余るほどあって、老いも若きも利用してるだろ。そのスーパーが登場したのは七○年頃だ。西友なんかが一気に普及して、閉店時間も今は九時半、十時は当たり前。名古屋あたりの近辺でやっている小規模なチェーン店でも、二十四時間営業の店がいくつかある。少し田舎だと家族経営のコンビニなんかは午前一時に閉めちゃうところがあるけど、これはこれでエネルギー効率の点では逆に正しいんだよ。だって、そういう店は二十四時間開けていても夜中の二時、三時に客なんか入らないから、照明、空調の無駄な出費なわけだ。

 

 ただし、終夜開いていたほうが一人暮らしには便利ではある。冷蔵庫や洗濯機も手軽に安く買えるようになったし、高度経済成長とそれに伴う「豊かさ」によって主婦の家事労働が軽減された、とよく言われるけど、これは同時にひとり者でもぐっと生きやすくなった、ってことだよ。

 となれば、ひとり者、単身者にとって残る問題は、思いっきりざっくばらんに言ってしまえば、心理的な慰安とセックスだけだ。それさえ自分がクリアするか、我慢すれば、もうずっと独り者で生きてゆくのに困らない、そういう社会になってしまっているってことだ。

――まあ、状況としてはその通りですね。だから、少子化社会とか言って、三十代でも結婚しないのがどんどん増えてる、って言われてますが、ある意味必然という気がします。具体的に「困らない」んですから、男もオンナも。


 結婚の嗜好品化、ってことを言う向きもありますね。これはネットで語られていたことなんですが、これまで、結婚は必需品で絶対に手に入れる必要があった。必需品である以上パフォーマンスは無限大になるわけで、いくらコストがかかっても、手に入れなきゃならなかった。でも、現代においてはそうじゃない。便利になり、結婚しなくても生活はできる。価値観も多様化して、結婚しないことによる社会的な圧力は以前よりは遥かに弱まった。そのため、結婚を単にコストパフォーマンスで測ることができるようになって、コストパフォーマンスが悪ければ、その財を購入しないという選択をすることができるようになった。これが、現代の若者が結婚「しない」理由だ、というんですが、確かに大枠ではその通りだよなあ、と。実際、ネットや携帯を介した「出会い系」とかもう信じられないくらい広まっちゃってるようですけど、一面ではあれ、男女共に安定してひとり者でい続けるためのセックス処理(「恋愛」含めての)装置として必然的かも知れない、って思うところがあったりします。それはニッポン人はやっぱり文化として好色なんだ、とか、下半身にルーズだ、とかいうありがちな「説明」とはまた別に、高度経済成長以降の「豊かさ」のもたらしたものでもある、という角度からの理解がもっと必要なんじゃないかな、と思いますね。

 実際、そうやってセックスの問題が消えれば、あとは心理的な慰安が確保できれば、もう独りでいても一向に構わないわけだよ。ただ、この心理的な慰安については、セックスよりもずっと一筋縄ではいかない問題で、社会的風潮を越えた文化、宗教、教育を含むからまた改めて語ってみたいんけどね。

 とりあえず、以上は団塊世代の場合で、若い世代ではいわゆるパラサイト・シングルという手だってあるわけだ。親と同居し、家事など生活条件を親に依存する、いまどきのひとり者の形なわけだ。

 六○年代までは、狭くても安い住宅が欲しいという庶民の要望に応えて、住環境の悪い「団地」が大量につくられてきた。私たち団塊世代が若い頃は、五人くらいの家族でも団地に肩寄せ合って暮らしていたもんだ。

 ところがその後、人口が頭打ちになると、金の流れは住環境自体をよくする方向に向かった。たとえば、夫婦と子供二人、婆さんの五人家族の場合、婆さんが死に、娘一人が嫁に出れば同居者は三人に減る。余った部屋を広く改修すれば、住環境が充実して、息子のパラサイト生活は快適になり、結婚する必要もなってしまうだろ。

――そういうことですね(苦笑) 息子だけじゃない、娘だとかえって今度は親の方がありがたがったりしてますから。以前は「早く嫁に行かないと」とか言ってた親が、年を重ねて病気になったり弱ったりしてくると、「よくおまえが家に残ってくれた」くらいのことになったりする。三十代で嫁に行ってないオンナの人のある部分は、むしろそういう実家住まいが長くなって、逆に親の方から今度は頼られるようになっちゃってる、ってケースも案外あると思いますよ。

 まあ、何でも世の中すべてそうだけど、先頭を切る者には覚悟が必要なんだよ。かつて、街のインフラも住環境も世間の理解もない中で、シングル生活を始めた者は覚悟を決めなければならなかった。一方、そういう先行する者の後ろを金魚の糞でついていくやつは、既得利権を享受できる。なんでもそういうもんだよ。反体制活動でも労働運動でも同じこと。会社で、最初にストライキをやろうと言った人間は弾圧され、馘を切られる。会社は、馘を切った代わりに給料を月額五千円上げようという。この昇給は、首を切られた者には当然いかない。「ストなんかやりやがって」と笑っていたやつの方の給料が、月額五千円上がる。犠牲者、殉教者だと褒めてもらっても、浮かばれないだろ。

 つまり、風よけ、弾よけになる人間はいつの時代も必ずいたはずで、この意味で言えば、団塊の世代がこれまで整わない環境でひとりで生きてきていて、それを今になって後ろ指を指されても「いや、おれたちはこれでいい」と言った先頭組だったんだと思うよ。それは、社会的な信用という意味においても、なまやさしいことじゃなかったんだよ。

 たとえば中野翠は、「女で物書きで独身だと、クレジットカードを持てなかった」と書いている。それは私も同じだったよ。男でも、自由業で独身じゃ、社会的信用なんてものはまずない。カードは便利だから欲しかったけど、とにかく審査に通らないからしょうがない。私がクレジットカードを持てたのは、東京理科大の非常勤講師になってからだよ。一九八八年、大学に勤務している、という証明書を出して、やっとカード会社の審査に通ったんだからさ。

――僕も、大学に勤めていた頃にクレジットも保険も入ってますが、今だとおそらく審査が通らないでしょうね。仕事場借りるんで保証人探す時もえらく苦労しましたし。それに勤めてたのが私立じゃなくて、幸か不幸か国立大だったじゃないですか。文部教官助教授、って肩書きの社会的な流通性ってやつは、大学辞めてから、ああ、こういうことか、って思い知る局面が結構ありましたよ。

 もしカードを遣いすぎて残額不足で返済できなくなり、カード会社に「大学の給料を差し押さえます」と言われても。講師手当てが一万八千円だったので、「どうぞ」と答えただろう。クレジットで三○万円遣い、一万八千円差し押さえられても二十八万円の得だったんだ。だが、そういう問題ではなく、勤め先が社会的信用を意味するということなんだ。私の場合、そのときは大学教師という肩書。本業は評論家だが、そちらの方では大学教師ということにしておく。その信用で、独身でもオーケーが出た。中野の場合、女で自由業で独身となると「こいつ、何だろう」、「水商売かな」となる。顔を見て「横浜の場末あたりかな」と。

――あ、またイエローカードですよ、それ(苦笑)


●ライフスタイルの転換期

 そもそも、時代が変わる、って言うけど、これまで日本史の中でそういう文化、生活形態が大きく変わった時期というのは、必ずしも政治権力が交代した時期でもなくて、そういう政治のレベルでの変化が本当に生活の局面まで浸透してくるには少しずつタイムラグがあったんだと思うんだよ。

――ああ、それは民俗学的な視点からすればまさにその通りですね。大文字の政治史、制度史や法制史の水準じゃなく、日常生活の歴史、ゆるやかな変遷をつぶさに眺めてゆくと、日々の暮らしぶりの変わり目というのは年表のような歴史とはまた違ったフェイズを持っているわけで。上部構造の変動が下部構造に波及してゆく過程というのは、常にそういう時間差をはらんでいるんだと思います。

 まず最初の転換点は、よく言われるようにまず、応仁の乱。ここで日本人の生活形態はがらりと変わった。それまで地方や下層の庶民たちなんかは、ほとんど弥生時代の竪穴住居に住んでいた人と違わないような生活だったはずだよ。その次の大きな転換点が明治二十年代。ちょうど日清戦争の前後の頃だ。そしてその次は昭和の戦後だ。これは他でもない、かの柳田國男センセイが言っていることなんだけどね。

――ですね。応仁の乱前後、っていうのは近年また、戦国時代の再評価などもからんで改めて注目されている時期でもあるようですが、ただ、柳田がそれを指摘し始めたのは「木綿以前の事」のあたりからでした。後に、聞き書きから過去を再構成してゆく彼の民俗学の手法では、リニアーな歴史としてさかのぼれるのはせいぜいその応仁の乱あたりまでが限界だ、といったことも言ってます。明治初年生まれで近代化の黎明期に青年期を過ごした柳田の世代性を考えると、昭和初年くらいの時期を足場にそういう感覚を持っていたはずですから、今だとむしろ、近世の末期くらいまで再構成して追体験してゆくことがギリギリかなあ、なんて思ってます。このへん、真面目な歴史学者なんかにかかると、民俗学の方法的限界、なんてすぐ馬鹿にされたりするんですが、あたし的には逆に強みだ、と思ったりしてるんですけどね。

 柳田は一九六二年に死んだ。しかし、彼の死後に、もう一回大きく変わっている節目があったはずなんだ。それが、一九七○年前後だったんだと私は思ってるんだけどね。

 こうしてみると、後になるほど変化のスパンが短い。まず応仁の乱は、それ以前の何千年を経た後の一四六七年。その次が明治二十年代(一八八九~九八年)だから、この間が約四百年。その次は、約七十年で戦後になるわけだ。さらに次は、二十五年か三十年。変わり方のサイクルがぐっと短くなる。その分だけ生産も消費も人口も増えているから、この分、厚みを持って変化がぐっと詰まって体験されるようになってきたんだと思うよ。

――密度としての「歴史」、って視点ですかね、それは。日常生活の中で経験される「歴史」というものさしをひとつ持たないと、なかなかうまく理解もできないし、ましてや方法化もしにくいような気もしますが、でも、感覚としてはなんか解るところがありますね。

 そういう歴史の落差とか、世代間の経験の違いがはっきり意識されるようになってくるから、これを残さなければいけない、という意識も芽生えてくる。篠田鉱造の『幕末百話』(岩波文庫)や、高村光雲の『幕末維新懐古談』(同)とか、あの頃の岩波文庫から出ていた石橋湛山のものとか、そういう記録はどれを読んでも面白いよね。しかも当時でさえ、もう忘れられかけているから忘れられないうち、消えないうちに書きとめておこうと思って、必要から記録に残したものだから、今の私たちにとっては貴重も貴重、ほんとにに面白い。だから、そういう意味で現在もまさにそういった志に立った記録が必要なんだと思うよ。

  

――それは全く同感です。というか、民俗学というのが今この状況でなお、何か同時代の知の水準に貢献できることがあるとしたら、まずそういう記録に地道に資することからですしね。白状すれば、長谷川伸の言う「紙碑」のようなテキストをそれぞれの目線の高さでつむいでゆこうという草莽がうそうそとわいてくることを、まだ夢見ているところがあります。

 ある時点から用語系が変わり出す、思想の枠が変わり出す、そういうあらゆる分野での変化が一気に台頭してくる時期があるとすれば、それがやはりあの六○年代後半から七○年代初頭だったんだろう、と私は思うね。とにかく、高度経済成長というそれまで日本史の中でもあり得なかったようなとんでもない経済的な変化が短期間に起こった時期だ。だからこそ、その時代を体系化し、そこに若者とか社会を考える上の重要な基軸として左翼思想があって、当時どういう意義を持っていたのか、これをきちっと言葉にして書きとめておかないと、この先困ったことになるんじゃないかと思うよ。

「団塊の世代」と「全共闘」㉒ ――オトコとオンナ、自慰の暗闇、処女性の霹靂

◎男と女、自慰の暗闇 処女性の霹靂

――「婚前交渉」と同じように、当時はオナニーも問題になったでしょ。自慰、マスターベーション、ですが。

 もちろん、問題になった。私の世代では、小・中学校の頃、オナニーは変態扱いだったね。

――うわ……いきなり「変態」、ですか(苦笑)

 そうだよ。そもそも生殖を伴わない性というのは同性愛、SMはいうまでもなく、オナニーさえも変態性欲だった。もちろん、中学・高校くらいになると「いや、害はない、やってもいいんだ」となってくるんだけど、ひとたび罪悪感を持ってしまうと、トラウマになって、あとあと苦しむことにもなったりしたんだ。

 戦前だったら、背が伸びなくなる、頭が悪くなる、とか言われたからね。頭が悪くなると言われたら、当時の少年たちは、さぞ悩んだろうと思うね。なにしろ、そんなことばっかりやっていると栄養分がそっちにいってしまい、タンパク質やカルシウムが足りなくなるとか、まあ、いい加減な説明なんだけどね。

――運動、スポーツをして発散させればそんなモヤモヤは吹き飛ぶんだ、みたいなことが言われてましたからねえ。保健体育の授業でそういうことを真顔を言われてましたから。 これはまただいぶあとですが、吉田秋生が『河よりも長くゆるやかに』の中で、主人公の男子高校生がコンドームを持っているのが見つかって職員室で大目玉を食らう、その教師の説教がまさにその「運動をして発散させろ」みたいなものだったのに対して、「おまえらだって若い頃があったんだから、そんなもの、スポーツやったからって忘れられるようなものじゃないのわかってるだろ、ゴルァー(#゚Д゚)ゝ」みたいにひそかに毒づいて見せる、舞台設定はあれ、70年代半ばから後半くらいだったと思いますが、すでにそういう説明自体がひからびて実効性なくなっている状況を如実に反映させてましたね。

 ただこれは、酷い話だとも一概に言えないんだな。大人が、若者に対して枷をつくってやり、ちょっと脅しをかけておく、その中で若者は、自ら「これは迷信だ」と枷を打ち破るくらいの気概を持つべきなんであって、少年にとっての最高の試練、自己鍛練の場でもあったんだよ。

 それが六○年代後半になると、もちろんこのオナニーもオッケーになる。大きな力があったと思うのは、六○年に『平凡パンチ』が出て、それで若者文化をがらりと変えたんだよ。クルマの性能、男と女のつきあい方指南、ファッションはこうあるべきだ、と、まあ、そういう生活まわりの情報を一気に与えていったことで、若者の生活意識から文化まで全部変わってきた。それを追うように二、三年後、『プレイボーイ』が出て、両者が競い合う形でさらに加速され、一気に日本中に広がった。当然、その中にもセックスの悩みは出てくるわけだけど、その時点ではもう「僕、人には言えないんだけどオナニーをしています。背が低いのはそのせいでしょうか?」という類いの相談はまずなくなっていたね。


――まさに近代化、ですねえ。性的な領域についての自覚や悩みが、そのまま社会的な体格や身体感覚まで含めて陰を落としてゆく、という風に考えられてゆくわけで。


 六○年代後半、われわれ団塊の世代が大学生だった頃は、男はまず全員、特殊な人以外はオナニーをしていた。当たり前だな。で、女はというと、これは当時こっちからはよくわからなかった。「そもそも、女はそういうことをするのだろうか」とまず悩んで、やっぱり全部の女じゃなくても、一○か二○パーセントくらいはしてるのかな、するんだったらどういうふうにするんだろう、ああ、一度でいいから女のオナニーを見てみたい、という風にあれやこれやの妄想が広がってゆくわけだ。

――それはもう、身近に姉や妹がいたところでどうなるもんでもないですしね。社会的には言うまでもなく、家族の中でも男と女は結構巧妙に棲み分けがされていたわけですから。互いにいかに顔つきあわせていても、性的な領域に関わる部分はそんなに明るみに出ているわけでもなかったですしね。まただからこそ、社会に出ていった時にもいい具合に妄想が前向きに作用してくれたり。「やる気」とか「意気」なんてのも、実はそういう棲み分けが保証されてないとうまく機能できないものかも知れない、と思います。



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 こんな話があったんだよ。高校時代、近くに名門の女子高があってね。そこの生徒の女の子がある日、一人死んだ、っていうんだ。救急車で運ばれたけれども間に合わなかった、と。原因はというと、なんと、授業中に電球でオナニーをしていたからだった、と(笑)。気の毒なことに彼女はことに及んでいる最中に先生に当てられ、あわてて立ち上がったはずみでその電球が割れてしまって……救急車で大至急病院に運ばれたけれど、あたら若い命を散らせてしまった、という話だ。

――まさに「都市伝説」(笑)いや、ありがとうございます。でも、その手の「女子校」伝説、ってのはもう全国津々浦々に広まってますね。電球ってディテールは、それ以前、戦前にすでに語られていたなすびなどからの連想かも知れませんが、確かに似たような話はどこかで聞いたことがあります。

 すでに民話になってるんだろうね。まあ、そんなもの、よりによって授業中にする必要もないだろう、と誰でも思うんだが、それでもそういう話がまことしやかに語られて、聞く方も聞く方で、そういうことがほんとにあったらいいな、という願望があるから、伝承に拍車をかけたんだろうね。

――若い女性に集団で襲われる、ってのも、そういう類の都市伝説には設定として割とよくありましたね。強姦ならぬ強チン、とか言ってましたが(苦笑)これは、たいていオトコの側が受け身で、騎乗位でかわるがわる犯される、ってのが基本的な形ですね。で、射精させないようにチンチンの根もとを輪ゴムで縛られるから、イキたくてもイケない、まさに地獄、という趣向もついてくる。実際に、当時の「スケバン」(これもまさに当時出てきたもの言いなんですが)の実録なんかでは、こういうリンチをほんとにやっていた、って話も出てますから、まあ、現実にあった話ではあるんでしょうけど、でも、想像力の水準で考えると、なんかこれ、ヴァギナデンタータ(歯のある女陰)なんかにも通じるような趣きがありますね。

 ところが、それがどんどん変化していって、それでも八○年代頃までは「女も三割くらいはするかな」だったが、今では結局、男と一緒だとわかってしまって、面白くもなんともない(と、憮然)。

――こちとらと同じように向こうさんにも性欲もあれば、オナニーもする、ってのを、あらかじめもうわからされちゃってますからねえ。ましてやローターだ、デンマだなんてシロモノまでが今やおおっぴらに取り沙汰される始末で……。ドンキホーテあたりでどうみてもそれ用のバイブレーターがゴロンと放り出されるように売られている光景というのは、なんというか、荒涼としたものがあります。同じようにローションが一般にも使われるようになったり……いやもう、確かに世も末かなあ、と。


 ただ、ここでひとつ興味深いのは、フェミニズム(六○年代後半まではウーマンリブと呼んだが)の言動なんだよ。その頃でも、女がオナニーする、というとフェミニズムの連中も、まだ怒っていたもんだ。七○年代に入っても割と怒っていた。「そんなもの、しない人も多いし、したからって悪くはない。でも、あまりしません」という感じでね。ところがその後、あれは『MORE』など女性誌が、男の性についての研究をおおっぴらに掲載するようになって、そのあたりから変わり出したような気がする。女の側では、異性についての社会的な意味が男とは違ってたら、その分、男の側の変化にワンステップ遅れてついてくる形だったんだろうな。

 典型的な例を紹介しようか。あるテレビ番組で竹中労ルポライター/一九三○│九一)が、当時清純派で出てきたアイドルの小川知子(一九六八年、歌手デビュー)に向かって、「おまえ、処女じゃないよ」と言って大問題になったことがあるんだ。彼女は「いえ、私は処女です」と言い張るし、竹中は「いやそんなことはない、おれはルポの取材をしていてわかってる」と言い張って大騒ぎになって、小川知子は処女か非処女か、なんてのがスポーツ紙などで大論争になった。今思えば、あれほどエキセントリックな反応を示した小川知子には、後に「幸福の科学」入信の下地がすでにあったのかもしれない。


――うううむ……小川知子も当時の労さんに食いつかれたのが運の尽き、って感じですねえ。でも、アイドルというもの言い以前の清純派というのは、もう当たり前のようにそういう性的存在の部分はなかったことにされてたわけですね。それこそ、クソもしなきゃションベンもしない、という。まさに吉永小百合を頂点とするそういう芸能人としての理想の女性像、ってのがまだ確固としてあり得た最後の時代だったんでしょうね。


 とにかく、今じゃとても考えられないことだったな。今ならむしろ「二十五にもなって、男がいないのかしら」「おかしいんじゃないの」とネガティブにとらえられてしまうようなもんだ。まあ、それが本当にネガティブかどうかは異見もあるだろうけど、少なくとも「処女か非処女か」以前にまず、男がいない、つまり女としての魅力がない、ろくに声もかけられない、相手にされていない、と周囲から先読みされてしまうのは間違いないだろう。

 多分男の本音としては、男から声はかけられているが、でも、最後の一線だけは越えないで守っている、それなりに浮いた話もないではないんだけど、最終的にはふしだらではない、というあたりが最も価値ある女性像だった、ってことなんだろうな。だから、たとえ処女でも「おまえには誰も声かけないってことなんだよな、ならば、そういうのはおれもちょっとカンベンしてくれよ」、みたいな微妙な駆け引きがあったような気がするんだけど、そのへんも含めてどんどん変わっていくのが、まさにその頃だった。

――とは言え、そういう激変をくぐり抜けたのは男の側だけじゃないですよね。

 むろん、女の側から考えても大きな転機だったと思うよ。団塊の時代は、そういう自我に気付いてゆく女を大量に輩出した。そしてまた、その自我を持て余し、それに困って葛藤した女たちを大量に産み出した最初の世代ともいえるんだろうね。

 と同時に、女に必要以上に主導権を握らせたのも団塊だ、といわれているけど、でも、それもまたすでに終戦直後から始まっているんだよ。ただ、その段階じゃまだ建前なんだな。だから、女が実際に突出して声をあげれば、やはり周りから白い目で見られた。で、そのとき声を上げた女は、フェミニズムだろうと、ウーマンリブだろうと、女権労働者であろうと、基本的に私は立派だと思う。風よけ、弾よけになる者は、先頭に立っている機動隊員よりはずっと立派だ。
 たとえば明治の頃すでに、神近市子(評論家・政治家/一八八八│一九八一)などは、いい根性をしてたよ。伊藤野枝(婦人解放運動家/一八九五│一九二三)は単なる色狂いだったが、そんな女の横で、それにはじき飛ばされそうになりながら頑張った神近は立派だった。市川房枝(婦人運動家・政治家/一八九三│一九八一)もいくらか問題はあるけれど、でも、あれも立派。戦前に声を上げた女は、それだけで優秀で、六○点、八○点の違いはあっても、五○点以下はない。みんな、強風に向かって進んだわけだ。

 でも、戦後になると向かい風が止み、やがて追い風になる。しかもぬるま湯のような追い風の中で、ぐでっと立っていても、自然に進んでゆける。戦前と今とでは、それは一緒にしてはかわいそうだと思うよ、この私でも。

「団塊の世代」と「全共闘」㉑ ――「愛」と「家庭」の不条理

◎愛の不条理、家庭の不条理

――これはもう、団塊の世代だけを軸に考えることではないとは思いますが、少なくともそういう下半身というか、セクシュアリティと関係性の領域についてはほんとにめまいするくらいの格差、ってのが、眼前の事実として横たわってますね。一律に「恋愛」とか「結婚」とか「家族」とか、って既存のターミノロジーに押し込めようとするばかりで、どだいムリがありすぎかと。



 たとえば、異性間での「会話」の作法、なんてのも、実はそんなに確立されてないんですよね、わがニッポンの民俗社会においては。今現在どうなっているか、ってのはそれぞれ経験的にものが言えるにしても、ならばその前は、親の世代は、さらにじいちゃんばあちゃんの頃は、となるともう皆目手がかりがない。そのまま「歴史」とか語ろうとするから、そりゃヘンなものになりますよ。

 親たちの世代を見てみると、たとえば私の両親は結構会話をしていたと思うけど、でも、晩年はどうも話が噛み合っていなかったなあ。父親はビジネスマンで高等教育を受け、海外生活も経験していたけど、母親は田舎の女学校の出で、当時としては一応高学歴者だけど、でも実際は裁縫や料理しか習っていないわけだからさ。それでも、子供の頃は一応会話があったようだった。

 でも、近所の家や友人の両親には、それさえなかったと思うよ。で、そういう夫婦ってのはどうなのかな、と、こっちは成長するにつれて考える。やっぱり会話をする、できる相棒が欲しい。アメリカ文学でいうベターハーフが欲しい、となってくる。

――ああ、ありましたね、そのもの言い。一時期、結構もてはやされてた。「ベターハーフ」。バタ臭いところがまたカッコよかったんですかね。

 でもねえ、自分が三十歳なり四十歳になると、愛の不条理というか家庭の不条理というか、そういうものでもないんだ、ってことがうすうすわかってくるんだよなあ、これが。 ゆきつく先は、それこそ小津映画の世界だよ、『東京物語』の笠智衆東山千栄子のように庭を見ながらボーッとして、「母さん、あれだねえ」、「あれですね」、なんて世界がわかってくるんだろうな。歳をとるってことは、つまりそういうことだったんだな。そこで「母さん、あれってなんだよ」なんて議論ふっかけて、喧嘩したところではじまらないわけでさ。それよりは夫婦で「あれだね」、「ええ、あれね」とか言いながら、でも、その「あれ」が何であるのかは空気のように二人でわかってしまう、そういうのがいい、ってのはわかるんだけど、それは六、七十歳になっての話だ。若い頃は「あれね」じゃ駄目で、「テポドンについてどう思うか」と問えば、「私はこうこう、こう思うんだけど、でも、やっぱり日本は平和じゃなきゃいけない」とか返ってくる、そういうのを求めちゃうんだよねえ。二十歳の頃はそういう会話の方がしたい、ってのがあったしね。


――少なくともインテリ、およびインテリ予備軍にくくられるような自意識にとっては、ってことでしょうけどね。また、オトコの側からしたら、って限定も当然つくんでしょうが。そういう社会や時事問題について異性、この場合はオンナと、ってことですが、語り合うというのが何かグッときた、って感覚もまた、やっぱり「戦後」の言語空間に規定されてた部分は大きいんでしょうね。「話し合い」とか「議論」とかってのを無条件にいいものとするような。

 そう思っているから、クラス討論の場でも、きちんと自分の意見を言う子を見ているんだよ。しかしそこでも男は二つを求める。ただ持論をキャンキャン言うだけじゃなくて、グッとくるかどうかはやっぱりその言い方が問題なんだよ。言ってることが正しけりゃいいってもんじゃない。何か自分の意見を言う時に、「今までの議論を聞いていましたが」というような前フリの付く人と、そうじゃなくてただ最初からワァーっとまくし立てる人の違いってのがあるわけだよ。


――「今までの議論を聞いていましたが、私はちょっと、それらとは立場が違うと思うんです」といったマクラがあると、あ、オンナらしくていいな、と、評価が二重丸になったりしたわけですね。

 そうそう。まあ、いずれにしても六○年代、男女関係の在り方は、もう劇的に変わったと思うね。だいたいさ、婚前交渉、是か非か、なんていう議論は、今の学生にとっちゃもうあり得ない話だろ?

――ほとんどもう異国のハナシでしょうね(苦笑) そもそも「婚前交渉」ってもの言い自体もう、知らないんじゃないですか。あれって訳語なのかな、と前々から思ってるんですが。

 子供の頃、こっそり母親の「主婦の友」を盗み読むと、人生相談の欄に「私は処女じゃありませんが、それを夫に言うべきか言わざるべきか」という、ものすごく真剣な悩みが書かれていた。あるいは、夫がふとしたことで妻が処女でなかったことを知ってしまい、懊悩するわけだ。それは人生の重大な事件で、当時、世間一般では、婚前交渉、是、という人は半分以下だったから、それはもちろんけしからぬ事態だったわけだ。それが今や「嫁が実は、熟女風俗で働いているのがわかったけど、どうしましょう、息子に知らせるべきでしょうか」という姑の苦悩が問題になる時代だよ。


――またそういう具体的な(笑) 呉智英さんから、風俗の話題が出るとは思いませんでした。

 いや、名古屋の親しい友人でそっち系が好きなのがいて、風俗方面のそういう情報を私に教えてくれるんだ。最近はこういうのが流行りだとか、教えられることが多々あり、師と仰いでいる(笑)。その彼が言うことを聞いていると、セックス産業は昔は単純に売春だけで、その後はトルコでまだシンプルだったけど、最近は非常に微妙な、それこそ利潤の追求のためにさまざまな差異まで考えて、ニッチ(すき間)を開拓しているみたいじゃないか。

――ヘルスに代表されるような、いわゆるライト風俗系、の進展ですか。アメリカなんかだと、売春は言うに及ばず、実際にカラダに触れたり「抜き」をさせたり、っていうのが規制が厳しい分なのか、ポルノがそういうありとあらゆる欲望に対応するような微細な分類体系になってるところがありますが、ニッポンはむしろそういうライト風俗系がそういう多様化してきてるのかも知れませんね。



 さっきも少し出てきた、いわゆる母子家庭の問題にも関わりますけど、女手ひとつで子供を育てなければならなくなったオンナにとって、少し前まではそれこそ託児所つきの水商売、それもキャバレーとかアルサロ系か、でなきゃ住み込みの工員やパチンコ屋、でなきゃゴルフのキャディーや保険の外交員くらいしか選択肢がなかったところに、善し悪しは別にして、そういう風俗系の「仕事」って選択肢が一気に広がった、っていうのはあるでしょうね。以前はソープでも三十代はもう論外、って感じだったのが、今や三十代はもちろん四十代でもそれらライト系風俗ならば十分に市場が成り立って需要があるわけで。もちろんそれにはそういう需要を支えるオトコの側の変貌、ってのもあるんですが。

 さらにまた、その彼が言うには、インターネットや携帯電話の交際サイトが充実して、そこにアクセスすればさまざまな形のメニューが出てくるそうじゃないか。そうすると、素人のセックスに対するハードルが低くなっているから、いかにも玄人という感じでなく、それどころか本当の素人が売春要員になっている、と。「本当に素人の小学校の先生とか、そこの県庁に勤めていますという女がやっている。おまえが思っているような、けばけばしいお姉ちゃんとは全然違うんだよ」と親切に教えてくれるわけだよ。おまえ、それは騙されているんじゃないか、とも思ったんだが、どうもそうでもないらしい。

 彼や私が二十代、三十代の頃は普通に歓楽街で、お姉さんたちとしかるべき交渉ののち、こういうサービスならいくら、このサービスは追加料金と、完全に計量可能な定価のある、いわば市場原理の支配する世界だったわけで、それは言わば床屋で頭洗っていくら、髪切っていくらというのと一緒だった。ところが、ある時期から一気に素人が参入してきて、しかもかつてのヤクザやその筋みたいにそれを統括する組織がもう存在しないので、めいめい個人でネットに登録しておくとか、交際求む、とかのサイトにアクセスして知りあい、どこかで会って、懇ろになって、となってるから、これはもう適正価格の介入する余地がないんだそうだ。

――いわゆる「出会い系」風俗の問題、ですね。まさに構造改革と自由化が勝手に起ってしまったようなもんで、問題になり始めたのはおそらく、80年代末から90年代始めにかけての例の「ブルセラ」が表面化し始めたあたりだと思います。主体は当時のティーンだったわけですが、彼女らの性についての意識がそれまでとひとつ大きく変わっていることが確かにあって、それが「ブルセラ」といった社会風俗的な話題にこと寄せて過剰に語られたというところでしょうが、逆算すると彼女たちは70年代半ばから後半くらいに生まれた世代になるわけですよ。今やそれが三十代になってて、まさにその「熟女」系風俗のブレイクスルーを支えている人材になってるんだと思いますし、もう少し広げれば昨今言われる「負け犬」問題まで含めていいと思いますね。

 携帯とネットの普及によって、「個人」にますますドライブがかかってきているのは間違いない。それまでは「個人」はなんだかんだ言ってもひ弱な存在で、横の関係がなければ社会的に行動できなかったんだけど、今はもういきなり大胆な行動が出来てしまう。バーチャル全能感といったところかも知れないけどね。まあ、よく言われるように、素人、玄人の違いがなくなってきている、ということなんだろうな。

「団塊の世代」と「全共闘」⑳ ――「団塊」の異性観、セックス観

◎個の幸福、と、共同体の承認

――話を同棲から恋愛、といったあたりに少し戻します。


 それまで当たり前だったような、所属する共同体によって公認される「恋愛」から離脱した、ある種純化されたモデルとしての恋愛が具体的な形になったら、当時の「同棲」になった、って感じの理解でいいんですかね。

 大枠じゃそんな感じだろうね。そういうのは、戦後の風潮と、結婚という両者の結びつきの担保がなくても自分たちはやっていけるんだ、という、言うならば「個」としての互いの結びつきを最優先させたスタイルだよね。そういう同棲というのももう世間に白い目で見られることもなくなった、誰もがやっていることだ、と既成事実化させ、しかも若干の反社会的なポーズもまだあったからそれがスパイスにもなって、その方が本来の人間性に合った形なんだ、という方向になっていった。もちろん、そんなわけはないんだけど、でも、当時はみんなそういう風に煽られて人生を誤っていったんだよな。

――「同棲」がどういう風に当時、語られていたのか、ということだけでも、すでに民俗学的な歴史の範疇ですねえ。もちろん「恋愛」まで広げて考えても言うまでもないんですけど。

 でも、これは何も左翼や共産党に限らず、ほかのどのセクトでも生じる問題なんだよ。たとえば、党員になるということは組織に忠誠を誓うわけだから、恋愛相手についても同じで、そして当時の共産党の場合、それは結婚を意味するんだけど、その相手は党の公認がなければならなかったんだから。

 実際、明確に何かある目的を遂行するための組織(警察や自衛隊など)の中では、内輪での結婚が多いよね。それは当然で、たとえば警察官の相手として、ヤクザの情婦や左翼系の学生運動崩れの女性が来ては、職務上の機密を守る上で差し障りになるわけだよ。そんな女性に、将来署長や長官になる幹部候補生をたらしこまれてはまずい。それは、教員の世界にもそういうところがあるよね。

 歴史的に言えば、そういうホモ・ソーシャルという世界があった、ってことだよ。つまり、それらは社会の執行者である男の集団であった、と。軍隊、共産党労働組合など、どこも基本構造は同じで、そこに女が介入する余地はなかった。女は男にとっては身の回りの世話をしてくれれば十分で、それ以外の役割はなかったんだ。ところが社会が変わり、男と女のカップルが社会の単位になることで何かが開ける、という考え方がでてきたわけだ、で、そういう考え方に対しては、吉本隆明が思想的に大きな基盤を与えたんだ。

――はあ、吉本隆明が? 例の『共同幻想論』ですか?

 そう。吉本は、個人における思想としての文学なり芸術なりを「自己幻想」、男女や家族の間における幻想を「対幻想」と名付け、そこに本来の意味での「国家幻想」(共同幻想)を加えて、三つのレベルに分けた。そして「君たちは、国家は幻想にすぎないということを知っているか」と、読者に問いかけたわけだ。


 でも、そんなことは、何も吉本に教えられるまでもないわけでさ。「国家は共同幻想として成立しているから、懐疑の目を向けなければならない」といったことは、程度の差こそあれ、マルクスなど多くの本にすでに書いてある。たとえば、国家信者の森鴎外でさえ、『かのように(小説)』で、国家成り立ちの神話を現実であるかのように扱わなければ歴史学は国体と矛盾してしまう、と言っているわけで、ここで鴎外は「国家は、実体ではなく共同幻想の上に成り立っている」と言っているに等しい。別に吉本が偉かったわけでもないんだよ。

 実は問題は、二番目の「対幻想」という概念にある。家族、つまり男と女のペアに関わってくる部分だ。

 世間では当時、吉本の「国家は共同幻想にすぎない」という社会的な部分を評価していたんだ。ところが、学生はそうはとらなかった。じゃあ、学生は『共同幻想論』をどう読んだか。二番目の「対幻想」に力点を置いて、実はこれにイカレたんだよ。つまり、わかりやすく言えば、当時、党派の運動をしている学生に吉本は、「おれは、対幻想に密着して生きているんだ」という、恋愛の言い訳を与えたわけだ。セックスしようが同棲しようが、おれにとってはこれが重要なのだ、という論理だったから、それに後押しされたように学生の間で急速に同棲が流行り出した。当時、男女の恋愛、交際、結婚の形態が急速に変わり出したのには、案外そういう要素も絡んでいるんだよ。


――う~ん、目からウロコというか、前々からうすうす感じていた違和感が、呉智英さんにここではっきり正当化されたような気が(笑)。

 これは最近、本人も言っていたけど、要するに、あの本『共同幻想論』はそんなにご大層に読むもんじゃない、ってことだよ。対幻想とは言っても、こういう概念は昔からあったもんだしね。それこそ忠臣蔵の時だってあった。仇討ちに行かなきゃいけない、だけど行けない。女や家族のことを考えて、葛藤した人は幾らでもいたしさ。


――歌舞伎の仮名手本忠臣蔵だと、早野勘平ですね。お軽とデートしててお家の一大事に間に合わなくて、腹を切ろうとしたけど止められて、で、そのまま駆け落ちしちゃったという。

 若者が、社会的なキーワードで自分の行動を律するという面は、いつの時代にもあるんだよ。当時なら風潮としての「反体制」であり、一方では「アメリカ」「ヒッピー文化」が生活の中に入ってきていた。同時に地域共同体がすごい勢いで崩壊し、日本全体が一つの「公」の世界になっていく。その「公」と対立するものとしての「個」があり、「個」である学生が、好きな女を求める方法も変わってきて、そこに、彼を支えるキーワードとして吉本隆明の「対幻想」が現れた。付け加えれば、ここにはアメリカ型の「ラブ・アンド・ピース」に繋がる発想もあった。まあ、そういう同時代の複合的な要因の中で、当時の学生は、同棲をしたり、性の自由、フリーセックスへと移っていったってことだと思うよ。


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◎婚前交渉、是か非か論争

――当時、呉智英さんの学生時代の恋愛観、異性観って、どんな感じだったんですか?

 私が大学に入った頃は、まだ、女は処女じゃないと結婚しにくかったな。当時、若者の間、若者雑誌で議論されていたのは「セックスはしていいかどうか」という大問題だったんだ。で、ここで言うセックスとは、婚前交渉(売春はともかくとして)のことだよ。

――「婚前交渉、是か非か」ですか。今となってはもう、古色蒼然ですよねえ。セックスそのものに対しても、よくないこと、って感じがまだあったわけですか?

 いや、セックスそのものが悪である、という考えはさすがにもうそれほどなかったけど、ただ、それが婚前でいいのかどうか、是か非か、ということだったんだな。その場合も、実は「愛する人ならいいのか」、というのが問題になってくるわけだ。ということは、恋愛するとはどういうことか、といえば、その相手と結婚することだ、になる。だったら、そんな結婚式を境に性的な交渉が許可されるのでなくて、もっと前でもいいんじゃない? ということになった。まあ、今考えりゃ、単なるセックス前倒し論なんだけどね(苦笑)

  

――セックスしたい、する、ということを正当化するのにも、それだけいろいろと手続きが必要だった、と。

 たとえば、今もはっきり覚えているんだけど、天才・東海林さだおのマンガで、若い男の教師が女子高に赴任し、女子高生にからかわれる。ホームルームのテーマをどうしようか、と言うと、女の子に「婚前交渉、是か非か、やりましょう」と言われる。すると、その先生は頭が混乱してワーっとなる、という話なんだけどさ。

――あああ、なんか絵ヅラまでそのまま思い浮かびます(笑)。東海林さんのキャラだと、とにかくまわりに汗飛び散らせて「ワーッ」と叫びながら錯乱してるんですよね、きっと。

 そうそう。でも、それくらい「婚前交渉」が若者たちの間で議論された時代だったってことだよ。もっとも、それはさっきも言ったように、基本的にセックスを前倒しにしていいか、というレベルの話であって、相手は誰でもいい、というフリーセックスは、当時まだ考えられないことだったな。

 それから数年後に団塊世代結婚適齢期にさしかかって、ならば相手をどうするか、と悩んで、対幻想がどうしたの、同棲がどうしたの、と苦悩し、すったもんだを経てようやく結婚し始めて、そこに出てきたのがニューファミリーだった。ちょうど、石油ショックの少し後くらいで、具体的には一九七二、三年。団塊の世代は二十五、六歳。つまり、結局女性の方も、親兄弟に対する適齢期二十五歳という意識の壁があったってことなんだと思うね。


 それは基本的に子供が産めるかどうかということで、出産からの逆算になる。当時は二十八歳頃になるとすでに高齢出産の域だったんだよ。今では四十過ぎても子供が産めるし、それ自体抵抗が少なくなってる。でも、当時は、シャンソン歌手の戸川昌子が四十二歳で産んで大騒ぎになったんだよ。でも、時は下り、林真理子が四十四歳で子どもを産む。そんな具合に後ろ倒しに相当ゆるまってきている。そこでは単純に医学という科学技術の進歩が、人間のライフスタイルを規定していることになるんだけどね。なんだ産めるんだ、だったら別に適齢期なんて関係ないよね、というわけだ。


――いわゆる「未婚の母」ってのは、まだそんなにいなかったんでしょうからね。いたとしても、少なくとも日陰者だったわけで。

 おおっぴらには語られない存在ではあったよね。ただ、少数だけど、六○年代の終わり頃から、ボツボツ出始めてはいた。それまで私たちの子供時分、学生時代まではそんなのは全部「私生児」と呼ばれてたんだ。さらに母親の時代だともっと違う言葉で呼んでたと思う。とにかく、昔は奉公にいった先でご主人か奉公人同士かはともかく、一人で出ていったのに二人になって帰ってきた、ってのがよくあったって言うし、恋愛して結婚して子どもを産むというのとはまた違う。それこそ、女中がお手付きになった、って世界だ。

――民俗学方面だと、赤松啓介翁の世界ですね。翁の「研究」は、明治から大正にかけての町場の商家が舞台ですが、それこそ近世を引きずった「近代」初期の都市常民たちの性生活、ってやつで。


 要するにそういうのは婚外子、ってことだけどさ。最初の頃は芸能人とか、いわゆるカタギでない人に多かったけど、でもそのうち、経済的に一人でも子供を育てられる女性が出てきた。最近じゃ歌人俵万智なんか、一種のタレント活動をしながら子供を育てることが経済的にもできているしね。女にも稼ぐ余地がでてきて、こぶ付きでも生きていけるようになったんだよ。そういう女が実体として数が増え、また、それ以上にそんな境遇を自らカミングアウトしても世間的に問題がなくなった。食える以上誰にも文句はいわせない、ってことだよ。むしろ普通の主婦たちから、うちよりいい暮しをしている、と羨ましがられるケースすらあるわけでさ。

 昔、子供の頃だから戦後数年目のことだけど、たまたま近所の保育園に通っていて、多分そこは県立か市立の施設で、裏に母子寮があった。隣には大きなクリーニング屋があって、母親たちはそこで仕事をし、子供たちは寮と保育園を行き来していたんだよ。当時はこっちは五、六歳でよくわからなかったけど、一種の授産所のようなものだね。そこでクリーニングの仕事を与えられて、子育てをしていたんだろう。推測だけど、おそらく戦争未亡人だったんじゃないかな。当時はまだ時代的に相当数いたはずだしね。

「団塊の世代」と「全共闘」⑲ ――「同棲」の破壊力、と「うた」

 

● 悩み深き高校時代の団塊

◎ 「同棲」の破壊力

――話の流れがそういうことになってるんで尋ねちゃいますが、呉智英さんのヰタ・セクスアリスはどんなものだったんでしょうか。

 高校は男子校だったからさ、女のことはほとんどわからなかったなあ。全く交流がなかったわけじゃないけれど、提携校や、近所の女子高の文化祭に行ったり、共同の研究会をサークルでするくらい。一対一で深い関係になるのもいたけど、そんなのは例外で少なかった。

 そういう意味じゃ団塊の、とくに初期世代はわりに純真だったかもしれない。六○年代後半から七○年にかけてはフォークソング・ブームがあって、男女を対等に恋愛の対象としてみるようになったし、同棲が流行ったのも同じ時期だよね。それらサブカルチュアは一連の地平、土壌の上に成り立っていたわけだ。上村一夫の漫画『同棲時代』が七二、三年、かぐや姫の『神田川』が七三年。でも、それらはその五年前だと明らかにネガティブ、否定されるべきものだったんだよ。


――ふしだら、って感じですかね。同棲は。

 「ふしだら」というよりも、当時同棲するとしたら、その相手がいわゆる「お水系」だったりしたんだよ。っていうか、そういうクロウト相手の想定しか普通はあり得なかった。設定としては、男は地方から東京の大学に来ている。この場合たいてい慶應なんだけど(笑)、そこにたまたま飲み屋の女で色っぽいのがいて、男はそういうのは初めてだったからウブで、いいように転がされて親にも言えずに同棲しちゃう、というのが、いちばんありがちなケースだ。実際、私より二年上の早稲田の学生で岐阜の良家の坊ちゃんがいてね、彼のうちに行くと奥さんが料理を作ってくれて、夕方になると奥さんは店にご出勤、というのがあったよ。


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――うわあ、それはまたベタな……なんか、かつての日本映画か、劇画の設定そのままのような。

 いや、そう言うけど、当時はそういうのが実際にあったんだよ、これが。たとえば、地方の坊ちゃんが、東京の大学を受験するにあたり、東大、慶應、早稲田と受けて、ようよう受かったと思ったら、都会の女に絡めとられる、といったケースだな。で、高校の頃は、みんなそういうのに憧れたものなんだ。

 当時流行っていた歌にが平岡精二作の「爪」(歌・ペギー葉山)ってのがあって、「二人暮したアパートを/一人一人で出てゆくの/すんだことなの今はもう/とてもきれいな夢なのよ」。最後に、女は年上らしく世慣れた感じで、あなたが嫌いになった訳ではないけれど、親や世間のことなどを鑑みて「もう一緒にはいられない。私が最後にあなたにいうのは、悪い癖、爪を噛むのはよくないわ」、と。この曲はねえ、当時ものすごくモダンに聞こえたものだったなあ。


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――うはははははは……あ、いや、笑っちゃいけない。

 とにかく、こっちは地方の高校生だったから、何年かしたら東京へ行って、そういう学生生活を真似したくてたまらなかった。実に衝撃的だったね。まず、同棲をしている、都会的である、しかもちょうど流行り出した赤坂、六本木界隈、その盛り場の少し向こうに文化住宅、今でいうマンションがあって、そこにいっしょに住んでいるわけだ。女が少し年上で仕事を持っている。ものがわかっていて、しゃれてもいる。仕事は水商売のクロウトかもしれないけど、根は純だ、と。それで、男の方は実はどこか甘えっ子的なところがある。だから爪を噛む。しかしお姉さんから見ると「あんた、その癖やめて、いいとこの坊ちゃんなんだから、田舎に帰ってお父さんの跡をついで、県会議員でもやりなさい」となる。なんか、そういうのが当時のフランス映画のストーリーにもありそうでさ、曲がダブって聞こえたんだよ。

――なるほど。その少し後だと、「また逢う日まで」になって、さらにくだると沢田研二の「勝手にしやがれ」みたいにそういう主人公がそのまま学生、って印象は拡散してきますね。続いてもうキャンディーズの「ほほえみがえし」になって主体が女の側になって、80年代に入るともう、「そして僕は途方にくれる」、と(笑) なにしろ男の側が置いてきぼり食って途方にくれてるという始末ですから。昔ながらのもの言いだとコキュとか寝取られ男ってのにつながってくんでしょうけど、そういう「去ってゆくオンナ」から放り出された男の側の心象みたいなものの系譜、ってあると思うんですよ。地味だけど、山下達郎の「ターナーの汽灌車」なども同類かなあ。とにかく、そういう具合に放置される男の側に根深い「おんなぎらい」というか、それまでと違ってひとめぐりしたところに突き放した視線と感覚が宿ってくる、っていうのがあるかも知れないというのは、ずっと思ってます。



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 でも、その大学生ってことに当時は、そういう性的な解放みたいな意味も実は背後に宿っていたってところは、案外これまで見過ごされてませんか?

 まあ、十五、六の時は、「二十歳になったらそういう大学生をやるぜ、おれはやるぜ」と息巻いてたもんだけど、二十歳も過ぎると、これはちょっとやり過ぎかな、学費出してくれている親に対してもまずいかな、という考えになる。それに、この歌に出てくる女性は明らかに「お水」だな、というのもわかるようになる。ところがその頃同時に、しかし「お水」ではないものとして出てきたのが、これが同棲だったわけだ。

――ああ、「恋愛」幻想がまたぐっとせり出してくるんですね、シロウト相手の「同棲」になると。

 そう。それまで同棲といえば、ネガティブなものと決まってたんだよ。都会の軽薄才士が、お水系の女と若気の至りでアバンチュールをする、というものだった。男はシロウトで相手の女はクロウト、って設定だな。ところがそれから五、六年たつと、シロウト同士の「同棲」が新しい形で始まる。それこそ、あの「神田川」や「赤ちょうちん」の世界だよ。早稲田の近くなら神田川沿いの周辺。地方出身の学生同士や、高卒でもデザイン専門学校を出てイラストレーターを目指しているような若者が、知り合ってあちこちに部屋を借りる。貧しいけれど、寒い中二人で銭湯へ行くのがうれしい、不安なのは将来ではなく、あなたの優しさでした、というような暮らしを本気でしていたわけだ。


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――本気で、ってあたりが今さらながらにすごいな、と思うんですが、でも、言われてみれば、何となくそういう雰囲気の残り香くらいはまだ、あたしなんかが学生やってた頃もありましたね。もう少し後になるともう、下宿ってのはそれ自体二十四時間ラブホテル、みたいな認識になるんですが。いや、「下宿」じゃないな、すでにもう。「下宿」はまだホモソーシャルな空間が前提になってたわけで、考えたら「下宿」ってもの言いが後退してゆくのと、そういう同棲から発していったような性的なドロドロもひっくるめた空間になってゆくのとは重なってるような気がします。


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 フォークというとみんな「神田川」を言うけど、あれは七○年代の始めだな。でも、多くの人が勘違いしているんだが、最初のフォークソングというのはそれより少し前の六六年、マイク眞木(フォーク歌手・俳優/一九四四│)の「バラが咲いた」だったんだよ。あれをまず聞いたときに、私はたまげたんだけどね。何が、って、何よりもまずあの内容のなさ(笑)だってそうだろ、バーラが咲いた、バーラが咲いた、真っ赤なバーラーがー、って、だからどうなんだ、って。さみしかった僕の心にバ-ラが咲いた-、って、おまえたかがそんなことでそんなにうれしいのか、と(思わず力説)。


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――ほとんどもう、人生幸朗師匠みたいなことに(苦笑)

 だから、あまりのバカバカしさにそれ以来、フォーク自体に興味がなくなって、少し後に評判になった「チューリップのアップリケ」なんかも聴かなかったな。後で聴いてみたら、あれは当たり前だけど、岡林信康(フォーク歌手/一九四六│)の一種社会的な主張で、要するに、部落民の父ちゃんが靴をトントン作っている描写があった、ってことがすごかったってことなんだけど、それはそれでまあ、当時、意味はあったんだろうとは思う。でも、私は別に感動しなかったな。


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――それはまた、どういう理由で?

 そんなもの、ならば「がんばろう」はどうなる、共産党のやった歌声運動はどうなんだ、と、そのへんが深く疑問だったんだよ、私は。そういう意味じゃフォークソングなんかよりも歌声運動の方をむしろ評価したいんだな。だって、歌声運動によって、一般の政治意識が目覚めた、その目覚めたことの善悪は別にして、とにかく政治的な有効力は明らかにフォークソングなんかよりもそっちにあったわけだからさ。


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 基地反対運動にしても、当時は住民運動なんかまだなかったから、みんな荒木栄(作曲家・歌手/一九二四│一九六二)なんかが作った歌を覚えて歌って、そのことによって身の回りにある矛盾や問題に気づいて、それが結果として政治運動になっていったわけだからさ。「沖縄を返せ」で、本当に何十万、何百万の人が動いたんだよ。「がんばろう」、「沖縄を返せ」、「おれたちは太陽」とか、当時そうやって歌われた歌の多くが荒木の作曲によるもので、音楽の素養のない普通の人たちがあの手の歌から実際に歌うようになる、オクターブの音域の幅があるからそれに合わせて親しみやすい力強いメロディーだし、また歌詞もわかりやすいものだったしね。決してあなどっちゃいけない。それに対して、あの「バラが咲いた」とか「チューリップのアップリケ」を歌っても、どこに政治運動があり、何をプロテストしたのか、ということだよ。



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――まあ、そのへんは今の若い読者が100%真に受けるかも知れないんで、呉智英さん一流のギャグ、というか諧謔という意味も含めて、少し補助線引っ張っときますが。


 でも、真面目な話、あたしでさえそう思いますよ。うたごえ運動と言えば、そりゃ関鑑子ですが、学校や職場でサークル活動の一環としてコーラスだの合唱だのを革命運動を組織するツールとして、戦後のあるタイミングで使った日共ってのは、そりゃ政治としてたいしたものだったな、と。なにしろ、未だにやってるんですよ。日本のうたごえ全国協議会なんてのがあって、講習会やって全国まわったり。なんかこのへんは民俗学が全国組織つくっていったやり口と微妙に重なったりして、個人的に鬱なんですが。


 歌って踊って恋をして、革命もやって、でも婚前交渉はなし、というのが理想の「進歩的」青少年像、だったわけじゃないですか。少なくとも代々木共産党というか、民青的には。あたしらの頃にはもうそういう民青的なるもの自体、ギャグにしかならなくなってましたけど、でも考えたらそういう理想像って「戦後」の価値観にしっかり裏づけられたものでもありますよね。それこそ「寅さん」のさくら夫婦(笑) 


 

 まあ、歌声運動自体は戦後直後からあったわけだ。民青の前身だった青共に中央合唱団を設立し、まさにさっき大月君が言った関鑑子(歌声運動創始者/一九××│)が指導者となって運動を広めた。

  

ただ、これも案外混同されるんだけど、歌声喫茶共産党の歌声運動は、ダブりながらも一応別の問題なんだよね。歌声喫茶は市民生活の中で楽しめるという場ということで、東京では、新宿のカチューシャ、灯(ともしび)、それに有名などん底なんかがあって、そこは文化人と身近に接することができる場でもあった。どん底の歌集などを改めて見ると、そこにメッセージが出ていて、たとえば、三島由紀夫なんかもメッセージを寄せているんだよ。あの右翼で切腹した三島由紀夫が歌声運動の「がんばろう」とか「母さんの歌」とか「沖縄を返せ」とかに手を貸している、なんてのは後の三島からは考えられないかも知れないけど、でも、実際に彼はその歌集に、おれの青春はどうのとか、大真面目で書いてるわけだ。

 

――ああ、それはおそらく舞台、演劇の関係で入ってきたんじゃないですか。

 そうだと思う。それと、今では別の意味で有名な三輪明宏、当時は丸山明宏だけど、彼もそういう歌集にメッセージを載せているんだよ。当時、あそこで無茶をやるのは相当大変だったろうと思うけど、とにかく共産党の歌声運動の市民版である歌声喫茶の中で、丸山明宏や三島などまでもいわば党派を越えてメッセージを載せるような、そういうところだったってことだ。

  

――確かに「歌う」ということ自体の意味、ってのがあったんでしょうね。それも「みんな」で「一緒」に。そう考えれば、少し後の新宿フォークゲリラなんかにも、そういう「みんな」で「歌う」ことの共同性みたいなものは揺曳してたんじゃないですかね。


 基本的に日本人には、集団で、みんなで歌うという習慣はなかったんだよね。歌は個人空間で歌うものだった。当然、和音、ハーモニー(和声)という発想もない。明治になって、西洋人が初めて合唱を持ち込むんだけど、それは軍隊とか学校で歌うというのがせいぜいだった。それまでの歌舞音曲ってのは、たとえば座敷で芸者の三味線に合わせて端唄を歌うとか、あるいは櫓の上で誰かが音頭を取ってドンドコやると、「ああ、どっこい」と間の手を入れながら歌って、その周りを回る、というものだったりしたわけだ。日本以外のアジアやアフリカなんかへ行くと、いまだにそういうのがあって、やはり太鼓を打ったりマリンバを叩くのがいて、周りがみんなでワーワー歌う。つまりはこれ、盆踊りじゃないか。

 日本には、鑑賞する音楽性をもちながらも、声を合わせて集団で歌う習慣はなくて、近代以後、西洋から入ってきてようやく普及したわけだ。西洋音楽の洗礼を受け、軍隊で「万朶乃桜」を歌い、学校では校歌を歌い、文部省唱歌を歌うようになったわけだけど、でも、戦前はせいぜいそこまでだった。それが学校の授業や軍隊の演習といった公的な空間ではなく、個人が自分の心を楽しませるために、しかも集団で歌うこともある、という経験を組織したのが、戦後に起こった歌声運動だったんだと思うよ。

――今じゃPTAのおばさんたちがコーラスのサークルで頑張ってますけどね。あれも学校や職場のサークル活動の一環として、当たり前のように「コーラス」「合唱」が導入されていった来歴があるわけで。そういう風に考えてゆくと、あのデモなんてのもある種の身体的表現として見てゆくことができますよね。

 そこで当時、公的なものとして、デモ行進があったわけだよ。デモで歌った歌をそのまま個人の空間の呑み屋に来て、みんなで肩を組んで歌っていいんだ、となってくる。それが六○年代の後半になるとさらに変わってきて、それぞれ自分で作詞作曲をするようになってきた。それは、それまでの近代百年の音楽教育の蓄積があってのことなんだけどね。というのは、だいたい六○年までは、何か自分の中のエモーションを歌にするときには、替え歌というものしかなかったんだよ。だからたとえば、旧制一高の寮歌「アムール川の流血」が、幼年学校の「万朶乃桜(「歩兵の本領」)」になり、今度は「聞け、万国の労働者」という労働歌の替え歌になってくる。メロディというか節は同じで歌詞が変わるだけだよ。つまり、学校とか軍隊で習った歌にそれぞれ違う言葉を載せて、替え歌という形で自分たちの心情を吐露するしかなかった。なにしろほかに音源を知らないんだからさ。五線譜は読めないし、かといって黒人奴隷から始まったジャズのようなものを作る能力もない、と。あるとしたら、三味線の何とか節とか、それこそ浪花節浪曲のたぐいでしかないわけだ。


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――あ、浪曲をそういう風にバカにされるのにはちょっと異議をさしはさみますが(笑) 浪曲ってのはニッポンの近代における最初の「個」的な大衆音楽、とまで言えなくても表現手段ではあったんですよ。三味線が伴奏についた語りもの、ですが。でも、三味線とのコラボレーションで「語る」ことで近代に直面する気分や感覚を期せずして表現する形式を発見していった、というのが、あたしの浪曲浪花節理解の大枠です。「うなる」ことで不特定多数の、具体的には千人くらいの規模までの「聴衆」に向かって表現する「ワタシ」=「個」、ってのがまずもって快楽だったわけで、だからこそレコード産業の基礎も奈良丸と雲右衛門で作られた、と。それくらい「近代」を生きる新たな勃興してきた常民=流民も含めたプロレタリアート、の生活感覚にどこかでシンクロするものがあったんですよ。

  

 ところが六○年代になると、戦後音楽教育が二十年蓄積されて、まあ、音符くらいは読めるやつが結構混じるようになる。それから、豊かな家庭の子供は、ピアノを買えないまでもエレクトーンとかオルガンを買ってもらって、そうじゃなくてもハーモニカとか縦笛など学校の授業でやるものだから、簡単な音楽はみんなおよそわかるようになった。それこそ「宮田ハーモニカ」がハーモニカを広めてくれたおかげで、私は今でも音符なんかろくに読めないけど、普通にハーモニカをやればだいたい自分の好きな曲が適当に吹けるぐらい、誰でも吹けたわけだ。


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――宮田東峰、ですね。ミヤタハーモニカ。大正時代に盛んになった楽器ですが、本格的に普及したのはやっぱり昭和に入ってからですかね。小沢昭一さんじゃないですが、「ハーモニカが欲しかったんだよお~♪」というのは、当時の街育ちの男の子のある部分、共通感覚だったのかな、と。

   



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 これがもう少し高度になってくると、今度はギターになる。ギターで弾いて、自分が歌う。ハーモニカは小さいから、携帯に便利なんだけどね。ギターはやはり戦後の社会が安定してきて余裕が出来てきたということだ。ウエスタンとかジャズとか、さらにロカビリーとかに広がっていく。

 当時の世相で、映画の中でも『ギターを持った渡り鳥』とか、風俗の一部にもなる。自民党の先日亡くなった代議士・原健三郎も実は渡り鳥シリーズの原作を書いてたんだよ。後に大臣や衆議院議長をやった保守の大物が、実はそういう深いところに絡んでいるんだよね。だから、日本の保守というのは単純に侮ってはいけないんだな。


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――弦楽器系の洋楽器は、戦前だとせいぜいマンドリンで、あれはでも古賀政男明治大学にこさえたマンドリン倶楽部に象徴されるように、やっぱりクラシック経由ですし、「大学生」のエリートカルチュアだったんだと思いますね。明治期の演歌師なんかにまで普及したバイオリンがいくらか大衆化・通俗化した弦楽器と言えるかもですが、範囲は限られてたし、昭和初期に編成されてくるいわゆる“ボーイズもの”の漫才でもギターは入ってきてますが、中心とは言いにくい。ワカナ・一郎にしても鍵盤系のアコーディオンですし、それ以前の無声映画の伴奏にしてもギターって選択肢はまずないですね。



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もともと軍楽隊の木管金管系の楽器を扱った連中がサーカスに流れて「ジンタ」になり、さらにはちんどん屋のあのアンサンブルにも派生してゆくわけですが、マーチングバンドはやっぱりブラスが中心なわけで、弦楽器ってのはそれこそ街の流しなんかが出てくるまではなかなかなじみはなかったんじゃないですかね。兵隊の慰問袋にハーモニカや明笛は結構つきものだったようですけど、さすがにギターを抱えた二等兵、ってのはわが帝国陸軍ではあり得ない(笑)『兵隊やくざ』のカツシンもギターつまびくより、やっぱり物干場で「紺屋高尾」のさわりをひと節うなってくれた方がグッとくるわけで。



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 考えたら、ひとりギターをポロンポロンやる青年、っていうイメージは、どうしても戦後の、それも都会の単身生活者、学生だけじゃなく場合によっては労働者だったりもするわけで。それだけ「個」にまつわる楽器、ってイメージがありますね。これがスチールギターが戦後になって入ってきて、ハワイアン経由ですけど、そこから電気ギターが国産で作られるようになる。最初にこさえたのが麻布・一の橋の建具屋で、だからブランドが「グヤトーン」だった、なんてのはこれはもうトリビアになりますが。でも、電気ギターは進駐軍が持ち込んで、おそらく基地まわりのバンドマン連中などから演芸関係に結構早くから広まってたようですね。河内音頭鉄砲光三郎藤井寺球場で電気ギター持ち出した、ってのはあれは確か昭和二十年代後半じゃなかったかな。ましてや、オンナが弦楽器を手にする、なんてのはかなり珍しかったんでしょうね。


 

 弦楽器と言っていいのかどうかわからないけど、いいうちのお嬢さんが琴を弾く、というのはあったよ。地方の旧家で。料理と裁縫と琴を習わせる、みたいな。事実、私より一歳上の従姉妹などはやってたよ。百姓の地主の娘は、琴とお茶、あと学歴は戦後だったら短大出、ってのがステイタスになってたりしたけどね。

 まあ、それはともかく、戦後の十数年に培われた、音符を読んで場合によっては自分がアレンジしたり一から音楽を作ったりもするという、そういう種類の素養は小・中学校の授業で、○○のような気持ちで音楽を作ってみましょうとか、台詞のない音楽を聞いて、「これについてどう感じましたか、感想を言いなさい」といった情操教育があったから、それによって音楽を作る才能も、まあ、それなりには芽生えた、ってことだと思う。それまで、私たちがちょうど全共闘とか反戦とかという一九六五、六年以前には、基本的に自分の感情、情緒を発露していく手段は、さっき言った替え歌しかなかったんだよ。荒木栄なり、一部の才能を持っている人たちが労働運動の中で歌を作って、それが浸透して大衆運動に変わってくる。そのうちに、自然発生的にギターを弾く年代が出てくる。前に言った「バラが咲いた」(一九六六)なんて、まさにその世代の典型なんだな。「これは自分で作った歌だ、ゼロから作った。だから、大人から与えられた歌じゃない!」と、それが彼らの主張だ。だから、内容もゼロなんだよ。

――おお、なるほど! そうつながってくるわけですね。わかりました(笑)「戦争を知らない子供たち」、みたいなもんですね。あの歌も小学校の頃に歌わされた記憶がありますが、子供心にも、だからどうした、みたいな感覚はどこかにありました。あれ、今このご時世に大声で歌え、って言われたらとてもじゃないけどできませんね。拷問ですよ。というか、見事な放置プレイ。



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 まあ、だから当時のフォークソングの類は、結局のところ、みんな「おれたちは若者だ」と言っているようにしか聞こえなかったな。私は、自分が若者であることが嫌で嫌で仕方がなかったから、若者ってことはそんなに偉くないだろう、おまえら何がうれしいんだよ、と、ほんとに不思議だったんだよ。

 だから今、「ちょい悪オヤジ」なんてのを見てても、そんな彼らが年を取り、中年になっても「若者だ」と言っているようで、老いるという自覚がないんだろうな、としか思わない。結局「ちょい悪オヤジ」というのは、昔は不良青年だった連中が、今は不良親父がいいんだ、と言い張っている主張に過ぎないんだよ。