「団塊の世代」と「全共闘」㉑ ――「愛」と「家庭」の不条理

◎愛の不条理、家庭の不条理

――これはもう、団塊の世代だけを軸に考えることではないとは思いますが、少なくともそういう下半身というか、セクシュアリティと関係性の領域についてはほんとにめまいするくらいの格差、ってのが、眼前の事実として横たわってますね。一律に「恋愛」とか「結婚」とか「家族」とか、って既存のターミノロジーに押し込めようとするばかりで、どだいムリがありすぎかと。



 たとえば、異性間での「会話」の作法、なんてのも、実はそんなに確立されてないんですよね、わがニッポンの民俗社会においては。今現在どうなっているか、ってのはそれぞれ経験的にものが言えるにしても、ならばその前は、親の世代は、さらにじいちゃんばあちゃんの頃は、となるともう皆目手がかりがない。そのまま「歴史」とか語ろうとするから、そりゃヘンなものになりますよ。

 親たちの世代を見てみると、たとえば私の両親は結構会話をしていたと思うけど、でも、晩年はどうも話が噛み合っていなかったなあ。父親はビジネスマンで高等教育を受け、海外生活も経験していたけど、母親は田舎の女学校の出で、当時としては一応高学歴者だけど、でも実際は裁縫や料理しか習っていないわけだからさ。それでも、子供の頃は一応会話があったようだった。

 でも、近所の家や友人の両親には、それさえなかったと思うよ。で、そういう夫婦ってのはどうなのかな、と、こっちは成長するにつれて考える。やっぱり会話をする、できる相棒が欲しい。アメリカ文学でいうベターハーフが欲しい、となってくる。

――ああ、ありましたね、そのもの言い。一時期、結構もてはやされてた。「ベターハーフ」。バタ臭いところがまたカッコよかったんですかね。

 でもねえ、自分が三十歳なり四十歳になると、愛の不条理というか家庭の不条理というか、そういうものでもないんだ、ってことがうすうすわかってくるんだよなあ、これが。 ゆきつく先は、それこそ小津映画の世界だよ、『東京物語』の笠智衆東山千栄子のように庭を見ながらボーッとして、「母さん、あれだねえ」、「あれですね」、なんて世界がわかってくるんだろうな。歳をとるってことは、つまりそういうことだったんだな。そこで「母さん、あれってなんだよ」なんて議論ふっかけて、喧嘩したところではじまらないわけでさ。それよりは夫婦で「あれだね」、「ええ、あれね」とか言いながら、でも、その「あれ」が何であるのかは空気のように二人でわかってしまう、そういうのがいい、ってのはわかるんだけど、それは六、七十歳になっての話だ。若い頃は「あれね」じゃ駄目で、「テポドンについてどう思うか」と問えば、「私はこうこう、こう思うんだけど、でも、やっぱり日本は平和じゃなきゃいけない」とか返ってくる、そういうのを求めちゃうんだよねえ。二十歳の頃はそういう会話の方がしたい、ってのがあったしね。


――少なくともインテリ、およびインテリ予備軍にくくられるような自意識にとっては、ってことでしょうけどね。また、オトコの側からしたら、って限定も当然つくんでしょうが。そういう社会や時事問題について異性、この場合はオンナと、ってことですが、語り合うというのが何かグッときた、って感覚もまた、やっぱり「戦後」の言語空間に規定されてた部分は大きいんでしょうね。「話し合い」とか「議論」とかってのを無条件にいいものとするような。

 そう思っているから、クラス討論の場でも、きちんと自分の意見を言う子を見ているんだよ。しかしそこでも男は二つを求める。ただ持論をキャンキャン言うだけじゃなくて、グッとくるかどうかはやっぱりその言い方が問題なんだよ。言ってることが正しけりゃいいってもんじゃない。何か自分の意見を言う時に、「今までの議論を聞いていましたが」というような前フリの付く人と、そうじゃなくてただ最初からワァーっとまくし立てる人の違いってのがあるわけだよ。


――「今までの議論を聞いていましたが、私はちょっと、それらとは立場が違うと思うんです」といったマクラがあると、あ、オンナらしくていいな、と、評価が二重丸になったりしたわけですね。

 そうそう。まあ、いずれにしても六○年代、男女関係の在り方は、もう劇的に変わったと思うね。だいたいさ、婚前交渉、是か非か、なんていう議論は、今の学生にとっちゃもうあり得ない話だろ?

――ほとんどもう異国のハナシでしょうね(苦笑) そもそも「婚前交渉」ってもの言い自体もう、知らないんじゃないですか。あれって訳語なのかな、と前々から思ってるんですが。

 子供の頃、こっそり母親の「主婦の友」を盗み読むと、人生相談の欄に「私は処女じゃありませんが、それを夫に言うべきか言わざるべきか」という、ものすごく真剣な悩みが書かれていた。あるいは、夫がふとしたことで妻が処女でなかったことを知ってしまい、懊悩するわけだ。それは人生の重大な事件で、当時、世間一般では、婚前交渉、是、という人は半分以下だったから、それはもちろんけしからぬ事態だったわけだ。それが今や「嫁が実は、熟女風俗で働いているのがわかったけど、どうしましょう、息子に知らせるべきでしょうか」という姑の苦悩が問題になる時代だよ。


――またそういう具体的な(笑) 呉智英さんから、風俗の話題が出るとは思いませんでした。

 いや、名古屋の親しい友人でそっち系が好きなのがいて、風俗方面のそういう情報を私に教えてくれるんだ。最近はこういうのが流行りだとか、教えられることが多々あり、師と仰いでいる(笑)。その彼が言うことを聞いていると、セックス産業は昔は単純に売春だけで、その後はトルコでまだシンプルだったけど、最近は非常に微妙な、それこそ利潤の追求のためにさまざまな差異まで考えて、ニッチ(すき間)を開拓しているみたいじゃないか。

――ヘルスに代表されるような、いわゆるライト風俗系、の進展ですか。アメリカなんかだと、売春は言うに及ばず、実際にカラダに触れたり「抜き」をさせたり、っていうのが規制が厳しい分なのか、ポルノがそういうありとあらゆる欲望に対応するような微細な分類体系になってるところがありますが、ニッポンはむしろそういうライト風俗系がそういう多様化してきてるのかも知れませんね。



 さっきも少し出てきた、いわゆる母子家庭の問題にも関わりますけど、女手ひとつで子供を育てなければならなくなったオンナにとって、少し前まではそれこそ託児所つきの水商売、それもキャバレーとかアルサロ系か、でなきゃ住み込みの工員やパチンコ屋、でなきゃゴルフのキャディーや保険の外交員くらいしか選択肢がなかったところに、善し悪しは別にして、そういう風俗系の「仕事」って選択肢が一気に広がった、っていうのはあるでしょうね。以前はソープでも三十代はもう論外、って感じだったのが、今や三十代はもちろん四十代でもそれらライト系風俗ならば十分に市場が成り立って需要があるわけで。もちろんそれにはそういう需要を支えるオトコの側の変貌、ってのもあるんですが。

 さらにまた、その彼が言うには、インターネットや携帯電話の交際サイトが充実して、そこにアクセスすればさまざまな形のメニューが出てくるそうじゃないか。そうすると、素人のセックスに対するハードルが低くなっているから、いかにも玄人という感じでなく、それどころか本当の素人が売春要員になっている、と。「本当に素人の小学校の先生とか、そこの県庁に勤めていますという女がやっている。おまえが思っているような、けばけばしいお姉ちゃんとは全然違うんだよ」と親切に教えてくれるわけだよ。おまえ、それは騙されているんじゃないか、とも思ったんだが、どうもそうでもないらしい。

 彼や私が二十代、三十代の頃は普通に歓楽街で、お姉さんたちとしかるべき交渉ののち、こういうサービスならいくら、このサービスは追加料金と、完全に計量可能な定価のある、いわば市場原理の支配する世界だったわけで、それは言わば床屋で頭洗っていくら、髪切っていくらというのと一緒だった。ところが、ある時期から一気に素人が参入してきて、しかもかつてのヤクザやその筋みたいにそれを統括する組織がもう存在しないので、めいめい個人でネットに登録しておくとか、交際求む、とかのサイトにアクセスして知りあい、どこかで会って、懇ろになって、となってるから、これはもう適正価格の介入する余地がないんだそうだ。

――いわゆる「出会い系」風俗の問題、ですね。まさに構造改革と自由化が勝手に起ってしまったようなもんで、問題になり始めたのはおそらく、80年代末から90年代始めにかけての例の「ブルセラ」が表面化し始めたあたりだと思います。主体は当時のティーンだったわけですが、彼女らの性についての意識がそれまでとひとつ大きく変わっていることが確かにあって、それが「ブルセラ」といった社会風俗的な話題にこと寄せて過剰に語られたというところでしょうが、逆算すると彼女たちは70年代半ばから後半くらいに生まれた世代になるわけですよ。今やそれが三十代になってて、まさにその「熟女」系風俗のブレイクスルーを支えている人材になってるんだと思いますし、もう少し広げれば昨今言われる「負け犬」問題まで含めていいと思いますね。

 携帯とネットの普及によって、「個人」にますますドライブがかかってきているのは間違いない。それまでは「個人」はなんだかんだ言ってもひ弱な存在で、横の関係がなければ社会的に行動できなかったんだけど、今はもういきなり大胆な行動が出来てしまう。バーチャル全能感といったところかも知れないけどね。まあ、よく言われるように、素人、玄人の違いがなくなってきている、ということなんだろうな。