「下宿」の思想

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 馬鹿は承知だ。気がつきゃ風前の灯、見る影もなく痩せ衰えちまったこの「下宿」という語感をこれ以上蒸発させないようにしなければならない。

 ひとり住まいの学生たちが自分の寝ぐらを指し示す時、「下宿」の代わりに「アパート」「部屋」ということばを口にするようになったのは、いつごろからだろう。なけなしの自分をつなぎとめておくどのみちちっぽけな場所を「オレの下宿」と呼ぶことと「オレの部屋」「オレのアパート」と呼ぶことの間には、単なることばの違い以上の、それこそ時代の意志の深刻な啓示が横たわっているように思える。

 「下宿」はどこまでも「下宿」であり、文字通りの「ヤド」だ。それは、あるひとつの「部屋」が複数集合した状態を指示する「アパート」ではないし、また、ある大きなまとまりをあらかじめ想定し、その下位の単位としての物理的に区切られた無味乾燥の空間に貼りつけられる意味での「部屋」でもない。

 「下宿」とは、ひとまず過渡期の仮住まいであり、仮住まいであることに自覚的であることによってあらぬ力を引き出すことのできる仕掛けである。ゆえに、それは常にふくれっ面の、自分についてひとこと「気に入らねェ」としか言えないような欠落の自覚、不満足の自意識と道行きの場になる。

 どうやら過去形でしか語れなくなっているが、立身出世をモティーフとした大文字の物語が社会的に共有され、そして学校であれ軍隊であれ、そのような物語を自分の手もとに引き寄せることが可能な煙突装置が機能していた状況では、その過渡期意識、欠落の自覚との道行きは、個々の生が日々直面する具体的な局面への具体的な対応を引き出すためのとびっきり腰の強いバネになり得た。ひらたく言えば、「今にみてろよ、コン畜生」という腹のくくり方をするための舞台装置として、それはぴたりはまってくれていた、ということだ。

 そこでは、立身出世とはカタログ雑誌経由の断片を詰め込んだ頭の中でお手軽に行なわれるワープなどではあり得なかった。具体的な、どうしようもなく具体的な眼の前の欠落をそのまま首根っこつかんで向う側に引っくりかえし、あり得べき自分、あり得べき境遇を同じくどうしようもなく具体的なものとしてぐつぐつ煮立てふくらませてゆく過程を踏み、その果てにおそらくは手ざわりさえもなまなましいイメージとして現われるのがあの栄光の立身出世だったはずだ。そのなまなましさは、「下宿」の空間とそこに身を置く仮住まい意識との重なりあいの上に初めて凝視するに足るものとして立ち上がり、またそのなまなましさゆえに、仮住まい意識に対するブースターとしてフィードバックされる。この幻想の永久運動機関は、「下宿」という語感にまつわってきたはずの上眼づかいの視線に最も励まされ、律動を続けていた。

 おかげでこの「下宿」ということば、どだいロクな使い回され方をしていない。「貧乏下宿」「学生下宿」「素人下宿」「未亡人下宿」「安下宿」「破れ下宿」……傾いた軒先に湿っぽい情感ただよわせ、背中の毛逆立てた猫のように世界に向かって構えている意識がとぐろ巻く場が、それら「下宿」を軸にふくらんだ言葉のまわりにたなびいている。それはありていに言って雑然とした状態であり、不定形のわけのわからない力、あるいは過渡期の生、仮住まい意識と貼り合わされたアナーキーなどが突然宿るかも知れない栄養分たっぷりの空気を醸し出す永久未決状態である。

 なるほど、時は、上げ底ながら自他共に認める経済大国の九〇年、もはや「下宿」はその存在を信じることさえ難しくなっている。だが、それほど遠くない昔、六畳、わずか畳六枚分の広がりが「党的スケールの空間だった」と言えてしまう幻想をつむいだ時代が、確かにあった。

「下宿と自治会室とサークル室とたまり場をつなぐ線が学生活動家のホットラインを形成し、ここでわれわれの感情と理論が、だいたいのところ、決定される。……(中略)……学生運動においては、組織の中心をなす活動家たちは、多少の無理をしてでも大学の周辺に下宿した。下宿の収容力は細胞会議をまかなうことができなくても、フラクションをひらくには充分であり、情報や方針の検討、連絡と指示のすばやさを確保することが容易であった。また、学生街の雰囲気を身のまわりにただよわせながら、ひとつの大学の政治的な方向を体現することができ、不意の官憲の急襲からうまく逃れることもできた。つまりこういうことだ。連絡、情報、指示、交際、オルグ、組織の防衛、書物の紹介、他校のオルグの仮泊そして借金までをふくめた無数の糸を通じて、大学の近くに下宿することは、生活の時間と政治活動の時間を緊密にむすびつけることができる。下宿、自治会室、たまり場をむすぶ線が、真の情報網であり、論争の場であり、陰謀の試験管であり、決定機関であり、執行機関であり、権力でさえあった。」


平岡正明「下宿問題あるいはたまり場から梁山泊をひりだす方法」

 時代がかった古証文、と鼻であしらうのはやさしい。六〇年代、急激に展開してゆく新たな大衆社会状況を後ろ盾に、同じくあれよあれよという間に大衆化し上げ底状態に大量生産されたインテリ予備軍としての「学生」たちが、それまでとは異なった横並びにひしめきあう「量」としての同じ境遇の同世代を発見し、それらと縦横に結びあおうとした際、このような交通の錯綜状況があったこと。そしてその錯綜とは、学生であれ当局であれ、それまでの大学や、もっと言えば「学校」を支えていた常識の構造からすればあからさまな無秩序であり、しかもその無秩序が唐突に、出会い頭の交通事故のように誰の意図でもないまま足下に広がり始めていたらしいこと。これくらいは読み取れるし、また読み取れなければ困る。

 だが、ちょっと待て。このような日常のこまごました交通のからみあいを可能にする暮らしの範囲の設定が、いつか奇妙なふくらみを宿しはじめるものらしいことは、今も充分考察に値する。そして、そのふくらみをたっぷり呼吸し、そのことでまた自分でない誰かが同じ呼吸をものにしていることを発見するという連鎖は、ここに足をつけているという自覚をつなぎとめ得るある広がり、つまり「場」を、意識の銀幕に定着し始める。

 自身の感情や理論、つまり大文字のことばで吐かれる能書きはもちろん、食いものや女の好き嫌い、ちょっとした身ぶり、顔つき、バカ話のパターンまでもがこのような自身の属する「場」の広がりにがっちり食い入ったところにある、という状態は、改めて言うまでもなく相当にうっとうしいものではある。しかし、そのような「場」との緊張関係のうちに鍛え上げられる抜き差しならないものも、また確かにある。

 このような語り口に反発を感じる向きには、たとえ方便としてでも、ある、と信じてみなければならない、もはやそれを信じてみるところからしか何も始まらない、と政治的に言っておきたい。その程度には、この「個」というシロモノ、もみくちゃに苛まれ、いいように弄ばれてきたのだし、今となっては、さめたタコヤキのようにだらしなく汗ばみ、漠然とくっつき合っているばかりだ。

 ゆえに、敢えてここから引き出すべきは、今、この壮大な「スカ」の時代に放し飼いにされ続け、上を向いてるのか下を向いてるのか、立ってるのか転んでるのか、何をたよりに形を決めればいいのかさえ真剣に考えずにすむようになっているこのうすら白いおたく太り丸出しの「個」をきりっと洗いなおすために、そのような「場」を味方につけること、もっと突っ込んで言えば、味方にし得るようなタフな「場」をつむぎ出してゆくような関係に身を躍らせ、自らぐぐっと傾いてゆくこと、これだ。

 そのためには、なぜそのような「下宿」の共同性には、時に見当違いであるにせよどうしたって最後には具体的な行為につながることばがはらまれ、「アパート」や「部屋」、あるいはあの胸クソ悪い「ワンルームマンション」などでは、字面だけはとりすました、しかし行為の当事者になることからは永遠に逃げ回る、ああ言えばこう言う、の能書きばかりが見事に上滑りなまま垂れ流されるのか、ということが、それぞれの場所でそれぞれのことばで問われ、反省されなければならない。

 それは、人がどのような仕掛けとどのような場によって自身を「個」であると自覚してゆくのか、逆に言えば、どのような仕掛けとどのような場によって自身を世界との関係の中に位置づけ、共同性に身を浸してゆくのか、その過程に刻み込まれている時代の相をまず自分の経験をのぞき込む作業のうちにきっちりと読み取ってやろう、という意志を自覚し、そして、その果実を他ならぬ自分自身のものとしてがっちり抱え込むことでもある。



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 今、僕は「ワンルームマンション」と言った。

 鉄の扉とインターホンと留守番電話を備えた鉄筋コンクリートの箱に、いずれ同時代の空気にむせかえるほどはらまれた欲望のあれこれを背中一面に貼りつかせたアンちゃん、ネエちゃんたちが詰まっている。この高密度の欲望空間である「ワンルームマンション」の遍在とは、ひとことで言って生活のビジネスホテル化の表現であり、身の大きさでまるごとに流れてゆく日々の暮らしをプラモデルのパーツのようにきれいに分断し、個別機能的に支えてゆく装置が社会的にはりめぐらされたことの現われである。

 だが、ビジネスホテルの機能主義を「便利」であり「快適」と感じる感性は、確かにある。もう少し正確に言えば、あの機能主義を「便利」「快適」とせざるを得ないような速度の中で処理してゆくなりわいの局面、とでも言うようなものが、誰もが大なり小なり逃れられない程度に普遍的に、この時代に埋め込まれてある。

 硬いベッドと、ユニットバスと、小さなテレビとラジオと電話とが全てというあの空間では、どんなにジタバタしたところでベッドに黙って横になってるしかない。申し訳程度に机と椅子があったとしても、あそこでまとまった書きものをしたり、あるいは本を集中して読んだりといったことはあまりできるものではない。テレビの、それもほとんど何も考えなくていいようなコイン仕掛けのアダルトビデオの映像を漠然と見つめ、自動販売機で買った缶ビールを胃袋に流し込みながら、眠くなるのを待つ、というはなはだ受動的な態勢に一番ふさわしくできている空間ということになる。眼は文字か映像を眺める、音楽に耳をやる、腹にアルコールを入れる、そして寝る、というのがとりとめのない時間をやり過ごす際のこの国の人間の作法だが、それらを最も効果的に行なうことのできる空間としてビジネスホテルは大量に準備され、そして現にそのように使われている。

 これがカプセルホテルになると、その仕掛けはさらに純化され、徹底されている。

 カプセルホテルの広さとは、とりもなおさずあの窮屈なベッドの広さである。泣いても笑ってもあのベッドだけ。いっそすっきりしている。工夫の余地など微塵もなし。とにかく横にしかなれない。手をのばせば照明とテレビのスイッチ、顔を起こせばテレビの画面、ヘタに起き上がろうとすればどこかに頭をぶつけかねないこの「便利」は、しかし確かにビジネスホテルの空間を組み立てている要素をさらにしぼり上げた果てに提示されているものだ。そして、そのしぼり上げた分、あるなりわいの局面においてはそれを「便利」とせざるを得ないような、そして「快適」と感じてしまわねばならないような感性があることもまた、認めねばならない。

 例えば、大部屋に蒲団をずらり並べ、さあ寝てくれ、とばかりになっているビジネスホテルがあっても悪くないと思う。しかし、ビジネスホテルの「便利」「快適」を必要とするなりわいにとっては、これははなはだ「便利」「快適」ではない空間ということになるのだろう。

 強いて似たものを探せば、サウナやヘルスセンター、あるいは高速道路のサーヴィスエリアに設けられた仮眠室、あの光景などはかなりこれに近い。ビーチベッドのような長めの軽いベッドと、うす暗い照明、大部屋の隅にはテレビくらいは置いてあるが、あたりさわりのない番組が流されているくらいで、眼を閉じていてもさほど妨げにはならないような程度に音量は絞られている。といっても、ビジネスホテルからカプセルホテルという線に純化されてゆくある意志にとって、サウナの仮眠室はどこか根本的に異質なものだろう。

 こだわってみたい。サウナの仮眠室、カプセルホテル、そしてビジネスホテル。仮りに同じように背広をひっかけ、ネクタイを締め、通勤定期ふところに忍ばせていたとしても、終電がなくなり一夜の睡眠をとる場を確保しなければならなくなった時、それらのうちどれを選ぶかということは、ひとりひとりにとって「個」の意識の質に根深くからんだ問題である。もちろん、それぞれの施設の価格設定の微妙な違いや、タクシー料金との関係、深夜喫茶、オールナイト映画館といったその他の場との選択可能性、あるいは当日の当人の体調、寝るということについての日常的な習慣、突然転がり込むことのできる知り合いの家までの距離、などなどそれぞれの場合にまつわってくる現実的な諸条件を充分考慮に入れるにしても、とにかく身体を休める寝ぐらを確保しなければならない局面で、人がどのような仕掛けで、どのような状態でいることを最も優先的に選択するか、という問いの設定の仕方は、決して普遍的ではないらしい「個」の意識を支えている時代の文脈を浮き上がらせるための、結構興味深いエチュードを提供してくれるような気がする。

 新幹線に設けられた一人用個室が、あまりにもテレクラの個室に似ているので驚いたことがある。

 大きめの椅子と作りつけの机に、電話(コレクトコール専用だが)とラジオ、スイッチ類が手の届く範囲に並んでいて、部屋の照明とは別に「読書灯」と称するスポット照明が設けられている。部屋自体の広さは、せいぜい畳にして三畳弱。これにティッシュペーパーの箱が置いてあれば完璧にテレクラだ。「民営化」という錦の御旗をふりかざし瑣末な商売に奔走するJRのこと、こりゃいつでもテレクラ個室に改装できるようにしてあるのかも知れない、とカンぐったほどだ。

 ベッドなり椅子なりに貼りついたまま動かないですむようになった「個」のまわり、その手の届く範囲にさまざまな情報機器の端末を並べ、「ボタンひとつで」世界を操作する、という幻想を可能にする空間。SF映画の宇宙船のコクピットから証券会社のディーリングルームまでを貫くこの「操作」「運転」イメージを軸にした空間は、社会的には近代の交通機関、とりわけ最も身近なところではクルマの経験を培養基にして成長したものかも知れない。

 実際にクルマが「個」の空間を意図して設計され、事実そのような意味を担って大量消費されるようになってゆくのは、この国では七〇年代に入ってからのことだ。だが、高度経済成長期、バスや電車に乗ればいちばん前に飛んでゆき、運転手の手もとを食い入るように見つめる子供は少なくなかった。かつて、文字と書物をメディアとして世界とつながる作法を身につけ、不可侵の聖域としての自我を構築することを夢想した意識と同じように、新たに身のまわりにあふれ始めた「もの」をメディアとして、まるでもうひとつのことばをあやつるように世界を編み上げてゆく作法を身につけた意識にとっては、世界の広がりを手もとに引き寄せるように思えるあらゆる端末が手もとに開いている運転席の状態は、「個」の経験の宿る最も初歩の場だったのかも知れない。

 基本的にそれは一望監視装置に他ならない。その意味では、やはり学校や監獄を出現させた仕掛けときれいに連なってはいる。しかし、電子メディアの一望監視は、見る主体を身体まるごとの場から引き離すことで、見る/見られる関係が否応なくはらんでいたはずの相互性を切り落とし、方向の定まらない窃視の視線の遍在状況を作り上げた。このことが「社会」という虚構を編み上げてゆく過程に影響しないわけがない。

 本来どうしようもなくまるごととしてあるはずのさまざまな身体器官の機能をそれぞれ分断し、個別機能的に拡大してゆく仕掛けの濃密な遍在が日常の環境そのものとなり自明化している現在、もはやことはクルマのコクピットにとどまらない。それは、一望監視し、そのことで世界を「操作」しているはずの身体の深刻な自閉性、傍観者性をいびつに肥大させ、相互性の契機を欠いたリアリティを刺青のように意識の真皮に刷り込んでゆく。現在、この国の大部分を薄く覆っている「自分だけは違う」と思える意識も、この世界に対する「操作」「運転」の感覚の鮮烈さと身の大きさの相互性とが、最大公約数の生活経験としてさえもあまりにアンバランスである状況に根ざしているはずだ。

 あらゆる「もの」はこのビジネスホテル的空間を構成するひとつの要素たり得ている。そこでは、外部との交通を手もとで確保して世界の拡大を図り、一望監視の純化を実現するはずだった仕掛けが野放図に日常化し、増殖することで、かえって交通を遮断するというパラドクスを招いている。

 ビジネスホテル的空間とは、そこに寄せられるあらゆる情報が等価のものとして並べられる場である。そこでは、アルミサッシ越しに薄く届いてくる街路の喧騒はもちろん、自分の心臓の鼓動でさえも、気ままにめくられる雑誌のグラビアや、ちらつくテレビのディスプレイに映し出されるCFや、具体性の磁場を振り切るまでにまつわらせた過剰な意味をただそこにあることで放射し続けるキッチュな「もの」たちと、ひとしなみに等価になる。そこに働くのは好き嫌いの基準だけであり、有用性や具体性がその判断基準として優先されることはない。なぜなら、有用性や具体性とは、対象を具体的に扱い、世界と切り結ぶこちら側の身体との関わりにおいてのみ立ち上がってくるものだが、限度を超えて厚く積み上げられた意味の壁によって意識をまるごとの世界から遮断した者にとっては、それらは極めて見えにくい、重視する意味のないものになっているからだ。


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 「価値はなく差異のみがある」(浅羽通明)というこの意識の難儀は、ひとまずこの場では、あらゆる道具が個々の「もの」としてでなく環境として薄く延べ展げられ、道具本来の機能がその環境の側にきれいに吸い取られてしまっている状態をくぐって手もとにやってくる情報に対してのみ積極的である、という一点に集約しておいていいだろう。 家庭用電化製品、俗に「家電製品」というやつが曲者だ。こいつは、見た眼にはなにげないそぶりで、しかしそれまで身のまわりにたたずんでいた「もの」たちとは度はずれて違った影響力で、人と「もの」との関係、ひいては人のつむぎだすリアリティの質を変えていった。

 同じものを、大量に、早く、という近代工業生産の論理に従って作り出された「もの」たちの中でも、この家電製品たちはまたちょっと異質なものだ。

 まず、それはスイッチひとつで誰でも「平等」に、ほとんど狂いなく全く同じ働き、同じ動きをしてくれる。少なくとも、そのように働き、動くことを期待されている。それを可能にしているのは、電気をまんべんなくそれぞれの「家庭」に配給する網の目だ。つまり、「家庭」という単位に分配されるようになった電気が家庭内のあらゆる局面に拡大適用されてゆく過程に、家電製品は出現したということになる。

 手仕事の大きさにある道具は、その扱いに熟練するほど、道具と共にその道具を扱う身体をも変形させてゆく相互性を露わにしてゆく。身体が世界に関わるその最も切羽の部分で働く道具たちは、世界と身体との間で、そのどちらに向かっても力を及ぼすようなありかたをまつわらせる。例えば、それを持つ者がいつしかふらりふらりと徘徊し、そのように歩いてゆくうち次々と人を斬ってしまうという妖刀物語のこわさは、日本刀という刃物がそれ自体意志を持つもののように主体の意識を規定している、その関係性のリアリティに根ざしている。主体は刀であり、斬る側にも、そして斬られる側にも主体はない。道具が全ての関係を規定し、世界を変形してゆく重心をその内に宿してゆく。そんな経験があらゆる「もの」との間にあり得、社会の広がりちに共有されていた状況で、初めてその物語はあり得べきこととして流通する。

 このような手仕事の大きさにある道具は、ひとつ場が変わればそれがたちどころに武器として使い回され得る、という可能性まではらむ。そのような、まるごとの場になじんでゆくような多義的な豊かさを、これらの道具は本質的にはらんでいる。

 だが、家電製品はこのような場と身体に規定された相互性からは遠い。それらは、人がその取り扱いに習熟することを予測していない。取り扱いに習熟しようがしまいが、コードをコンセントにつなぎ、スイッチひとつ、ボタンひとつをきちんと「操作」することさえできれば、いつでも、どこでも、ほぼ同じように機能することが家電製品の理想像だ。使い込んでくたびれたテレビや、母親から譲り受けた電気洗濯機などが、実用性の面ではほとんど意味のないものであるように、行為の局面で家電製品がそのまま武器として現われることはちょっと考えにくい。怒りにまかせて冷蔵庫を放り投げ、憎い相手を電気釜でブン殴ることはもちろん可能だが、しかし、髪結いのかんざしが振り上げられる瞬間、板前の柳刃の切っ先がスッとこちらに向かう瞬間の、毛穴の広くような感覚からは程遠い。官能に触れてくる情感がないのだ。考えてもみろ、テレビの刑事もので「凶器は?」「冷蔵庫です」じゃドラマにならない。

 つまり、こういうことだ。日々繰り返し繰り返し使ってゆくことで身体になじみ、そしてまた身体の方もそれになじんでゆくような「もの」と身体との関係は、この家電製品という新たな「もの」たちにとっては一気に縁遠いものとなっているのだ。

 これは言い換えれば、家電製品とは非常に象徴性に乏しい「もの」だ、ということでもある。ギリギリに絞り込まれた機能の一点張りにまとめられているがゆえに、それらは具体的な場に応じて使い回し、さまざまな役割を果たしてくれる可能性をはらまない。例えば、幼い日のままごと遊びの場では、草や、小石や、空瓶など、それ自体としては何でもないものであっても、茶碗や、野菜や、しゃもじ「のつもり」になることが可能だった。しかし、では子供たちは今、何を電子レンジ「のつもり」にするのだろう。

 この家電製品は、女のまわりを突破口に家庭に侵入してきた。

 ラジオは別にして、ほぼ発熱と、それに伴う照明という目的にのみ消費されていた電気が家庭の中で重要性を増してくるのは、例えば電気釜の普及がひとつのエポックだったはずだ。初期の家電製品たちに与えられた「電気冷蔵庫」「電気洗濯機」「電気掃除機」といった名前には、それまであった電気以外の動力をアテにした素朴な仕掛けとは異なり、ソケットをコンセントにつなぎ、「電気」を外部から取り込むことによってそれらの「もの」がいっそ極端な働きを可能にする飛び道具と化したことを表していた。

 それは、新たな「速度」を家庭の中に立ち現わすことに他ならなかった。それまであった身のまわりの「もの」たちの働きを、外部からコンセントという端末をくぐって供給される電気による仕掛けに換えてゆくことで、新たな「速度」を獲得しようとした時に、後に家電製品と呼ばれることになるこの異質な「もの」たちがあふれ始めた。

 電気冷蔵庫は、それまでの氷を使った冷蔵庫よりもはるかに早く、強力に、また連続的に冷やす能力を持ったことで生鮮食品を長い間保存できるようにしたし、電気洗濯機は、たらいと洗濯板を使う時よりも雑多で、大量の洗濯ものを一度に洗うことを可能にした。電気掃除機も、はたき、ほうき、ちりとり、雑巾といったそれまでの手仕事の大きさにある道具たちを使う場合よりもはるかに早く、手間もかからずにちりやほこりを一掃することを実現させた。

 繰り返して言う。それらはつきつめれば「速度」の問題に他ならなかった。だが、それは「便利」や「実用性」「合理性」といったことばによって口あたりさわやかに言い表されるのが常だった。



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 この家電製品は「個」の広さの意味も変えた。

 それまでならどのような寝転がり方でも可能であった広さに、コンセントという端末がある重心を宿し始める。コンセントからの距離で「もの」たちの配置が規定され、コードを引き回すことのできる範囲で自分の居場所が決まるようになる。

 「個」の意識を規定する空間、という意味では、四畳半という大きさのことを考えておかねばならない。

 畳一枚、一間×半間というモジュールは、人間ひとりが横になった時に占有するスペースから決定されている。例えば、少し手荒い喧嘩の場で放たれていた「戸板に乗って帰ってくる」という言い方など、明らかに、この一間×半間というモジュールが人間の物理的大きさに裏づけられたものであることを前提にしている。 

 「起きて半畳、寝て一畳」とはなるほど言いえて妙だ。そして、体格がよくなったとはいいながら、寝転がった時に畳一枚のスペースに収まらない身体はこの国に今もやはりそうはない。

 となると、四畳半とは、ひとりの人間が横たわり、そのまわりに半間分ずつ、言い換えればおおむね片手をのばした分くらいずつの緩衝地帯を設けた広さのことだ、と言うことができる。つまり、人がゴロリ横になり、めいっぱい手足をのばして、なお周囲の壁なり他人なりといった異物に接触しない範囲の広さ、それが四畳半ということだ。

 身ひとつで世界と向き合う生がどこかでしがらみ、よどんでしまった瞬間、煮るなと焼くなと好きにしろぃ、とばかりに手足を広げて大の字になる、という行為をギリギリの開き直りの表現として選択する作法がある時期まであったことを思えば、この大の字に横になることを可能にする最低限の大きさである四畳半という設定は、物理的な空間という以上の意味を持ち始める。自分が自分であること。自分の自由裁量が可能な身体が他ならぬここに転がっていること。それを最も素朴に確認できる身ぶりとして「横になる」ことがあり、そのことによってまごうかたなくひとりであることがまた確かめられる、そんな大きさとして四畳半は「下宿」の語感の重要な部分を支えている。

 これは「個」が排他的に占有し得る空間としては、実はとんでもない広さだったのかも知れない。

 子母澤寛によれば、江戸末期の牢の中では、罪人たちがある一定以上にひしめきあうようになった時、むりやりにスペースをあける作法があったという。「作づくり」という。過剰に稠密になった牢内の人口密度を調整するために、誰かひとりを密殺する。効果としては間引きと同じことだ。暗黙のうちに指名されたひとりを夜陰にまぎれておさえこみ、睾丸を蹴り上げたのちに絞め殺すというのが作法だったらしい。

 これは直感でしかないのだが、どうも定地稲作農耕民的な合議性というか、場と「個」とがなしくずしに、腰砕けに融け合っている状況での隠微な意思決定の過程が、大根を引っこ抜くような「間引き」的調整を選択する必然のようなものがあると思う。それは広義の暴力の発現のしかたや、スケープゴートを作り出す手順、より高次のことばで言えば「個」と「集団」の関係性などに根深くからんでいるような気がする。なにせ江戸時代の牢内のこと、どのような基準とどのような手続きとでその人口密度が限界に達している事を判断したのかわからないが、極限状況でその「個」の広さを守るための作法としてこれは考察に値する。

 いわゆる日本家屋が可能にしてきた「個」の空間を考えてみよう。屏風や衝立といった道具によって半ば約束事のように意識を遮断する技術を慣習的規範の強制力を背景に鋭敏に発達させてきたことで、文字通り身体的な解放をともなった「自由」の感覚を保証する空間としての「個室」を物理的な広さとして囲い込みきることを、この国は近代の袋小路でどこかうしろめたいものにしたフシがある。

 だが、柳田国男が言うように、書物が作り出した心の小部屋が近代的な自我意識の生成に骨がらみになっていることを踏まえるならば、書物をたずさえ、その上でなお「個」の空間としての四畳半に身を置く経験をくぐって喧騒の都市に根づいていった意識にとって、その広さは「自由」という言葉に見合うある熱っぽい空気をはらむものだったはずだし、時にまた、壁と皮膚とが重なりあうような感覚の開き方もあり得たに違いない。

 だから、四畳半という広さが、生をつなぐひとつの単位として都市単身生活者たちに当たり前のものとして受容されていった過程が問題にされねばならない。もちろん、そこには障子、ふすまから始まり、鉄製のシリンダー錠付き扉に至るまでの、それら「個」の空間を作り出すための空間遮蔽材の変遷もあわせて考えねばならないし、一方で、そのようにして囲い込まれた広さに持ち込まれる身のまわりの「もの」たちの問題も見ておかねばならない。しかし、いずれにせよ、四畳半を単位とした「個」が物理的、具体的な空間として準備され、そこを拠点にして都市を身体に凝らせてゆく経験を編み上げた意識たちが時代に立ち上がってゆくことを想定する時、自身の皮膚感覚の根ざす場としての四畳半がそこにからみついていたこと、それを見落とすわけにはいかない。

 実際、何もない素ッピンの四畳半は、広い。

 どこにも畳はないマンションでさえもその空間的広さを「4.5・6・6」と畳単位で表記する慣習にあぐらをかいた結果、本来の畳一枚の大きさをセコくちょろまかす「団地サイズ」などというシロモノが出てきて以降、その広さはかなりわかりにくくなっている。だが、例えば引っ越しの時、それまで何やかやと折り重なるように置かれていたさまざまな「もの」たちをとりかたづけ、日焼けしていない畳のうす青い色がモザイクのようについた四畳半を一望して、あれ、と思った経験は誰しもあるはずだ。

 その広さを確認してゆく契機を失わせるような質を持った「もの」たちの連なりが、同じ四畳半を覆い隠している。それは物理的にある面積を占有していると共に、そのような占有の結果新たに作り出された空間の中に、ある一定の方向にのみ身体を縛りつけておくような、そんな能動性、敢えて大風呂敷広げれば権力意志の磁場をはらんだ環境を準備する。それは、そのような環境においてのみ立ち上がる「個」だけをあり得べきものとし、そのことで融通無碍な「ヤド」的共同性がはらまれる場を、つまりは「下宿」を蒸発させてしまう。

 佐々木喜善という男がいた。『遠野物語』のもとになったさまざな語りを柳田国男に聞かせた男だ。明治四〇年頃、遊学のため故郷の遠野から東京に出てきた彼は、 後に佐々木を柳田に紹介することになる水野葉舟の描写によれば、こうだ。

「気の毒な事に……とは思うが、或はその嗜好から、特に撰んだのか、萩原(佐々木……引用者註)の居る室は、西向きで昼間でも薄っ暗い。その部屋にはちいさな書棚が、右の方の壁の処に置いてあって、それにくッ附けて、赤や紫で、ひつッこい、ごじゃごじゃした模様の唐更紗の机掛が掛った、中位な大きさの机が置いてある。机の上は筆立やら硯やらで、狭くなって居るが、その狭い処から、例の机掛の花模様が毒々しく、この室に一種の光を放っているようだ。壁には脱ぎすての衣服や袴が二処三処掛って居る。」


水野葉舟「北の人」、山田野理夫『柳田國男の光と影』より抜粋

 陽当たりの悪い部屋。趣味の悪い調度。このどこか調和のとれない空間で、憶病で友人もできにくい彼はかなり自閉した日々を送っていたらしい。

 戸を締め切った中、ランプもつけずじっと少年時代習った尺八を握って涙を流し、故郷の話をする時だけ異様に眼を輝かすこの若き佐々木喜善の姿に対しては、絵に描いたような田舎者という月並みなレッテルを貼ってすますよりも、泉鏡花の熱烈なファンで、雑誌や古本を漁っては自らもその文字によってつむがれる世界に身を躍らせることを夢見続けた地方のインテリの卵が、初めて直面した具体的な世界の広さにおののいている瞬間、という解釈を寄せるべきだろう。

 書物によってひそかに生成されていった「個」の意識は、それが物理的な「個室」として社会的な表現を持った空間と重なることで、姿を露わにし始めた獰猛な世界の広がりとより真正面から対峙することになった。書物と書棚、机と筆記用具というとりあわせの調度や小物たちはそのような切実な対峙に耐えるための武装であり、日々ゆらぎ、ほころぶリアリティを新たにつくろい、塗りなおし、時にそこに自閉的に逃避してゆくためのなけなしの道具でもあった。

 だが、同じ頃東京に学生生活を送った生方敏郎は、当時の書生たちの暮らしの中に、意味もなく誰かの下宿に集い、小銭を出し合って大学芋や豆菓子をかじりながら夜ふかしをする新たな習慣が芽生えていたことを記述している。駄菓子でささやかな宴会を開き、書物から得た知識や小耳にはさんだちょっとしたうわさなどをやりとりする場をつくってゆくことは、彼ら新たな自我を宿した意識にとって、当時の間借りの「下宿」がその自我を囲いこむ装置であったと同時に、自前の共同性をつくってゆく場として使い回されるようになっていたことを示している。

 別な角度から言おう。

 畳と座布団の組み合わせで作られる場は、机と椅子の組み合わせがどうしても逃れにくい「学校」的一対多の情報伝達の場とは異なった共同性をつむぐ。一時期、社会心理学者あたりがよくやっていた会議の場の合意形成過程の分析など、実は机と椅子に規定された場の問題がかなり大きいはずだ。例えば全ての会議を畳の大部屋にばらまかれた座布団の場だけでやるとすれば、相当に違った議論と提案が出てくるのではないかと思う。頭を寄せあい、時にあぐらをかき、時に腹ばいになって、互いの距離と視線の角度とを融通無碍に選択しながら交わされることばが、机越し、筆記用具越しにあまり変わらぬ高さから吐かれることばと同じ貫通力、同じ浸透力であるはずはない。暮らしの全域を覆う「学校」の偏在状況の下に社会化した意識にとっては、机と椅子の場で作られる思考と感情と行動のパターンをどうやって対象化するか、それがひとつの鍵になる。


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 この場の結論だ。

 「四畳半」の広さを確認し、そこを場として「下宿」の共同性をつむいでゆく志は、家電製品に収斂される象徴性の低い「もの」に塗り込められたビジネホテル的空間の「便利」「快適」を、それぞれが足もとのことばで対象化することから始まる。それは、身のまわりを無一物にすればいいというものでもない。無一物の「なにもない空間」においてさえもそこにないものを自由自在に見てしまえるほどに、あるいは、密室に閉じ込められることが決して苦痛ではなくむしろ快楽となるほどに、意識の側に刷り込まれた「個」の広さの質的変貌は深刻だ。それは世界の広がりを意識の銀幕に映し出す想像力の衰弱であり、とりもなおさず、「世間」との関係の中で自身を対象化し「個」の足場を確保する日常の中のネガティヴ・フィードバックの知恵と作法の喪失にほかならない。

 「ヤド」を足もとに、まずはてめェひとりで作り始めること。そのために、てめェの経験をていねいにことばにし、顔の見える距離でそれを互いに共有できる関係を持つこと。できれば、年齢や、境遇や、趣味や、顔つきの具体的に異なった連中との関わりの中で、それを継続的に行ってみること。これらが個々の実践の場におろされねばならない。

 夢見がちであること、当事者性のないことばを整序し身にまつわらせてゆくことをおためごかしに全肯定され、「いつまでもこのままでいたい」と教えられた通りの裏声で大合唱する意識の群れが、「世間」を回復し、真に「社会」に戻ってゆくリハビリのための仕掛けとして、「下宿」の思想はなお、使い込んだサンドバッグのように目の前にぶら下がっている。

*1:早稲田文学』1990年5月号に掲載された原稿、だったはずだ。数回、この雑誌とはつきあいがあったはずだ。いわゆる文芸誌の範疇なんだろうが、この頃まではまだかろうじて「文学」誌としての矜持を保とうとしていた印象がある。ただこの後ほどなく、編集体制その他が変わったのか、いわゆる90年代的サブカル風味&趣味全開垂れ流しな誌面になっていたのも、何となく記憶にある。その間の事情その他については当然、詳細わからないし興味もない。ただ、この掲載号あたりはまだ何というか、当時のすでに骨抜きにされていた『思想の科学』的なワナビー感と共に、雑誌を創る側の勘違いや客気なども含めた心意気の類が誌面ににじみ出していたようには思う。