Blue Collar Aristocrats : Life Styles at a Working Class Tavern ……④ 仕事の世界

仕事の世界

「俺たちが組合を持ってるってのは、クソみてェにいいことさ」
――『オアシス』に来る大工の弁

● はじめに

  歴史的に言って、西欧社会においては人生の中心は仕事であった。その自己イメージと、その地域での地位双方は、どれだけ稼ぐかにかかっていた。仕事のない者は、裕福でもない限り、文学的に言って社会の中で居場所を認められなかった。今日でさえ、ふたりの男が初めて出会ったとして、最初の質問は「何してますか」である。これは、お互いを社会構造の中に位置づけようとする試みに他ならない。

 ここ数十年、アメリカ社会では(そしておそらくはその他の都市化、工業化社会においても)仕事は人間生活の中心であることが少なくなってきているという仮説が立てられてきた。この仮説は次のふたつの証拠によって支持されている。 生産の機械化、とりわけ製鉄や自動車工業などの大量生産の大規模工業が、倦怠感と早い時期の離職をもたらす均一的で反復的な作業をもって平均的労働者を機械のレベルにまで落としめたこと、 人は(高度に発展した社会では)今や一日のうちわずか数時間ですべてのものを生産できるし、人生の真の重要性を探すために仕事以外の部分を見つめねばならなくなっていること、このふたつである。

 ウォーレン・G・ハーディングの定義的研究において、ハーディングがアメリカン・スティールの八時間労働の導入を擁護しようとした一九二〇年代初期、ラッセルは十二時間労働かあるいは週六日労働が工業生産として妥当であるという反論を示した。もしも週七二時間仕事に従事する男がいれば、明らかに仕事が彼の人生の中心になるに違いない。今日では、週五日、四〇時間労働というのが合衆国の標準になっているし、近年週三〇時間労働を実現している組合もわずかだが存在する。

 私は、この研究のブルーカラーの誇り高き貴族主義者たちにとって、仕事の世界はその最も根本的な重要性を持ったものであり続けているということを信じるものである。以下の章ではこの仮説をある程度検証することになるだろう。


● 仕事の満足度

 アメリカで実に膨大な読者を獲得してきた本の中で、チャールズ・A・ライクはこのように言っている。「この国の大人の大部分は自身の仕事を憎んでいる。」だが、これが平均的アメリカ人の事実であろうとなかろうと、この本に出てくる熟練したブルーカラー労働者たちにとってこのことはおそらくあてはまらない。前述した調査期間の間、独身者が彼の仕事を憎んでいる、というのはもちろん、あるいは嫌いだと言っているのにさえついぞ出くわすことはなかった。野外の建築作業にまつわる天気のことや、ある種の上司についての不満は耳にしたが、全体として彼らは彼らの仕事を楽しんでいるように思えた。彼らは親しい者たちと仕事についての冗談を言い合い、仕事の後では仲間とビールを呑んだ――そして、悪くない賃金をとっていた。

 典型的な会話を紹介しよう。私はバーにいるひとりの男に何の仕事をしているか尋ねた。

「俺はポーテージにある新しい発電所で夜勤してるんだ」


「そこで何してるんだい?」


「でかい「ネコ」をころがしてんのさ――つまり砂を動かすんだな。俺たちゃ六〇万立法ヤードの土を運ばなくちゃなんねェんだ。わかるかい兄さん、そこじゃ腐るほど多くの機械が土を放り上げてるもんで、まるで交通整理のお巡りがいるくらいなんだな」


「で、その仕事は気に入ってるのかい?」


「ああ、あんたも一度やってみりゃわかるよ。給料はいいし、夏中やってるさ」

 この男の仕事は単調ではない。彼は常に気を配ってなくてはならないし、工作機械の高価な部品に責任を負っている。仕事についていちいち細かい指示はされない。彼はコンピューターでは置き換えられない。彼は強い労働組合に属している。そして、その仕事を通じて、彼はパブリックスクールの教師のほぼ二倍の賃金を得ている。

 この仕事に対する満足度の原因は何か? それについては以下に示そう。


● 男たちの仲間集団 (ピア・グループ)

 『オアシス』の常連の男たちは、仕事においてもそれ以外の場でも、他の男たちとの日常的な相互作用 (つきあい) から多大な満足を得ているように思える。彼らのおしゃべりはこのように織り込まれる。

「月曜にチャーリーが仕事に行くのを見たかよ? あのろくでなしめ、昼までに野郎、てめェの指をハンマーで五回も叩いたんだぜ。あいつは情けねェよ。」

 男たちの一部はクルマで仕事場へ行き駐車場で一緒になる。彼らは小さな仲間で仕事をし、一緒に昼食をとる。そして、仕事の後は一緒にビールを一杯やったりする。結果として個々の関係は非常に重要になる。彼らは常に仲間を好きだというわけではないにしろ、そのつきあいは豊かだ。

 おしゃべりには仕事場の天気や、建築現場でのポカ、親方とのいざこざ、事故、プラクティカルジョークなどが反映される。

「センセイ、今日は大学にいたんかい?」

 あるコンクリート打ちの労働者が私に尋ねてきた。

 「俺たち何ブロックも立ち往生してたんだよ」


 「一体どうしたんだい?」


 「湖のそばの新しい図書館のいっちゃん上の階にコンクリをポンプであげてたらよ、あのボロポンプが俺たちの方に流しやがんだよ、今夜俺たちがあそこを引き上げる前に、会社に五千ドル損させることを祈ってやるよ」

 こういう「プラクティカルジョーク」は建築労働者の世界では珍しくない。クルマがいたずらされてその日最後まで仕事に行けなかったとか、ランチバスケットが隠されたとか、魔法瓶の中のコーヒーが他にものに変えられていたとか、道具が封印されていた、などなどだ。普通これらはいい息抜きになるが、たまにはそのような「馬鹿をやる」ことから喧嘩になったりもする。いずれにしても、熟練ブルーカラー労働者たちの作る男の仲間集団はとても豊かで意味深いものに見える。


● 仕事の本質

 『オアシス』にたむろするブルーカラーの貴族主義者たちは、彼らの仕事に対する満足の原因を説明ようとする際、仕事のいくつかの側面を強調する。賃金がいいことはもちろんだ。大恐慌をくぐってきたわずかの教育しか受けていない元農夫の少年にとっては、日払い賃金が印象的だった。さらに、彼らはそれ以外の余禄、有給休暇、ボーナスを平日の、あるいは休日の仕事(土曜、日曜を含む)に対して受け取ることができる。彼らは、仕事の安全性が組合の連帯を可能にしていると言う。

 また、男たちは彼らの仕事が単調でないことを喜ぶ。ある大工が言う。

 「俺にはデトロイトの自動車工場の連中が早く定年になりたいってのがわかるよ、俺は職のないクズを馬鹿にしやしないよ、もし俺がひとつところに立って一日中左のフェンダーを取り付けてなきゃなんないとしたら、俺なんざ三五歳で定年にさせていただきたいもんだね」

 建築労働において(トラック運輸労働においても)仕事は相対的にゆるい管理の下にある。

 「親方は朝、その日の仕事をざっと説明するんだ」

 ある左官屋が言う。

 「そしてこちとらが何かやっかいをおこさない限り、その日はもう二度と親方の姿を見ることはないってわけ」

 実際、腕のいい大工は流動的存在である。これは彼の能力の証明になるものだ。そして、自由を好む男たちは仕事から仕事をわたり歩く。

Blue Collar Aristocrats : Life Styles at a Working Class Tavern ……③ 居酒屋と街とセンセイ

居酒屋と街とセンセイ

「『オアシス』であんたはいつだって楽しい時を過ごせるってわけだ」
――『オアシス』の常連の弁


● 居酒屋

 『オアシス』はご近所のための居酒屋ではない。その客たちは歩いてではなくクルマでやってくる。彼らのうちの何人かは数マイル離れたところからやってくる。彼らがそこへやってくるのは、同じところで働いている者同士だからだ。男たちの多くは熟練建築労働者で、仕事からの帰り道、その店に寄ってゆくのだ。店には「ブルーカラーのカクテルタイム」というジョークがある。夕方五時から七時の間、出される飲みものはカクテルでなくビールばかりなのでこう言われている。

 客同士がお互いをよく知っている理由のひとつは、同じ職場で働いているというだけでなく、この同じ店にもう十年から十五年通っているということもある。実際、店の主人は、この店を開けた時から二十五年通い続けてくれる客もいる、と語ってくれた。

 この店の持ち主であり経営者であるハリーは、あらゆる意味で心やさしい父親であり、大きな家族の家長である。彼はなじみの客の女房や子供とは顔見知りだし、親戚までも知っている。なぜなら、なじみ客には「連中に会わせるために」家族を店に連れてくることが習慣になっているからだ。以前、私はハリーがなじみのひとりにこう言っているのを聞いたことがある。

「ここは俺の家なんだ――つまり、この店で俺は人生のほとんどをすごしてきたんだな、だから、俺のお客は俺の友だちってわけさ、わかるかい?」

 店の主人であるハリーは、客たちが呑みすぎないように気をつかっている。が、その挑戦はしばしば敗北に終わる。私は「ベロンベロン」になってしまったなじみ客をクルマで家まで送ってゆくために、彼が他の客に店番を頼んでいる光景を目撃したこともある。

 一方、なじみの客たちもハリーだけをよく知っているというわけではない。彼らはお互いの女房や、子供や、主な親戚のことをお互いによく知っている。あとで見てゆくように、このような居酒屋の社会的機能のひとつは、大衆社会の没個性的性格から個人を守っている点にある。

 物理的に言うと『オアシス』は特に印象深い場所ではない。それはふた昔も前の、一八八〇年代から一八九〇年代あたりに戻ったようなむきだしの地下室で営業されている。店は隣にある『タキシード』と呼ばれる派手なカクテルラウンジレストランのおかげで部分的にかすんでいるし、また逆の側は墓地になっている。かつてハリーはこう言ったものだ。

「こっち側の連中は俺たちともめたりしないんだが、もう一方の連中とは時たまイザコザがあるんだ」

 店の中へ入ると、三十人ばかりが座れる馬蹄型のバーがある(これは主人がどれだけバーの椅子の近くにいられるかということに規定されている)。この造りは、ほとんどの客が互いに顔を合わせていることで会話をはずませる。店の左の隅にはジュークボックスが置かれている。逆の隅の棚には、カラーテレビがある。たいていスポーツ番組を見るために使われるこのテレビは、バーのどの椅子からでもよく見えるようになっている。テレビの横の隅には小さな調理場があって、サンドイッチを作ったりスープを温めたりするのに使われる。

 バーのそば、出口の逆の側には婦人部屋があり、近年改装されて(女性客の証言によれば)普通の居酒屋よりはよくなっている。また出口の右側には、客がビールをカートンごと、ケースごと家へ持ち帰る時のためのビールクーラーが置かれている。さらに、その右にはスリークォーターサイズのコイン式ビリヤード台がある。二五セントを放り込むとボールが出てくる式のものだ。

 このビリヤード台から部屋を横切る形で長いシャッフルボードが置かれている。ここにはふたり連れの客がよくたむろしている。というのは、女房たちの中にはやり手が何人かいてここでゲームを楽しむからだ(これらの人々はビリヤードはまれにしかやらない)。ビリヤード台とシャッフルボードの向う側、出口の右側は紳士部屋がある。こちらは近年になっても改装されていないがブルーカラーの居酒屋としては水準以上のものだ。バーを基準にしたこの部屋の位置関係は、男性客からの苦情の種になっている。以前、私は次のようなやりとりを耳にしたことがある。

「えーいコン畜生ッ、ハリーよ、おまえさんは一体全体どういう了見で婦人部屋をバーのこんなに近くに造って、紳士部屋をこんなに遠くにしたってんだよ、オンナ共は俺たちなんかに比べてそうそうバーのとこにゆくわけないってのわかってんだろ!」

 ハリーはこう答えた。

「俺がそうしたのはこういうわけさ、あんたら腹が出てきたもんでちっと運動が必要だろうと思ってね」

 その客はぐいと一杯ひっかけて、紳士部屋へと戻っていった。

 バーとビリヤード台とパチンコ台との間には、飲んだり食べたりカードをやったりするための小さなテーブルがいくつか置かれている。紳士部屋のそばの遠い隅には公衆電話がある。そんな場所に置かれているのはプライバシーを保証するためだ。ダンスのできる空間もあちこちあるが、バーが混んでいる時は難しい。とは言うものの、本当に踊りたいカップルにとってはこれはそれほど克服できない問題ではない。

 店の外には二十台ばかり入る駐車場がある(このことは客の一日のアルコール消費量にいくぶん関係している。ある年のセント パトリック ディにはわずか二台のクルマが衝突している。しかも、駐車場のまん中でだ)。

 『オアシス』はいちげんさんを相手にするにも便利な場所にある(表通り二本に隣接している)が、その売り上げのほとんどはなじみの客に依存している。



● 街――やっかいな近郊住宅地

 『オアシス』のある街レイクサイドは、近郊住宅地となり始める前にはひなびた村だった。一八二〇年代、最初に街が作られた時には、近郊農村の農民たちのためのショッピングセンターという役割があったに過ぎなかった。というのも、都市メトロポリスは一〇マイルも離れていて、馬と馬車でそうそう往き来するには遠かったからだ。一九世紀の終わりになると、メトロポリスに住む中上流階級が夏の別荘を村のそばの湖畔に建て始め、通勤電車で街へ通うようになった。一九〇〇年までには街の人口は一二〇〇人だった。一九二〇年代になると安い自動車が大量に作られるようになった。メトロポリスに住むブルーカラーたちもレイクサイドに家を買うようになり、新しくできたハイウェイで街へ通うようになった。

 長い間、地域(コミュニティ)には小さな工場がごくわずかながらあった。その主な理由は、労賃と税金が市の中心部よりも安いということだった。この段階では、地域の経済的基盤は地元農民への小売業、地元の工場、メトロポリスへ通勤する人々のための交通産業の三つに依拠したものであった。

 第二次世界大戦の終わりまで、地域は同じ発展パターンをたどっていった。この時期には、都市中心部からの中上流階級の家族が地域に入り込んできて、二万五千ドルから四万ドル程度の単世代家族用住宅を建て始めた。今やメトロポリスは自動車でわずか十五分の距離となり、レイクサイドは便利で自然に恵まれた理想的住宅地になった。

 この時期、地域にまつわる政治的な争いが持ち上がった。一方はもともと住んでいたブルーカラーと村から隠遁した年長の農民たちに支持されていて、もう一方は新たになだれ込んできたホワイトカラーに支持されていた。この争いは学校システムをどうするかということに主として問題の焦点は絞られていたが、その他にも多くの波及的問題をはらんでいた。

 この私の研究が始まった一九六〇年代になると、地域はメトロポリスに働くホワイトカラーのために設計された何百棟ものアパートが建てられることに揺さぶられた。一方で、このアパート建築は物理的に人々の気持ちをひきつけるものだった。この事業は、村にこれまで経験したことのないほどの一時的な人口を大なり小なり抱えさせることになった。さらに、それらアパートの住人のほとんどはホワイトカラーであった。このことは伝統的なブルーカラー主導型の地域政治がこれまで以上におびやかされることを意味した。

 一九六〇年までの街の人口はおよそ六千人だったが、一九七〇年までにそれは約八千人にまでふくれあがった。

 社会学的に言って、レイクサイド以上の興味深い地域を見出すことは困難だったろう。美しい湖の汚染、ブルーカラーの住んでいた街へのホワイトカラーのなだれ込み、地元高校でのドラッグ、税金の高騰、アーバンスプロール、インドシナでの戦争、インフレ、若者の叛乱、よりよい待遇を求める女性運動、などなど、アメリカが直面している問題の全ては、ここレイクサイドの直面している問題である。この居酒屋はこれらの問題を考える要衝だった。このことはこの本の以下の部分が示してくれるだろう。

 いくつかのカクテルラウンジやサパークラブといった高級なものの他に、レイクサイドには多くの居酒屋がある。それらの居酒屋はまず客の年齢と仕事とによって分離されている。少なくとも、それらのうちふたつの店は若いひとり者の男性、女性のためのものである。彼らの多くは近くにある州立大学のキャンパスからやってくる学生か、州都でもあるメトロポリスにある州関係の事務所群で働くホワイトカラー労働者である。

 その他の居酒屋は主として中年のブルーカラー労働者とその妻たちとを客にしている。それらのうちのある店は離婚した男性とそのガールフレンドがよくたむろしているようだ。一方、別のある店は、『オアシス』で飲んでいる男たちよりに比べて熟練度も劣り、収入も低いような男たちが大部分のように思える。私はレイクサイドにある居酒屋全部に入ってみた(そのうちいくつかの店には何度も行った)が、綿密に調べたのは『オアシス』だけである。

 私が『オアシス』に興味を抱いたのは以下のいくつかの理由による。

 二十年以上も同じ人間によって所有され、経営されてきた居酒屋であること、 異なった時間に、男性だけでなく家族全員が出会える場であること、 毎週毎週同じ人々が見られ、いちげん客が非常に少ないこと、 社会的階級と職業という面から見て、客が高度に均一的なこと。ほとんどの男性は熟練建築労働者か、ブルーカラー現業公務員であった。これらのことから、私はこれらの男性、女性が、アメリカ社会における静態的な熟練ブルーカラーの世界についての価値ある視野を提供できる人々であるように、以前にも増して(そして今も)思えている。

 居酒屋は「ライフサイクル」とでも記述されるかも知れない過程を経めぐってゆく。ある時点においてそれらはよい経営状態を維持しているし、繁盛していた、楽しい店だろう。また別の時点では、同じ居酒屋が新しい経営者、新しい客、新しい雰囲気といった過渡期にあたっている。一九六五年、私が最初に『オアシス』を訪れた時、この居酒屋はおそらくそのライフサイクルのある頂点にあった筈だ。経営は順調だし、オーナー兼経営者と彼の主任バーテンダーはほとんどの客を個人的に知っていた。客は客でその多くは地域で認められている人々で、常連のほとんどがお互いに顔見知りだった。そして、誰もがほぼいつでも『オアシス』で「楽しいひととき」をすごすことができていたのだ。伝説的なイギリスの詩人であるサミュエル・ジョンソンは、ボスウェルによれば居酒屋について次のように言ったと言われている。

「人々が、あたかも議事堂の居酒屋にいるかのように自身を楽しむことのできるプライベートな場所は、ここをおいて他にない」

 このことは一九六〇年代の『オアシス』についても言えることだ。

 後に、オーナー兼経営者が年をとり、末期の癌に侵されて店が売られてから、転機が訪れた。『オアシス』は何よりもブルーカラーのたむろする居酒屋ではあり続けたが、既婚の夫婦者のいく人かは他の居酒屋に移ってゆき、それ以後『オアシス』では姿を見かけなくなった。もしも、この研究の資料がいくらか希望に満ち満ちてバラ色に見えるとしたら、それは『オアシス』がこの研究を始めた頃に楽しい場所――今の世界で誰もが探し求めているような――として記憶されているためかも知れない。


● センセイ(プロフェッサー)

 この研究を思いたったもともとのきっかけは、第二次世界大戦中、合衆国海軍航空隊の一員として、とあるイギリスの地域に私が三年間駐留していた頃のことである。この時期、私はイギリス流のパブ(パブリックハウス)にいれあげて、イギリス社会におけるその機能に興味を持った。まもなく、イギリスのパブはその客となる人々によって高度に階層化されていることがわかってきた。例えば、ある都市の場合、私がよく行っていたあるパブはほとんど全く男子校の教師たち(イギリスではスクールマスターズと呼ぶ)だけをお客としていた。ブルーカラー労働者や中上流階級の人々は、そのパブには稀にしか姿を見せなかったし、常連客は毎晩毎晩店にやってきた。

 私は、ほとんど労働党の党員であるブルーカラー労働者たちばかりを相手にする『ダヴ』と呼ばれるパブの常連になった。地域のホワイトカラー労働者が『ダヴ』に現われることはまずなかったし、激しい政治的議論のテーマはいつだってイギリスの労働者階級の問題にまつわるものだった。この本の書き手である私が、ひとたび戦争が終わったらウインストン・チャーチルと彼の政府が「ひっくりかえる」(敗北する)だろうことを感じたのは、まさにこのパブにおいてだった。後に、このことは本当になった。

 第二次世界大戦の後、私の兄はオハイオの片田舎で労働者のたむろする居酒屋を経営していた。休暇になると、私はこの居酒屋で客の話を聞いたり、兄のことについて議論したりして過ごした。土曜日の夜には、ほとんど村中の人口がこの店に集まった。その頃、このバーはそのあたりでたった一台のテレビが置いてある場所だったのだ。ついに兄は、十二才以下の子供は十一時になると家へ帰ること、という決まりをつくらなければならなかった。

 この小さな街のその居酒屋は、社会生活の中心であり、そこのマスターは街の人々についてびっくりするほど多くの知識を持っていることははっきりしていた。例えば、彼は選挙の結果をかなり正確に言い当てることができた。また、彼はどこの夫婦がうまくいってなくて、どこの夫婦が浮気をしていて、どこの娘がはらんでいて、新しい「革新的」知事家が前の知事と同じくらい汚職をやっていることなどをすべて知っていた。(もしも、居酒屋がスロットマシンを置いたり宝くじを売ったりすれば、この郡の政治的「首切り」屋である知事はそれぞれの店から月に五十ドルずつかすめとれるようになることも、彼は知っていた。しかし、「オハイオでのギャンブル廃止」を政治綱領として選ばれた新しい知事はそれができなかった)

 私の父は炭坑夫として成人した。何百フィートももぐった地下の、水びたしの中、一日二ドルで一日中石炭を堀った。東オハイオの軟炭地域、ジョン・J・ルイス指導下の炭坑夫組合連合ができる前のことだ。死ぬその日まで、父は自分が穴に降りていた頃の炭坑夫の労働条件について語っていた。

 オハイオの私の親戚のほとんどは、ブルーカラー労働者か貧しい百姓だった。一九二〇年代から一九三〇年代にかけて、オハイオのそのあたりには裕福な百姓などほとんどいなかった。第一、土壌そのものが耕作に適していなかった。加えて、経済的な状況は百姓たちにとって厳しいものだった。

 炭鉱のストライキの間、父は食料雑貨屋に職を求めた。そして、次にその卸農場のセールスマンの仕事にありつく幸運に出食わした。このため、私の家族は街で中流の下あたりに位置することになった。

 社会的階級という視点から見て、私たちが落ち着いたところの近所は入り混じっていた。道路をへだてた向かい側には、街でいちばんやり手で有名な判事が住んでいて、繋駕競走の競走馬を何頭も持っていた。同じく道路のをへだてた東側の二軒隣りには、山師の家族が住んでいて、結局大戦中に百万長者になりあがった。しかし、私たちの家のすぐ隣りには、ふたりの男が住んでいて、私は彼らをブルーカラーの貴族主義者(アリストクラット)と呼んでいた。なぜなら、ふたりはいわゆる労働者階級の頂点にいて、誇りと尊厳に満ちて道を歩いていたのだ。

 私たちの右隣りに住むひとりは、鉄道技師だった。その頃、鉄道技師はその街の水準に比べて高い給料を貰っていた(そこは人口一万二千人の街だ)。彼は仕事に出かける時、ブルーのオーヴァーオールと、ブルーのシャツと、ブルーの鉄道帽を身につけ、ぴかぴかに磨き上げたかかとの高い黒い靴をはき、腕には大きな弁当箱(ランチバスケット)をぶらさげていた。彼が道をゆくのをただ見るだけでも、それは何か意味のあることだった。一九二〇年代、ブルーカラー労働者のほとんどが未組織で、低い賃金の下で働いていた頃の話だ。

 私たちの三軒左隣りにも、もうひとり、誇り高きブルーカラーの貴族主義者が住んでいた。彼は、地元の製鉄所のひとつに勤める「圧延工」(ローラー)だった。この男はアイルランドの出身だったが、製鉄作業の過程で最も重要な位置にいるキーマンだった。鉄が最後の仕上げができる状態になっているかどうか、彼が決めるのだ。今ではこの仕事はコンピューターがやっている。しかし、当時、経験豊富で熟練した腕を持った労働者は、製鉄作業において決定的な位置にいる職人(アクター)だったのだ。というわけで、この圧延工は、いつも筋向かいの判事と同じ大きなビュイック(とにかく、いろいろある中でも一番高いやつだ)を運転していた。

 このような私の出自背景に関する材料は、読者が私の中でいつもふたつの社会的世界――ブルーカラー労働者の世界とホワイトカラー労働者の世界――が重なりあっていることを理解する助けになると思い、ここに記しておいた。社会学的感受性から言うと、私はずっとはずれもの≒「境界的」人間(マージナルマン)だった。『オアシス』にたむろする男たちは、私が若い頃眼にしたあの誇り高いブルーカラーの貴族主義者を思い起こさせたてくれた。彼らは誇り高く、そして誰にも頼らずひとりで歩いていた。そのことは今も変わらない。私が彼らについての本>を書こうと思った理由のひとつは、これだ。

Blue Collar Aristocrats : Life Styles at a Working Class Tavern ……② はじめに


はじめに

「おれたちゃあんたのことを、ポリ公にしちゃいいヤツだ、と思ってたんだぜ」
――筆者についての『オアシス』の常連の弁


 社会、とりわけ複雑で多様な合衆国のような社会においては、社会の異なった切片を記録し、分析することは重要な作業である。この研究も、そのような作業に寄与することを意図している。

 この研究の基礎をなしている男性、女性は、ブルーカラー(いわゆる「労働者階級」と呼ばれている)のたむろする呑み屋において観察されたものである。この研究は一九六〇年代の後半から一九七〇年代の始めにかけて、具体的には一九六七年から一九七二年にかけて行なわれた。対象となった集団は、内輪の居酒屋『オアシス』の常連であるおよそ五十人の男女である。男性のほとんど(九〇パーセント以上)は建設会社に雇用されている。職種としては、大工、配管工、ブロック工、鳶職、金属板工、左官、壁仕上げ工、トラック運転手、その他の職人たちである。専門的には、彼らはアメリカの「石頭」(ハードハッツ)――彼らはこの呼び名を嫌っている――を代表している。

 調査方法は、いわゆる参与観察である。このアプローチにおいて研究者は、彼の研究対象である社会の社会的世界を外部から眺めるのでなく内側から見つめることが可能であるという期待と共に、彼にとってなじみのない社会の仕組みを洞察することを試みる。アメリカの社会学においてこの参与観察を方法として使った例は膨大にあるが、その最も顕著な例はエリオット・リーボウがそのモノグラフ『タリーズ コーナー』で報告した仕事である。黒人ではなく、また明らかに中流階級の生まれだったにも関わらず、リーボウは彼が研究を志した低所得層の黒人の生活感覚と洞察を読者に与えた。この本は、アメリカ社会のこのような部分についての認識が全く欠けている学部の学生にとって極めて役に立つものである。

 参与観察法のもうひとつの素晴らしい例は、『アーバン ヴィレッジャーズ』の題で発表されたハーバート・J・ガンスの仕事だろう。リーボウとは対照的に、ガンスはボストンのブルーカラーが集中している地域に住み込んだ。ちなみに、同じボストンのブルーカラーについての先行的研究として有名な『ストリート コーナー ソサエティ』においても、著者ウィリアム・フート・ホワイトは彼の研究する地域へと足を運んでいる。

 別の参与観察法は、研究者が彼自身の生活史的経験において何が重要に思えるかを明確にするために後に学んだことを利用し、自身の生まれ育った社会的世界を分析しているという点、いくらか異なったものになっている。これはW・フレッド・コットレルがその有名なモノグラフ『ザ・レイルローダー』で採用した方法である。ここで彼は西部の鉄道街における自分の青春時代を見つめ直しているのだ。また、アーノルド・グリーンのパーソナリティ研究のいくつかにも、ニューイングランドで育った彼の若い頃の経験が利用されている。

 この参与観察法を実践した例にアーヴィング・ゴッフマンがいる。ゴッフマンはその一連の鋭い仕事において、現代社会における平均的人間の入り組み、錯綜した世界のありようを照らし出した。

 現在手を染めているこの研究について言えば、わたしはすでに居酒屋『オアシス』のある地域(コミュニティ)であるレイクサイドという土地に住んでいる。この本の中でおいおい明らかになってゆくだろうが、この街は一応初めはブルーカラー労働者と隠居した農民とで成り立っていた。しかし、第二次世界大戦以降はホワイトカラーやさまざまな職業――医師、エンジニア、大学教授といった――の人々の大量のなだれ込みによる犠牲者(と、もとから住んでいる人々は思っている)となってきていた。このように、わたしはこの地域の住人ではあった(今でも)が、『オアシス』にたむろする人々と接触したことはなかったのだ。事実、わたしにはそこの人々と実際に接触する前に三つの乗り越えるべき障害があった。もとからの住人たちに根にもたれたなだれ込みのひとりである新参者(と彼ら自身は思っている)として。 過去においてブルーカラー労働者たちが裏切られてきたと感じている中流階級の人々や政治家たちと同列に見られるホワイトカラーとして。 怪しまれる教授として。というのは、この研究が始まった当時(一九六五年頃)キャンパス周辺はブルーカラー労働者たちが快く思っていない学生運動のラディカルたちによってずたずたにされていたし、彼ら労働者はわたしもその一員である大学当局がそのような学生たちを取り締まるべきだったと感じていた。

 参与観察法においては、形式的なインタヴューは避けられる。データは調査者がその集団の動きに関わっている間の観察から集められる。そのため、わたしはできるだけ多くの時間その居酒屋ですごすようにし、一週間単位でおこるできごとを経験できるような頻度でそこを訪れるようにした。例えば、金曜日の夜は『オアシス』で既婚のカップルを観察する最も良い機会だったし、土曜日の朝はいつもと違って猟や釣りについての「男の話」がよく聞けた。七月四日(独立記念日)のような休日には、しばしば家族全員――両親、子供たち、そしてそこに住む者のところへやってきたお客さんかも知れない親戚たちまでもがそこに集まっていた。

 人々はひとたび調査者を受け入れれば、ふたつの大きな調査プログラムが続いていた。資料を記録し、そしてある形式に従ってデータを整理する作業は行動科学者とその学生たちにとって有益だった。わたしはそこから帰るとすぐに――たいてい一時間かそこらの間に――そこでの会話とできごととを記録するようした。話した人の使った性格なことばを、その話した人についての情報と共にできるだけ書き留めた。できごと(例えば喧嘩といったような)を記録するということについては、そのできごとをとりまく状況や背景について記録するようにした。記録は筆記によって行ない、テープレコーダーは使わなかった。

 研究が進むにつれて、「何か意味のあること」を言おうとし、最終的に何か形にしようとするのならば、資料はもっとよりシステマティックに整理されるべきだったことが明らかになってきた。このことから、情報はテーマごと――子育て、政治、セックス、結婚、離婚、などなど――にわかれたカードやシートに記録された。このやり方が結局この本の構成につながっている。ブルーカラーの生活についての他の研究者、例えばジョセフ・T・ハウエルは、資料を整理するに際して年間のサイクル(春夏秋冬)をものさしとして採用しているが、わたしはそのやり方は読む時には面白いがデータを利用しにくくするものだと感じた。例えば、ハウエルのそのすぐれた研究の場合、読者は政治なら政治についての資料を拾い出すためにかなりな努力をしなければならない。そのために、わたしのこの研究ではテーマ毎にまとめることにした。このやり方は(ハウエルが考えたような)歪曲効果を持つかも知れないが、データを検索する時にはより便利なものである。

 参与観察法について困難な問題のひとつは、資料がシステマティックに(そこには形式的なインタヴュー計画も質問項目もないのだ)収集できないということである。このことは、資料を集めた後で、その集めた資料を整理し、分析するかなりの作業が必要であるということを意味する。また、このことは依拠すべき理論的枠組みを決定せねばならないということでもある。つまり、あなたが答えようとする行動科学者の最も基本的な質問は何だろう、ということだ。例えば、イギリスの裕福なブルーカラー労働者についての研究において、ジョン・H・ゴールドソープとその研究チームは社会的・文化的均一化についての理論をテストしようとした。つまり、熟練した手作業労働者は、裕福になった時中流階級のライフスタイルに同化するだろうか?、というものだ。イギリスの学者たちは基本的にノーだと結論した。制限つきで、裕福なブルーカラー労働者たちは彼ら自身の独自のライフスタイルを守ったのだ。

 わたしのこの研究における基本的問題は以下のようなものだと言える。 アメリカ社会はどの程度均一化しつつあるのだろうか? 裕福なブルーカラー労働者たちは彼らの収入が中流階級と張り合えるまでになった時、独自のライフスタイルを続けるのだろうか? ブルーカラーの世界において、内輪の常連がたむろする居酒屋はどのような機能を果たしているのだろうか? 先取りしてより一般的に言えば、アメリカ社会の均一化は何人かの研究者によって必要以上に強調されてきているものかも知れない、という結論にこの研究は到達する。この結論を支持するデータはこの本の以下に各章に見られるだろう。

 ある意味で、参与観察を行う者の役割は対照的であるかも知れないふたつの二次的役割を含んでいる。まず、資料収集について調査者は記述しようとする人々とのラポールを十分に社交的に形成しなければならない。そしてこのことは、彼が異なった外の世界からやってきている人間であるために、彼にその他の社会科学者が可能な以上につきあい上手であることを要求する。もうひとつ、分析者にとっての二次的役割は、素晴らしい参与観察者はある部分精通していない理論的熟練を要求する。より広い研究においては、これらふたつの二次的役割は異なった人々によって担われることになるのかも知れないが、この研究においてそれは不可能だった。

 参与観察の目的である集団のメンバーになろうとする時、調査者は研究しようとする集団の中である役割を演じなければならない。例えば、ゴッフマンはその精神病院の研究において、そのような場所で研究者はあり得べき三つの役割のひとつを自動的に演じることになることを指摘している。つまり、病院の患者になるか、病院の職員になるか、あるいは訪問者になるかである。ゴッフマンは病院の職員に属することに決め、体育・レクリエーション部門のメンバーであるふりをした。またハウエルは、その低所得層の研究において、彼らのそばに身を運び、ご近所であり友だちであるという役割を演じた。逆にリーボウは、調査中の社会科学者であるということを明らかにし、その役割を演じた。しかし、インフォーマルには彼もまた、その調査対象である集団のひとりが地域の行政官との対応で助けが必要な時には友だちとして機能している。

 このわたしの研究においては、わたしは最初に自分自身をその店のお得意さんとして位置づけた。つまり、ビールを飲み、ビリヤードをするのが好きなただのその他大勢、というわけだ。結局、わたしが居酒屋で多くの時間を過ごすことで問題が起こり、このことは困難になった。あとで知ったのだが、常連客の何人かはわたしを州の酒類委員会の秘密調査員に違いないと思っていた。この役割の定義がどうもあたっていないと思えてきた頃(ひとりの男は後に「おれたちゃあんたのことを、ポリ公にしちゃいいヤツだ、と思ってたんだぜ」と言った)、店の客たちはわたしがアル中であり、仕事仲間に酒を飲んでいるところを見られる心配のないこんなブルーカラーの居酒屋で飲んでいるのに違いないと結論した。これは妥当な仮説だった。なぜなら、研究が続いている間、わたしは『オアシス』をその中流階級の仲間たちからの避難所として利用している「酒にまつわる問題」を抱えたホワイトカラーたちを何度も目撃している。

 最終的に、わたしは居酒屋の人々から尋ねられた時に次のようなスタンスをとることに決めた。社会学者というものはよい教師になるためにはアメリカ社会のいろいろな局面について知っておかねばならず、ブルーカラーの人々がアメリカ社会をどのように思っているかを知るために『オアシス』の人々は役に立つ。そしてさらに、私はホワイトカラーの人々とずっとつきあうのに疲れてきていてこの居酒屋に来るのはとても気分転換になっている。このことばは全て本音だった――ただひとつの例外は、『オアシス』とそこにやってくるお得意さんたちについての本を書こうとしているということだけだった。

 『オアシス』で過ごす日々が一年ばかり過ぎた後、私はこの居酒屋についての本を書くことになるかも知れないという考えを漏らし始めた。客の何人かはそれを冗談だと受け取り、何度となくこう 「よーし、センセイ、こいつをあんたの本に載せといてくれ」しかし、店の主人であるハリーはその本の話が本当であることを知っていたし、そのための相談相手になることを引き受けてくれた。不幸にして、彼に相談できるほどに原稿が仕上がるその前に彼は癌で亡くなったが、この書き手が居酒屋でおこったできごとや行為についてわけがわからなくなった時に生じる多くの疑問に、彼は本当によく答えてくれた。

 結局、ほとんどの常連たちは「リーが俺たちについての本を書いている」ということを受け入れてくれたが、彼らの多くはそのことをそんなに深刻には考えていなかった。怒ったり、自分たちについて何か都合の悪いことが書かれているのではないかと心配する人も、ごくわずかだがいたが、この本の中から二つの章が社会学の専門誌に載った時、常連たちのほとんどは彼らの居酒屋がニュースになったのを見て喜んでくれた(その店の名前は変えられていたにも関わらず、だ)。

 参与観察によって集められた情報のある部分は、本に載せて世に出すにはあまりになまなましいものだった――他の読者にはわからなくても、店のメンバーはそこに書かれた人々が実際に誰であるかがわかった。必要に応じて、このような資料はこの本の中の記述から落とされている。

 参与観察に従事する人間は、その調査対象である集団の世界に入ってゆこうとする時、しばしば彼、ないしは彼女の心の扉を開くある種の「仕掛け」を必要とする。『オアシス』では、みんなの認めるビリヤードの名手たちがいて、幸運なことにわたしのビリヤードの腕は彼らの中でも上から七番目か八番目に位置するものだった。このことで、私はビリヤード仲間として打ち方を尋ねられたりしたし、ついにはメトロポリタン居酒屋リーグに属する『オアシス』ビリヤードチームのメンバーにまでなった。調査が終わるまでの間に、私はそのチームで三シーズンプレーした。

 明らかに、参与観察法は使うに際して数多くの問題を伴っている。例えば、その集団の中の観察している人間が、アメリカ社会の中でどのように典型的か、あるいは非典型的かということを、調査者は決して知ることはない。つまりこういうことだ。その著作『ストリート コーナー ソサエティ』の中でホワイトが描いた若者たちは、彼らの同世代の中で典型的なものだっただろうか? 黒人低所得者層のほとんどはリーボウが『タリーズ コーナー』で描いたようなものだろうか? 一般的に言って、参与観察の調査者は、そこで発見したことが他の人間にとっても役に立つものだという希望と共に、彼が接触することのできる場所へおもむく。アルフレッド・キンゼイは、何千人ものアメリカ人に対する三時間にわたるプライベートのセックスについてのインタヴューを試みた際、同じ問題に直面した。サンプルについて批判された時に、キンゼイはセックスの研究者は彼の得ることのできるインフォーマントをサンプルとして採用しなければならないのだと言って反論したのだ。また、社会人類学者、文化人類学者も常にこれと同じ問題に直面している。全ての人間社会、人間集団をよそものが親しく観察することが可能なわけではないのだ。

 さらに、参与観察法において、調査者は熟練していたり、完全無欠でないかも知れないし、また、そこで発見したことがどれだけ信頼性のおけるものかを確かめることは困難である。例えば、わたしの学生のひとりはかつて第二次世界大戦中にドブ族の調査を行なったが、彼は、人類学者レオ・G・フォーチュンが発見し、ドブ族の人々と文化とに典型的に見られると報告したパラノイドの症状を発見することができなかったと主張した。

 また、参与観察法についての別の深刻な問題は、これらの研究を検証することが極端に困難である(不可能ではないにしても)ということがある。

 このように、参与観察法にまつわる多くの問題を見てみると、次のような疑問が起こってくる。社会学や人類学においてこの方法がどうしてそのように流行してきたのだろう。ゴッフマンや、ホワイトや、リーボウその他の研究者たちの仕事が、アメリカの大学の社会学科においてそれほど広範に教科書として使われてきたのはなぜだろう。その答えはこうだ。もしもうまく行なえた場合、研究される人々の暮らしに対する洞察と、よりフォーマルで量的な調査によってでは得ることのできない感覚とをこの参与観察は読者に与えるからだ。例えば、もしもコットレルの『レイルローダー』を読んだとしたら、人は仕事が家庭生活にどれだけぶつかり合うものか、忘れ難いだろう。ゴッフマンの『アサイラム』の与える印象の後では、精神病院の患者たちがどのように感じているかということについて、知識人は忘れることはできないだろう。リーボウが『タリーズコーナー』に収められた黒人低所得者層の描写も、多くの読者にとって印象深いものである。

 もちろん、これら質的研究は量的研究の需要を減退させるものではない――ふたつの研究方法は互いに補填される。

 この私の研究が、アメリカ社会のエスノグラフィーに寄与することを望むものである。

Blue Collar Aristocrats : Life Styles at a Working Class Tavern ……① まえがき

 まずは、例によっての言い訳から。


 翻訳を引き受けたものの、なんだかんだで延々お手玉せざるを得なくなり……あ、いや、正直に言えば、ただただてめえの怠惰ゆえに放置してしまい、結果、そのままになっている翻訳草稿ではある。例によって、HDDやらMDやらのどこぞに埋もれていたのを発掘したもので、これも懺悔と供養、何よりもう先行き短くなってきたおのれの罪滅ぼしだろうと勝手に思いなして、この場を借りて上げてみてゆくことにする。版元、確かいったん切れかかった翻訳権も延長して待ってくれていたはず。ほんとにほんとに申し訳ない。


 このへんの一連のラインナップに加えられる予定、だったのだ。

king-biscuit.hatenablog.com

 これだけでなく、当時まだいくつか未完の翻訳本、もちろん語学音痴の自分でなく、それぞれ適切な訳者をお願いしてのラインナップがあったんだが、そのシリーズの言い出しっぺで勧進元の自分が一冊も手がけないのはあかんだろう、という心意気で引き受けていた一冊。今でもヨコのものをタテにして読みたいもの――主に個別具体でつぶさな民俗/族誌的な、ある意味アメリカンで素朴で武骨で風通しの良いジャーナリスティックな記述でもあるような、それまで思ってもみなかったようなステキな学術本たちが、予定されたラインナップの中には、まだまだ残っていた。いずれ正しい「社会学」の仕事ってのは、正しい民俗学文化人類学なんかと同じ意味で、みろ、やっぱりこういうもんだ、と当時、それなりに興奮して船便仕立てて持ち帰った一群の洋書(これももう死語か)の、これもそんな一冊。つてを頼りに自腹でインディアナ大学に居候しに出かけて、図書館やら古本屋やら手当たり次第に通ってあるいて、貧しい財布の許す限り本やらコピーやらかき集めていた頃のこと。80年代後半のことだから、いまからもう30年以上、40年近く昔のことになってしまった。ああ、すでにもう往時茫々……231003




 この本は、四分の一世紀にわたってその店『オアシス』をやりくりしてきた男の思い出に捧げられる。

「ヤツは全くとんでもなくスカシた野郎だったよ」 ――その居酒屋の常連の弁



まえがき

 この本は、私が出食わし『オアシス』と名付けた居酒屋にたむろする労働者階級(ブルーカラー)の男たち、女たちについて書かれたものである。男たちのほとんどはいろんな建築会社で働いている。学生や、その他の読者に彼らについて理解していただけるように、私はこれらの人々のライフスタイルを記述しようと努めた。

 最初の段階では、私たちはその店の常連たちのナマのことばがそのまま記録されれば、この本の資料もより衝撃的になると決めていた。だが、「 」は使われてはいるものの、これらのことばは後に私が録音したものであることは銘記されたい。会話は録音されていないのだ。いくつかの部分において、男たちのことばはそのスケベで粗野といった感じをはっきりさせるために編集されている。女性がそこにいる場合、男たちはしばしば話すことばに気をつかうし、彼らは彼らのそのような身振りの何もかもが活字になって現われることを望んでいないだろうと私は思う。

 第五章「セックスをめぐる戦い」は、もともと『ウイスコンシン ソシオロジスト』第10号(春・夏号 一九七三年)に掲載されたものである。また、第八章「居酒屋の社会生活」も「労働者階級のたむろする居酒屋における社会生活」というタイトルで『アーバンライフ アンド カルチュア』2号(一九七三年 春)に発表されている。いずれもここに再録するにあたっては、原発表誌編集部の許可を得た。

 私の妻はこの「居酒屋研究」について最初から最後までいかがわしいと思っていたが、彼女は研究期間中比較的寛容でいてくれた。私は彼女のそのような忍耐にたいして感謝したい。

 最後に、この居酒屋『オアシス』の人々が、そのまんなかに飛び込んだ中流階級の人間に五年もの間つきあってくれたことについて、感謝する必要がある。私は彼らがこの本を気に入ってくれることを願っているし、この本が世に出た後もずっと友だちでいることができることを望んでいるのだ。


一九七四年一〇月
ウイスコンシン州マディソンにて

鼻歌、ということ


 鼻歌をうたう、という身ぶり、あるいは日常生活上のちょっとした癖みたいなものでしょうか、いずれにせよ、そういうしぐさもまた、昨今見かけなくなったもののひとつかも知れません。

 たとえば、『あたしンち』という、けらえいこのマンガに出てくるおかあさん。実は、なにげにヒット作でアニメ化もされていたので、なじみのある向きも少なくないかもですが、あのズン胴のオバQめいたフォルムのキャラのおかあさんが、台所で洗い物などしている際、機嫌がいい時に鼻歌が出る。もともと『読売新聞』日曜版で連載されていたもので、特に時代設定が明確にされているわけでもない作品ですが、何となく現代、少なくとも連載開始当時の90年代あたりを自明に想定した描かれ方になっていて、主人公であるみかんとゆずという、高校生と中学生の姉弟の両親はおそらく40代半ばから後半。なので、「情熱の赤いバラ~、そしてジェラシー~」という、その鼻歌の出だしの歌詞とおぼしき一節は、それだけで昭和歌謡、おそらくは高度成長期から70年代あたりの漠然としたイメージを下敷きに、読み手の側の世代によって人によって、西郷輝彦から沢田研二西城秀樹と、さまざまに個別具体の声や響きと共に脳裏に想起され得るような、それはそれで絶妙な表現になっていました。

 ただ、この鼻歌、アニメ化に際してフルバージョンで楽曲化された時、作者自身による全面的な作詞にスパニッシュ風味の曲調がつけられ、裏テーマソング的に使われていたのですが、そこまでひとつの独立した楽曲として具体化させてしまうと、マンガの中のアクセント的にしつらえられていたあの「鼻歌」の感じが消えてしまい、個人的にはちょっと艶消し、残念なところではありました。このへん、ちょうど同じ頃、あの『ちびまる子ちゃん』のアニメ化に際して、近藤房之介と坪倉唯子を擁して当時イケイケだったビーイングから仕掛けられた、あの希代の怪曲「踊るポンポコリン」的な人気を当て込んでの企画だったのかもしれませんが、それはともかく。


www.youtube.com

www.youtube.com

 あれが「鼻歌」であったこと、少なくともそういう表現の枠内にあったからこその豊かさ、みたいなものがあったのではないか、というあたりの話です。

 特に、専業主婦があたりまえとされていたような時代の、本邦の「家庭の主婦」にとって、なぜかこういう鼻歌というのは、マンガに限らず、映画やドラマなどでも割とセットで描かれていたようなフシもあって、「鼻歌まじりで…」という慣用的なもの言いなどもあるように、日々の家事を「鼻歌」と共にこなしている主婦というは、ある意味「家庭」の平穏無事な状態を象徴する表現でもあったようです。


●●
 この鼻歌の「うた」は、もちろん個人的なものであり、作業歌や労働歌のような、「関係」と「場」に開いた共同性を持っているわけでもない、その意味では純粋に「ココロの裡」を表明する手段ではあったでしょう。

 とは言え、明確に「うた」というわけでもない、口と声ではなく、「鼻」でうたう。英語でいうハミングということになるのでしょうが、しかし、ものの本によれば、ハミングと鼻歌はそれぞれ定義が違うらしい。口を閉じて鼻に抜ける息だけで、メロディーだけを非言語で発声するのがハミングなのだそうで、これに対して鼻歌はというと、低い声、小さい音量でうたうこと、の由。言われて見れば、はあ、なるほど、なのですが、じゃあ、どうしてそれが本邦では共に「鼻歌」というひとくくりの言い方になっているのか。歌詞が入ったものを言葉と共にうたうだけでなく、「フン、フンフン~」とフシだけをなぞるような、先の定義によれば本来のハミングもまた、何となく同じ「鼻歌」として認識されているように思います。

 フシだけ、メロディーだけをなぞるのならば、口三味線なんてものもあった。むかしの稽古屋、今で言うレッスンの場で、お師匠さんが口張りでお手本となる調子や音階を眼前のお弟子さんの耳に向かって補助線的にあててゆく、あるいは、祭りの太鼓や囃子の稽古などでもいい、いずれ言葉が介在していない楽器の音そのものを真似るのは、擬音語や擬態語、オノマトペの範疇になるのかもしれませんが、まあ、昨今のエアギターなどを見ていても、英語なら英語の間尺でのそれら口三味線的な、音そのもののオノマトペ的な表現はあるようです。このへんになると、犬はバウワウ、鶏はクックドゥードルドゥー、といった、かつて中学の初級英語で聞き習ったような、音声とそれを引き写す耳、および言語、母語との関係といった問題にもからんできますが、それはさておき、われらが鼻歌というのは、それら口三味線的な引き写しとは、意味も、目的もまた別もののようです。

progrit-media.jp

 たとえば、本邦の「鼻歌」が、「鼻」という限定をつけていることの意味。このあたりが問いをほどく糸口になるかもしれない。

 これはつまり、自分のせいぜい鼻先程度の範囲で、ほぼ自分ひとりのために聞こえるように小さく低く歌う、ということでしょう。ならば、それ以前の低吟などにも通じるかも。低唱微吟、浅酌低唱などという漢文調のもの言いもありましたが、いずれ半径身の丈の範囲に聞こえるか聞こえない程度の音量と調子とで、あくまでも個人的にうたうということ、それが「鼻」という一字に込められている内実だったのではないか。このあたりの「鼻」という比喩に込められた民俗レベルを含めた感覚や意識については、「鼻薬を効かせる」とか「鼻の下を伸ばす」といった、「鼻」にからんだその他の慣用的なもの言いなどにも派生させて考えてみるべきかもしれません。

 低吟、微吟、といった「吟じる」ということは、何らかの節をつけて「うたう」ことだとされています。そこでは、ことばと節とが共にある。つまり、ことばを排除したハミングではない、あくまでもことばと節、歌詞とメロディーが共にあり、一緒に「まるごと」として響いている状態での「うた」を想定している。なるほど、そのように考えてゆけば、かの『あたしンち』の母さんも、そういう意味で、あれは確かに正しく本邦の「鼻歌」であり、ハミングでも口三味線でもない「うた」ではありました。

 つまり、鼻歌というのは、自分が自分に対して聞かせる、言わばBGMみたいなもので、聞かせる相手を想定しての「うた」の作法ではなかったようです。

 酒を呑み、ちょっとご機嫌になったあたりで「つい口をついて」出てくるのが、先の浅酌低唱、微吟の類でした。それが、それまでの漢文脈の漢詩やそれに準じた四角四面で形式も整い、武張ったいかめしい「うた」ではなく、口語系のひらたい言葉での形式も崩れたものになってゆけば、小唄や端唄、さらには流行り唄から流行歌にまで連なってゆくような系譜になってゆく。

 あるいは、銭湯などで湯に浸かり、気持ちがほぐれてラクになったところで「つい口をついて」出てくる「うた」が浪曲浪花節だった時期も、本邦の世間一般その他おおぜいの身ぶり、作法として、少し前まであたりまえにありました。明治以降、本邦近代の常民同胞の、主におとこ衆にとっての鼻歌というのは、多くの場合、浪曲浪花節の一節、まさに「さわり」だった時代は、概ね高度経済成長期いっぱいまでは続いていたようです。かつての豆本、のちには月刊誌や芸能誌の附録としてついてきていた、手のひらに収まるくらいの小さな歌集の類は、それら「さわり」の目録、まさに「鼻歌」としてうたうための、ちょっとしたひと節の目録として、広く流布されていましたし、その中にはいわゆる流行歌や歌謡曲だけでなく、浪曲浪花節から講談など語りものの一節、他愛のない軽口や地口、時には隠し芸の類に至るまでが、同じ形式として共有されていた。  いまやモニター上に、時にその楽曲と関係なさげな突拍子もない映像と共に映し出されるようにもなって久しい、あのカラオケの歌詞にしても、最初の頃は分厚い歌集という「本」のかたちで、クラブやスナックのテーブルにドンと置かれているのが常でした。ああ、そう言えば、当時のスナックのおねえさん方などは、あれを「カラオケの本」と屈託なく呼んでいたのを思い出します。あの無駄に分厚く、いずれ酒や飲み物にまみれて波打ち、さまざまな乾き物や安いつまみの痕跡が容赦なく、しみや汚れの満艦飾となって、最後は忘れられていっただろう、あのような「本」を代々もれなく網羅した図書館なりアーカイヴの類は、果してどこかにあったりするのでしょうか。

●●●
 閑話休題。ならば、そのおとこ衆の「鼻歌」を浪曲浪花節が席巻していた同じ時期、おんなの人がたにとっての鼻歌はどのようなものだったか。もちろん、人によって、属した世間によっては、浪曲浪花節を口ずさむおんな衆も普通にいたことも、ささやかな記録や小さな記述の類に残っています。でも、それとは別に、また異なる「自分」を発見していったことに対応する鼻歌もまた、あったようです。おそらく、「唱歌」や「童謡」といった類の新たな「うた」は、浪曲浪花節を口ずさむ気分や内面のたてつけに収容しきれなくなった新たな何ものか、を引き受ける受け皿になっていったらしい。

www2.nhk.or.jp


www.youtube.com

 おそらく、こういうことなのでしょう。流行歌や歌謡曲というのは、それら新たな「自分」、それまでの本邦常民衆のありようの定型から否応なくズレて漏れ出てこざるを得なかった内面を、男女不問、属する世間や階層、階級、出自来歴その他関係なしに、まずは商品として消費する/できる対象として、さらに「趣味」「娯楽」の受け皿として、そしてまた、さりげない鼻歌としてもなお融通無碍に受け止めてゆくことのできる、いずれそれまでにない射程距離と焦点深度を伴う、とんでもない「うた」でもあった、と。


www.youtube.com

 世の中が変わってゆくこと、大文字の言葉で言うところの近代化し、工業化し、さらに大衆社会へと転変してゆくこと、生まれ育ちや係累のしがらみとは別に、横並びの「ひとり」として、つまり「個」として「個人」として、疾風怒濤の世間を身体ごと渡ってゆくことを否応なく強いられるようになってゆく、そのようなとりとめない過程で、特に求めたわけでなくとも必然的に宿らされていった、それまでなじみのないような手ざわりを伴う内面もまた、それを世間に向けてかたちにする、表現してゆくあらわれにおいて、あたりまえにそれまでと違うものになってゆく。殊に、最も不定形で輪郭の定らない、日々のちょっとした気分やキモチ、ココロのありようについてはなおのこと。

 思えば、自分などより少し年上、学生時代の先輩や、さらにその上くらいまで含めての人がたには、いわゆる詩や短歌の一節を鼻歌のように口ずさむ、あるいはそこまで行かずとも、何かの拍子にそれらの一節を、それこそ浪曲の「さわり」のように口にする人がいたものです。中原中也宮澤賢治などが割と多かったような記憶がありますが、それはさらに年上、親戚の叔父さんあたりの年格好になると、佐藤春夫斎藤茂吉になったりしていた。まあ、具体的には、日常の中のある局面において的確に何かを言い表したり、伝えたりするための便利な断片、ある意味ことわざや俚諺、俗諺のような使われ方をしていたところもあったように思いますが、それにしても、それら詩や短歌、場合によっては誰もが何となく聞き知っているような小説や映画のせりふなども共に、まさに「鼻歌」的に、誰に聞かせるでもない、半ば独吟、低唱といった態でその場に放り出されるものでした。あれにフシがついていれば、正しく「うた」の範疇だったでしょう。でも、詩も短歌も、すでにそのような「うた」としてあるものではなく、活字を介して外から「知る」ものになっていた。だから、それをフシと共に「うたう」ことはなかった。でも、いまこのように思い返してみるならば、あれはやや干からびた「鼻歌」であり、あるいは、それまでの浪花節の「さわり」の零落したかたちだったのではないか。

 世に黙読の習慣が浸透してゆくことによって、必然的に抑圧され、別のありように向かわされていっただろう何らかの内面的なココロの動きみたいなものが、何か新たなはけ口を求めてゆく際のひとつのあらわれ。「うた」としての形がはっきりと求められ、上演としてうたうことに意識的に向かうよりもまだずっと手前、何かココロが動いてしまったその瞬間、耳になじんで覚えていた何かの一節が「つい口をついて」出てしまう、そんな言葉もフシも一体となった何ものか。それは多くの場合、日常の緊張がほどけてゆるんだ「機嫌のいい」瞬間のものだったとしても、しかし時にまた、唐突に襲われた悲しみや嘆き、予期せぬ時に平手打ちのように出喰わした激情の宿る刹那においても、同じように「うた」に向かったりもした。たとえば、あれは砂川でしたか、いまや半ば伝説のようになっている反米軍基地の闘争時に、警官隊と対峙していたデモ隊の隊列から期せずして流れたという「赤とんぼの唄」なども、そのような脈絡からは「鼻歌」の延長線上にあったものだと思います。


www.youtube.com

www.youtube.com

 これらの仮説の併せ技の先に、たとえば口笛なども含めて考えていいのかもしれません。ただ、これはこれでまた別方向のとりとめない考察が必要になりそうなので、この場では措いておきます。ともあれ、近代の過程で「ひとり」であること、を自覚させられてゆく個人にとっての感情表現のひとつとして、〈いま・ここ〉に連なるような「うた」があるのだとして、その最も個人的なつぶやきに等しいかたちが鼻歌であったらしい――半ば思いつきの仮説ですが、ここはひとつ、覚書として書きとめておきましょう。

 黙読の習慣を身につけてしまった生身にとっては、「うた」もまた、それまでと別の聴き方、聞こえ方をするようになっていった可能性。話し言葉で発声され、語られるものも当然、それら黙読的な身体にとっては、うっかりと内面化させてゆくような回路に流し込まれてゆくものになっていたのだとしたら、ことば以外の音も含めて、そのような顛末を引き受けさせられてゆくこともまた、十分にあり得たはずです。ことばとフシ、歌詞とメロディーを明確に別ものとして、分離して受け取ることが決してあたりまえでもなかった本邦常民同胞のココロの習慣からすれば、フシだけをなぞるハミングは口三味線ではあったとしても、それはそのままでは「鼻歌」に包摂されにくかったでしょう。ハミングである口三味線もまた、「まるごと」としての「うた」に寄り添ってゆかないことには――別の言い方をすれば、ことばもフシも共に混然一体、同じ地平に「ある」ような受け入れられ方に身体ごと認められない限りは、その方向がポジティヴなものであれネガティヴなものであれ、いずれおのがココロがゆるんで解放された時に「つい口をついて」出てくるような「鼻歌」にはなり得なかった、と。

 言語の枠組みを介して意味に変換される回路が働かない、純粋な視覚や聴覚、眼に見えるものや耳に聞こえるもの、について、日常生活の中でわれわれはもう実感できなくなっています。それはたとえば、生まれて初めて海外に出た時、異なる文化の見慣れぬ風景で、どれひとつ全く翻訳不可能な看板や標識、おのが身になじんだ意味の空間に変換して取り込むことのできない〈いま・ここ〉に立ち往生するしかなかった、あの時の気分を思い起こしてもらえばいい。「うた」に向かうための初発の感覚、生身の情動の地点には、いま、このような情報環境においてもなお、それら眼前の現実、あるべき〈リアル〉からいきなり疎外され、放り出されたような気分を宿した生身は、そうと見えにくくなってはいても必ずどこかに、同時代のものとしてあるはずです。