「民主的人間」の罪

 すでにご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、不肖大月、西尾幹二さんや藤岡信勝さんといった方々が呼びかけ人になって作った「新しい歴史教科書をつくる会」という会の片棒を、敢えて担がせていただいております。この四月から新たに採用された中学校の歴史教科書の内容があまりに偏っているということに端を発した、いわゆる「教科書問題」に本腰入れて取り組もうとしている会ですが、この「教科書問題」、今のところニッポンで一番誤解や中傷や悪意の視線が集中している地点らしくて、「片棒を担ぐ」と公言した頃から無言電話はかかるわ、薄ら笑いで遠巻きにされるわ、いやもう、困ったもんであります。

 ただ、この「遠巻き」の構造が面白い。人はいかに「民主的」に「差別」をしてゆくかが、実によくわかるのだ。

 特に、編集者とかテレビのディレクターとか、いわゆるマスコミ関係の人たちの対応にそれは典型的に見られる。たとえば、仕事で打ち合わせをしている時に何かちょっと行き違いや意見のズレが出てきたとする。よくあることだ。けれども、それ自体は大したことじゃなくても、“「教科書問題」の片棒を担いでいる人”というレッテルがこちとらにはっきり貼られてこのかた、「ああ、やっぱりそういう立場の奴だから面倒なんだ」とか、「そのへんがからむと厄介だから触れないでそっとしとこう」とか、言葉にはならないけれど、そういう空気がまるで申し合わせたようにサーッとその場に流れて、肝心のその仕事の上での行き違いがどんどんぼやけていってしまうのだ。

 それは気配りというのとは違う。もっと腰の引けた、その分、自分が正面から事態を受けとめなくてすむような、ずるさや横着さが裏にある実にいや~な空気だ。言葉は悪いけれども、身障者を取り巻く「善意」の視線に近いものを感じる、ってこんなこと言うとまたぞろ「善意」の「抗議」が山ほどやってきたりするんだろうけど。

 でも、ほんとに、そういう空気を発動してゆく言葉やもの言いって、面白いことにそれ自体は完璧に「民主的」だったりするんですよね。「あなたの立場は尊重します」とものわかりのいい「民主的人間」を演じたがりながら、しかし、その「立場」を正面から受けとめて考えようとする具体的な「自分」は決して作ろうとしない横着。マスコミ関係者のよく言う「客観的」や「中立」ってのも、まさにそういう具体的な「自分」という「立場」のないのっぺらぼうの化けものともはや同義だったりするんだけどねえ。

 「人権」や「言論の自由」といったお題目を振りかざして、しかし現実にはいろんな不自由を押しつけて平然としている人たちの神経ってのも、このメディアの現場に漂っている空気と共通している。で、そういう「民主的人間」ほど、何かというとすぐ居丈高な「抗議」を申し込んできたりするから始末が悪い。民主主義の破壊ってのは、実はこういう「民主的」な形で進んでゆくのかも知れないと、本気で思う近頃であります。

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*1:サンデー毎日』「ちょこざいなり!」連載原稿