「自己責任」の向こう側に

 マンション耐震構造偽装事件、ライブドア粉飾決算事件……このところ世間を騒がせている事件を眺めていると、じゃあそれを見過ごしていた「監査」ってなによ、という疑問がわいてきます。同時に、そういう仕事の「責任」ってなあに、ということも。

 構造改革で民間に監査業務を委託するようになったから、いい加減な監査が横行して偽装を見抜けなかった、という批判も出ています。裁判に普通の人が関わる裁判員制度も、どうやら「そんなの迷惑」といやがる向きが多そうで導入は二の足を踏んでいる様子。ほらみろ、やっぱり民間任せじゃダメだ、もう一度官に、という反動さえ起こりかねない雰囲気も。

 忘れちゃいけない。お国が、官が関わっているから安全で大丈夫、と無条件で思えなくなったからこそ、官から民への流れに世間はここまで共感してきたはずです。世のため人のために粉骨砕身、私生活も清貧に甘んじて身ぎれいに――公務員でも政治家でも、そんな絵に描いたような「エラい人」がいまどきそうそういるわけない。第一、ほとんどの人がそんなの勘弁、と思っているはず。自分もしたくない、できないことをどこかの「エラい」誰かに押しつけたまま、そんな消費者意識の横着ばかりが蔓延したら、そりゃあどんな社会も成り立つもんじゃない。

 世の中にもう「エラい人」はいない。いなくてもいい。凡人が凡人なりに正気を保って、あたりまえにできることを互いにやる、そんな中から「責任」をつむぎ出してゆく、それで充分世の中まわしてゆけるという信頼感。自分もこの社会の当事者なんだ、という前提なしにはどんな民主主義も自由も成り立たない。昨今、いささか食傷気味の「自己責任」というもの言いには、実はそういう意味も含まれているはずです。