0.
多言は無用。のっけから言いっ放す。
電話とは、社会というまとまりをドライヴするために最低限求められるある種の共同性を編み上げてゆくことばが失われた現在、誰もが平等に、修練という名に値する過程を経て獲得するもののほとんど何も必要のないまま、唯一確かなものと簡単に思い込んでしまえる「個」をひねり出し、なお半ば習慣的にそこに縛りつけ、眠らせておくための装置である。
「個」であることをわずかでも信じさせ、確認させてくれるための装置として、電話は、しらじらとした部屋の片隅で、あるいは街角、せいぜい一メートル四方のアクリルの箱の中で、いつも神々しく輝いている。夜道、ぼぅと明るい電話ボックス。その風景は、自動販売機と同じ明るさで僕たちの現在にしみついている。光ファイバーをくぐった光がその最も端末部分、世界と対峙する切断面で刹那、はじけ飛ぶように、このとほうもない広がりを背にした小さな端末は二四時間、こうこうと光り輝く。
受話器の構造を見るがいい。口と耳とがささやきの距離で直結される。他の誰でもない、自分にだけささやきかけてくれているような感覚を、電話は巧妙に作りだしてくれる。それは、肉声の届く範囲をはるかに超えてのべたらに広がった音と声の舞台に、ささやかな「個」の空間を創り出す。
人類が発明した最初で最後の永久運動装置かも知れない資本主義は、「個」を創出し、そしてそれを商品として身喰いし続けてきた歴史を持つ。空間が、時間が、あらゆる現実の舞台が「個」の単位に分節されてゆく過程は、そのたびに資本の側から見通せない新たな領域を生み出してゆき、それはまた、随時新たな資本の視線にさらされることで資本の運動の側に回収させられていった。例えば、「生命」までもが常に「個」に根ざして意識され、同じように最も根源的である筈の死への想いすら「個」が滅びることへの恐怖に根ざしているかも知れないほど、この「個」への欲望はこの時代にあらかじめ埋め込まれてしまっている。
この国の電話の現在を考える時、このような「個」を創出する装置としての側面から切り込んでゆくことがとりあえず必要なのだ。
1.
まず、現在に直結したところで、具体的な空間を「個」に分節した四畳半とワンルームマンションの間の何万光年について語っておこう。
四畳半では自分のいる場所が中心にあらゆる「もの」が配置されるようになっていた。例えば、こたつが置かれる。そして手の届く範囲にぐるりとさまざまな「もの」がばらまかれる。灰皿が、文庫本が、身の大きさに配置され、そしてその文法は自分のいる場所に統合されてゆく。だからこそ、松本零士は世界と直結した宇宙大の空間として四畳半を描くことができた。ふすまを開ければその向こうにどのような世界が広がっているか、自分のいる場所を軸に具体的なイメージとして描くことが可能だった。
部屋の中だけではない。四畳半の集合したアパートという単位でも、時にそのような世界の組み立て方が貫かれる。
共同の流し、共同の便所(「トイレ」では感じが出ない。「便所」だ)、共同の靴箱に共同の郵便受け。急で、狭くそそり立つ階段。折り重なって転がるスニーカーと、埃まみれのひしゃげたスリッパ。そして、共同の「呼び出し」電話。そのようなアパートでは、日々の暮らしの脈絡は必然的に自らの部屋以外につながってゆかざるを得なかった。
部屋と部屋との間の脈絡が縦横無尽に張り巡らされざるを得ないそのようなアパートは、確かに「ひとりになる」ことの困難な不自由を強いた一方で、時に信じ難い結束も現わした。号令一下、とまではいかなくても、何かことがあるとそれぞれの部屋は自発的にほとんど「ヤド」の状態を呈した。誰かが常におり、誰かが常に出入りしていた。顔見知りでなくても、朝、起きてそこにいる眠そうな顔は、確実にそのような場の内側にいる人間へと転化していった。サンダルをつっかけ、小走りに路地を駆ければ、それでまた別の場とつながってゆく可能性が開けた。階段の下、電話がかかっていると大声で呼ばわる大家のバアさんまでもが、そのような場の抜きさしならない要素としてあった。
だが、電話が「呼び出し」でなくなり、廊下の隅に独立した赤電話かピンク電話が一個、ぽつんと置かれるようになると、にわかに様相は変わってくる。受話器に向かって廊下でささやかれる声に誰もが聞き耳を立てる。それは音ののぞき見に等しい。のぞかねばならないような、何かうかがい知れない不透明な世界が、廊下の一〇ワットばかりのケチ臭い電球、そのほやっとした明かりの隅に忽然と現われる。背中を丸めてボソボソと受話器に向かってささやき続ける声は、そのような共同性から囲い込まれた「個」の領域であることをこちらに向かって語っていた。四畳半の作り出すわけのわからない場は、廊下に置かれた赤電話から風穴をあけられ、きちんと区画されていった。
ワンルームマンションという空間では、人はメディアの側から居場所を規定されてくる。「もの」の方が住人のいるべき場所を規定してくるのだ。電話の近く、ステレオの近く、テレビの近く――これらの機器に今やあたり前のようにしてついているあの横着なリモコン装置は、そのような一方的にメディアに規定される身体を前提に普及した筈だ。
ワンルームマンションが理想の「個」を演出する空間となった時代、ラジカセやステレオ、ビデオやテレビ、電話、クルマが暮らしを支える重要な道具(メディア)になる。パッケージされた均質な音を受信し、複製し、放射し続けるためのラジカセやステレオ。なめらかに設定された均質な「都市」の内側を移動するためのクルマ。自分にだけ語りかけてくれる声を手もとに引き寄せるための電話。それらはいずれも「個」を発生させる装置であり、そしていずれも七〇年代を通じて、「若者」に向けて、たれ流しの媚態と共に売り続けられてきた「もの」たちであるという点で共通している。
例えば、最近話題のあの個人カラオケが電話ボックスの大きさであるのには、きっと理由がある。十畳敷きの広さの電話ボックスがあったとして、そこで長電話はしにくいだろう。「個」の再確認という作業を行なうために必要な大きさ。狭すぎても、広すぎても具合の悪い広さ。それは、電線にとまるスズメたちの間にも守るべき物理的距離があるように、文化に根ざした広さなのかも知れない。
しかし一方で、何も置かれていない電話ボックスの広さがあったとして、それだけではおそらく「個」をもう確認できなくなっている、という側面は否めない。断言してもいいが、そのような空間よりも、たとえ十畳敷きであっても電話が一台ある空間の方が今のこの国の 若い衆 にとっては「個」を確かめやすい場所の筈だ。逆説的な言い方になるが、今や「個」であるためには、別に身ひとつである必要はなくなっている。たとえ南極大陸の真中でさえ、例えば電話が一台あれば、彼は「個」であることを確認できる筈だ。
四畳半とワンルームマンションの間に横たわる距離は、単に物理的な広さの問題ではないし、内装や家具丁度の問題でもない。それらの要素を含めた先にある、「個」であることを確認してゆくメカニズムの変貌の問題に他ならない。そして、それは社会というまとまりの組み立てを根底から変えてゆく切実な変貌である、ととらえねばならない。
2.
今、子供たちは、おそらく文字を覚えるよりも早く、電話のかけかたを覚えるのではないだろうか。
「もしもし」という常套句によって開かれてゆく耳の快楽に、彼らはいちはやく身をゆだねる。親たちのふやけた笑顔と共に傍若無人に迫るビデオカメラに向かい、見事に均質な声と語りを運ぶ白い受話器に対面することから、彼らは「世界」の成り立ちを垣間見て、そしてその「世界」に自らを埋め込んでゆく過程に没頭する。
人間にとって「第二の自然」である文化の中に生まれてゆく社会化の過程でのこのような経験は、その「世界」に関与するための道具と、それを扱うための技術の習得、共有という過程に、大きな亀裂を入れてゆく。
子供にまつわるあらゆる生活用品にキャラクターがつけられ始めた頃、花森安治はこう嘆いた。
「大人でも、持ち物や、着るものや、使う道具によって、その人間が変わってくる。まして、これから育ってゆこうというこどもには、それが非常にひびいてくる。……(中略)……おばけのQ太郎のついたノートに鉄人28号のついた鉛筆で書き、スーパージェッターのついた消しゴムで消し、おそ松くんのスケッチブックに鉄腕アトムのクレヨンで書く、そんな日々をつみかさねてどんな感覚がみがかれ、どんな勉強ができるというのだろう。」(「なにもかも漫画だらけ」1966年)
彼はこの時点で「これは、漫画を見るのがいいとか悪いとか、といったこととは、もっとべつの、ずっと大きな問題」だと見抜いている。正しい。論じなければならなかったのは、漫画の是非、などではなく、漫画を野放図に増殖させそれらの「もの」にまで写しとってゆく巨大な仕掛け、だった。しかし、そのような議論はほとんどなされないまま、時代は動いていった。
少し前、「女子大生」という言い方があった。あれは、八〇年をひとつの目安にしてある完成を見た現実において、資本の側が捕捉しなければならない標的に向かい焦点をしぼってゆくための、浮標のような役割を果たしていた。もとより、性別はそれほど重要ではない。性別を超えたある意識をメタフォリカルに指示しようとした時に、「女子大生」という言い方がひとまず選ばれたに過ぎない。それは、敢えて実年代的に言えば、高度経済成長がそのピークを迎える時期、言い換えればあらゆる「もの」が具体的に身のまわりを埋めてゆく時期にものごころついた世代が持たされた意識について捕捉するための指標だった。彼らはまっすぐにその「女子大生」によって指示される意識に向かい殺到し、くやしいが的確に戦果をあげていった。
だが、近頃早耳のメディア周辺でささやかれている「女子高生」とは、それとはまた少し違う。おそらく、一六、七歳あたりを上限にした下方へのゆるやかな、しかし茫漠とした意識の広がり。わかりやすくぶったぎれば、オイルショック以降、高度経済成長が一応の終焉を迎え、それでもなおこの国の資本が「経済のソフト化」と言われるような露骨な「もの」離れの産業構造へと転換することで新たな「成長」を可能にした時期に社会化の過程をくぐらねばならなかった世代をひとつの意識のセット、かたまりとしてとらえようとする時、おそらくこの「女子高生」という文句がズシリときいてくる。そして、この仕掛けは、実年代として、下は幼稚園に入るか入らないかというあたりの連中までまるごと射程に収めることのできる足の長さを持っている筈だ。例えば『コロコロコミック』を手にとり、サンリオが繰り出すさまざまなキャラクター商品に眼を輝かし始めた瞬間から、そのような「女子高生」へと繰り込まれてゆく過程は始まっている。
あの「女子大生」たちが幼かった頃、まだそのような天蓋(キャノピー)は完成途上だった。具体性に富んだ「世界」へと向かう余地は、まだいくらか残されてはいた。だが、じきに天蓋は閉じられ、物語は完結する。その日以降、その内側においてのみ世界は存在する。よほどのことがない限り、そこでは誰もが「いつまでもこのままでいたい」と思い続けることができる。
それは、この国の資本が掘り当てた最後の、と言っていいかも知れない無限大の市場だ。声にせよ、文字にせよ、これまで世界を編み上げてゆくためのものだった筈のさまざまな道具そのものが、あらかじめ資本の運動の版図の内側にほぼ充分に埋め込まれてしまっている状態と、その中で育まれてきた均質な意識。「女子高生」というメタファーによって浮かび上がってきたこの漠然とした広がりにとっては、その意識そのものがすでに成熟した市場に他ならない。全ては「かわいい」という指標ひとつで横滑りになだれてゆく。あらかじめその「かわいい」世界の中でしか育ってきていない意識にとって、「もの」の体系と、その「もの」の体系を介して集中的に表現され、ばらまかれるサブカルチュアだけが共通の「教養」となる。濃密な「もの」の体系が新たな道具となり、ことばの機能を肩代わりする。「かわいい」というのは、彼ら、彼女らの第二言語であるこの「もの」に同調的な意味を担ったものを指す指標だ。
だから彼らに向かう「もの」たちもまた常に「かわいい」方向に過剰な意味を担う。電話やティッシュペーパーのカヴァーから、ぬいぐるみに至るまで、新たな「個」の空間を編み上げ、鎮静してゆくそれらの「もの」たち。クルマの室内から、ラブホテル、ペンションに至るまで、彼らが「キモチいい」と感じる空間は、ほぼ例外なくこのような「もの」たちの文法によって護衛されたもうひとつの帝国である。それら、すでに過剰な意味を担わされてしまっている「もの」たちの、その過剰さの方向に沿った価値観を自己肯定的に表現したのが、あの「かわいい」ということばなのだ。
しかも、それらの「もの」は、それを作り上げ、世界の側から削り出し、あるものとして立ち上がらせる過程を全く隠されたまま、ある日いきなり眼の前に現われる。さらにつけ加えれば、それらはそれらを扱うための技術が極力必要ないまでになめされてしまっていて、身体に抗うことはない。仮りに扱いそこなっても血は出ない。技術はなくてもきちんと作動する。しかもその作動の過程は密閉されたブラックボックス。「便利さ」や「豊かさ」ということばは、少なくともこの三〇年あまり、そのような「もの」の天蓋を完成させるためのドライヴァーとして使い回されてきた面がある。「女子高生」とは、そのような「便利さ」や「豊かさ」によってせっせと作り上げられてきた天蓋のもと、見事に結晶した意識のかたまりなのだ。
3.
それにしても、ことばの機能に拮抗し得るまでに「もの」の体系が濃密化する、というのはどういうことなのだろう。
この国は、「もの」たちがかつてないほど多様な意味をまつらわせてゆく過程を経験した。その時期、「もの」は、そのものの意味以上の何か、へと転化していった。「もの」そのものにまつわる意味だけでなく、そこにさまざまな意味が、例えばキャラクターやデザインなどで作り出された新たな意味がまつわらされていった。花森がいらだったのも、まさにそのような先端の現象についてだった。
そのような、存在そのものから遠ざかってゆくような過剰な意味を担った「もの」が身の回りにあふれ始める。消費者たるべきこちら側にはその差異を読み解く鑑識眼が同時に要求され、そしてその鑑識眼によってまた無限に差異が生まれてゆく。「もの」にとり囲まれた世界は、単に具体的な「もの」の充満する世界というだけでなく、「もの」の具体性から離れてゆく遠心力を宿した過剰な意味が錯綜する場に転じてゆく。それは、「もの」の具体性から離れたアクロバティックな解読さえも許容する、言わば「意味のエッシャー空間」だ。そこにあるステレオは、ソースを再生するための機能としてある以上に、そのようなもうひとつの意味を放射するためにある。動物の顔のついたスリッパは、スリッパとしての機能とは別の意味をまきちらす。ヴェブレンのあの「衒示的消費」を持ち出すまでもない。「もの」にまつわる意味が短い間にとんでもない厚さに堆積し、もともとの具体性を見えにくくする。
「かわいい」ということばでくくられる「もの」たちは、どれも過剰にまつわらせた意味によってそのような直接の有用性を覆い隠されている。
例えば、ぬいぐるみを集めるあの心性とあの情熱。あれは具体的な「もの」を集めるコレクターやマニアの意識というよりも、そのような新たなことばによって世界を作り上げる行為と考えた方がいい。コレクターならば、例えばぬいぐるみの材質や縫製技術を論じるまで徹底してゆくし、そのためにぬいぐるみを分類し、序列化し、鑑識のものさしを構築する欲望が付随する筈だが、あのぬいぐるみにこだわるティーンたちにそのような過程はついに現われない。ただぬいぐるみの増殖だけを目的とするかのように、「かわいい」という基準だけで彼女たちは新たな世界を作り続ける。
あるいは、俳優養成所の風景。よそゆきと借りもののことばに苛まれ、ほとんど硬直したまま立ち尽くす役者志望たち。その板にたった一個、電話を置いただけで、彼らの芝居の質がガラリと変わる。彼らは嬉々として「電話をかける」という芝居をやってのける。相槌の打ち方、間のとり方、手もちぶさたの身振りに至るまで、ものの見事に「身についた」演技のエチュードを披露する。受話器を持つことで初めて解放されることばと身体。
具体性から意味の方へとあらかじめ疎外された「もの」たちによってもたらされる世界のゆがみが、生身のことばの次元にも反映されている。
情報資本主義段階の台風の眼になっている通産省の戦略転換のもと、最近続々と開局されているFM局のどれもが、耳ざわりなほどに英語のディスクジョッキーを売りものにしているのも、そこで流されている英語がすでにことばではない「音のアクセサリー」だからだ。ことば本来の意味を遥かに離れた「音」だけが、別の意味を担ってばらまかれる。もちろん、発されることばは、それ自体「音」に過ぎないような羅列であっても、その「音」の連鎖の中で何か別の意識が交換されている。だが、それはことば本来の「意味」ではない。例えば、ポピュラー音楽の英語は、日本語の言語空間において十全な意味を担ってはいない。そこで歌い、語られていることばの意味は、この国の音楽市場を支えている意識にとって、ほとんど重要ではない。どのような内容が歌われていようとも、どのような意味が込められていようとも、商品としての音楽の価値を規定する要素としては極めて希薄にものにすぎない。メロディやリズムや音そのものの響きといった意味の次元と拮抗するだけのことばの意味は、極端に背景に退けられる。それは坊主の読むお経よりもはるかに「唐人の寝言」であり、そして「唐人の寝言」であるということによってのみ意味を持つ。
ラジオのDJに代表される「ノリがいい」とか「盛り上がる」と形容され、もてはやされる会話の滑走感覚にしても、「意味」のかったるさをポンと離れた「音」そのものとしてのことばだけがリズミカルに打ち出され、打ち込まれ続ける感覚だ。会話を組み立てることばが、表層だけ滑ってゆく。ことばが相互性を保証し、それによって共に変わってゆく、という過程を信じることさえ危うくなっている。それを「かろやか」というようなだらしない形容詞で言いくるめ、判断停止してしまうことだけはしないでおこう。それは断じて「かろやか」ではないし、さらに言えば「対話」ではないし、「会話」でもない。
ことばは、ない。意味も、ない。対話もないし、会話も、ない。しかし、にしてもなお、そのような「意味」を剥奪された「音」の連続による刺激は、果てしない伝達と増幅の回路をくぐって耳もとに解き放たれ、鼓膜を心地良く、確かに振動させ続ける。もっとも至近距離での耳の快楽。ソースのデジタル音源化と、精緻なPAシステムとによって作られる強大で透明な音の塊が直撃する経験から、最も微細な振動の距離でささやき続ける音の経験まで、耳もまた苛酷で度外れた現在にさらされている。耳の距離感の喪失。遠近法の混乱した耳の現実は、近代を規定してきたあの「眼の優越」をひそかに揺さぶり始めているらしい。「眼くらまし」ならぬ「耳くらまし」の静かな猛威が、眼の現実の向う側で吹き荒れている。
4.
そろそろ電話に戻ろう。
このような、時代の図柄の大きな変貌の中で、「個」であることをいつでも確認できるための装置として電話はある。それは、言い換えれば「メディアの向う側」「ものの向う側」をいつでも作り出すことができる装置、ということでもある。
濃密なマスメディアのネットワークにくるまれることで可能になる「個」というイメージのもとに組み立てられた「カプセル人間」という議論があった。メディアがあちらこちらから接続したカプセル空間の中にのみ漂う意識。それは言わばメディアによってつむがれる繭玉だ、というわけだ。
見取図としてこの鳥瞰図は今も検討に値する。だが、その大文字の図式の下、それぞれの生きる場でどのような が行なわれているかを見ようとする時、この「カプセル人間」という鳥瞰図とは別の、言わば等身大の透視図法が必要になってくる。日々の眼線の高さから見渡せる風景。電話を単に意志伝達のための道具とだけ見ていてはことの半分も見通せない。「コミュニケーション」という口あたりのよさそうなことばが、また新たな神話をつむぎ出している現在、地理的な懸隔を一足飛びに埋めることのできる飛び道具という一面だけで電話を、そして次から次へと登場する「ニューメディア」を理解しようとするのは片手落ちだ。その「一足飛びに埋める」ことによって派生する意識を、それぞれの場から凝視することが必要だ。
濃密にはりめぐらされたメディアは、人を「カプセル」に自閉させる、だけではない。そこには、それらのメディアが不断に「向う側」を作り出す、という過程も同時に存在する。そして、その「向う側」を意識することによって、そことの関係性の中で「個」つまり「こちら側」は初めて、その輪郭を露わにしてくるからこそ、大文字の図式での「カプセル」という言い方も可能になる。
この国の 若い衆 にとって、学校で毎日会う友だちとの身の大きさの関係では、もう「個」は彫啄されないのかも知れない。いや、もう少し正確に言う努力をしよう。ことばが他者との差異を確認するのではなく、本質的に同じであることだけを追認するためだけに消費されるようになっている以上、等身大のまるごとのことばのつむぎだす空間だけで、彼らが日々を生きてゆくために充分な「個」の意識は彫啄されない。身の大きさで交換されることばの世界で、本質的な差異は作られてゆかないのだ。
具体性から遠い「もの」というもうひとつのことばを介してのみ差異は作られ、充分な「個」は彫啄される。彼らはその「もの」によって作られる言語空間で、信じるに足る世界と接触する。学校で会っている友だちと家に帰ってからもわざわざ電話で長話をする、ということは、おそらく、こういうことだ。そこで話されている内容が仮りに実際に会って話されることとことばとしてはまったく同じものであっても、「もの」の世界の「向う側」からの声であるか否かという一点でのみ、それが「個」を保証してくれるための「会話」であるかどうかが決定されてくる。仮に、それら「もの」を介して発せられることばは、ことばとしては互いの同一性だけを追認するようなだらしないものであって、とりあえず構わない。ことばがそれ自体の論理に従って自力で差異を削りだす必要は、彼らにとってはもうないのかも知れない。それが第二言語たる「もの」の作る世界をくぐったことばであるかどうか、という点にだけ、差異を作り出す力が宿っている。ことばは、ことばの担う意味において重要なのではなく、それがただそのようなメディア(「もの」の作る世界)の「向う側」からやってきたことばであるか否か、ということだけが重要なのだ。
「個」の意識は、人間の、生身のことばを発する生きものとしてのこの実存を軸にではなく、「もの」によってつむがれる世界を軸にしてつむがれてゆく。身体の拡散。「もの」の体系の側に薄く広がってゆく身体。過剰な意味を担ったそれらの「もの」のひとつひとつに「個」は宿り、それぞれが不定形のぶよぶよとした「個」を担っている。
メディアでつながる、のではない。メディアで断絶する、のだ。つながる、という言い方は生身の「個」を軸にした世界観に依拠している。メディアは、あらゆることばにメディアをくぐってきた「向う側」という意味を担わせてくれる存在であり、その限りで不断に「個」を彫啄してくれる。
絶対に自分の生身のところで関わってこないように遮断してくれる装置。眼の前に具体的な手ざわりと息づかいとで圧倒的に「在る」ものとして存在することのないように「向う側」に押しやり、それでいて、ことばの次元では限りなく心地よいパルスを送り続けてくれる仕掛け。彼らは、いわゆることばと、「もの」というこどはとの二重の言語空間を生きることを強いられる。そして、それは大なり小なり僕たちの「現在」の強いてくる属性でもある。
「もの」が世界を遮断してくれる。「もの」だけが「個」であることを確認させてくれ、そしてそのように作られる「個」になじむような新たな「ことば」とそれによって育まれる現実が根を張っている。「もの」の集積はアイデンティティを作りだしてくれる長城になる。そこでは、「もの」はことばであり、世界を組み上げ、世界とつながるための唯一の教養となっている。
「アイドルとは、学校的教養の量が人間の価値一切を規定するこの社会に拮抗すべく生じた、明確に言語化されうる基本的教養を共有しなくとも消費を享受することによってあらゆる欲求を満たそうとする反・教養のあらわれのことである。」(天ぷらの夜明け団+ぴーこちゃん「斎藤由貴雄クンのために」1989年)
明快だ。この「アイドル」をさらに拡大し、ここで論じてきた「もの」の体系に置き換えるだけでいい。
彼らは学校的教養の範囲で流通することばよりも、そして、そのことばによって彫啄される「個」よりも、それ以外の「ことば」を信じていたいのだし、事実そう信じている。そして、時と場合によって、そのふたつの言語空間を自在にシフトしてみせることすらやってのける。どれだけどっぷりとその病いに浸かっていても、「自分だけは違う」と真剣に思い得る彼ら特有の意識は、そのような自身を軸にした世界の構築ができないまま、しかも世界を組み立てる道具の無節操な複層化にさらされた結果の悲喜劇――と敢えて言い切ることからしか何も始まらないと思うから、こう断言する――に他ならない。それは確かに「時代のスカをつかまされた」のだし、その限りでは必ずしも彼らのせいだけでもないのだが、しかし、そこから脱出するための営みも、可能性も、また時代の内にしかないことを直視しようとせずにだらしなく自閉するのは、もう正しく自分自身の責任に帰する知的怠惰以外の何ものでもない。
伝言ダイヤルに代表される電話を介して引き寄せられる「向う側」の声の誘惑と、それに呑み込まれてゆく彼らの物語は、ごく近い将来、例によって社会問題となるだろう。だが、治癒のための手だてはそのような「社会問題」を表面化させる仕掛けの中にはないように思われる。それには、僕たちがどのようにして共有すべき社会というものを、もういちど組み上げてゆくのか、ということについての辛抱強い対話と、そのための仕掛けの模索とが不可欠になる。そして、それがもう単に電話だけの問題ではないことは明らかだ。
もういちど確認しておこう。今、この国には、社会も、国家も、ない。ただ、電話と、電話に集約的に現われている時代の病いだけがある。その背後には、未だ声もないまま、時代の表層に浮かび出ようとしているのっぺりとした意識の巨大な塊が、ゆらゆらと、しかしとほうもない大きさでうずくまっている。