あなたはそんなにも手をふる

 一枚の写真がある。モノクロームの、少し粒子の荒れた写真だ。

 左から右へ、鼻面合わせて疾駆する馬が三頭。左手前、ひとりの男がちぎれんばかりに右手をふっている。手には手拭いかタオルとおぼしき布きれ。長靴に作業服、頭には後ろ前の「ベットウ帽」。腕まくりした二の腕が光って白い。足もとの馬場は黒くぬかるんでいて、水たまりすら見える。*1
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 一九六九年、世が騒然と煮え立つような年のダービー、府中競馬場の直線走路。思わず飛び出したこの男は、三頭のまんなか、ゼッケン18番ダイシンボルガードの厩務員。確か石田さんといったと記憶する。今もまだ美浦トレセンで働いている筈だ。

 ダイシンボルガードは全く人気のない馬だった。この年のダービーの人気を背負っていたのはミノル。だが、雨上がりの馬場、坂を上がったあたりでそのミノルとハクエイホウの間を割って抜け出してきたのは、大崎騎手を背にした彼の担当馬ダイシンボルガードだった。彼はたまらずラチを超えて馬場に飛び出した。当時の記録フィルムを見ても、ピョンピョン跳びはねながら手拭いをふり、馬といっしょにゴール前へ向かって左から右、小走りに駆ける石田さんが映っている。

 僕はこの写真が好きだ。

 運動会に行き、かわいがっていた少年の走る徒競走を思わず一緒に駆け出したあの無法松のように、頑張れ、頑張れ、と声をかけながら身体を運んでしまう、その眼に見えない力のひきしまったありかたに、ある時代を貫いていた感受性を見る。ざわめき、うごく眼の前の流れに自分の身を同調させてゆきたい、そのわき上がるような感きわまった想いの方向が、こちら側につきささる。それは、マラソンのコース、沿道に集う人々や、あるいはあてもなく川面を見つめる裏通りの老人のいる場所にも通じてゆく。

 戦争中のこと、基地を発進してゆく戦闘機や爆撃機を見送る者たちに「帽振れぇ」の合図がかかった。機首をもたげ、プロペラの爆音と共に遠くを滑走してゆく飛行機に向かい、将官も、整備兵たちも、誰もが手に持った帽子をゆっくりとふる。機上のパイロットたちの首に巻かれた白い絹のマフラーが、コックピットの風防からなびく。お世辞にも鮮明とは言えない当時の報道写真に刻まれている風景から読み取れるのも、やはりそんな無数の石田さんや無法松たちの、そのはるかに遠いものに向かった息詰まる想いだ。

 泣いたり、笑ったり、そんななにげない感情の表現までもが、実はがんじがらめに歴史に縛られていることを教えたのは柳田國男だった。半世紀ばかり前、『涕泣史談』という文章で彼は、人がむやみと泣かなくなり、子供ですらものわかりよくなったことをとりあげ、近代を可能にしたさまざまな仕掛けが人々の感情表現までも変えていったことを描いている。そこここにあった筈のことば以前、ただ手放しで泣くことでしか解き放てない想いのとめどないかたまり。だがそれは、ほんのちょっとしたはずみで、ことばでなく、ラチを超え、たまらず駆け出す力ともいともたやすく手をつなぐことができたに違いない。

 おそらく、爪先立ち、のびあがってちぎれるほどに手をふるほど遠いものに向かい合うことなどもうなくなってしまった日々に、僕はこの全身でたたみかけるように手をふる石田さんの姿に元気づけられる。手の届かないところをいっぱいの想いはらみながら流れてゆくものの確かさ。競馬場にまで足を運びながら、呆けたような顔でオーロラビジョンの画面に細く黄色い金切り声をあげるばかりの「ファン」のもとには、もうこんなすてきな瞬間は永久に訪れない。馬がきれいだ、好きだ、という人は多いにせよ、身の大きさでつきあう限り生きてさまざまな厄介をかけ続けるこの馬という生きものに、これから先、僕たちはあの日の石田さんのように手をふることができるだろうか。

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*1:手にしているのはメンコだった由……200520