これがフィナーレ、お別れです


「競馬場じゃ人はみんな平等なんでして。人が平等になる場所が二つある――一つは競馬場で、もう一つはほとけが眠る土の下。」





 小さな競馬場の素敵なところについて、述べる。

 まず、馬との距離が近い。目の前を馬が疾走してゆく。トモで蹴上げる砂粒が情け容赦なく、最前列の金網にへばりつく顔に、肩に飛んでくる。地響き立てて、馬場が揺れる。ノリヤクの怒声までも、はっきり聞こえる。

 とあるノリヤク、ゴール前のたたき合いで入線と共に「はまったぁ〜」と思わず絶叫、何着で叫んだのかは言わぬが花、で、もちろん裁決委員に呼びつけられて大目玉食らったのだが、しかし、そんな話もまた地元のろくでなしたちの間で武勇伝として語られる、そんな小さな競馬場。力まかせのしのぎあいの中で馬具と馬具、馬体と馬体がぶつかりあう音も、また。

 小回りでコーナーがきつい。手前の替え方も難しい。でも、だからこその味もある。かつて中央との騎手招待競走があった時、当時はまだ若手だった、その後G?もとったあるノリヤク、装鞍所で「こんなところで乗られへん」と、ふくれっ面で騎乗拒否。もっとも、それは馬場のことより、引っ張ってこられた馬があまりにガタガタだったから、という説もあるのだが、それはともかく。

 右回りの一コーナーの先、二コーナーの手前ほどに厩務員食堂がある。二階建てのプレハプ造り。小回り馬場で外へふくれてコーナリングをしくじる馬は、この食堂めがけてすっ飛んでゆくことに。そんな時、引き手を握って眺めていた厩務員の曰く、

 「あかん、今日はうどん食いに行きよった」。

 バカみたいにだだっ広い直線の、それもふかふかの芝のコースを目もくらむような良血の、たっぷりとカネにかかったのサラブレッドが疾駆する、そんなまるでF1レースのようなJRAの競馬とはまるで別の、砂や土にまみれて身体ごとしのぎを削るような小さな競馬、名もない〈その他おおぜい〉の馬たちと肩寄せ合いながら日々を暮らしてゆく、そんな地方の競馬。

 福山競馬場とは、そんな小さな競馬場の標本のような競馬場である。

 広島県福山市。四十万以上の人口を擁する県内第二の都市、なのだが、そのわりには知名度はなぜか低い。もっと小さな隣の尾道の方が、名は売れている。もちろん、町がそうだから競馬場はなおのこと、日本一知られていない。はっきり言って、なかったことにされている、のだ、いろんな意味で。

 もともと、全部アラブで競馬をやってきていた。それも、ついこの間まで。中央がやめ、岩手も南関東も、東海さえもが右へならえ、さらに「アラブのメッカ」と長く言われ続けていた兵庫の園田や姫路までもがあっという間に方針転換、気がついたらあわれ、この福山だけがアラブの競馬の没落の最後尾、殿軍をつとめる羽目になっていた。さっき、なかったことにされてきた、と言った、その理由の多くはこの、アラブ「だけ」で競馬をやっていた、そのことにある。

 さすがに、一昨年の秋からサラブレッドを導入、主催者も馬主会ももちろん厩舎も、乾坤一擲の覚悟だったけれども、馬も人も手探りで同じこの馬場、血統だの実績だのがいかにあてにならないか、いやというほど思い知った。社台ブランドのフレンチデピュティ産駒、ホッカイドウ競馬で認定競走勝ちの馬でさえ、というか、そんな馬だから、というか、とにかく馬場に四苦八苦でカラダとスピード持て余して鳴かず飛ばず。逆に、誰も期待してなかった小柄で地味な牝馬が水があったのか、あれよあれよという間に勝ち星を重ねていったり。

 ほんまにサラっちゅうのはわからんわなあ、というのが、厩舎の合い言葉のようになっていた。そんな福山のサラのリーディングサイヤーはというと現在、はい、ブラックタキシード。なぜって、そりゃわからん。わからんけど、事実サラのA級にブラックタキシードの子が何頭もいるのだからしょうがない。フレンチデピュティグラスワンダーも、なんやしらん横文字の外国産も、ここ福山にやってきたら同じこと、アラブの横で同じエサ食って同じ馬場で同じ稽古をこなすのだからして。それが稼業、彼らの生、なのだからして。

●●
 アラブの全国交流競走を最後にひとつ、やってみたいのお――馬主会の一部で、そんな声がそっとあがり始めていた。去年の春先くらいのことだ。

 いずれ経営不振の続く地方競馬のこと、カネはない。ないが、でもそこを何とか工面して、まだ残っているアラブのええ馬たちに最後の花道をこさえたろうや。反対もあった。そんなおまえ、いまさらアラブに何百万も賞金つけるんやったら、サラの地区交流でもやってくれた方がよっぽどええが。なくなるもんにゼニ突っ込んでどないする。

 けどのおよ──やくざ映画で全国区になった型通りの広島弁とはまた違う、どこかゆるい備後なまりで、ある馬主が言った。

 そうは言うけどわしら、アラブにゃさんざん世話になってきたろうが。最後の葬式くらいは出しちゃってええんやないか。

 JBBA(日本軽種馬協会)に、市長の名前で手紙を出した。果たして、ささやかな資金が用意された。どこのどういう素性の経費なのか知らないが、はっきり言って手切れ金、これでほんとにもう最後だぞ、という意味を込めての、彼ら競馬のエラいさんたちににしたらはした金、しかし、ずっとなかったことにされてきたアラブにとってはまさに、押し頂くべき金額だった。

 一着賞金300万。遠征馬にもまずは不足のない経費と手当てが。華やかなりし頃と同じように、というわけにはいかないが、それでも全国交流、もとは中央競馬の重賞名だった「タマツバキ」や「セイユウ」の名に恥じないくらいの体裁が、何とか整った。

 かくて、当日6月10日朝。瀬戸内地方はピーカンの晴れ。蒸し暑いけれども空は深く、青い。

 朝十時の正門前、珍しく人だかりができていた。先着何名かに準備された特製グッズの爪切りとキャップ、それ欲しさもあったにせよ、いつにない「熱さ」が競馬場に収斂し始めていた、そのことは間違いなかった。

 一レース。すでにパドックのまわりにかなりの人垣が。装鞍所の出口のところにある盛り塩をつかんで乗馬ズボンに振りかけながら、身じまい整えパドックの入り口までやってきたある若手騎手が眺めて曰く、

 「これ、昨日のメインくらいおりますよ」。

 前日土曜日は、売り上げ七千万台という低調で、開催日平均一億円を目標にしている主催者側は頭を抱えていたのだが。

 昼過ぎ、場内の予想紙が売り切れた。こんなこと最近なかったなあ、と地元のトラックマンがつぶやく。その顔には、やはりスタンドと同じ、静かな「熱さ」が宿っている。
 第七回タマツバキ記念、馬主会の気持ちとしてはタマツバキセイユウさよなら記念。距離1800m。出走馬は堂々フルゲートの十頭で、うち遠征馬は五頭。金沢のグリーンジャンボ、名古屋のモナクカバキチ、高知のホーエースナイパーにファルコンパンチ、そして荒尾のタッカーワシュウ。本当は高知からエスケープハッチに来てもらいたかったのだが、脚部が思わしくないのと輸送に強くないこともあり残念ながら回避、この日は地元高知のオープン特別に出走することに。多くの競馬場が情け容赦なくアラ/サラ混合番組になってからも、サラ相手にオープンどころか重賞でも勝ち負けして見せていた名古屋の英雄、キジョージャンボの姿もないし、ホッカイドウ競馬に一頭だけ現役登録のあるイケノピンキーもいない。さらに言えば、この遠征馬五頭のうち三頭がもとは福山所属馬。ああ、全国交流と言いながら、四方八方頭を下げて出走してもらって格好つけるのが精一杯、それが今の、2007年春のニッポンのアングロアラブの現状、だった。

●●●
 村島俊策騎手、当年とって25歳は荒尾競馬所属の言。

「アラブ、好きなんですよねえ、追えば追うほどしぶとく伸びてくれる、ボクは大好きですよ」

 おお、うれしいこと言うじゃないか。イマリオーエンスだのワタリタキオンだの、荒尾のアラブのオープンには未だに元気者がいるからなあ。で、あんたの乗るタッカーワシュウ、調子はどうよ。

「絶好調ですよ」

 にっこり笑う。そりゃあ、おにいちゃんと比べたらかわいそうですけど、でも、ここんところいい競馬してますし。
 そうだ、全兄はワシュウジョージ。兵庫のアラブ最後の栄光を語る時に欠かせない全国区の名馬。この馬も園田から福山に流れてきて走り続けた。それに、言うてもこの馬もダービー馬ですから。三年前の福山ダービー、まだ賞金が400万もあった。その時二着だったのがそこにおるホーエイスナイパー。そいつと今日また同じ馬場、同じ競馬を走るのも何かの縁かも。

 競馬やもん、やってみにゃわからんよ。地元の三頭がほんとなら強いやろけど、どれもここにきて弱みはある。しかもみんな前行く馬やから、ひとつもつれたら直線、あとから死んだふりしとったのが、ごちそうさま〜、いうことになるかも知れん。

 そうですね、と村島クン、装鞍所で腕組みして少し眼を伏せる。タッカーワシュウはその脇で厩務員さんに首筋をなでてもらっている、ゆっくりと、ゆっくりと。

 三月のローゼンホーマ記念に続いてファルコンパンチを連れてきた、高知の大関師。出走手当目当てやき、と言って、くしゃ、っと笑う。笑いつつ、けんど、前連れてきた時よりようなっとるよ、あん時は輸送でカラダが減ってもうとったし、正直調子はいまひとつやった。今回は違うよ。

 そうでしょうそうでしょう、なにせ一着三百万。高知なら何勝分ですか。「二十勝以上かな」と、脇からヤネの倉兼騎手。兄貴分の中越騎手が園田に移籍、残った高知のジョッキーの中でめきめき頭角を現してきた逸材。いい意味で「ずるい」騎乗のできる、賢い騎手だ。自分の馬に乗ってもらうと頼もしいけれども、敵に回すといやなことこの上ない。ホーエイスナイパー、福山では準オープン止まりだったけれども、古巣の馬場で鞍上が彼ならば、乱戦で一発あるかも、だ。

 地元紙の印も割れていた。本当なら、ユノフォーティーンが不動の中心でバクシンオーとの一騎打ち、そこにフジノコウザンやヤスキノショウキがどうからんでくるか、といったところだったはずだが、三月のローゼンホーマ記念を快勝したフォーティーンが、その後、ここタマツバキ記念に向けてのひと叩きという前走、A級特別でまさかの敗退。それも二着とかでなく着外、というので俄然、事態はややこしくなった。

 その特別戦を勝ったのが四歳フジノコウザン。バクシンオーと同じ世代だが、バクシンオーの派手な活躍の陰に隠れて脇役の道を。それがここにきて地元現役最強のフォーティーンを破る大金星、一気に注目を集めて、中には堂々◎を打つ新聞も。もちろん、フォーティーンも巻き返しが期待されていたし、好敵手バクシンオーも同じこと。というわけで、正直どこからでも馬券の買えるレースになって、これは売り上げ的にはいい条件になっていた。

 いやあ、いい馬揃ってるねえ──来賓で来福していた、他の競馬場のベテラン調教師が装鞍所でつぶやいた。競馬場は違えど、アラブ、うちの競馬場にもいたんだよねえ、なつかしいよ。

 なつかしい──そう、なつかしさで語られてしまうようなもの、なんだろう、すでにアラブは。ここから先はなおのこと、たとえ競馬を走っていたとしても、活きたまま博物館に陳列されているに等しい。

 紙幅がない。レースを語ろう。ユノフォーティーンが先行、バクシンオーがそれに続き、番手マークでフジノコウザン、地元有力馬三頭がきれいに先行集団を形成。「ありゃあ、でけたもうた」「こりゃ地元で決まりやな」そんな声があちこちで聞こえる。そこに加わりそこなったヤスキノショウキだけは、例によってひっかかって後方、鞍上、嬉騎手が背中を丸める独特の姿勢でなだめながらの競馬に。小回りゆえに1800mでも二周近い、スタンド前を過ぎ、二度目の向こう正面から馬群が加速する。振り切ろうとするユノフォーティーン、四角をまわって内ラチいっぱいにまだ伸びる、そこにバクシンオーが襲いかかり、さらにそこに併せるようにフジノコウザンも参戦、直線は三頭の熾烈な叩き合いになった。結果、わずかに外のフジノコウザンがしのいで優勝、以下バクシンオー、ユノフォーティーンで、その後には、ああ、やっぱり、倉兼のホーエイスナイパーがきっちり脚を伸ばして賞金をくわえていた。

 道中追走のまま、しんがり負けになったタッカーワシュウの村島騎手。ペースが荒尾と全然違いました、控えるのは予定通りだったんですけど、向こう正で速くなった時に全然ついていけなくて……やっぱり福山、強いですね。

 一方、勝った池田敏樹騎手はというと、いつもと全く同じ漠然とした表情で、口取り写真で「手あげてよ」というカメラマンの注文にも形だけ片手を出すばかり。インタビューのマイクを向けられても、イイウマニノセテクダサッタセンセイヤバヌシサン、キュウムインサンにカンシャシマス、といったものの見事な型通りを、教えられたままといった風にぼそぼそ言うだけ。

 お〜い、おまえさん、これが確か重賞初制覇のはず、しかもそれが最後の全国交流の一発勝負だったんだろ、もう少しなんとかならんのかい。はあ、あいつなんでああいうしゃべりしかでけんのかのう――みんな苦笑いしながら、しかしそこには何か明るさが、希望がある。

 前々からこの池田クン、若手では知る人ぞ知る全国区の才能だったのだが、かねがね、誰かに似てるなあ、と思っていた。この日、あ、そうだ、と思い当たった。売だ、売二だ。田中誠の傑作マンガ『ギャンブルレーサー』に出てくる競輪選手。ふだんは何考えてるか全くわからず、ものもしゃべれず、アタマからアワさえ吹いているような若い衆だけれども、いざ自転車にまたがりバンクに出ればこれ最強。そうかあ、池田って売だったんだ。


●●●
 実はこの日、もうひとつ記念すべきレースがあった。

 福山競馬史上初めてのサラブレッド二歳、JRA認定競走。勝ったのはサンディナナ。エイシンサンディ産駒の、やはりこれもちっちゃな牝馬。能力検定から800メートルを49秒5と、スピードは傑出していた。ここでもポンとハナに立ち、余裕で逃げ切り。鞍上●畑騎手、ゴールインの瞬間、「よっしゃ」という感じで軽く左手のこぶしを握る小さなガッツポーズ。「そりゃあ、(一着賞金)200万ですけえ」こらこら、ゼニカネじゃないだろ、JRAで、芝の馬場で乗れるかも、ってことだろ。ああ、来週小倉にでも下見に行きますか。おまえが乗れるとまだ誰も決めとらんが。第一おまえのその苗字、活字にないじゃろ。中央の新聞屋が困りよろう、どがいするんじゃ。たかが一回乗るくらいでこさえてくれんのやないか。それに福山の貧乏サラや、芝なんか入れたら全部食うてまうんやないか──たわいのない軽口にも、やはり明るさが、希望がある。いつもと違う。

 JRAの担当課長も臨場していた。まあ、これは監査ということか。何でも、三連単の馬券もとってご機嫌だったとか。「二歳戦はやっぱり能試の時計ですよ」と能書きまで垂れて帰った由。もっとも、そのJRAには能力試験などないのだが。

 スタンドに、馬場に、宿っていた「熱さ」がゆっくりと引いてゆく。右手三コーナー後方、芦田川の向こう岸の山並みに傾く陽の色が、名残りを飾る。

 思えばこの「熱さ」こそがアラブの競馬、だった。今日、レースの当日だけではない。厩舎の片隅、寝藁や飼料のほこりをかぶり、蜘蛛の巣さえまぶされたへこんだ冷蔵庫のフリーザーの奥から、秘伝のブツが持ち出されてくる。

 これ、まだ効くかのう。だいぶ前のものでもう忘れとったくらいやが。なにせのう、最近はこんなもの使う勝負もなかったけえなあ。

 世界一厳しいと言われるニッポン競馬の禁止薬物の範囲内で、それでも何とか勝ちたい、勝たせたいという人の思惑、うまやの執念がからみあい、じわじわと醗酵、沸騰してゆく大一番への日々。そんな過程、時間の流れ方こそがアラブの競馬、全国区の勝負、だった。そのことをこの「葬式」の場は期せずして再現してみせた。賞金や結果じゃない、まして売り上げや入場人員でもない、この日に至る「熱さ」の記憶、それこそが戦後のニッポン競馬を底辺から支えてきたアラブと、そのアラブ競馬に携わってきたうまやもんたちへのせめての餞、心ゆかせだったのだと思った。

 さて、あたしもまだアラブを三頭ばかり抱えているのだが、この先、競走馬としてどういう生をたどらせてやるのが、貧乏ダンナとしていちばんいいのか、それもまた、馬と相談しながらの道行きになるしかない。何年か後、どこかの競馬場でまだアラブが走っている、と聞いたらそれはおそらく、その三頭のうちのどれか、だったりするかも知れない。