誰もが自信のない国に根ざした今どきの宗教

 

 まず、今流行っている比較的若い世代の占いブーム、超能力・宗教ブームといった現象を説明しようとする時に、たとえば、「宗教」という言い方をすると、その瞬間に見落としてしまうものが膨大にあるような気がします。僕は宗教の専門家でもなんでもありませんが、ただ、それら「今どきの宗教」に魅かれてゆく連中が、それによって自分の中のどのような欠落を埋め合わせようとしているのかということについては、彼らのもの言いや関係の作り方などを見ていると、ある程度わかるところがある。

 今、学校の文化祭でも若い連中は、出演者より裏方になりたがる。彼ら「スタッフ」という言い方が好きですよね。あの背後にあるのは、たとえば舞台裏に自由に出入りして、大きな顔をするような「ギョーカイ」的なあの関係へのあこがれです。最も悪い意昧での「内輪」の心地よさが理想なんです。学校だけじゃない。企業の中でも企画や広報という具体性の見えにくい、言い換えれば「能書きだけ」の仕事の現場が若い連中に人気になってますよね。それと同じで、今どきの宗教も地道な信者獲得運動、たとえば、かつての創価学会折伏みたいな、面と向かって説得し、巻き込んでゆく作業はまずなくて、「イベント」と呼ばれるような形と雰囲気とで、なんとなく包み込んでゆくだけです。そのやりロは、今どきの市場に対するマーケティング戦略ともきれいに重なります。

 人格改造セミナーの場合でも、合宿なり何なり、人為的に閉じた環境を作って囲い込んだ上で初めて巻き込んでゆけるわけで、決してふだんの日常関係の中でガリガリやってくことはないし、できない。だから、セミナーにいる間は、生まれ変わったような気になれても、日常に戻るとすぐ高揚感がなくなる。ここらへんの仕掛けは二澤政喜『洗脳体験』(JICC出版局)がかなり詳しく描いています。また、幸福の科学にしても「広報課」と称する連中が一番羽振りがよくて、しかも広告代理店関係やテレビ関係、編集者、あるいはミュージシャンなど、いわゆる「ギョーカイ」系の仕事の末端に食いついている連中が驚くほど多い。

 ただ、このように何か人を集めてワッとやれば、それで実質も伴うと錯覚するのは別に今どきの宗教だけじゃなくて、今この国で人を集めて何かことを起こそうとする場は大なり小なりそうなります。「イベント」のノリですね。全く見ず知らずの人間を「こちら側」に巻き込んで、信頼できる仲間を作ってゆくなんて、具体的で面倒くさいことをしつこくやってゆく元気はないし、考えてすらいない。またその横着を正当化することばもいくらでもある。そのくせ大きなものを作りたいという欲望だけはあるから、一足飛びにそういう欲望を埋めてくれることばに飛びつく。「宇宙」とか「地球」とか「前世」とか「いのち」とか、足元を見失った漠然としたコピーが受け入れられる素地はそんなもんです。

 80年代以降、エコロジーや反原発やそういう「運動」へと向かう言説が、思想そのものとは別に大量に流通することばとしてどこかウソ臭いものになってしまうのは、そういうことばの遠近法がひっくり返った状況があるからだと僕は思っています。そして、悪いことにそういう状況まで含めてケアすることばがどこにもない。だから対話も議論も成立しないまま、結局、形骸化した民主主義の定番コピー「人それぞれ」で早上がりに閉じあってゆく。「人それぞれ」のその「それぞれ」を具体的にことばにしないままほっとくのが、一番隠微な差別なんだってことがわからない。

 

 

 先日『朝日ジャーナル』主催のシンポジウムで景山民夫さんと同席する機会があったんですけど、僕は彼が幸福の科学に帰依しているというのが信用できないから、かなり意識的に挑発した。彼の軌跡を見ていても反原発からエコロジーときて今度は宗教でしょ。八〇年代的ことばの病の帰結としてあまりにわかりやすい。

 その時、景山さんの奥さんがパネラーに大川隆法の本やテープなんかを配ってたんですが、僕だけはきれいに避けてた。本当は僕みたいなバチあたりな不信心者をきちんと巻き込むのがスジのはずだし、それくらいの元気があるのが宗教だと思うんだけど「あ、あの人ちょっとノリが違うのよね」という感じでハナっから避ける。苦労してことばをつむぎ、何回も顔を突き合わせて初めて話が通じる関係なんて、彼らには想像もできないんですね。そのため、今どきの宗教の多くは出入り自由。別に何の強制も義務もない。だから仮に百万人集まったとしても、ゴリッと強靭な組織はできないし、そこを軸に立ち上がることもない。言わばサークル宗教なんです。でも、そんなふやけた関係でも量だけはかせげるから、単に金儲けとしては別にそれでも構わないんでしょう。

 かつて貧・病・争なんて言われましたけど、そりゃ昔から宗教ってのはあるし、宗教に頼らないと安定しないような境遇の人は今もいるでしょう。またそうじゃなくても、政治家とか芸能人なんかは仕事自体がそういう「水もの」だから、それだけ不安定なわけで、その分、宗教や拝み屋に頼る人が多いのも納得できる。でも、金丸信幸福の科学に帰依するとは思えないし、杉良太郎が人格改造セミナーにハマるとはちょっと思えない。今どきの宗教じゃそういうクロウトは救えないんです。ただ、今のこの国はシロウトとクロウトの間がわかんなくなって、みんなが疑似クロウト化してるから、そういうにわかクロウト気分の「今どきのシロウト」を相手に商売するには、確かに一番うまいやりロだとは思いますね。

 

 

 結局、みんな自信がないんですよ。なのにきちんと「自分」を作るだけの手ごたえある基準がない。周りの世間はきちんと叱ってもくれない。とりわけ女の子についてそれはひどいですね。「女の元気」とかなんとかって言い方で野放しにされてきたものだから、ちょっと叱られたりするとどう対応していいかわからない。そうかと思えば、最近はそういう野放しにしてきた自分たちの責任を棚上げにして、「バカ女」と罵る大人もいたりして、どっちもどっちですよ。

 パキスタンで誘拐された早稲田の探検クラブの連中が解放されて帰国した時の反応でも、ここぞとばかりに「今どきのバカ学生は」ってトーン一色。「若者」、とりわけ「若い女」に対することばにならないフラストレーションは世間に相当たまってますよ。最近の新・保守主義的言説は、ある部分でそういうフラストレーションを早上がりに癒す装置になり始めていますね。まぁ、それもまた「今どきの宗教」的病にどこかで運なってゆくものだと僕は思ってますけど。