住民投票の正義

 「住民投票」というもの言いを新聞や雑誌で見かけることが多くなってきた。

 原発建設をめぐる新潟の巻町の一件でもそうだし、沖縄の基地代理署名訴訟がらみでも「住民投票」がささやかれ始めている。もちろん、今のところはまだごく一部の人たちの間で盛り上がっているだけで世間一般の風向きとしてはそれほど関心を集めているとは言えないと思うけれども、でもこれから先、何か機会があればいちいち「住民投票をさせろ」という意見が根強く出てくるような予感が僕にはある。

 難しいことはわからない。でも、ひとまずこの「住民投票」ってもの言いに何かグッときてしまう人たちの意識ってのは、「とにかく自分たちの意思で現実を動かしたい」ということなんだということはよくわかる。その背景にあるのはもろちん、いくら頑張ってそういう社会問題についての「運動」をやったところでこの気に入らない現実は頑として動かないらしい、というある種の絶望感だ。そして、その「やってらんないよなあ」という気分もまたよくわかる。

 そりゃさあ、ほんとに今どきの世の中ってどう考えても納得いかない、理屈に合わないことが次から次へと起こっているような気にさせられて、それでも何か「こんなもんじゃないの」であきらめるしかないようなもので、素朴な疑問とか怒りとか、そういう誰にも備わっている感覚をもとにした行動はどうやらこの現実に対しては何の力にもならないらしい、ってことが薄く広く常識として共有されてしまっているように思う。「住民投票」ってもの言いが今、どこか熱っぽく語られてしまうのは、そういうやりきれない常識を乗り越えることのできる可能性を(実際に乗り越えられるかどうかは別にして)見てしまっているからだろう。

 でも、それってやっぱりアブナいところでさ。法的な規制力も何も与えられていない手続きをいくら盛り上がってやっても、それはメディアが作り出す気分としての「世論」と変わりゃしないだろ、という現実は厳然としてある。そことのバランスを失うとこの「住民投票」への熱っぽさは「わたしたちの気持ちをわかって欲しい」という悪い意味での宗教ノリ、現実との接点を見失った遠い眼をした「運動」の頽廃ときれいに重なってもゆき、ついにはその「気持ち」を共有できない人間とは対面も対話もせずにいきなり排除してゆくことにもなる。

 「住民投票」というもの言いにうっかり何か希望を見い出してしまいそうな気分が自分の中にあることを自覚したならば、そこからもう一度その気分に言葉を与える回路を探ることも必要だと思う。でないと、宗教ならざる宗教がまたひとつできた、で終わってしまうと僕は思う。