異物にきちんと向き合うために


*1

 毎年、五月頃になるとその年の新入社員についてひとことで言い現わすことばが新聞や雑誌に紹介される。今年の新入社員は「お仕立て券つきワイシャツ型」、とかいうあれだ。

 広告代理店方面がコピーとしてでっちあげるようなものだから、それ自体それほど大した意味もないということはちょっと考えればわかる。「型」とは言いながら、その「型」を抽出してくるまでの手続きがそれほど厳密なものでもないだろうことも、まず容易に想像できる。そのはずなのだが、それでも年を追うにつれてその報道の調子が高くなってゆくところを見ると、単にトレンド屋の勝手な発信というだけでもなく、会社の方でも新入社員を把握するのに何か便利なコピーが必要になっているという事情があるのだろう。

 それにしても、それらのコピーは当の新入社員はもちろんのこと、将来の社会人予備軍であるはずの大学生の間などからさえ、ひたすら失笑を買うものになっている。

 そりゃそうだろうなぁ、と思う。だって、今年の新入社員は「お仕立て券つきワイシャツ」型、などとひとくくりにされて、それで、そうかオレたちは「お仕立て券つきワイシャツ」型か、ともっともらしくうなずくヤツなどおよそロクなもんじゃない。むしろ、「お仕立て券つきワイシャツ」型と会社の側がそう見ているのだったらそれを当て込んでオジサンたちの予想を裏切らないようにしてやるのも心やさしき若者の努め、むしろ功徳かも知れないよな、くらいのことはたちどころに考えても不思議はない。

 それなのに、コピーだけではあきたらないのか、いちいちもっともらしく「今年の「お仕立て券つきワイシャツ」型新入社員にはこう対応しろ」なんていうハウツーものの企画が週刊誌に載ったりする。テレビではニュースキャスターたちがおうむ返しにその、「お仕立て券つきワイシャツ」型、を繰り返す。いずれにしても、その「新入社員」たちを全く別の存在、およそ理解不可能なものとしてとらえるという前提で、ちょっと皮肉な、その分あきれるほど他人ごとめいた口調と表情と文法とで語られるという点は共通している。

 あぁ、そうなんだ、なんかさも大切なことのようなふりしてるけど、あんたたち「新入社員」のことなんか本当はどうでもいいと思ってんだ。僕は、誰が悪いのかわからないその釈然としない感じをもてあまし、ふてくされる。


●●
 いつ頃からこんな奇妙な年中行事が始まったのか、手もとに適当な資料がないのでわからないが、そんな社会人一年坊主の動向なんてのをいちいちそこまで気にしなければならないほどこの国の会社というのは自信をなくしてしまったのだろうか。年がら年中会社以前のそういう「○○○」型を見続けている僕などは、ついそう思ってしまう。

 確かに人手不足は深刻だという。統計だけじゃなく、現場の声としてもそのような悲鳴は身近にいくらも耳にする。大卒初任給の高騰は確かに全体的な傾向になっているし、また、たとえ全体からみれば例外的なケースにせよ、クルマを買ってやり、海外旅行をさせてやり、といった限度を超えた手段で人を集める会社もあるというご時世。それは、そうまでして頭数だけでも合わせたいというほど人手不足が切実なのだ、という文脈で説明され語られるのだが、しかし、それで一体どのような「人材」が獲得できるのだろう、という素朴な問いは残る。クルマで釣った社員などはせいぜいその程度のもの、と思うのが人情だろうし、となると会社の側では当然、クルマや海外旅行に釣られる程度の人間でも構わないから欲しい、という割り切り方をしているのだろう。それでも、こいつクルマと海外旅行に釣られてこの会社に来たようなヤツなんだから、という前提は、ただでさえ「若者」に対するフラストレーションのたまっている現在、所詮単なる頭数だと割り切ったつもりでいても、いざ仕事の現場での人間関係には決して良い効果は生まないんじゃないか、と外野ながら心配してしまう。


●●●
 おそらく、「若者」ということばで語られるなにか膨大な抑圧の源が、この国をくまなく覆っている。それは、ちょっと眼を横にずらせばたとえば「学生」や「若い女の子」ということばで語られるものともかなりの部分重なったり置き換えられたりするもののようにも思う。それはひと口に言ってわけのわからないもの、意志疎通の困難なものであり、しかし、だからといって全くなかったものにしてしまっては今やまずいらしい、そんな難儀なものということになっている。でなければ、これだけ妙な「○○○」型というひとくくりのもの言いが蔓延するわけがない。

 それら抑圧の源たちはみな、これまでならひとまずひと言ですませてしまえたようなものでもある。そのために「女・子供」という言い方があった。そう、これはみんなかつてなら間違いなく「女・子供」の範疇に収まっていたものだ。「若者」はいずれ歳をとるし、「学生」はいずれ社会人になるし、「若い女の子」は歳をとっても所詮「女」であるということで、いずれにせよ企業が腰を据えている「社会」とは別のところにいるものであり、そのような「社会」の当事者にそのままなるものではなかった。たとえわけのわからないものであり、意志疎通が困難なものであったとしても、それはただそんなものなのであり、こちらがわざわざ真正面からそのわけのわからなさをほぐそうとしなければならないものではなかった。

 ところが、この十年の間にこの国の仕事の現場、とりわけホワイトカラー労働の現場にそれら「女・子供」の脈絡の「異物」が大量に、ナマものとして流入してきた。彼らはどのような意味で「異物」だったのかというと、それまで会社と会社を「社会」として生きてきた人々があたり前のものとしてやってきたさまざまな約束ごとや決まりごとというのがまるで通用しない、という意味での「異物」だった。


●●●●
 いや、この言い方では実は不十分なのだ。もう少し正確に言おう。

 自分たちがあたり前だと思ってやってきたことというのは、あたり前であるがゆえにいちいちことばにしたり、互いに確認したりしなくてもいいものである。それをあたり前のものにしてきた過程というのももちろんあるはずなのだが、そのような過程というのはそれがすでにあたり前になってしまっている現在では、いちいち振り返らなくても構わないようなものになっている。だから、ひとたび「あたり前」という沈黙の共同性が築き上げられたら最後、それは常にのっぺりとした遠近のないものになり、そこに新たになじんでゆくためにはどこかで超越的な価値を持ち出さないことにはうまくゆかないものになる。たとえば、あたり前を強要してゆく時によく発動される「理屈じゃない」とか「そういうものだから」という説得ならざる説得のもの言いなどは、そのあたり前を聖なるものとする超越的価値を前提にしたものだ。そして、その価値は超越的であるがゆえに、それを受け入れる過程では「頑張る」というまた別のブースターも必要になってくる。

 ところが、「社会」にとってあたり前だと思っていたことも、それら「異物」の側から見れば実は何もあたり前じゃなくなっているし、そんなあたり前に「頑張って」よりかからなくても別に困らないような生き方ってのはとりあえずあるもん、という「異物」なりの感情もある。となると、そのような感情まですでに持ってしまった「異物」を「社会」の方に組み込んでゆくためには、それまでならあたり前だった前提からいちいちことばにしてそのあたり前だったはずの文脈からまるごと再生してやらないことには、そのあたり前の意味が「異物」にはまるで理解できない。さらに、もっと言えば、あたり前があたり前になっていった過程からもういちど立ち上がらせないことには、どうして今現在このような状態になっているのか、ということが彼ら「異物」にはまるでわからない。だから、そのあたり前が彼らに「通用しない」というのは実は間違いで、通用するかどうかもまだ試みられていない状態、というのが現状ではより正確なのだ。



 もちろん、それをこれまでのようにあたり前として通用させるのが果たして組織全体として今後良いことなのか、という問題も出てくる。どのような共同性を持った組織を作り、仕事の場を編み上げてゆくことが望ましいのか、ということについてのヴィジョンの必要。それは、別に会社に限らず、今のこの国全体が直面しているとても大きな問題である。 だが、そのためにも、ひとまずこれまであたり前だったことをあたり前にしてゆくための仕掛けをくぐって場を共有した後に、問題を発見してゆくという手続きが正当なはずだ。「異物」を「異物」としてひとくくりのコピーに早上がりに押し込めてしまうのでなく、その「異物」をいちいち具体的で微細なことばにし、どのように身のまわりに組み込んでゆくのか、そして、その組み込んだことでどのような新たな「あたり前」を作ってゆくことができるか。このような辛抱強い姿勢こそが必要なのだと僕は理解している。

それは具体的な作業としては、それぞれがそれぞれの場所でそれぞれの経験をきちんとことばにしてゆくということでもある。その作業を手抜きして、「そういうものだから」というようなもの言い一辺倒で納得させようとすると、ほぼ確実に「異物」からの拒絶反応に会う。それがどれだけ面倒なものであっても、新たに「社会」にやってきた者にきちんと仕事の手順、あるべき筋道をことばにして教えることができないというのは、自分のやってきたその仕事について自分自身もきちんとことばにしていなかったということに他ならない。それは、一方で自分の家族や、まわりの人々にも自分のやっていることについてきちんと説明してこなかったということにもなる。

 どだい、眼の前の人間を自分の中で説明してゆく時にひとくくりに「新入社員」や「若者」というコピーによりかかり切る、その横着こそが「異物」を作り出しているのだ。立場を変えれば、ひと口に「サラリーマン」と言われたところで、決して具体的なものとしてその実像が浮かばないし、自分たちのことともさして思われないということもあるはずだ。メーカーと商社とでは事情が違うだろうし、同じ会社の中でも営業と総務とではまるで違う面もあるだろう。社員数何万人という大企業と、家族経営に毛の生えた程度の経営規模の会社とでも、まるで事情は違うだろう。そのような微細な違い、具体的な事情というのをコピーのことば、「あたり前」の中の定番のもの言いはまるで無視する。昨今流行りの「キーワード」という言い方は、なるほど意味深長だ。

 だから、あるもの言いにひとしなみにくくられることへのことばにならない違和感というのは、この国に棲む人々にとって、想像以上に根深い。個別のことば、具体的なことばに渇いているのは、別に「若者」だけではない。


◎●
 「若い衆」という言い方が僕は好きだ。若いということそのものがある力の源であり、そのようなを若さを身近に感じることのできる状態にあることがその社会、その場の活力を供給するものだし、だからこそその場は「それから先」へ、ことば本来の「未来」へと連なってゆくことができる。そのような「若さ」を身近に置いておけなくなった社会とは、どれだけ生活のための装置が充実していても、博物館の標本と化した社会に過ぎないということは、ここ数十年の過疎の経験がすでに雄弁に教えてくれている。

 かつて、若さを見る人々の眼はいつもどこかなごやかなものだった。そして、そのような眼があればこそ、当の若者たちもきちんと若さを発露してゆくことができた。社会というのはその程度に相互的なのだ。

 だが、今、この国はそのような眼を失い始めているらしい。大人たちの間に、「どうせ将来困るのはおまえたちなんだから、別にもう知らんよ」というあきらめめいた想いが蔓延している。大人であれ若者であれ、この社会、この生活の場を連続したものとしてとらえる仕掛けがあやしくなりはじめている。

 「社会」とは自分のいのちを存分に開花させることだけでなく、そのことによって、孫や子の代といった想像力に媒介される「未来」に向けて編み上げれているものでもあり、だから今の自分たちもそれぞれの責任を「未来」に対して負っている、ということを面倒でも教えようとする手間暇が必要だと思う。大人であれ若者であれ、そのような連続性の中で「社会」を考える想像力の衰弱した現在、きちんと落ち着いた「まっとうなこと」を語ってくれる大人への渇望というのは相当に切実だ。このことは、僕は自信を持って断言できる。

*1:朝日ジャーナル』「書生の本領」連載原稿。